![]() |
喧噪が、風に紛れて微かに聞こえる。 微かに目に涙を浮かべた鈴、真摯な表情をした陽子、いたずらっぽい顔をした祥瓊。 つぎはぎだらけの天蓋の中、三人の少女は顔を見合わせ――思わず笑った。 その時、天蓋の裂け目が僅かに揺れる。裂け目から差し込む光が膨らみ、外から桓魋が顔を覗かせた。 「よぉ、女同士の話は終わったか?」 陽子は顔を微かに綻ばせたまま、一つ頷いてみせた。 「あぁ。今しがた仲間が増えたところだ」 いたずらっぽく目配せする陽子に、桓魋は目を丸くする。祥瓊と鈴が笑った。 「よろしく」 「よろしくお願いします」 きょとんとする桓魋は、次の瞬間何が起こったのか理解し、えっと声を上げる。三人は思わず吹き出した。 「お、お前たち俺たちの一団に加わるのか?大丈夫か、こんなむさ苦しい男所帯に!」 祥瓊がクスリと笑う。 「あら、むさ苦しい男所帯に娘がいたら、駄目かしら?」 「いや、駄目じゃないが…」 陽子は首を振ってみせる。 「無駄無駄、桓魋。この二人、私がいくら言っても仲間に入るって聞きゃしないんだから」 「そうなのか?」 うーんと眉間にしわ寄せ、顎に手を当てる桓魋。渋い顔をしていた。 「後でやめたい、なんて言っても受け入れられないぞ」 「いいわ」 「遊びじゃない、やるからには真剣にやってもらわなきゃならん。戦場だ。命の危機に瀕しても、こちらは責任が持てん」 「承知の上よ」 桓魋はぐっと鋭い視線を向ける。 だが鈴と祥瓊は目を輝かせている。桓魋は少女達を見て…そして小さく脱力した。 「ま、仕方ないか。ここで会ったのも一つの縁だ」 祥瓊と鈴に、肩を竦めた桓魋は苦笑いを浮かべて見せた。 「男所帯に華が来たなんて言ったら、ほかの奴らがどれだけ喜ぶことか」 「そうだな」 頭を掻く桓魋の横で、小さく陽子が笑う。開けたままの天蓋の入り口から外の音が流れ込んでくる。その中に、久しぶりに聞く懐かしい声音が混ざっていた気がして、陽子は思わず振り返った。 「?何だ?」 にっと彼は、特有の人を食ったような笑みを浮かべる。目を丸くする陽子は、桓魋の視線に釣られるように入り口に目を向けた。 「助っ人が来たことを伝えようと思ってな」 懐かしい声音が、さっきよりも濃く聞こえた気がした。それも、幾つも。 どういうこと、と口を開こうとしたその時、桓魋が入ってきた時と同様、入り口の細い光の線となっていた裂け目が、一気に膨れ上がった。 差し込んだ光に目を射られる。 反射的に目を瞑ったその時、はっきりと、懐かしい声がすぐそばで響いた。 「久しぶりだなぁ、陽子!元気にしてたか?」 「お姉さん、お久しぶりです」 「陽子!わぁ…!陽子だわ!!元気だった?」 陽子の目が見開く。 目の前にいた人々に、陽子の喉が嘘、と掠れた音を出した。 「虎嘯、夕暉、蘭玉…!」 そこに悠々と立っていたのは、旅支度に身を包んだ、懐かしい友の姿だった。 鼻の下を人差し指で擦りながら、虎嘯が屈託のない笑みを顔いっぱいに浮かべる。 「助太刀に来たぜ、陽子!噂には聞いてはいたが、お前が無事で本当に良かった」 顔を綻ばせる目の前の三人に、陽子は声が詰まって、すぐには返事が出来なかった。 目を丸くする祥瓊と鈴、隣で桓魋が満足そうな笑みを浮かべて陽子を見ている。 この三人と最後に会ったときから、どれくらい経っただろう。 虎嘯はもう立派な、逞しい一人前の男だ。夕暉は成長と共にますます利発さ、聡明さを増したように見える。そして、蘭玉は…年を重ね、美しい優しそうな少女へと成長していた。 「陽子。また貴方に会えて、すごく嬉しいわ」 「蘭‥玉…」 蘭玉は陽子の手を取り、泣き出しそうな顔で微笑んだ。手に籠もった力に、陽子は、じっと蘭玉を見つめた。かさついてひび割れた指先だった。彼女もまた苦労をしていたのだ。 「貴方のことは風の噂で、ずっと聞いていたわ。私も慶から、一旦桂桂と一緒に逃げた。でも、貴方がこの国に戻ってきたと聞いて、いてもたってもいられずに戻ってきたの」 夕暉が穏やかに声を上げる。 「驚いたよ。僕と兄さんが、桓魋さんから青鳥をもらって旅立とうとしていた所に、今も慶から避難していると思っていた蘭玉さんが転がり込んでくるんだもの」 「そう…だったのか」 「半ば無理を言って、一緒に連れてきてもらったの」 「桂桂は‥」 「ここには連れてきていないわ。遠甫閭胥にお願いしたの」 虎嘯はにっと口元の弧を深くする。 「大した度胸だよ。友達一人のために、自分の身を省みずに戦火に飛び込んでくるなんざぁ、泣かせるじゃねぇか。ザラには出来ねぇな」 虎嘯の言葉に照れたように、蘭玉は小さく頭を掻いた。ポカンとしていた陽子は、ふっと口元を緩める。 握っていた手を、強く握った。 「ありがとう。蘭玉‥」 蘭玉は本当に嬉しそうに、微笑んだ。夕暉が口を開く。 「僕たちはお姉さんと、桓魋さんの手助けをするためにここに来た。この戦いの名目は、麦州候浩瀚様を、救出することなんだよね?」 陽子の頷きを得た夕暉は桓魋に向きなおり、微かに首を傾げる。 「桓魋さん、浩瀚様がどこに幽閉されているのか、その情報はありますか?彼を救うための作戦は、もうあらかた練ってありますか?」 神妙な顔で桓魋は頷く。 「あぁ。大体はな…。でも、出来たらお前に目を通して欲しいんだ。夕暉を呼んだのは、参謀の役割を担ってもらいたかったからだ」 「了解です」 夕暉は頷く。虎嘯が自身を指さして口を開いた。 「じゃあ、俺は?俺は一体何をすりゃいい?」 決まってんだろう、と桓魋は虎嘯の肩に腕を回す。片方の口端をぐっと持ち上げ、からかうような笑みを浮かべた。 「お前は俺と戦線の最前線に立ってもらう。一発であれ、俺の顔面に拳たたき込む奴なんてそうそういないからな。お前が気にするのはせいぜい自分が死なないようにすることだけだ」 片眉を跳ね上げた桓魋に、虎嘯はにっと白い歯を見せた。 「了解」 桓魋は蘭玉や祥瓊たちの方に向き直る。 「蘭玉、祥瓊、鈴は給仕の世話をしてくれないか。野郎の飯は食い飽きててなぁ、旨いもん作ってくれたらそれだけで力が五割り増しだ」 「わかったわ」 祥瓊は軽く拳を作る。蘭玉、祥瓊、鈴はそれぞれよろしく、と握手を交わした。 桓魋の視線が滑る。 陽子へと止まった時、彼女は鋭い視線で、はっきりと告げた。 「私は、戦線に立つ。止めても無駄だ」 戸惑うように、微かに桓魋の視線が揺れる。 陽子を止められるとは、桓魋は思ってはいなかった。何故か陽子の言葉には自然と体が従いそうになる。そんな不思議な力が彼女にはあった。陽子自身はまるで意識していないし、きっと指摘したところで否定するだろうが、陽子の方が自分なんかよりもずっとずっと人を束ねる立場に向いていると、時折彼は思う。小さな頃から共にいた陽子は成長するのに従って、人が自然と寄ってくる、そんなある種の不思議な覇気を纏うようになっていた。遠い昔、花娘の女に言われた言葉が、ふと頭を掠めた。 『あの子は人とは違うわ…。そして、それがこれからどんな形で現れてくるのか、今はまだ分からない』 でもどんな風であれ、貴方はあの子を追い続けるんでしょうね、と声が過ぎ去る。 桓魋は陽子を見据え…そして目をそらした。 何も、言わなかった。 「…とにかく、みな各(おのおの)の場所で尽力して欲しい」 短くそう言った桓魋は全員を鋭く見渡した。 「戦場の担当で無い者も、必要とあらば戦線に出てもらう可能性は十分ある。それを肝に銘じておいてくれ」 陽子を除く女性陣と、夕暉が頷く。 ぐっと顎を引いた桓魋は、低い声を続けて発した。 「再三言うが、これは遊びじゃない。いいか、俺達はたったひとりを救うために、これから国を敵に回す」 今の王とは、国とは、「権力」だと桓魋は思っている。舒栄は偽物なのに、王として国を動かす権威を与えられてしまった。これがこの問題の一番の悲劇だろう。 相手取るのは、自分たちがまがい物であるにも関わらず、桓魋たちの立場をいくらでも塗り替えて駆逐してしまうことが許された、そんな虚偽の最高権力。立場は嘘でも、だけどその力だけは本物なのだ。 場が水を打ったように静かになる。桓魋の口から朗々と声が流れる。 「みんな、真剣だ。だが、これだけの面子が揃えば、何だって出来ると俺は思うんだ。偽王軍に台輔も奪われてしまった。真の景王が望めぬ今、崩れかけた慶をつなぎ止めるのに浩瀚様は失ってはならないお方。俺たちで…」 桓魋は、一旦言葉を止める。周囲をゆっくりと見渡した。鋭い目をしたまま、陽子は真剣に桓魋を見つめている。全員の顔を見て、桓魋は強い声を発した。 「麦州候浩瀚様を、助け出す」 その一言が、余韻を残して――響きわたった。桓魋は空を睨む。誰かが胸の中で、呟いた。 大切なたったひとりを救えなくて、一体何が救えると言うんだ。 ::::: 夜の空を、木枯らしが吹きすさぶ。 紺青の髪のひとりの少女が、街並みに紛れる、建物の屋上で風に吹かれていた。強弱、緩急をつけて駆け抜ける音だけが、消えていく風を妙に鋭く感じさせる。目を細め視野をなぞっても、広がるのは深いとろりとした闇一色だ。 冷たい風に顔を、髪を洗われる中、後ろから微かな足音がする。穏やかな声が振りかけられた。 「そんな所にいたら、風邪、ひかない?」 柔らかい声だった。 鈴の少し高い声とも、陽子のゆったりと低い声とも、祥瓊自身の艶のある声とも違う。祥瓊はゆるりと振り向いた。髪が風邪に揉まれて、緩やかに波打つ。 「大丈夫、平気よ」 「そう?」 羽織をきつく身体に巻きつけた少女――蘭玉は、祥瓊に柔らかく微笑む。微笑み返した祥瓊は、睫毛を揺らしながら風の方に顔を向ける。 「これでも芳出身だから、寒いところは慣れているの」 そう、と蘭玉は応えて、祥瓊の隣に歩んできた。漆黒の黒髪が、風で微かに嬲られる。 「あなたも眠れないの?」 「えぇ‥。鈴ちゃんは寝入っているみたいだから、起こしちゃかわいそうだと思って。外に出てみたら、貴方が先に風に吹かれていたの」 なんだかお星様みたいだったわ、と微笑む蘭玉に、祥瓊は苦笑いする。ふと、過去を思い出すように目を凝らして遠くを見た。どこまでも続く地面を期待したが、地上はどう目を凝らして見たとしても、暗闇に浸かっていた。 「麦州侯の救出‥本当に祥瓊さんも参加するの?」 「祥瓊、でいいわ。鈴も、呼び捨てでいいと思う。あと、そうね…今回の件については‥参加はするわ。でもそれは、貴方も同じでしょう?」 蘭玉は頷く。祥瓊は風が逆巻いて、前に流れた髪を払う。 「他国の民である私が言うのもなんだけど、今の慶の状況は‥酷いわ。芳も王が践祚なされて今は玉座に王はいない。状況が酷いという点では同じだけど、仮朝がしっかりしているからまだ持ちこたえられると思うわ。民は麒麟が育ち、新たな王が誕生するのを希望を持って待つことが出来る‥。慶は麒麟が奪われた今‥新王を望むことさえ出来ない」 祥瓊の顔が歪む。こんなんじゃ、保たないわ‥と彼女は囁いた。 「今回参加させてもらったのは、本当は半分は自分のためよ。私は昔過ちをおかした。自身の愚かさが分かる今だからこそ、あの頃とは違うということを証明したいの」 じっと自分を見つめる蘭玉の視線を感じながら、祥瓊は目を閉じる。 「やれるだけのことはやらせてもらうわ。拙いところも色々あると思うけれど、それでも精一杯やるつもりよ。陽子と桓魋は、信用するのに――ついて行くのに値する人なんでしょう?潜伏場所一つを選ぶにしても‥戦術に長けてるのが分かる。妓楼を使うなんて盲点だわ」 「えぇ。あの人達は――信じて大丈夫。きっと悪いようにはしないから」 その後、何かを思ったのか。ふっと蘭玉の視線が遠のいたように見えた。 別段、変わった表情という訳でもないのに、その何気ない横顔に妙に引き寄せられて、祥瓊は思わず蘭玉を見つめた。見つめられていることに気がついた蘭玉は、申し訳なさそうに微笑む。 「ごめんなさい。今のこの国のこと、思っちゃったの。慶は今、少しでも女性に戻ってきて欲しいみたい。こんな大変な時だけど‥いえ、大変だからこそ、国が傾いていこうとしている今だからこそ、それを望んでいるんだわ。男女が共にいなければ、里木に卵果は決してならない。子は望めない。内戦で人が減って、そして新しい命が望めなければ、本当に慶は、滅びてしまう」 そうか。 祥瓊ははっとする。芳よりもさらに酷い慶の現状、それは――女がいない故、新しい生命が望めないという絶望的な状況だ。一刻も早くこの内戦を終わらせ、新王が践祚しなければ、慶はますます弱っていく。蘭玉は自身の指の先を見つめながら呟いた。 「こういう危機は形は違うけど昔もあったわ。だから慶ではこういう危機に瀕した時の伝説もあるの。まぁ伝説をあてにしても仕方がないから、府第では婚姻の制度の基準が著しく緩くなっているわ。少しでも婚姻して子を望める男女を増やそうと、もう府第も必死よ」 「そうよね‥」 蘭玉は顔を上げ、静かに瞼を下ろす。風が耳元で、切るような音をたてる。 「王が立たずに、麒麟が奪われ、人は消えていく‥」 でも、と彼女は――笑った。 「国が滅びるかもしれない、荒れたこんな時にでも‥恋は――育つのね」 蘭玉は嬉しそうに目を細める。紅の髪の少女と、半獣の青年の面影が過る。目の前にある恋が、時代に負けずに綻ぶように。祥瓊が楽しげに息をついた。 「ほんとにね。陽子も鈍感すぎるのよ。気づいていないのは鈴と当の本人たちと猿ぐらいなのに。一番重要な当事者たちが大事なことわかってなくてどうするのよ、まったく」 「そうねぇ」 くすくす笑い合うふたり。その時、かたり、と物音がして祥瓊と蘭玉が振り返る。見れば紅の髪を靡かせたひとりの少女が、屋上に上がってくるところだった。 「陽子‥」 蘭玉が呟く。祥瓊と蘭玉がいることに、陽子は目を丸くする。 「‥起きてたのか」 どうも、眠れなくて と頭を掻いてはにかむ陽子。少女ふたりは顔を見合わせて笑う。こちらに歩んでくる陽子に、祥瓊は目を細めた。 訊けば麦州侯浩瀚は、今、征州に幽閉されているとのこと。 彼の救出に向けて、動き出すのは日付の変わった今日を含めて、いよいよ三日後だ。 ひとりを救うために、国を敵に回す。ばかばかしくていいじゃないか。 そういうのは――嫌いじゃない。 ::::: ここは慶のとある場所。地名さえも明かされていない鳥かごの地。 暗い。 四方のいっさいが塞がれた牢獄の暗闇の中。薄く浮かび上がる光の帯は、どこか生白く温度が低い。重たい鎖が、固い金属音を響かせた。 彼は交差した腕の中に頤(おとがい)を埋め、静かな息を吐いた。 どこからか、声がした。 「浩瀚の様子はどうだ」 「それが…いっさいの食事を受け付けぬらしく、一向に屈する気配を見せぬとのこと」 くぐもった声だ。ぼそぼそと、おさえるように淡々としている。鼻を鳴らす音がした。 「仙ゆえ、滅多なことでは死なぬとは思うが‥。絶食を続けるようなら、無理にでも食事を押し込め。まだ死なせることのないように。まだ、だ。今は‥時期じゃない」 「御意」 声は潮が引くように遠のいていく。再び、静謐な沈黙がその場に振り落ちた。 また、重い鎖の金属音が擦れる。彼――一頭の獣は俯いた。 白く美しい体躯を持ち、馬と鹿を織り交ぜたような容姿をしたその獣。だが人々から崇められる存在であるはずの彼は今、うなだれたように首を振る。また、鎖の音がした。 鎖に繋がれた、その獣。 一日で千里を駆け、王にしか跪かぬ孤高の神獣、麒麟。 彼が視線を落とせば、白くほっそりとした鹿のような足に嵌められた足かせが、鈍い光を浮かせていた。首を下げれば、背に一直線に走る金の光。鬣が、涙で濡れたように静かにきらめく。 その時、ふと何かを感じたようにその首が跳ね上がる。 (……!) 首を捻り、ある一点を、彼は痛いほど見つめた。見つめる方向が、首都堯天を向いていることに、彼は気がついていない。 濃紫の瞳に、一粒の光が宿る。 囚われた慶国の麒麟、景麒は――ただ静かにその一点を見つめ続けた。 |