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 麦州侯浩瀚が攫われた。
その報せは一週間と経たずに国中に広まった。彼を攫うよう手を回したのは偽王、舒栄。
彼女は予王が崩御し、景麒が次の王を選定する以前に彼を捕らえ、新たな王として名乗りを上げた。この時期に、王が立つのはあまりに尚早なのではないかと疑いの目を持った州でも、麒麟を傍に侍らせれば、もはや信じることしか出来なかった。
舒栄は自分を認める官には高官職を与え手玉に取った。王宮を闊歩し玉座に侍る。そして彼女が支配下に置こうとする慶国九州の中、未だ堕ちぬは浩瀚率いる州、麦州。彼女は麦州侯を攫わせ、殺すように命じた。 
州侯は奪われ、頭を失った麦州があとどれだけ保つか。捕らえられ、まだ生かされてはあるが、麦州侯の命はもはや風前の灯だ。
 玉座に王がいなければ、国は、荒れる。
 人型になることが出来ぬ麒麟。交わされぬ誓約。虚偽の王。冷たい玉座にから吹く風。
 
 玉座に王がいなければ、国は、荒れる。

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「はぁっ…!はぁっ…!!」
 口の中に湧いた唾を呑み込む。一瞬息が詰まり、ただでさえ荒れていた呼吸が一層苦しさを増す。ここは慶国、堯天。紺青の髪を靡かせる少女は、足を縺れさせながら必死に駆けていた。いや、正確には――逃げていた。
「いたぞ、あそこだ!」
「せっかくの女だ、逃がすな!」
 少女は瞳の中で虹彩を端に滑らす。後ろから、追ってくる男達の姿に、彼女の頬を汗が一筋伝った。
(大変な時に来ちゃったかしら…)
 少女の目鼻立ちはくっきりとしていて、平常時でさえ人目を引く美しさだ。白い肌はなめらかで、微かに光を弾く。少女は軽く舌打ちした。慶は女に飢えていた。
(でも…こんな所で捕まるわけにはいかないのよ…!)
 ちりりと心の奥底を焼かれる感覚がした。わざわざここまで、混沌の最中の慶まで来た唯一の理由に、少女――祥瓊は視線を鋭く研ぐ。

 捕まるわけにはいかない。あの子に――会うまでは。

 脳裏を掠めるのは、今十二国中で人気を博している一つの雑劇。紅の髪を持つ海客の少女の物語を、祥瓊は駆けながら反芻する。
荒んでいたあの頃、柳で出会った朱旌の一座に聞いたこの話。初めてその話を聞いた時には堪らなく――恥ずかしかった。少女と対比される自分自身のこれまでの姿が。自分だけが不幸にいると思っていたその心持ちが。世界の逆風に当てられた時の自分と彼女との違いが。自分と同じ年頃の少女と聞いた〝彼女〟のことを出会った朱旌の人々に尋ねれば、皆顔を綻ばせ口々に語ってくれた。興味の湧いたその子に会うため、それから旅をしてきた。

実在すると聞いた、物語の主人公の少女に会うため…ここまで来た。

 先回りしていたのか、自分の目の前を塞ぐように現れた体躯の良い男達に、祥瓊は歯を食いしばる。
(‥!)
冷や汗が頬を滑る。まずい、と思う間もなかった。目が合った瞬間、「狩る者」と「狩られる者」として自分と相手が分類されたのがわかった。男たちの腕が伸び、祥瓊が悲鳴を上げる。上空から、少女の顔に影が振り落ちたのはその時だった。
「…!?」
 驚いて目を見開く祥瓊。振り仰いだ時――何か赤いものが、目の前で翻った。
 次の瞬間、腕が自由になる。白銀が目の前の画面を切り裂いて、気がつけば、瞬きする間もない、一瞬の間に全ての出来事にかたがついていた。
「え‥?!」
 時間がゆっくりと流れ出す。
自分に今起こったことの意味がわからないまま辺りを見渡せば、先ほど自分を追いかけてきた男達が、地面で悶絶していた。助けられた、と理解するのに数秒かかった。
 呆然と視線をあげたとき、ひゅんっと空気を切る乾いた鋭い音が耳を打つ。それは先程までいなかった目の前の人物が、刃から血糊を振って落とした音だった。
 ゆるりとその人が少女を見つめる。美しい仕草で剣を鞘に収めたその人が祥瓊を見据えて口を開く。
「大丈夫か」
 低い潮騒の、声、だった。目と目が合った時、祥瓊の息が止まる。
 
そこにあったのは、紅の髪に、翡翠の瞳。そこにいたのは、物語に出てきた主人公のような少年みたいな少女だった。

「逃げよう。ここは危ない」
だがそれ以上彼女を見つめることは出来なかった。少女は、一言鋭く言うと、彼女の手を取って駆け出した。
少女の背に緊張が走る。少女は腰の鞘から剣を再び抜き放った。
「!」
 スラリと光を帯びる白銀の筋。その剣先は既に少女の視線の先の、標的に向かって駆け出していた。
 今度は慶国王師の兵卒達だろうか。怒号とともに、自分たち目がけて、刃を振り上げ迫ってくる。だが、それより早く、少女は既に刃を躍らせていた。
 祥瓊たちが駆け抜けたその後に飛び上がる血飛沫。
 彼女は続けざまに囁く。
「もう少しだけ走れるか。貴方を安全な場所まで連れて行きたい」
 祥瓊は頷く。軽く息は上がっているが、まだ走れる。角を曲がり、薄暗い細道に駆け込んで、壁にピッタリと身を寄せ息を潜める。一拍置いて、先ほど自分たちを追っていた怒号が波のように表道を通り過ぎていくのが聞こえた。
視線を鋭く研いでいた翡翠の目の少女は、その時になってやっとゆるく細い息を吐く。
 小さな声で、もう大丈夫だ、と祥瓊に向かって囁いた。
「大丈夫だったか?いきなり悪かった。怪我はないか?」
 じっとこちらを見つめる翡翠の瞳に、祥瓊はまだ一言も、自分が礼を言えていないことを思い出して、慌てて口を開いた。でも緊張して、乾いた口内で言葉はもつれた。
「あ‥ありがとう。助けてくれて‥貴方が助けてくれなきゃ今頃どうなってたか‥」
言いかけて、ゾクリと背筋が粟立つ。本当に、自分は運が良かった。あのまま捕まっていたらと思うと、その先はもう考えたくもない。
「気をつけて。若い娘がここを出歩くのは本当に危険なんだ。首都堯天は既に偽王軍の手に落ちている。今の時世でなくても、貴方は綺麗なんだからすぐ狙われるぞ」
「ごめんなさい‥。私、何も考えずにここまで来ちゃったのね‥」
自分が若い娘の容姿をしている自覚と、それが今の慶でどういった意味を持つのかという考慮が足らなさすぎた。だけど、その自覚と考慮心の欠如が、この人と出会うきっかけになったこともまた否めないところがおかしな話だ。祥瓊は息をつく。少女を見た時、改めて感謝の気持ちが込み上げてきた。
「私は祥瓊よ。助けてくれて、本当にありがとう」
白い手を差し出せば、健康的な褐色の手がそれを力強く握った。翡翠の瞳が嬉しそうに細まる。
「陽子だ。よろしくな」
挨拶もひと段落し、陽子は辺りを注意深く確認すると、そっと祥瓊を連れて歩き出す。
細心の注意を払った陽子の様子に、祥瓊も自然と背筋が緊張するのが感じた。陽子は声量を押さえた声を発する。
「もう少し進んだところに、私の仲間たちの隠れ場所がある。ちょっと男臭いところだけど、さっきみたいなことは絶対起こらないから、大丈夫。そこなら安全だ」
 祥瓊は頷く。逆に今の慶に男臭くない場所など、どこにもありはしないだろう。女そのものが今のこの国では希少価値だ。
(この人は‥)
 何者なんだろう。そう、思う。この時世、彼女の方こそ、何故今の慶にいるのか。
 祥瓊が紅の少女を見つめた時、不意に彼女は後ろ手に祥瓊を庇うようにして足を止めた。
次の瞬間、細道の終わりの角から、ぬっと暗い人影が伸びる。悲鳴を上げかけた祥瓊の口を、陽子の掌が塞いだ。陽子の手が柄を握る。目を見開く。影が僅かな光を吸って姿を現す。
 目の前に現れたのは、甲冑を纏ったひとりの男だった。
「‥?」
 祥瓊が目を瞬くのと反対に、陽子が脱力したように囁く。
「桓魋‥!」
桓魋と呼ばれた目の前の男は、少女二人を見て微笑む。微かに鋭さを持った顔立ちが、破顔すると人懐こさを出していた。
「脅かさないでくれ、桓魋。今抜きかけた」
 剣に視線を落とす陽子。少々ふざけたように、彼はにっと口元の弧を跳ね上げる。
「大丈夫だ。抜いたところで、お前じゃ俺は殺せん」
「う゛‥そうかもしれないが‥」
 からりと桓魋は笑う。そして、陽子の隣の祥瓊に視線を滑らせる。彼の視線に、思わず祥瓊はどきりと身を縮めた。
「それはそうと、こちらの綺麗なお嬢さんは?」
「表通りで知り合ったんだ。祥瓊だ」
 陽子が答えてくれた後、祥瓊は慌てて名乗る。
「!祥瓊です。陽子にはさっき助けてもらったところで‥」
 祥瓊の言葉に桓魋は目を丸くする。ほう、と彼は呟き‥そしてにっと意味深に口元の弧を深める。
「どうやら、今日はよく美人と遭遇する日のようだ」
 陽子と祥瓊は顔を見合わせる。ふたりの様子を見ながら、桓魋はくつくつと笑った。手招きされるまま、歩くふたりは細道の奥深く、ひっそりと垂れる天蓋の前まで進む。
 訳がわからない、という顔をした二人の少女に微笑んで、桓魋はそっと天涯を持ち上げる。光が内部に差し込んだ瞬間、振り向いた人影に、少女二人は目を丸くした。
「実は俺も、二本向こうの裏道で知り合った子がいてね。紹介しよう」
桓魋の目が細まる。
「鈴だ」
 陽子も祥瓊も驚いて言葉を失う。楽しそうに、桓魋が微笑む。

そこにいたのは、驚いたような顔をした、黒髪を項で束ねた目の大きな少女だった。

:::::


 驚いた表情を浮かべる、二人の少女。鈴は逆光の眩しさに目を細める。
 一人は女性らしい、紺青の髪を流した美しい娘。あともう一人に、鈴の目がとまった。
 紅の髪に、褐色の肌、緑の目。
 少年のような、背の高い少女だった。
 彼女を見た瞬間、自分がここまで来る理由となった雑劇がふと頭を掠める。鈴は思わず呆けて紅の髪の少女の顔、紺青の髪の少女の顔を見た。
「貴方たちは…」
 少女は笑った。
「こんにちは。私は陽子。これでも慶の民だ」
「祥瓊よ。私は…芳出身。よろしくね」
 二人は鈴に手を差し出す。鈴は握手を交わしながら、慌てて名乗った。
「鈴よ。才から来たの」
「貴方もこの人たちに助けられたの?」
 鈴を見ながら、自分の身の上に起きたことを思い返すように祥瓊が顔をしかめる。
 先ほどの情景が脳裏を過ぎ、鈴は微かに眉根を寄せる。
 才にいた頃など、貧相だ、など主人にけなされていたくらいだ。普段そんなことと縁なんてないのに。自分が“女”である認識が甘かった。
 あの時、たまたま通りかかった桓魋がいなかったら今頃どうなっていたか。
 鈴は小さく頭を掻いた。
「襲われそうになったところを、さっきの桓魋さんに助けて頂いたの」
「…私と一緒ね」
 祥瓊と鈴は顔を見合わせ、揃って小さく笑った。
 少女二人に、陽子は肩を竦める。
「二人とも運が良かった。今の慶を女が一人で歩いちゃダメだ。何故、二人ともこんな危ない国へ来たんだ」
 祥瓊は小さく微笑む。大したことのない理由よ、と彼女は囁いて足下を見た。鈴も曖昧に微笑む。
 ここまで来る経緯を思ったとき、ふと、心に鈍い痛みがさした。
 脳裏過ぎりかけた一人の少年の面影を、慌てて拭い去る。
 鈴はとっさに目を伏せた。
「?そうか…」
 首を傾げながらも素直に頷く陽子に、祥瓊は口を開く。
「陽子こそ、どうしてこんな混沌の最中の慶にいたの?慶の女性の方が今のこの国には珍しいと思ったんだけど…」
 鈴ははっとして、息を呑んで陽子を見つめた。
 そうだ。
慶の女はひとり残らず追放令の余波を受けているはずだ。いつか、才で慶から逃げ出してきたという女が話しているのを耳にした。余程のことがない限り、国情が落ち着かない限り国には戻らない。否、戻れない、と言っているのを。
 何故、陽子はわざわざこの慶に戻ってきたのだろう。一体何が、彼女をこの荒れた国に引き戻したのだろう?
 陽子は髪を手で払う。
「私も、本当に二、三週間程前までは慶にいなかったんだ。戻ってきたのは最近なんだよ。確かに今の慶で、〝女である〟ということが何を意味するか‥そんなことは、分かっていたけれど」
 ただ〝女〟であったがために‥運命が陽子にどんな牙を剥いたか。でも。それでも。
 陽子は唇を噛む。顎を引き、すっと視線を研いだ。
「私の大切な人が…恩師とも言う人が、先日誘拐されたんだ」
 脳裏を、〝それ〟を聞いたときのことが過る。
 陽子の言葉に、祥瓊と鈴は顔を曇らせる。祥瓊の方が、ふと何かに思い至ったようだった。
「まさかそれって‥〝麦州侯浩瀚〟のこと‥?」
 鈴が驚いて息を呑む。陽子は何も言わずに、視線を落とす。
巧国にいた陽子と桓魋に送られた、一羽の青鳥。青鳥の嘴から紡がれる言葉と重なるのは、柴望の声、だった。

『桓魋、陽子、今どこにいる?至急慶まで戻ってくれ‥!浩瀚様が‥!浩瀚様が‥!!』
 
 麦州侯浩瀚が、攫われた。

その事実を、ゆっくりと胸の内でなぞる。陽子はじっと空を睨んだ。
 陽子達が、旅を続けている間、慶では恐ろしい勢いで状況が変わっていた。それも――悪い方に。陽子達がいない間、浩瀚は尽力し、麦州の民を守っていた。その最中の、この事件。攫った一派の、その黒幕が誰かなんてもう分かりきっている。先王舒覚の実妹。景として立つ、偽王、舒栄。陽子はきりきりと唇を引き結んだ。自分と遊んでくれた浩瀚、麦州州師に採用されてからも、何かと世話を焼いてくれた。桓魋ともども、陽子は彼には計り知れない恩がある。
 そして何より――浩瀚は、紛れもなくこの世界での陽子の大切な人々の一人だった。
ゆっくりと陽子の唇が動く。
「‥そう。私は、その人を救うために、ここまで来た」
 吹き込んだ一陣の風が、目の前の少女の紅の髪をさらっていく。祥瓊と鈴は、思わず言葉を失い陽子を見つめる。気がつけば、鈴の唇から声が漏れていた。
「もし‥」
 祥瓊と陽子が鈴を振り返る。さっと頬が紅潮する。
「?もし‥?」
陽子がきょとんと首を傾げる。祥瓊も、長い睫毛を瞬かせて、鈴を見る。二人の視線に、鈴は頬に溜まった熱の温度が上がるのを感じたが、それでも頭を過ぎった考えが、唇から突いて出た。
「もし‥その人を助けるのを、私も手伝いたいって言ったら…陽子、迷惑?」
 陽子の瞳が、大きく見開いた。祥瓊の驚いて息を呑む音が耳元を掠める。
鈴はそれでも、視線を緩めずに陽子を精一杯見つめた。陽子が静かに淡々と声を発する。
「迷惑‥以前に‥何故だ?これは慶国の内輪の問題だ…。何の関係もない貴方を巻き込むわけにはいかない」
 鈴は大きく息を吸う。一段低い声を、彼女は出す。
「確かに…麦州侯浩瀚様とは私は面識はないわ…。かつてこの国に来る前だったら、貴方の言う通り何の関係もなかった‥。でもねこの慶国の内輪の問題は、今の私には…」
 微かに、鈴の顔が歪む。
「関係なくは、ないのよ…」
 脳裏を、自分の目の前で息絶えた、蜜柑色の髪をした少年の面影が過る。朱旌の雑劇の主人公に憧れ、鈴が堯天に向かうまでの道中で知り合い、死なせてしまった少年。最初はお話の少女がここにいるという噂から鈴はこの国を目指していたのだが、気がつけば会ったことのない自分と同じ境遇の憧れの主人公よりも、途中で関わった少年の方が鈴にとってはかけがえのない人へと変わっていた。目を離した隙に、広途で車に故意に轢き飛ばされた。何故、なんのために彼が死ななければならなかったのか、蓋を開ければ怨恨と悲しみしか噴き出さないその時の記憶に、鈴は思わず胸に手を当てる。
「ここに来るまでに‥私は、慶のこの凶事で、ひとりの大切な人を失ったの。かけがえのない幼い男の子。あの子は‥和州で慶のある男に殺された‥!あの時、あの子を殺された時に見た、あの目だけは、私は忘れない‥!昇紘!!私はあの男に、報復をしなきゃ‥清秀の敵を取らなきゃ気がすまないの‥!」
 鈴は強く唇を噛む。力を込めて、そして脱力したように見えた。
「勝手な話でしょう。いきなりこんな話を持ち出されても困ると思うわ。でもこのまま何もせずに綺麗にこの国を去るより、私はどれだけみっともなくても、この国で泥まみれになってでも、あいつを捕まえたい。あいつはおそらく和州の重鎮だわ。これが慶の中核の問題なら、そこからさらにあの男の情報を引きずり出せるかもしれない。そして、私を助けてくれた貴方たちに、何かお返しだって出来るかもしれない。これも縁、なんて言ったら、貴方達は怒るかしら‥」
 正直、話を聞いたとき――これしかないと思った。あの男の情報に辿り着くためには。
 ごめんなさい、と彼女は、笑った。
「完全に、私情ね‥。私の自己満足なのかもしれない‥。でも、それを捨ててしまったら、私は崩れてしまう‥。馬鹿だった自分、私はあの子に諫められてばかりで、でも、その事実にさえ気がつけなかったの‥」
 鈴は顔を両手で覆う。
 痛いほどの沈黙が訪れた。陽子はただ静かに鈴を見つめる。やがて陽子は小さく息をつく。
「‥いいぞ、わかった」
 鈴が驚いて顔を上げる。
「え‥?」
陽子は腕を組んだまま、先ほどと同じように動かぬまま、静かにもう一度唇を動かす。一言一句違わぬ、音がした。
「いいぞ、わかった」
 唖然とする鈴に、陽子はゆるりと顔を上げてみせる。その目に浮いていたのは、どこか穏やかで静謐な光だった。
「そこまで言うのなら、やれるところまで、やってみたらいいんじゃないだろうか。貴方のために。何も知らない私が言えた義理ではないけれど‥。泥臭く生きてもいいじゃないか」
陽子は微かに微笑んだ。
「やれるだけやって、やって、やって。最終的に行き着いた先で出す答えが、今と同じとも限らない。我武者羅に走ってみなきゃ、分からない。でもそういうの、私は‥嫌いじゃない」
 鈴は呆然とその場に佇んだ。陽子は不器用に、少しだけ鈴に微笑んで見せる。
「‥よろしく」
 呆気にとられていた鈴も釣られて微笑む。小さく、よろしくと呟いた時、隣にいた祥瓊がすっと手を上げた。目を瞬いて彼女を振り返った二人に、祥瓊はねぇ、と口を開く。
「私も‥麦州侯浩瀚の救出に参加したいって言ったら困る?」
「え?」
僅かに困惑した顔で、陽子が祥瓊を見つめる。問われる前に、それを察したのか、祥瓊は少しだけ柔和な表情を見せる。そうね、と彼女は軽く顔を伏せた。
「陽子や鈴みたいに、何か固い決意がある訳でもない。ただの便乗と思われても仕方ないわね」
 なら、どうして と言いたげに目を丸くする二人に、祥瓊は悪戯っぽく――笑った。

「戦線に放り出されても、貴方達ともっと一緒にいたいって思っちゃったの。これだけの理由じゃ‥足りないかしら?」



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