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 地面の凹凸が、回る車輪を伝って体に響く。揺れる視界に酔いそうになりながら、蘭玉は思わず陽子の腕にすがった。陽子は蘭玉の背を摩る。
「大丈夫か、蘭玉。酔ったか?」
「えぇ、ごめんなさい。腕を借りちゃったわね」
 陽子は微笑む。
 向かい側で腕を組む桓魋に、彼女は口を開いた。
「征州にはあとどれくらいで着きそう?」
「もうすぐだ。到着したら、二、三日相手方の様子を伺って突入する」
 陽子は唇を噛んで俯く。蘭玉の左隣に座る鈴が、眉をひそめた。
「でも、事態は一刻を争うのでしょう?のんびりしている間に、彼は殺されてしまうかもしれないわ。少しでも早く、救出した方がいいんじゃないかしら」
腕を組んだまま、桓魋は唸る。どこか諭すように、彼は鈴を見た。
「そうだな…。そう思うのも無理ないかもしれない。だが…」
「麦州侯はまだ殺されないと、僕は思う」
 桓魋が言葉を続けようとしたその時、静かな声が割って入った。皆が一斉に声の主の方を見れば、視線の集中点となった夕暉は静かに瞬く。
「どうしてそう言い切れるの?」
 鈴が眉をひそめた意外、だれも皆表情を動かさなかった。祥瓊の隣に座る桓魋も、その向かい側に座る陽子も、固い表情をしている。夕暉が口を開く。
「もし、舒栄が自分たちに屈しない麦州を従えることだけを目的としているのなら、攫う、なんて手の込み入ったことをしなくても、単発で空から州城を攻めた時に浩瀚を殺せば良かったんだ。でも、そうはしなかった。それは…」
 その時別の声が、ゆっくりと言葉を繋ぐ。
「殺す前に、彼が〝駒〟として使えると踏んだから」
皆が見つめた時、祥瓊の白い指が、顔にかかった髪をかきあげる。一つ息をついて、彼女は口を開く。
「そうでしょう?民から慕われる麦州侯の命を握ることで、偽王である舒栄を引きずり下ろそうとしている輩――正確には未だ歯向かう麦州の人間を、牽制した。たとえ麦州が責められている今の状況でも、麦州侯の命令を全うしようと、隙あらば舒栄の元から麒麟を自由にしようとする人たちを」
 祥瓊の瞳が薄く光を帯びる。
「舒栄が最も恐れていることは、真の景王の出現よ。景麒が王を見つけてしまうことを、契約を交わしてしまうことを、何よりも恐れている。一時たりとも、麒麟を自由にさせたくないの」
 前の方から、御者を務める虎嘯の豪快な声がした。
「皮肉な話だな。浩瀚は自分の育てた州師の連中に麒麟を自由にしてもらいてぇのに、肝心の浩瀚自身がそれを遮るお荷物になっちまうとは…。随分と野暮な真似だ。やり方が汚ねぇな」
 祥瓊は静かに瞼を下ろす。
「えぇ、そうよ。麒麟を奪えば、麦州侯を殺すという麦州に対する言外の脅し。そして…さらに、これは景麒に対しての牽制でもあるの。麒麟は人の命を盾にされたら逃げることが出来ないから」
 鈴は顔を歪めた。陽子は指を組んで、静かに目を伏せている。空を睨んでいた桓魋が、口を開いた。
「…そして、今まだ浩瀚様が殺されないのは、頭首を失っても、麦州州師が予想以上に持ちこたえているからだ。浩瀚様が作り上げた砦はそう簡単に崩れるものじゃない。だが…そうは言っても、この猛攻の中では、それも時間の問題だ。脅威である麦州州師が堕ちたら、あの人はすぐにでも殺される。麒麟を縛ることは、浩瀚様じゃなくても、別の人間の命でも出来るからな」
 桓魋は吐き捨てた。
「どちらにしろ元から浩瀚様を生かす気なんてさらさらないんだ。中央の官吏は浩瀚様を恐れている。本来なら今すぐにでも殺してしまいたくてうずうずしているだろうな。結局舒栄を拒み、麒麟を救おうとする麦州を牽制するためだけに、あの人は生かされている。麦州の人間なら、あの人を殺されるということが、この国にとってどれほどの損失になるのか分かっているからだ。舒栄はそこを押さえて、利用している」
 虎嘯が前の席で、鼻を鳴らすのが聞こえた。桓魋の口から綴られた事実に腹を立てているのだろう。拳が小刻みに震えているのが、影から見えた。
 陽子は静かに視線を研ぐ。
 そうだ。
 州師は、今はまだなんとか持ちこたえている。だが、いくら麦州州師が結束していてことに当たっていても、この猛攻を受け続け麦州側に既に疲れが見え始めていた。雲行きが怪しい。
 だが、だからこそ。今のこの状況を利用して浩瀚を救出する。逆に言えば、今しか彼を救い出すチャンスがないのだ。疲弊した麦州は防戦一方で、とても他に手を裂く余裕がないと偽王軍側はみている。白熱した偽王軍は麦州を一気に攻め落とす方に力を入れてきていた。
 堕ちるか、堕ちないか。
偽王軍側の注意が、州に向けられている今、浩瀚が囚えられている征州は兵力が薄い。

 まだ少しなら、麦州は保つ。麦州を攻め落とす熱が増すその隙に、浩瀚を――救い出す。
浩瀚を救い出しにきた国外からの慶の民の存在など、舒栄はまだ気がついていないだろう。
 
 蘭玉が不安そうに自分を見ているのを感じた。陽子は幼い頃からの友に微笑む。その時、前方から虎嘯の野太い声が飛んだ。
「見えてきたぜ!気ィ引き締めろよ!」
 陽子は車窓に垂れた目隠しの布を払い、鋭く前方を見つめる。桓魋も、薄く目を凝らした。
 まだ遠く、霞む輪郭は溶けてはっきりとは認識できない。

それでも視界に広がるのは紛れもなく、うっすらと青く滲み始めた征州の町並みだった。

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 浩瀚が囚われているのは、征州州城。
 その周囲の警備網の様子、打破するのにはどこが最も脆いか、各配置に何人ずつ置くか。彼を救うのに必要な情報、全てを掻き集めていく。
 一箇所に集中せず、随所に仲間を散りばめ潜伏し、陽子たちは行動の時を待った。
 にじるように、少しずつ、少しずつ。短いようで長い、じわじわとじれったい時間は過ぎていく。
 そして、救出に向けての最初の行動を起こす、前夜。
月がしんしんと光を落とす中で、陽子は庭の中、目の前に地面から生えたように沈み込む一つの木の前に佇んでいた。
よく知った気配が後ろから走る。振り返らず、思わず微笑んだ時、予想した人の声が背後から響き渡った。
「よう、お嬢さん」
クスクスと陽子は笑う。
「ごきげんよう、熊さん」
桓魋は陽子が見上げている巨大な木を見て瞬きした。花が咲いているようだが、色までは暗闇に沈んで見えない。桓魋は首を傾げる。
「何なんだ、これは」
興味深そうに視線を落とす桓魋に、陽子は微笑む。
「純恋花っていうんだって」
「じゅんれんか?」
「うん。昔、かの催上玄君が各国に与えたと言われている不思議な木。想い人がいる男女がここに二人で相手の幸せを願えば、その想い人が幸せになるという謳い文句の伝説の花の木らしい。幸運の花ともされているらしいよ」
 蘭玉から教えてもらったんだと陽子は木の幹を撫でる。桓魋はそれを聞いて、眉根を中央に寄せた。
「幸せ、ねぇ‥」
 どこか視線が、遠い。
「それで幸せになれたら、こんなみんな苦しんじゃいないだろうに」
それに。
桓魋は苦虫を噛み潰したような表情を浮かせる。
「幸せ、なんてものは…他人がなんとかするもんなんかじゃなくて、本人しだいなんだと俺は思うんだがなぁ」
 俺の完全な主観だが、と桓魋は目を閉じて振り仰ぐ。陽子はしばらく何も言葉を発さなかった。緩やかに視線がたゆたい、静かに月影に濡れる。ふっと、彼女の口元が、綻んだ。
「…そうなんだろうね」
 静かな、空間。
「幸せを願ったところで、その人に何か起こる、なんて都合がいいよね…。でも…」
陽子は穏やかに目を閉じる。柔らかく、微笑んだ。
「たとえ幸せを願ってくれて何かが起こるってわけではなくても。自分の人生に、何を引き起こすわけでもなくても。それでも私だったら、誰かが自分の幸福を願ってくれていたら、それだけで私はもう幸せを感じることができると思う」
 そうして陽子は木に何か願いを込めたように祈りを込めた。桓魋が声を上げる前に、陽子の方が、振り向いた。
「もう寝る。明日、死ぬなよ。桓魋」
 優しい声だ。陽子は月影が途切れる闇に、消えていく。桓魋は何も言えずに、しばらくその場に佇むことしか出来なかった。やがて、ひとりきりになって随分経って。底冷えのする冷気が体を包んでいることに気がついて。
桓魋は月だけが光る闇空を振り仰いだ。
 もともと信じてなんかない。こんな花の木に願うくらいで、想いを寄せる人間に幸せが舞い込むなんて都合のいい話を。
 先ほどの陽子の話を頭の中で反芻する。
誰かが自分の幸せを望んでくれている、そのことが嬉しい、その気持ちが既に幸せをもたらしてくれている。
耳元で溶けた声に、桓魋は目を閉じる。陽子、とそっと心の中で問うた。

 なぁ。だったら。――それだったらさ。
それが俺の想いでも、お前は少しでも幸せを感じてくれるだろうか。

桓魋も、少女と同じように祈りを込める。人の祈りは、いったいどこに行くのだろう。

 この乱が終わって浩瀚を取り戻したら――――陽子に想いを告げようとその時思った。

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 まだ、日の光さえ顔を出さない明朝だった。
薄青い空間の中、蘭玉は口から息を吐いた。唇から離れた途端、吐息は白く凍りつく。かじかむ指先を温めながら、冬の寒空を振り仰ぐ。
陽子達が動き出すその朝、蘭玉は水を汲みに外に出ていた。瓶に水を溜めるその最中、蘭玉はふと何か囁きのような声を耳に拾う。交錯する二つの声色。一つは耳馴染みのない、そしてもう一つは、仲間のひとりの声だった。
(?何かしら‥?)
 ボソボソと、気配を押し殺すような声量だ。蘭玉は瓶をその場に置き、そっと声のする方へと足を進めた。
(今日のことについて、何か話しているのかしら‥)
 確か、もうそろそろ陽子たちは出発する時間のはずだ。偽王軍の兵士たちに悟られないよう、少しでも目立たぬように5~6人に分かれ、時間をずらして出発する。夕刻までにはみな維竜に到着しているという目論見だ。維竜で合流し、夜中に各配置についたそれぞれが門卒交代の時間を突いて州城に突入し、浩瀚を救い出す。一気にかたをつけなければ、少しでも長引けば、浩瀚も自分たちも命は無い。このことは夕暉が中心となり、内密に、そして綿密に計画された作戦だった。
 そっと物陰に身を隠すようにして、蘭玉は耳をそばだてる。声が、はっきりと、輪郭を伴って聞こえてきて‥。
その会話に、蘭玉は凍りついた。

 本当に、大丈夫なんだろうな‥。
 あぁ、任せておけ。この謀反を報せたお前たちは無罪放免にしてやる。景王舒栄様はお心の広い御方だ。約束は守る。もしあいつらを両方共生け捕りに出来たら報酬は更に上がる。これは巧国からの極秘伝達事項だがな…。それで、奴らは本当に今日維竜に現れるんだろうな。
そ、そうだ。今日の正午、青将軍と中陽子は揃って一番最初に維竜に到着するはずだ‥。それにしてもなんで巧がこんな一介の半獣と海客なんぞをそんなに…。い、いや、なんでもない。とにかく奴らは軍事に長けている!生け捕りなんて出来るのか保証は出来ん!気を抜いたら俺たちが返り討ちにされるぞ‥!
 ‥大丈夫だ。こちらとて戦闘には長けている。たかだか半獣と小娘。今言ったのは「もしも可能なら」の話だ。必ずしも生け捕りにする必要はない。瞬殺する心持ちでいけ。
 わ、分かった。予定通りだな。だが‥くれぐれも、青将軍より中陽子――娘の方を先に片付けた方が良い。青将軍は手ごわい。弱者から先に消すんだ。
 
 風が消えていく。温度が消えていく。何もかもが、白く蒸発していく。恐怖で頭が凍りつく。蘭玉は声も出せないまま、ふらりと後ろに足が傾いだのを感じた。一度踏み出した足は、もう止まらなかった。そのまま、蘭玉は逃げるようにその場から駆け出していた。 

 今見たものは酷く簡単な言葉で表せた。―――裏切り。

たった三文字の中に、とんでもなく重たいものが詰まっている。おそらく麦州師の仲間をつけてきた舒栄軍の残党がいたのだろう。せっかく気づかれずにここまできたのに、このことが舒栄の耳に入ってしまえば全てが水の泡だ。仲間の裏切りの現場を、今蘭玉は見てしまった。
全力で、彼女は駆ける。
心臓が爆発しそうだ。どうしよう、どうしよう、どうしよう。でも、裏切りを知ってしまった衝撃よりも先に、頭の中に雷鳴のように――ひとりの、名前が落ちる。

陽子

 陽子達が発ってからもう、大分経つ。彼らは仲間に裏切られていることなど、露ほども思っていない。先ほどの男たちの発言が脳内を巡る。このままでは、殺される。陽子が殺される。陽子が‥。陽子が!
 蘭玉に、もう皆を起こしているだけの時間はなかった。
 その時、角を曲がった所で高い声がした。
「蘭玉!どうしたの?」
「鈴、夕暉…!」
 夕暉と鈴が、そこにいた。
 蘭玉はただならない彼女の様子に目を丸くする二人に、事の経緯を口早に説明する。 話を聞き、血相を変えた夕暉は兄の元に駆けていった。鈴が必死に青鳥に飛ばせるための手紙をしたためているのが見える。だが同時に蘭玉は思った。

 誰かが直接いかなきゃ、止めなきゃ。

気がついた時には、蘭玉は厩に向かって身を翻していた。
「蘭玉!!」
 鈴の制止の声がするが、彼女は足を止めない。三騅の手綱を取った蘭玉は、鞍に乗ってその場を飛び出していた。
 どう考えても、これしか手がない。果たして自分が騎獣を走らせたくらいで間に合うのか。
(陽子…!!)
 輪郭を失い、色だけとなった景色は、遠くちぎれていく。今からでも、陽子達に追いつけるか。鈴の声はもう遠く掠れて消えていた。
 蘭玉は冷たい風が頬をむち打つ中、視線を研ぐ。陽子たちは馬を使っている筈。随分前に彼女たちはここを出発しているが、厩舎にいた騎獣でも最速と言われているこの騎獣なら、間に合う可能性がある。
 間に合え、とそれだけを思った。
 痛いくらいに、ただそれだけを念じた。

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 風がぬるく――血なまぐさい。
 その時、何かにおされるようにして…陽子は、空を振り仰ぐ。

「…どうした?」
 桓魋の低音の声が斜め後ろから投げられる。一縷の不安を無視し、陽子は首を振って見せた。
「いや、何でもない」
 騎獣ではあまりに目立つとの意見から、陽子達は馬でひっそりとここまで移動してきていた。陽子と桓魋の他に、数人が彼らとともに一番手として維竜へと向かっていた。
 桓魋は何かを言いたげに口を開きかけたが、言葉を呑み込んだようだった。
 小さく朧気な、玩具のような町並みが視線の先に見えている。陽子は前かがみになり、体重を前方向に傾がせ、さらに速く馬をとばす。維竜の門闕が目の前に見えて、陽子は思わずほっと目元を緩めた。

 だが、維竜へと到着する――瞬間。

 背後で鋭い笛の音と共に、何かが翻り、はためく音がした。
「?!!」
 驚いて振り向く陽子。殺風景なくすんだ色調でまとめられた景色の中、一つだけ鮮やかな黄色が翻っていた。後ろで仲間の一人が高く響きわたる笛を口に含んで、黄色の旗を維竜の門闕に向かって振っている。
 一瞬何が起こったか分からずに目を瞬く陽子の耳を、次の瞬間桓魋の怒号が打った。
「陽子ぉ!!!前だ!!!」
 視線を前に戻したその時――陽子は、閃く鋭い白銀を見た。維竜の目前、正面の門闕から騎獣に乗って鉈を振り回す男。自分に向かって走る刃。
 敵に待ち伏せられた、と理解する暇さえなかった。
「死ねぇ!青辛!!!!」
 黄色の旗を振っていた裏切り者が、方向を変え、桓魋に向かって襲いかかってきた。
「!!陽子!!」
 足止めを食らう桓魋と陽子の今の距離は遠すぎる。そもそも騎獣と馬では速さが桁違いだった。桓魋が陽子の元にたどり着く頃には、陽子の首は落とされる。ぎらりとタガが外れるように、桓魋の瞳が見開く。
「陽子ぉお!!」
その瞬間、何かが弾丸のように桓魋の脇を通り過ぎて、彼は目を見張る。
「?!!」

そして、その弾丸がなんだったのか、次の瞬間知る。

桓魋の声が響くよりも先に、我武者羅に騎獣を走らせる彼女はギリギリで陽子の元に辿り着く。

「陽子ぉお!!!」
 柔らかな少女の声音が、鋭く響く。誰かが、陽子と刃の間に躍り出た。
 刃と首の皮が噛み合う直前、陽子の身体は鋭い衝撃に弾かれる。馬上から放り出され、木の葉のように舞う陽子。視界が真っ赤な飛沫で満たされる。目が見開く。叫び声がする。言葉もなく、目を見開いた。

 目の前に、蘭玉がいた。
 
 血塗れた刃がどろりと濁る。寝巻き姿のまま駆けてきた蘭玉の体から筋を引いているのは、赤。
 気がつけば、叫び声を上げていた。陽子はかけつけた仲間の一人に受け止められる。
 待ち伏せていた偽王軍の兵士達が、裏切った仲間が、桓魋の長槍にさばかれていく。崩れる蘭玉の体だけを残して、怯えた三騅が駆け抜けていく。桓魋の放った弓が、蘭玉を斬り捨てた男を射ぬいた。裏切り者を一掃していく。蘭玉が陽子たちに危機を知らせようとここまで来た功績だった。でも陽子には――。

 何が起こったのか、分からなかった。

 制止する仲間の手を振り払い、陽子は崩れる蘭玉を受け止める。受け止めきれずに、自分もバランスを崩して、そのまま蘭玉を巻き込むように地面に転がった。血と砂にまみれた。
 桓魋が蒼白な顔で、馬に乗って駆けてくる。何かを叫んでいる。でも音が膨れて、何を言っているのか聞き取れない。なぜ血塗れているはずの自身の体は、傷一つ無いのだろう。なぜ蘭玉が、血まみれでここに倒れているのだろう。
 脳が答えを拒絶する。
 衣がずしりと重くなっていく。呆然と蘭玉を抱えて座り込む陽子の衣が血を吸っていく。
 赤と対照的に、腕に抱く蘭玉の顔は白い。
 空気がふるえる。

 その時――蘭玉の細い指が、陽子の衣を弱々しく掴んだ。




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