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 春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ去り、そして…冬が来た。旅を続け、陽子と桓魋は巧国が見える場所まで旅路を進めていた。
その後、麦州侯浩瀚の言葉通り、予王という諡を与えられた女王の六年間という短すぎる治世は幕を下ろした。国に牙を剥いた女王がただ一つ故国に遺したものは、彼女が執着した一頭の麒麟だけだった。巧を越えた時、足を進めてきたその先にあるもの。目を背けられないのは、それがこの旅の根本に絡むことだからだ。
進むか、戻るか。
 突然事態が変化したのは、奏と巧との国境線。濃霧の中で、陽子が静かに注がれる視線に気がついた瞬間だった。

「…?!」
ざわり、と何かの気配を感じて、陽子は勢いよく振り返る。ぬるい風が吹きすぎて、陽子の髪を押し流す。
「…!どうした?」
桓魋は、陽子の様子を見て、眉根を寄せて素早く周囲を見渡した。
「いや…今…」
その時視線を感じたのは陽子だけだった。注意深く周囲を見ながら、陽子は呟く。濃霧で視界が濁っている。
「誰かに見られているような、そんな気が…」
 言いながら、気のせいだったのかと思い直し始める。そもそもそんなはっきりとした視線、もしくは殺気など出している人物がいたら自分より先に桓魋の方が猫よりも早く察知しているはずだ。
 だが不思議な熱視線を感じたのは、自分だけだった。
狐につままれたような陽子の様子に、桓魋の眉根がますます中央に寄る。
「…大丈夫なのか」
 陽子はあたりを一瞥して、肩をすくめる。
「あぁ。多分気のせ…」
だが、言いかけたその次の瞬間だった。桓魋の首筋の毛がざわりと逆だち、彼の腕が陽子を突き飛ばす。訳もわからず吹き飛ばされた陽子の耳が、桓魋の怒鳴り声を拾った。
「伏せろ、陽子!!!」
 陽子の目が見開く。
陽子が今いた場所に、代わりに動いた桓魋の鎧が何者かによって砕かれるのは同時だった。
「ぐ…!!」
「?!桓魋!!!」
 鎧が砕け、布だけを纏ったむき出しになった桓魋脇腹を、何かの牙がかすめる。馬鹿力で振るった長槍が、何か生き物を薙いだ感触が桓魋の手のひらに伝わる。
 むせるような匂いがして、突然の襲撃者が人でないことを、直感的に彼は悟った。この感覚は――
(妖魔…!!)
 太い血管が脈打つ音がした。バネのように桓魋は地面から上体を跳ね起こす。その勢いのまま、次々と周囲から飛び出してきた大型犬によく似た妖魔を、体を捻った桓魋は空中で一掃した。もはや体が勝手に動くまま、頭で考えてやったことではなかった。斜め一直線上に並んだ三匹の妖魔の残滓から、生ぬるい赤の飛沫がしぶいた。
「桓魋!!!」
 陽子が叫ぶ声がする。その時、彼女の体をさらおうと、背後から大きなヒヒ型の妖魔が手を伸ばした。それを感知した桓魋は瞬時に、手の中ですべらせた長槍の尻で妖魔の心臓を突く。
桓魋に庇われながら、陽子は瞬間、目を見開いた。
(もしかして…私を狙ってる…?)
こいつらが、先程の視線の持ち主の正体なのだろうか。いや、違う。妖魔たちが表れたとき、陽子よりも先に桓魋が反応した。陽子が誰かの視線を感じたのは一瞬だけ、しかもとても静謐な視線だった。
同時に、八時の方角から新たな妖魔が飛び出してくる気配を感じた。羽ばたき、獣の匂い、鋭い殺気。見てもいないのに桓魋は長槍の柄を手のひらの中ですべらし、刃をそちらの方角に向ける。
桓魋が地面に降り立った時には、彼はすでに迎撃体勢に移っていた。
 振り向きざまに彼は体を捻りながら一直線に長槍を突き抜く。肉を裂く感触と羽毛と血しぶきと生暖かさを感じた。
―――蟲雕。
馬腹や酸與、窮奇など妖魔の中でも扱いづらいものが何頭か混ざっている。皆見ているものは桓魋を越した陽子だった。
(こいつら…何が目的だ…!!)
 妖魔が特定の人間を狙うなど聞いたことがない。力を込めようとしたその瞬間、脇腹に激痛が走った。先程くらった一撃で左半身一帯が血に染まっていることを、桓魋は初めて気がついた。ぐらり、と視界が揺れて桓魋はその場に崩れ込む。妖魔たちが一斉に、桓魋の方に向かって牙や嘴を向けたのを感じた。陽子が自分の名を呼ぶ声がする。
「桓魋!!」
その時、吉量と一緒に離れたところに置かれていた陽子が何かを決意したように、桓魋のいる方向とは逆の方に向かって駆け出した。とどめをさされそうになっていたところ、血まみれの自分を置いて、妖魔たちの顔が一斉に陽子の方へ向く。朦朧とするまま、陽子の方を見ると、妖魔が皆、陽子を追いかけていく。陽子の姿が妖魔に追われながら消えていこうとしている光景を、桓魋は見た。
「陽子…?」
 陽子の姿は消えていく。
「おい…待て…」
なぜだかわからないが、妖魔は陽子の方を追いかけていく。陽子もそれに気がついたから、桓魋から妖魔を引き離そうと離れていっているのだろう。妖魔をすべて引き受けて、陽子の姿が消えていく。見慣れた背中が消えていく。
「待て…陽子…!!」 
それでも陽子は、止まらない。小さく巧の森の奥に消えていく背に、気がついたら、桓魋は叫んでいた。
「行くな!!!!!陽子ぉ!!!!!」
 一体、どこにこんな力があったんだろう。
気がつけば、桓魋は体を地面から引きずり起こして陽子向かって駆け出していた。妖魔に襲われそうになっている陽子が振り向いた。
泣きながら、振り向いた。

今何が起こっているのかまるでわからないが、桓魋にとっては、その光景だけが全てだった。

「ああああぁああ!!!!」
 桓魋に視線を戻し、邪魔者を消そうと向かってくる妖魔たちを一匹残らずなぎ払う。向かってくる全ての妖魔を淘汰する。その場にいた全ての妖魔が一斉に襲いかかってくる中、桓魋は殺戮の場に向かって弾丸のように突っ込んだ。
もうどちらのものかも分からない血しぶきが飛ぶ。妖魔の死骸が累々と積み上がる。陽子の顔が恐怖で歪んだ。
「やめて、桓魋…!!私のことは追わなくていいから!!死んじゃうよ…!!」
もう顔はぐちゃぐちゃだった。その時、彼を守ろうと少しでも離れようとした陽子の腕を―――飛び出した桓魋が手のひらが強く掴んだ。
「行くな、陽子!!!!」
離れようとする陽子の体を、強く桓魋は引き寄せた。ただ我武者羅に、腕の中に抱きしめた。
「桓魋…!」
 妖魔たちが襲い来る。
陽子が覚悟を決め、桓魋は片腕で陽子を抱いたまま、長槍を構えた――瞬間だった。

 彼らを襲おうとしていた蟲雕が、巨大な犬のような妖魔に食いちぎられた。

「?!」
 訳も分からず、目を見開いた二人の耳に、突然他方から妖魔が妖魔を喰らうような轟音が響く。妖魔を狒々や豹のような別の妖魔たちが、先程桓魋たちを襲っていた妖魔たちを皆殺しにしていく。彼らはこちらを一瞥したが、襲ってくる気配はなかった。
 また静謐な視線を陽子は感じた。桓魋は目を瞬く。
(なん…なんだ…)
妖魔同士の共食いか。だが前者にも後者にも知性があるようだった。詳細は全く分からない。だがそれ以上考える時間はなく、ただもう襲ってくる気配がない、それだけでここから離れられる十分すぎる理由となった。愛馬である吉量が、二人の元に駆けてくる。
霧が濃くなる中で、桓魋は陽子とともに吉量に飛び乗った。賢い自身の騎獣は二人を背に乗せ、濃霧の更に濃い方へ滑り出す。霧とともに、急速に殺気は薄らいで消えていく。
桓魋は、もう誰も追ってこない背後を鋭く睨んだ。
巧国の情勢が最近思わしくないということは耳に挟んでいたが、まさか入った瞬間に妖魔に襲われるなど思ってもみなかった。しかも、なぜ、陽子だけを狙った。最後の妖魔が妖魔を喰らったのはなんなんだ。なぜ唐突に襲撃がやんだ。

あいつらの目的は、何なんだ。

疑問符だけが頭を流れる。
 襲撃は、唐突だった。しかも敵が誰かもわからない。妖魔が特定の人物を狙うなど、ありえない。自分を守るために、とっさの判断でありながら、一人で消えていこうとする陽子の後ろ姿が脳裏に蘇る。淡く消えていく、おぼろげな後ろ姿と、振り返った陽子の顔は、多分もう忘れられない。気がついたら、言葉が出ていた。
「陽子…何があっても、もう一人で消えようとするなよ…」
 搾り出すような桓魋の声に、しばらくの沈黙の後、陽子が呟いた。

 そんなの、約束できないよ。

 桓魋の瞳が見開いた。陽子は下を向いたまま、静かに続ける。
「無理だよ。できないよ。そんなこと。ほんとは桓魋だって知ってるくせに。…私が行かなきゃ、誰か近しい人たちが死んでしまうくらいだったら、私は一人でどこへだってゆく」
 静かに顔を上向け、桓魋は目を閉じる。
彼の腰に回していた陽子の手に力がこもる。彼の背に、陽子は額をつけた。彼女の声が泣き笑いのように歪んだ。

だけど。

「桓魋は、いくら私が消えようとしても…追いかけてきて、くれるんだろう…?」

 陽子は悲観するでもなく、穏やかに微笑んでいた。その顔に、桓魋は言葉を失う。
 そして――優しく苦笑した。そうだったな。

「お前は…ほっとくとすぐどっかに行っちまうからな」

へへ、と少女が鼻をすする。かすかに肩が震えていた。
「桓魋…ひどい怪我だよ…」
 強い少女は、今泣いていた。笑っているように見せて、桓魋の傷を見て、泣いていた。
その時、自分が熱を出していることに、桓魋はやっと気がついた。
「…唾でもつけときゃ治る」
青年は笑った。それでも飛びながら、意識がゆらりと遠のいていく。陽子が、自分を支える感触がする。
 
傷は思ったよりも深いらしい。

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 ゆらり。
 ゆらゆら。
 意識がぼんやりと浮上する。桓魋は熱に浮かされて覚醒と昏倒の狭間に浮き上がってきた。掠れて乾いているのに、揺れるそこは水底のようだ。いや、乾燥して熱いのは、自身が熱を持っているからかもしれない。外界の音が水面で屈折して溶け入り、耳元で意味をなさずにくぐもる。
たゆたう感触は強まる。
ゆらり。ゆらゆら。ゆら、ゆらり。
耳に絡む、くぐもった音が太くなる。眉根を寄せて耳をそばだてたその時、それが途切れ途切れにちぎれた自分の名の欠片だということに気がついた。気がついた――次の瞬間だった。
突き落とされるような冷たい感覚と共に、浮き上がった桓魋の意識は一気に覚醒の水面をくぐり抜けた。
「…?」
「!桓魋…!目を覚ましたか、良かった…」
視界に、何か赤いものが見えた。陽子だ。濁りのない音が、耳に響く。一気に臥牀に沈んだ体のだるさが、押し寄せてくる。熱で朦朧としながら、桓魋は重たい首をなんとか捻った。
(…俺は…)
屈んで、額から落ちた氷嚢を陽子は彼の額に戻す。氷が中で揺られる音がした。
ゆらり。
ゆらゆら。
さっきの突き落とされるような冷たさは、陽子がぬるくなった氷嚢を変えたからだったのか、と今更思った。
その時、扉が開く音がして、一匹のねずみが盆を持って入ってきた。目を丸くしていると、らくしゅん、と陽子が声を上げる。
自分たちを助けてくれたらしい、ねずみの半獣が、ヒゲをそよがせた。
「水は飲めるか?」
声を出そうとした時、喉がからからに乾いて、へばりつくような感覚に襲われた。
桓魋は発熱する喉に乾いた掌を当てた。声を出すのも一苦労だったので、頷いて見せれば、水差しを差し出してくれた。冷たい水が火照った口内を冷やす。目眩がするぐらい美味しかった。水を含んで、ようやく舌が回るようになる。
「ありがとう」
「大丈夫か?」
 ネズミの半獣の彼は、ヒゲをそよがせながら首を傾げた。
「おいらは、らくしゅんっていう。苦楽の楽に、俊敏の俊で、楽俊」
「桓魋だ。助かった、礼を言う」
 よちよちと歩く楽俊は、よっこらしょと床几に尻を乗せる。
「びっくりしたよ。水汲みに出かけたら、そばの茂みからいきなり血だらけのあんたたちが出てきたんだから」
 おそらくさぞ驚いたことだろう。その時の様子をほとんど覚えていない桓魋だが、楽俊の心情は用意に想像できた。
「話は陽子から聞いたよ。大変な目にあったんだなぁ、あんたら」
楽俊はきゅうぅと悲しげにヒゲを垂らした。
「…知っていると思うが、この国は今、傾き始めている。少しずつ、不作が重なるようになり始め、山間に妖魔が出始めているんだ。だけど、話に聞いたみてぇに奏との国境線に大量の妖魔が出没する、なんてそんなこと自然に起こり得るわけがねぇ」
なんとか逃げ切れたが、なぜ逃げることが出来たのか。そうか、と桓魋はうなった。沈黙の後、陽子は重い口を開く。
「あの妖魔たちは…私を狙っていた」
 桓魋の顔が跳ね上がる。
「…あの襲撃の直前に、私は誰かから見られているような気配を感じたんだ。じっと凝視されるような…でも、決して殺気じゃない…不思議な視線だ。桓魋は感じたか?」
 いや、と彼は首をふる。陽子はますます歯がゆい思いに駆られた。自分だけに向けられたあの視線と、重なった襲撃はなんなのか。不気味さだけがつのる。
桓魋がいてくれなかったら、きっと今頃陽子は妖魔にさらわれていた。先程一人で消えていこうとした自分を引き止めた、桓魋の決死の表情を、手のひらの温かさを、陽子は思う。
桓魋は溜息をついた。
「…情報がない以上、これ以上考えてもわからんな。まあなんにせよ…気を付けるにこしたことはない。特に陽子は、な。次からは決して妖魔に遭遇しないように道を選ぶ」
 頷く陽子を見、楽俊はしげしげと二人を見つめる。
「お前さんたちは、一体どこから、どうやって旅してきたんだ?二人共ただの旅人にしちゃあ風格がありすぎだ。とても一般人という風体はしてねぇけど‥桓魋殿は、どこかの将軍様か何かか?」
 まぁそんなところだ、と言葉を濁す桓魋に、へえぇ、と楽俊は目を丸くする。
「見たところ、陽子も兵士みてぇだし、二人を見てると今話題の劇を思い出しちまうなぁ」
「?何を?」
 首を傾げた陽子の湯呑みに、熱いお茶を汲み直しながら、楽俊は言葉を続けた。知らねぇか?と首を傾げる。
「今、ここら辺で、人気を博している、事実を元にした朱旌の雑劇があるんだ。どこの国でもあんまりにも人気なんで、その雑劇をやれば席が埋まっちまって、見るのも一苦労って有様らしい」
「‥知らないな。どんな話?」
そんな劇があったなんて、陽子は初耳だった。桓魋と陽子は目を合わせる。
いたずらっぽく楽俊の瞳が濡れる。
「旅する少女兵と将軍の話だ」
漆黒に踊る小さな光に、陽子は目を瞬いた。楽俊から綴られるその劇の内容に、陽子と桓魋は呆けることになる。楽俊は楽しげに口を開いた。
「題名は‥『異郷の流浪者』っていうんだ」

運命に抗いながら、進んでいく少女の物語だよ。主人公の少女は苦労しながらもある国のある州に、少年兵として仕えていた。だが、立派に兵として国に仕える少女を、壊れゆく国が発令した女人追放令が襲う。男兵として仕えていた少女は、ある時女人であることが見破られ、危機に陥るんだ。
だがそんな時、救いを差し伸べたのはその州の最強という通り名を持つひとりの将軍だった。その州の将軍が、少女を連れてその国を飛び出し、腕を持つ二人は、用心棒として他国を流れ歩いた。
 危機に陥った人々を救い、襲われている朱旌を救い、そうして彼らはとある国の王の御命までもを救う。それが物語の、あらましだ。その少女の生き様が、そして舞台で行われる美しい武芸の演舞が、人気を呼んでいるんだ。主人公の真似をして、剣を習う子供が増えたっていうのも初耳かもしれねぇな。ひょっとしたら、話次第では続編が作られるらしい。素晴らしい話が出来ることを皆望んでいる。‥ははっ何固まってるんだ、二人共。そう、それでな‥その主人公って言うのは‥

紅の髪、褐色の肌、緑の目をした海客の少女なんだ。

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静かに夜は暮れていく。時折彼女の指先から、何か細い光が閃く。どうやら針仕事をしているようだ。
手にしたほんのりと黄を帯びた白地の布に、染め上げた赤の刺繍糸が踊っている。
陽子が針を通そうとしたその時、横の床から穏やかな声が振り落ちた。
「へたくそ」
 ひょい、と手から布が取り上げられる。そこには片方の口角を上げた桓魋が面白そうに覗き込んでいた。桓魋が臥牀から見ていたことに気がつかなかった程真剣に取り組んでいた陽子は、頬を膨らませて彼を睨めつけた。
「何だ。いきなり失礼だな。けが人はおとなしく寝てろ」
「もうだいぶ熱も引いてきた。…楽俊殿は?」
「薬草を買いに行ってくれたよ」
その後、楽俊は切れかけている熱冷ましの薬草を買いに、市井にまで降りていった。陽子も行くと行ったが、この辺りの地形は自分の方が詳しいし、まだ何が起きるかわからないから桓魋のそばにいてやれ、と断られてしまった。
「そうか…。迷惑をかけてしまったな…」
 桓魋は片眉を跳ね上げる。陽子から、ひらりとかっさらった細帯を振った。
「それにしても、刺繍、か。お前らしい模様だな…」
 恐らく、太陽を象ろうとしたのだろう。布地の上で好き勝手かつ不器用に散らばった縫い込まれた糸を指でなぞる。ふ、と笑みが零れた。むくれた陽子が唇を尖らせる。
「いいよ、どうせへただよ。この難しさ知らないから言えるんだ。桓魋もやってみたらわかるぞ?」
 桓魋は片眉を跳ね上げた。ふふん、と彼は腕まくりをする。
「よぉーし、いいだろう!そんなに言うなら、やってやるよ」
「え!じょ、冗談だ!まだ熱があるんだから…」
 だが陽子の声も聞かず、桓魋は極細の針を手に取る。目を細めて、彼は布地に針を押し込む。ゆっくりと、布の内部を針が滑る。
だが…
「へたくそ」
 訳二十分後、陽子の声が、めちゃめちゃな模様を描いている細帯をぴしゃりと撥ねた。
「…意外と難しいもんだな…」
桓魋は針を針山に突き立て、気まずそうに顎を掻く。陽子は盛大に溜息をついた。
「でもなんでこんなことを?だってそれは…」
帯を見て、桓魋は口をつぐむ。それは夫婦が里木に子を願うときに結ぶ、刺繍帯だった。陽子は更に唇を尖らせる。
「悪かったな、嫁の貰い手もないのにこんなことして。でも…ずっとずっと…やってみたかったんだ」
 私もいつか、自分の子どもが欲しいから。
桓魋はただ不意に本心を口にした、月明かりに濡れる陽子に言葉を失う。思い出すのは彼女が幼いころ口にしていた、彼女の夢。あの夢は、今も彼女の中で生き続けているんだろうか。桓魋の嫁になりたいと、幸せそうに笑っていた陽子の心に灯っていた夢は。ふっと心に痛みのようなものが刺す。
気がつけば自分の唇から、音が溢れていた。 
ばかだな。

「もし…お前に嫁の貰い手がなかったら、俺がお前を貰ってやるよ」
 
溢れた音は、震えていた。冗談と本気――その二つが混在した、境界線をぼかした言葉。
え、と陽子の頭が跳ね上がる。驚いた顔で、桓魋を凝視する。やがてくすぐったそうに、陽子はへへっと口元に力を込めた。
「…私が嫁の来ない桓魋を貰う、の間違いだろう?」
なんてね、と冗談めかして陽子は笑う。陽子に他意はないように見えた。桓魋は自分自身も、それ以上は言葉が言えずに口を噤んだ。
体温が上がる、沈黙だった。

踏み込めない。踏み込みたい。踏み込んではいけない。問いただす、勇気もない。

鼻の奥が、つんと熱くなって、陽子は思わず俯く。陽子が見た桓魋の微笑みはおどけているがやっぱり熱を帯びていた。熱とともに、かすかに痛みが疼く。
足がひとりでに、桓魋の方へ動き出すのを、陽子は気がついたが止めようとはしなかった。
陽子がその時何を思ったのか――桓魋は分からない。ただ陽子はそのまま桓魋を抱きしめた。
桓魋は声を出そうとして、そして次の瞬間首に回る温かい腕に、鼻を掠める赤い髪に、何が起こったのかも分からず目を見開いて固まる。陽子に抱きしめられていると気がつくのに――数秒かかった。
「陽子…?」
記憶が、駆ける。行き場を失くした手が彷徨う。
そういえば、幼い陽子が熱を出した時、桓魋は寒いと震える彼女をよく抱きしめてやった。同じことを――今陽子が、彼にしている。徐々に焦るような感情が沸く中、耳元で小さな、声がした。
腕に切ない、力が込もった。
「怪我させてごめん…」
 陽子はそれ以上何も言わなかったが、その無言の言葉に、桓魋は陽子の内面を見た気がした。ごめんと彼は呟く。祈るような声が――囁いた。
「早く、元気になってくれ‥。頼むよ。…頼むよ。治ったら、稽古しよう。美味しいもの、いっぱい食べよう。また、ピクニックしよう。また‥慶国に、戻ろう」
 ふたり、一緒に。
 その瞬間、陽子の中で、はっきりとこの先どうするか、答えは決まった。じっと陽子は桓魋の瞳を、見つめる。こつんと、冷え切ったおでこを、桓魋のそれに重ねる。昔よくやっていたように。桓魋から伝わる芯の熱さに、冷たい額は馴染もうとしない。重なった場所から、滲むような熱さを感じながら、陽子は――囁いた。
「少しは、冷たいと思うんだけど…」
熱、下がるかな?
 陽子の言葉に、桓魋はじっと陽子の瞳を見つめ返した。彼女への恋を自覚してから…初めてその瞳をまっすぐに――見つめた。泣き笑いのような表情を、彼は浮かべる。噛み合わない心に痛みと切なさと熱さが灯る。
 これじゃあ――
「熱が上がる…」
 きょとんと目を丸くする陽子は桓魋の言葉の真意を理解していない。でも、その声は、どんな言葉よりも、優しかったことは、その時彼女の耳に届いていた。
冬の寒さだけが厳しさを増す。空っ風に煽られて、かたかたと窓ガラスが震える。
元気になったら、旅立とう。でもそれまでは、このままふたりで。敵が何かも、分からない。自分たちが何に巻き込まれているのかも分からない。だけど、それでも進むことを決めた。

その後桓魋が回復し、浩瀚の身に起こった出来事が彼らの耳に運ばれてくる日は――もう少しだけ、先のことだ。

「…帰ろう。陽子」

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 熱い。
 視界が燃える。煙で燻される。とぐろを巻くのは、黒煙。白煙。黒煙。黒煙。黒煙。――白煙。
「麦州侯浩瀚!どこにいる!隠れていないで、出てこい!」
 蛮声が、薄暗く空虚な部屋の中で響く。
 轟々と火を放たれた周囲から、陽炎のような揺らぎと熱と怒声が巻き起こる。炎が柱を這って、窓々から吹き出す火柱に、一層大きな悲鳴が上がった。
 麦州州城は今、火に包まれ燃え朽ちる寸前の姿を晒していた。黒煙と白煙。黒煙は横ばいに這い進み、空気に煤を撒き散らす。ねっとりと濃い白煙は空高く伸び、曇天の闇空に吸われていく。
 深い深い真っ暗な闇の中で、火の粉が散る様が一層不気味さを引き立たせ美しかった。
 踏みならされる足音が上階を、下階を、駆け抜ける。その中でまどうように頼りなげにさまよう足音が、一つだけあった。
 傷ついた腕を庇いながら、柴望は声を張り上げ叫ぶ。
「浩瀚様!どこにいらっしゃいますか?!貴方だけは…貴方だけは、逃げねばならない!返事をなさってください!!」
 頭上から、炎を纏った天井の破片が振り落ちてくる。じき、ここも崩れ去る。柴望は必死に、自分より若い容姿を持つ上官の姿を探す。
 炎が波打ち、足元を舐める。視界すべてが熱で覆われる中、張り出された露台に佇むひとりの男を、柴望はその時確かに見た。
 見開いた瞳の中の虹彩で熱の揺らぎが踊る。淡麗な後ろ姿だけが、周囲よりもずっと低い温度を孕んでいるように見えた。
「浩瀚様!!」
 たたらを踏むように、足をもたつかせながら柴望は駆ける。膝を折って、熱せられた乾いた床に両手をつく。見つけ出した上官に柴望は叫んだ。
「お願い致します!お逃げください!これも非常事態…私が時間を稼ぎます。露台の下方に、軍兵たちが浩瀚様を受け止めようと待機しております故、飛び降りてください!」
 焦がす程の熱風が容赦なく吹き付ける。だけど、熱に裾をなぶられながら、背を向けた上官は身じろぎひとつしなかった。灼熱に染まる紅蓮に、白い顔が浮く。眉一つ動かさないかっちりと整った横顔に、焦れたような、声がした。
「直に王師が貴方を捕らえにここまで来る…!何を戸惑っておいでか!」
「…戸惑う?この私が…?」
 その時になって、ようやく目の前の上官は低い声を発した。ゆるりと瞳の中を滑ってこちらを見据えた黒の虹彩に、柴望はなすすべもなく口を噤んだ。遠方から炎に包まれた瓦礫が崩れる音と、こちらに駆けてくる足音と、乗り込む騎獣が暴れる音がする。
「私は…戸惑ってなどおらぬ。ただ、この国の主を待っているだけだ」
 熱風が荒れ狂う中――上官の口元が笑ったようにその時感じた。

 浩瀚の周囲だけを、静謐な風が吹き抜けた。

 微笑みの中、拭えぬのは寂寥感。その微笑の奥に、何か自分が理解できないような、否、理解したくない決意が湛えられていることに柴望は気がついた。訳も分からない不安に突き動かされるように、柴望は口だけがせき立てるように動くのを感じた。
――浩瀚様。
「今立っているのは紛れもない偽王…!首都州師を含め、麦州を除く全ての州が堕ちました。台輔もあやつ等の手に堕ちた今、浩瀚様がいなくなられたら、慶は…慶は本当に…!!」
 最後は、もはや悲鳴じみていた。
「私が知る限りでは貴方が‥!貴方こそが、玉座にふさわしいお方‥!浩瀚様こそが、次期景王たる人物なのです!」
 柴望は激しく頭を振る。静かな、声がした。
「…違うな」
 え、と驚いて柴望は顔を上げる。吹き付ける火の粉が、熱を増す。燃え盛る炎の揺らぎに、顔半分だけをこうこうと照らされながら、浩瀚は――ゆっくりと、微笑んだ。

「私は、王では、あり得ない」

 業火が背後でとぐろを巻いた。
 一際大きな破壊音と共に騎獣に跨った偽王軍の兵士たちが現れた。迷っている時間は無かった。一瞬言葉を失った柴望は浩瀚の前に転がり出て、兵卒たちの前で、大きく両手を広げて背後の浩瀚の盾となる。
「!と、とにかくお逃げ下さい、浩瀚様!私が足止めをしている間に…!あなた様のためならこの命惜しくはない!どうか私めの…死を無駄にしないで下さい!!慶を救ってください!!」
 自分よりずっと若い顔がその時どんな表情を湛えたのか、柴望は見ることは叶わなかった。
 蛮声を上げる兵士たちが迫りくるのを睨みすえ、柴望は足を踏みしめる。――だが。
「な…?!」
 ふいに、自分の体がぐらりと後ろに傾ぐのが分かった。
襟を捕まれて、後ろに引かれているのだと気が付いた時には、斜め上に浩瀚の白い顔があった。柴望の襟を掴んでいるのは浩瀚の腕だ。
 柴望は彼が何をしようとしているのか悟り、悲鳴を上げる。
「浩瀚様ぁ!!」
 口早な、でもはっきりとした、声が囁いた。
「この国を救うのは私ではない。救うのは、どこかに必ずおられる…」
 真の景王陛下だ。
「偽王に捕らわれた台輔を救え。私たちに出来ることは、それだけだ。もう、時間がない」
 柴望の体は宙を舞う。手を伸ばすが残酷にも浩瀚には届きもせずに、距離だけが遠のいていく。
 兵士たちはもうすぐそこだ。
 柴望を振り返った浩瀚の顔が、その時初めて―――人間らしい表情を湛えた。彼は柴望に向かって吠えるように叫んだ。

「行け!!生きろ!!!」
 
 一際大きな爆発音が響きわたる。落下していく中で、下方で味方の兵が柴望を受け止めようとする。混沌の中で柴望は、燃え盛る州城から飛び出す何頭かの騎獣を見た。
 その中央の一頭から、だらりと伸びた二本の白い腕。ぐったりと乗せられているのは、先程彼を救った上官だった。

 叫び声だけが、木霊する。

 闇夜には轟々と燃え盛る炎の華やかな、恐ろしさを含んだ美しさがはえる。
 麦州候浩瀚はさらわれていく小さな点となって溶け消えた。



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