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襲撃を受けた桓魋たちは、その後更けきった夜の中、駆けつけた州師の仲間によって助けられた。
陽子は桓魋たちの所から走り去った後、老人遠甫のところに駆け込んで、助けを求めていた。州師の警備兵に連絡を寄越したのはその遠甫という人物だったそうだ。早口に、必死に事情を説明した陽子は、すぐに身を翻し、桓魋を探しにいったという話を、桓魋は臥牀の上で聞いた。そしてその時、彼を襲ったあの兵卒たちが取り押さえられたという話も――彼は聞いたのだった。


「クソッ こいつら…手を放せ!!」
「ぶちのめされてェのか!!」
「州侯と面会させろ!!」
汚い怒号が、回廊に響き渡る。襲撃から三日後、麦州州城の回廊を進む男たちは縄を打たれ、かつての同僚に背中を押されていた。
辿り着いた堂室の一室の扉が開け放たれ、男たちはその中に荒々しく踏み込んだ。
薄闇が辺りを満たすその一室、扉が開け放たれ、響く乱暴な音と怒号に驚いた様子も見せず、中にいた人影がゆるりと顔を上げる。
 顔を上げれば、窓から透ける空の残照が――人影の相貌を浮かび上がらせた。

成人男性特有のかっちりとした顎、整った顔立ち、少しだけ鷲鼻気味の鼻、そして何よりも目を引くのは…怜悧な光を湛えた――黒眸。

なだれ込んだ男たち、桓魋を襲った男たちは、書卓に肘をついて指を組み合わせる男に、はっと息を呑んだ。
人は彼を麦州史上三本の指に入る為政者と呼ぶ。組んだ指を解くことなく彼らを見据える、静かな佇まいの男の名は…

麦州侯 浩瀚

彼は男たちを見据え、ゆるりと口を開いた。
「お前たちは、半獣兵卒殺人未遂の…。何をしに来た…?」
「麦州侯…!」
「浩瀚様!」
縄を打たれた兵卒の男たちは、声を上げる。浩瀚に詰め寄ろうとしたところを抑えられながら、男たちは口々に叫んだ。
「何故、俺たちが職を追われるんですか?!俺たちはあの偽善の半獣から州師を守ろうとしただけなのに!」
「追われるのは不正を行って昇格したあの半獣の方ではないのですか?!」
口々に叫ぶ男達に、浩瀚は表情を変えぬままただただ視線を彼らに落とす。話を無言で聞いていた浩瀚は、少しだけ首を傾けてみせた。
「不正を行っただと…?」
鈍い光が、彼の瞳に浮いた。
「その証拠は?不正を行った、というのはただのお前たちの憶測ではないのか?」
男たちが言動に詰まる。噛み付くように、一人の男が口を開いた。
「いいえ、確実に行っているはずです!半獣が昇進など出来るはずがない!あいつは…桓魋は青家の出だ!金ならいくらでも懐にあるはずだ!!そうでも無ければあいつを昇進させた奴が何の常識も持ち合わせてない奴なんだ!!」
そもそも、と他の男が叫ぶ。
「半獣など神聖な王にお仕えする州師にいること自体がおかしい!あいつを消すのに他に理由なんて要らない!!」
 浩瀚は顔を傾けたまま、静かに言葉に耳を傾けていた。やがてざわめきが収まった時、彼は瞬きをして男たちを見つめる。
「…そうか。今回の一件に関して、お前たちが襲った兵卒は、半獣だから、ここにいる権利は無いと申すのだな?そして半獣を昇格させるような者には一般的な常識が欠落していると…だから代わりに自分たちが制裁を加えた、と」
 あまりにも美しい微笑を浩瀚は口元に浮かべる。無言で是の意を示す彼らに、なるほど、と浩瀚は囁いてみせた。
「浩瀚様!どうかお考え直し下さい!」
男たちはじっと浩瀚を凝視する。浩瀚は少しの間口を噤んでいたが、ふっと息を吐いてみせた。
「お前たちに一つ、良いことを教えてやろう」
彼の口元の弧がいっそう美しく刻まれる。穏やかな声が、浩瀚の唇から零れた。

「彼を…青辛 桓魋を両司馬に昇格させたのは――私だ」

空気が――その瞬間凍りついた。
最初何を言われたのか分からず目を瞬いていた男たちの顔からゆっくりと血の気が落ちていく。
沈黙が、駆け抜ける。
彼らを美しく微笑んで見つめたまま、浩瀚は首を傾ける。
「お前たちから言わせれば、私は常識とやらを知らぬ世間知らずのようだな」
「こ…浩瀚様…」
しばらくじっと男たちを見つめていた浩瀚は息をついた。
「だが…ありがとう。いきなり何だとは思ったが、お前たちの言うことは多少なりとも聞く価値があったようだ。お前たちのおかげで、私に見えていなかったものが、はっきりと見えたからな。これは私の落ち度だよ」
「!では…」
 一瞬、男たちが浩瀚を期待を含ませた顔で見る。だが、それは男たちが思ったようなものではなく…微笑みと共に涼やかな声が、その場に響き渡った。


「消えるがいい。この州師から」


男たちの動きが止まった。
浩瀚の双眸には、冷たい光が浮いていた。口元に描かれたのは見たこともないほど麗しい微笑みなのに、そこからは笑みの要素のいっさいが無駄なく削ぎ落とされている。浩瀚は表情を崩すことなく、言葉を続ける。
「丁度良いではないか。それにお前たちも、私のように物も知らぬ者の下に付くのは不憫であろう?私はそもそもお前たちに常識を決める権利も、ましてや人の命を奪う権利もあったとは知らなかったくらいなのだから」
さらりと述べられる痛烈な皮肉は、毒を塗られた唇から流れる。
浩瀚の瞳の冷たい光が鋭くなる。ゆっくりと笑みが引いていき、表情をしずめた浩瀚の顔に残るのは静かに揺らめく怒気だけになった。鷲鼻気味の高い鼻が、濃く浩瀚の顔に影を落とす。その冷えた迫力に、男たちは思わず後ずさる。
私は…と浩瀚は口を開く。
「今回の一件で、お前たちのような者が州師に紛れ込んでいたと知れただけで十分だよ。だから、私は心からの礼を述べさせてもらったのだ。皮肉だな。青辛 桓魋を半獣という点で異分子扱いするお前たちこそが、この州師にふさわしくない異分子だということを、お前たちは自分自身で手づから証明したのだ」
組んでいた指を、浩瀚はゆったりと解く。背凭れに体重を預けるそのしぐさでさえも、洗練された貴人としての優美さをまとう。顔は再び柔らかく微笑んだが、吐く言葉は針のように鋭かった。
「まずは人としての倫理を学んだ方が良さそうだな。仁道を持たぬ者は上に立つ権利もないという浸透しきった一般概念くらいは理解できるようになったらどうだ」
今のお前たちではそれすら出来るかどうか分からぬが…と浩瀚は一笑に付して切り捨てる。
「他に何か言いたいことは?」
「お、俺たちは自分たちの半獣が何かしでかさないよう、自分たちの正義に従って…」
ゆるりと浩瀚は首を傾げた。正義?と目を開いて浩瀚は聞き返す。
一瞬の間が落ちる。
男たちを見て、次の瞬間、彼は声を上げて笑い出した。
「正義、だと?まさかその口からその言葉が出てくるとは…!もうここまでくると面白いよ、お前たち!誰かの血に濡れた拳をかかげながら正義を振りかざすか…」
珍しく大きく口を開けて笑いながら、浩瀚は額に手を当て、彼らに視線をよこす。

羞恥で男たちは頬に血を登らせた。
笑みを浮かべたまま、さらりと彼は男たちを刺す。

「倫理観の欠落した者の正義に何か価値があるとでも?」

男たちは絶句する。だが浩瀚は手を緩めない。
「そんな抽象的な単語さえ出せば…正義を大義名分としてふりかざせば、ことが丸く収まるとでも思っていたのか?」
なんて都合の良い〝正義〟だ、と含んだような目で浩瀚は嗤う。
「人を虐げることが正義なのか?人を殺めることが正義なのか?正義に対する見解さえ理解している範疇にないことが晒されているくせに、よくもまあいけしゃあしゃあとその言葉を掲げられたものだな?今一度辞書でその意味を拾ってみるといい。この状況で正義という単語を振りかざすこと自体、滑稽だ。偏見からひねり出された支離滅裂な釈明も聞き飽きた。私は整合性の欠落した釈明は」
 嫌いでね。
 苦し紛れに、最後の足掻きのように男の一人が叫ぶ。
「こ、浩瀚様!私たちはこの州師を秩序ある…」
「半獣がいては秩序が保てないか?それはこの世界の構造を根本から否定していることに繋がるだろう。そもそもそのように差別意識で人を選り分けることが、世界の秩序を乱していることになるのではないのか?」
「…!!」
「わ、私たちは…」
だが、それ以上言葉は出てこなかった。

誰も何も言えなくなった時、静かな沈黙がその場に落ちた。

何も言い返す言葉がなく、男たちは口を開け閉めする。すべての弁解が倍の痛手となって返ってくる。言葉の選択が鋭く冷たい。単純で簡単な言葉で返せばいいものを、浩瀚は自身の語彙から選りすぐった鋭くとがれた単語に置き換えて紛糾してくる。彼らは悟った。最初から彼は――浩瀚は―― 
許す気なんて、ないのだ。
浩瀚は表情を変えぬまま、穏やかに冷たい光を湛えた目で男たちを見据える。だが、これ以上は彼らから言葉が出てこないとふんだ彼はふっと興味をなくしたように視線を外した。
「州侯権限の下、そなたたちを麦州州師より追放いたす」
窓から透けて見える外の景色は、もうとっぷりと闇色に浸かっていた。
 麦州侯浩瀚は顎を煽る。極上の笑みと共に、彼は一言――吐き捨てた。

「以降の申し開きは蔽獄でせよ」

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 午後の日差しが降り注ぐ。州城外廊を歩く桓魋は澄んだ日ざしの美しさに目を細める。
州城に送られた桓魋は、そこで療養生活を過ごしていた。
 もちろん陽子も彼と一緒に州城に送られ、暇があれば彼のところに顔を出している。少しずつ回復の兆しを見せ始めた桓魋は、一週間後には立って、陽子と共に中庭を散歩できるまでになっていた。
(いつになったら稽古が出来るかな…)
 襲撃から今日で二週間が経つ。
今朝、麦州候浩瀚から直々に呼び出されたことを臥牀の上で聞いた桓魋は 決して無理をすることはないとの伝達の言葉に、お受け致しますとだけ、答えたのだ。
辿り着いた繊細な装飾が施された扉を、桓魋は二、三度叩く。
乾いた音が響き、中から簡潔に「入れ」という言葉がする。桓魋は、そっと扉を開けて中に足を踏み入れた。
「失礼いたします」
 中に入った途端、書卓に腰掛けていた男の元にいた陽子が、ぱっと振り向く。桓魋の姿をみとめた瞬間、少女は顔を輝かせて桓魋の元に駆けてきた。
「ちびすけ…!」
 目を瞬く桓魋に陽子は抱きつく。
桓魋が顔を上げれば、書卓に腰掛ける男は手にしていた書類に再び目を落とした。桓魋は呟く。
「浩瀚様…」
 年の頃三十の男は怜悧な雰囲気を纏わせ、美しい手つきで書面をめくる。上げられた視線が、桓魋を捉え、細められた。
「よく来たな、青辛 桓魋」
供手する桓魋を見、浩瀚は書状を卓上に置く。洗練された仕草で、彼は顔の前で指を組んだ。
「今回の件は実に大儀であった。検問官としてのそなたの功績は実に…素晴らしかった。近頃、この州でも人攫いが頻発していたからな」
浩瀚の目が不愉快げに細められる。
「年頃の娘ならば、売られる先が女郎宿、妓楼ならまだ良い方…。他は…――考えたくもないな。帳簿に乗らぬ人口が減っている。頭を悩ませる問題だったのだが、捕まえようにも、奴らは検問を強化した〝網〟にはかかりもしない。どこか、検問が甘い綻びから溢れているとは思ったのだが…。西の州境は盲点だった」
 桓魋はつと視線を上げ、浩瀚を見つめた。
「あそこは私たち下級の兵卒間では、検問官として派遣されたくない場所の一つです」
 浩瀚は息をついて思案顔になる。形の良い白い顎に手を添え、そうか、と軽く唸った。
「現場にいる者しか見えぬ場所、だったか…」
浩瀚は視線だけを持ち上げる。
「敢えて皆行きたがらない場所に、お前は自ら志願して行ったのか?自分が持っていた検問官としてのより良い待遇を蹴ってまで?」
じっと試すように、桓魋を見つめた。
「はい。ですが私は…ある男に馬鹿なことをさせたくなかった、それだけの理由で志願させて頂いたのです」
桓魋はじゃれつく陽子に視線を落とす。
「友人と思っていた男が、検問を潜る手伝いをしろ、私に話を持ちかけてきました。報酬ははずむとも言われました。友人ならば手を貸せ、とも。彼が検問を抜けて何をしようとしていたのか、私はそれが知りたかったのです。それが道に反することならば…止める義務が、俺にはあったんです」
 表情に微かな翳りを落とす桓魋。彼は一人称が「俺」に戻っていることにも気がついていない。
浩瀚は首を傾げ、唇を開いた。
「それで‥その男とは結果的に〝友人〟だったのか?」
「残念ながら‥俺の思い上がりだったようです」
 桓魋は後ろ頭を掻きながら、苦笑いを浮かべて見せた。
ほう と浩瀚の瞳が光る。
その奥底がしれない深い黒眸は桓魋を見据える。じっと無言で桓魋を見ていた浩瀚だが、ふっと口元が弧を描いた。
「…やはりおもしろいな、お前は」
え と桓魋は弾かれたように顔を上げる。浩瀚は驚く桓魋を面白そうにくつくつと笑った。
「そうだな…お前は私のことをよく知らぬだろう…。そして私がお前のことを気にもとめていない、と思っている。だが…」
浩瀚の瞳が光を帯びる。面白そうな顔をしたまま、彼は言葉を続けた。

「お前が思っている以上に、私はお前のことに興味がある」

以前からな、と片眉を上げる浩瀚に、桓魋は困惑した表情のまま、目を瞬いた。
「え…。で、でも俺は浩瀚様とは一度しかお会いしたことは…」
困惑する桓魋は言葉のつぎほが見つからず、口を開け閉めする。浩瀚はそんなこと気にもせずに、書面に目を落としながらさらりと言葉をくべた。
「お前は料理が不味いらしいな」
「で?!」
浩瀚は視線を陽子に視線を送り、そして桓魋の足に抱きつく陽子も浩瀚にクスクス笑う。
白く長い人差指を唇に当てる浩瀚と、可愛らしい小さな指を唇に当てて視線を交わす陽子を見て、桓魋はがっくりと肩を落とした。
「こう言ってはなんだが、最初に会った時から目をつけてはいた。色々な話も耳に入る。私が目をつけた男が、一介の兵卒でしかない筈の男の名がここまで出てくるとは私も気分が良かったよ。州宰もお前のことを褒めていた」
浩瀚は口元の傾斜を大きくする。その瞳が不敵に――輝いた。
「自らの良い待遇を捨ててまで、問題を背負う男など、初めて会った、とな」
桓魋は思わず呆けて浩瀚を見た。
「そん‥な…」
「だが…その時、お前の話に出ていた、西境の警備がそこまで下級の兵士たちに不人気だったことまでは報告は受けてはおらぬから、彼には後できつく言っておくつもりだ」
「えぇ?!」
「冗談だ」
楽しそうに浩瀚は笑う。つと視線を陽子に滑らせて、彼は口を開いた。
「その子からも色々なことを聞いた。その子とは‥お友達になってな」
目の前の浩瀚に、〝お友達〟という言葉があまりにも似合わないということは、桓魋はかろうじて飲み込んだ。浩瀚は言葉を続ける。
「大した子だよ。この子は将来有望な人材だ。お前がこの子を救い、そしてこの子がお前を救った。――言葉も通じぬはずなのに…」
 その目は何か眩しいものを見るようだった。一瞬口を噤んだ後、その子のことだが…と浩瀚は零す。
「私の古い知り合いで、その子を引き取っても良い、と仰ってくださっている方がいる」
ピクリ、と桓魋の指先が動いた。その様子を見たのか、見ないのか、浩瀚は目線を書卓に落としたまま、続けた。
「里家の閭胥で、仁も徳も高く、とても信頼のおける方だ。本来は瑛州にお住まいなのだが、こちらにお呼びした際、その子とも知り合いになられたそうだ。お前もご苦労だったな」
桓魋は強く拳を握り締める。だが、浩瀚は話すのをやめない。
「その方は仙であられるから、海客であるその子とも言葉が通じ…」
「この子は…!」
気がつけば桓魋は声を上げていた。ピタリと浩瀚は口を噤む。ゆっくりと浩瀚は視線を桓魋に当てる。桓魋は浩瀚を見据えたまま、傍にある陽子の肩を自身の方へ寄せた。
するりと口から言葉が滑りでた。

「この子は…俺が面倒を見ます」

桓魋は真摯な眼差しで、浩瀚を見据える。浩瀚は読み取れない表情で、じっとその視線を受け止めていた。
 沈黙が落ちる。
桓魋は陽子の肩を引き寄せたまま、頑とした面持ちで浩瀚の言葉を待つ。だが、意に反して…ふっと浩瀚の口元には笑みがさした。小さく呟く。
「え?」
聞き取れなかった桓魋は、何を言われたのかと困惑した表情を見せる。浩瀚は不敵に笑んだまま、ひらひらと手を振った。
「何でもない」
それよりも、と浩瀚は目を光らせた。
「本当に、その子の面倒を見るのか?楽では無い、ましてや困難ばかりだ。それでも、その子を引き取ると?」
「はい」
桓魋は表情を変えぬまま、一つしっかりと頷く。
少し考えるような振りをして、浩瀚は顎に手を当て口を開いた。
「ならば…お前の決意がそこまで固いのなら…良いだろう。そのお方の申し出は謹んでお断りさせて頂くとしよう。その子の育て親はお前だ」
「…!ありがとうございます…!!」
表情を輝かせる青年に、浩瀚は短く、話は以上だ、と述べた。
手を繋ぎ、執務室を後にしようとする桓魋と陽子に、そうだ、と声が投げかけられた。
「お前は今回、両司馬に昇格したな」
驚いて振り向く桓魋。ゆったりと浩瀚は背凭れに体を預ける。
「最後に、昇進祝いに私から贈り物を贈ろう」 
何か含んだ色を持つ浩瀚は続けて口を開く。柔らかく瞳が、光を帯びる。

「その子の名は…陽子。陽気の陽に、子どもの子、で陽子だそうだ。知らなかっただろう?」

光が空間に差し込む。桓魋の目が見開いて陽子を見、浩瀚の口元に弧が描かれる。
読みとれない表情を浮かべているが、その瞳の奥に人間らしさが隠れていることに――その時桓魋は気がついた。
「昇進おめでとう」
最後に意味ありげに陽子を見つめ、浩瀚は彼らに手を振った。

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「桓魋!!大丈夫か?」
 傾いた午後の日差しが強く差し込む。陽子と共に州城の外廊を歩く桓魋は、後ろから投げかけられた明るい声に足を止めた。振り向けば、青葉が遠くから駆けてくるのが見える。桓魋は嬉しそうに目を細めた。
「よぉ。元気だったか?」
「元気だったかじゃねぇよ、桓魋!みんなどれだけ心配したと思ってるんだ!」
「悪かった」
 青葉はがっくりと肩を落とす。顔に疲労の色が濃く見えるのは、彼が本気で桓魋を心配していたからだろう。飄々と肩を竦める青年に、童顔の彼は息をつく。
「本当に…死ななくて良かった。でも今回のお前の功績は本当に素晴らしかったよ。浩瀚様が、そのことについて直々にお前と話をしたいと仰っていた」
「あぁ。今さっき、浩瀚さまとお会いしてきた」
「お、そうだったか。なら良かった。その子とも合流できたんだな」
「おかげさまでな」
青葉はまぶしそうに陽子を見つめて目を細める。きょとんとする陽子に、にっと笑ってみせた。
「お前が助け出したこの子は、海客なんだな。俺たちとは話せないが、でも仙であられる浩瀚様とは話が出来る。最近ではよく遊びに行っているんだってな。それにお前が両司馬に昇格したのも、みんな知ってる」
 桓魋に話す青葉の表情は堪えきれない嬉しさが滲みでている。桓魋は思わず笑った。
「何だよ、お前、俺が昇進したら嬉しいのか?」
うぐっと青葉は思わず言葉を詰まらせた。桓魋は悪戯っぽく、彼がどうくるかを見ていたが、青葉は意に反して口を引き結ぶ。少し拗ねたように、桓魋を睨めつけた。
「‥そうだって言ったら悪いかよ」
目を丸くした桓魋から、青葉はぱっと視線を外し、言い訳するように口早に付け加える。
「だって‥だって、お前良い奴じゃねぇか!とんでもなく強ぇし、おもしれぇし…優しいし。でも、半獣ってだけで白い目で見る奴ばかりじゃねぇか!何だよ、それ。熊かっこいいじゃねぇか!卑怯で弱いクズ野郎どもにお前が蔑まれる、俺はそれが我慢ならねぇんだ!」
その言葉に、桓魋は驚いて目を見開く。
「青葉…お前…」
「‥そうだよ。俺は、出来たらお前にはいつか将軍になって欲しいんだ。だってお前なら出来るから。きっと今までで最高の上官になれる、って俺は思ってる。そんで、そんで!もしそうなった時、今いるような下らない奴らがお前について何か言ったりしたら、俺冷たく言ってやるんだ。『青将軍に面倒見てもらってる奴が何言ってんだ』って。ああいう奴らは体裁ばっかり気にする奴らだからこの言葉言ってやったらどんな顔するか見たくて仕方ないんだよ。絶対お前にケチつける奴らをギャフンと言わせてやりたいんだ、俺は!俺の目に間違いは無いって証明したいんだ!」
一気にまくし立て、ふんっと鼻の穴を大きく膨らませて、青葉は息を吐く。言い切った、とばかりに青葉は桓魋を見るが、友人を見た彼は拍子抜けしたような表情をする。

見れば、桓魋は口元を押さえて必死に笑いを噛み殺しているところだったのだ。

「お、おい!何だよ、桓魋。人が大真面目に熱弁してんのに!」
桓魋は口元をひくひく痙攣させながら、なんとか息を吸う。桓魋は怒る青葉の言葉は聞こえていないようだった。
「俺の言ってることなんか変か?どこにそんな笑えるところが有るんだよ!」
「いや‥お前って奴は本当に‥」
笑いすぎて、桓魋の顔は赤く染まっていた。手を振って軽く謝罪しながら、笑いを収めた桓魋は口を開く。
「…ありがとな」
照れてはにかみながらも、その言葉の奥には真摯なものが含まれていた。ぽんぽんと肩を叩いて去っていく友人に、青葉は心からの笑みを浮かべる。その後ろ姿に向かって、青葉は声を上げた。
「その子は、今回お前がいなきゃ恐らく死んでた」
桓魋の背中は遠くなっていく。振り向く青年に、青葉は一番の大きな声を張り上げた。

「桓魋、俺はお前を――誇りに思う!」

彼らの姿はますます小さくなっていく。
半獣の青年は驚いたように目を開き、そして――笑った。

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 柔らかな光が零れる。
青葉に後ろ手に手を振り、桓魋は陽子をつれその場から足を踏み出す。少し歩いた時、心に残る温かい感覚と共に、小さな掌が、桓魋の大きな手を握った。
桓魋はそっと小さな少女の名を口にする。
「どうした?陽子…」
振り向いて見た、陽子の顔がはにかむ。その時、彼女の唇が動き――発せられた言葉に、雷に打たれたように桓魋は足を止めた。

「かんたい、だいすき」

 それは初めて、少女が桓魋にとって、意味のある言葉を彼女自身の口から発した瞬間だった。

目を見開いた桓魋は、浩瀚からの贈り物が、まだ全てでは無かったことを知った。
含んだような顔をした浩瀚の表情が頭を過る。

 桓魋が陽子の名を知ることが出来なかったように、陽子も桓魋の名を知らなかったことに、今更ながら気がついた。

「陽‥子‥」
陽子は桓魋を見つめ幸せそうに微笑む。あまりの嬉しさに、その時、桓魋は言葉を出せなかった。

光が零れ、風が舞う。
これから青年と少女の不思議な同居生活が始まろうとしている。


桓魋は陽子の小さな体を抱き上げて、二人は白くて柔らかい光が包む景色に姿を溶かしていった。



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