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午後の光が静かに踊るその空間、燐光を弾く水流を見つめる老人と、その老人に見入る少女の姿があった。鳥の声がどこからか聞こえる中、気がつけば陽子は老人に向かって声を上げていた。
「あの時のおじいちゃんだ!!」
目を輝かせて、陽子は葉っぱを押しのけた。夢中で芝の上に転がり込み、驚いた老人が振り向く。つまづきそうになりながら陽子は老人に駆け寄った。老人は驚いた様子で目を瞬いて、陽子を見つめる。
「おぉ…まさかこんなところで人に会うとは…。こんにちは、小さい方」
「こんにちは!…って‥え?!」
向けられた挨拶に、笑顔で答えた陽子。だが、その一瞬後、今度は陽子の方が驚いて飛び上がった。目を見開いて、陽子はしげしげと老人を凝視する。その頬は紅潮して、目がきらきらと輝いていた。ドキドキと胸の中で高鳴る期待を抑えるように、陽子はそっと唇を開く。
「お、おじいちゃん、日本語話せるの?日本人?」
老人はゆっくりと目を瞬く。そして口元に優しい笑みを浮かべた。
「いいや、儂は仙人じゃよ。仙は言葉に不自由はせぬ」
陽子は少しだけ落胆して、肩を落とした。
「そうなんだ‥。日本の人じゃないんだ。ここの人とは言葉が通じないのに、おじいちゃんとだけはお話できたからびっくりしちゃった」
「仙になれば誰とでも意思疎通が出来る。〝にほんご〟というのは蓬莱の言葉だな。そなたは海客か」
陽子は小首を傾げて老人を見上げた。
「かいきゃく?」
老人はすっと陽子と目線を合わせるように屈みこんだ。少し悲しそうな色がその双眸に浮かんでいるのを、陽子はきょとんと見つめた。
「儂らは蓬莱から流されてきた人のことをそう呼ぶ。そなたが〝にほん〟と呼ぶところ、儂らが蓬莱と呼ぶところからこちらに来てしまった人々、それが海客。そなたの姿はこちらの人間のようじゃが、蓬莱にいたのかの?名はなんという?」
「陽子。陽気の陽に子どもの子で、陽子だよ。おじいちゃんの言ったとおり、日本に住んでたんだけど、違うってことは、やっぱりここは日本じゃないんだね‥。あのね、お母さんを追いかけて走ってたら気がついたらここにいたの。その時になんだか髪も顔も変わっててびっくりしたんだ!おじいちゃん、どうやったら帰れるか知ってる?私、ずっと帰り道を探してるの」
ぴくり、とその時老人の動きが止まった。
だが、陽子はそのことに気がつかないまま一生懸命言葉を紡ぐ。きゅっと小さな拳を握り締めた。
「ずっとずっと探しているの。でも、でもどこ探しても全然おうちが見つからないの‥。どうしたら帰れるのかな、どうしたらお母さんに会えるのかな」
陽子は縋るような顔で老人を見つめる。
柔らかな水の流れが、静かな空間で穏やかに響く。金色の光が、静かに二人の姿を森の中に浮かび上がらせている。陽子の手のひらを握り締める音が、微かにその場に滲んだ。
老人は少し難しい表情をして押し黙っていたが、やがて慎重に言葉を選ぶように、口を開いた。
「今は…そのことについて深く知らぬ方が良いじゃろう…。それは時期が来たら、知るべきことじゃと儂は思う。そなたが知りたいことについては、恐らく今、儂は何も言えぬ。すまない陽子」
老人は少し哀しそうに微笑んだ。唇を噛んだ陽子の頭をそっと撫でて、彼は言葉を続けた。
「そなたは、今こちらについて学んだ方が良さそうじゃ。それはそなたの力に変わる。こちらのことを学び、時期が来れば、きちんと説明してやれる。その頃にそなたは自分でどうするべきか、判断することができるじゃろう」
「いま、教えてはくれないの?」
「今は、まだ良くない。何もかも受け入れる準備が出来るまで、知らない方が良いこともあるのじゃ、陽子。様々な物事をその目でみて吸収しなさい。若いそなたなら、何もかもを力に変えて伸びてゆくことができるじゃろう」
難しそうな顔をする陽子は、渋々頷いてみせた。
柔らかく微笑んだ老人は、それにしても…とこちらを見つめる陽子に言葉を零す。
「言葉が通じたのは儂が初めてなのじゃな。言葉が通じない中、そなたは今どうやって暮らしておる?ちゃんと生活ができておるか?以前儂を見たと言うておったが…」
「誰も知ってる人がいなくて、お母さんを探してた時、一回私おじいちゃんを大きな建物の前で見たんだ。かっこいい男の人が傍にいて、私声をかけようかと思ったけど、その時、知らないおじさんたちに連れてかれちゃったの。いっぱい叩かれて、どうしたら良いのか分からなくて‥。どうしてこんなに酷いことをされたのか、今でも私分からないの。お兄ちゃんが助けてくれるまで、怖くて怖くて仕方がなかったんだ」
老人の目が見開く。なんと‥と口の中で小さく呟いた老人は、痛ましそうな表情で少女の髪を撫でた。
「そうだったのか‥。気がついてやれなくて済まなかったな…」
「ううん!いいの。やっぱりここの人たちはみんな良い人なんだねぇ。あのおじちゃんたちが変な人だったんだよ。あの変なおじちゃんたちに捕まってなかったら、私お兄ちゃんと会えなかったから、良いんだ!」
「そのお兄ちゃん、とやらがそなたをその輩どもから救ってくれたのか?」
うん!と陽子は輝くばかりの笑顔で頷く。
「言葉はお互いに分からないんだけどね、一緒にいてとっても楽しいんだ!お料理が苦手でねぇ、今日私が目玉焼き作ってあげたの!とっても優しくて強くてかっこいいの!」
それでね、それでね!という陽子の顔にちょっぴり朱が昇る。少しだけ目を伏せて陽子は小さな声で付け加えた。
「…えっと…えっと…わ、笑わない?」
「勿論」
本当に小さな声で陽子は囁いた。
「お、王子様みたいなんだ」
老人は目を丸くして、そして笑う。何か微笑ましいものを見るような目で、じっと陽子を見つめた。
「そうか…それは良い出会いを持ったな」
老人は目元に優しい皺を刻む。陽子は嬉しそうに頷くが、ふと顔に曇をかけた。
「おじいちゃんは〝せんにん〟だと言葉が話せるっていったよね。じゃあ私も〝せんにん〟になったらお兄ちゃんとお話できるかな?私お兄ちゃんのお名前も知らないの」
「確かに、仙になれば会話に苦労はせんじゃろうな。だが仙にならずとも、恐らくそなたならばこちらの言葉を習得することができると、儂は思う。そなたは若い、まだ仙になるべき年ではない」
 老人が、少女の翡翠の瞳を覗き込むと、自分の姿が弾かれているのが見えた。彼は穏やかに 学びなさい、陽子 と言葉を落とす。
きゅっと拳を握り締めた陽子は、こくりと頷いた。
「じゃあ、また私おじいちゃんに会いに来てもいい?えっと私と、お友達になってくれる?」
老人は目を丸くして――その後、声を上げて笑った。
「これはこれは…儂にもこの年で、これほど若い友人ができるとは…。勿論いつでもおいで、陽子。儂はしばらくはこの麦州に滞在するつもりじゃ。この森を抜けたところ、広途の右手にある館第やしきに遊びにおいで。また何か困ったことや聞きたいことがあれば力を貸そう」
「!…ありがとう!」
気がつけば、既に日は傾き始め、世界が黄金色に染まり始めていた。鮮やかな朱を帯びた橙色が、空の底に溜まっている。もうすぐ桓魋の戻ってくる頃合だということに陽子は気がつく。葉の隙間から零れる残照に目を細めた陽子は、その場から身を翻した。
「またね!」
だが、走り出しかけて陽子は足を止める。あ!と声を上げた陽子はもう一度老人の方を振り返った。
「そういえば、おじいちゃんのお名前聞いてなかった…!おじいちゃんはなんていうお名前?」
老人は静かに微笑む。美しい仕草で拱手した彼は、穏やかな声で自身の名前を風に乗せた。
「儂は名を、遠甫、と言う。そなたの訪問を楽しみにしているよ」

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 時間は僅かに遡る。
陽子が老人遠甫と出会ったその頃、ちょうど桓魋は門卒の役を終えたところだった。敵楼つめしょに足を踏み入れた桓魋は、自身の持っていた長槍を彼は壁に立てかける。
 中で書状の整理をしていた上司が桓魋に気がついたらしく、顔を綻ばせた。
「桓魋か!務めご苦労。大儀だったな。今日も疲れただろう?」
「いえ、そんな…。俺は体が丈夫なだけが取り柄なもんで」
桓魋の返事に目を丸くした上官は、声を上げて笑う。書類を卓上に置いた上官は、桓魋に歩み寄って肩を叩いた。
「本当にお前は楽しい奴だよ。ここにお前が来てくれてからこそ、この場がこんなに明るくなったんだぜ。匪賊をここまで取り締まれたのも、お前が来たからだ。上にはちゃんと報告してあるからな」
桓魋は破顔し、ありがとうございますと頭を下げた。桓魋は皮甲を外し、簡単な袍を羽織っただけの軽装に戻る。荷を背負い、扉に手をかけた。
「それでは、そろそろ失礼します。また明日、よろしくお願いします」
「おう、それじゃあな。また明日」
手を振った上官を背に、桓魋は扉を閉めた。桓魋が退出していく姿から目を離した彼は、何気なしに卓上の書類に視線を戻す。読みかけだった書類を捲り、次に現れた書状に思わず目を見張った。
「え…?!」
目を見開いて、書状に連なる文字に視線を這わせる。その最中に、再び扉が開く音がした。
「桓魋!お前すごいぞ!!いや、もうお前なんて呼べないな…。桓魋の今回の功績が、認められたんだ!昇格だよ!」
彼は書状から目を逸らさないまま、桓魋が戻ってきたと思って声を上げた。明るい顔で振り向いた上官、だが、そこに佇んでいたのは桓魋では無かった。

新しく州城から派遣された門卒達が今の言葉を聞いて固まっていた。

自分を凝視する男達に、上官は目を瞬くが、ふっと彼は口元を綻ばせた。
「なんだ、桓魋じゃなかったか。お前たちは今日からこちらの検閲、警備に加わる州城からの派遣組だな?じゃああいつのこともよく知ってるよな」
「そう…ですが…」
言いかけた一人の顔がみるみるうちに歪んでいく。その目に宿った炎に、その時上官は気がつかなかった。彼はからりと明るい笑みを浮かべたまま、言葉を続ける。
「それにしてもよくやるよな!あいつが今回、頻発する人攫いども合計一卒分の人数を、たった一人で一網打尽にしたって知ってるか?それが上から認められた。お前らも喜んでやれ!」
だが、その男は目を見開いたまま、何も言葉を発しなかった。隣の兵卒が、言葉を出すことが出来ない隣に代わり、口を開く。
「桓魋が…昇格っていうのは、本当ですか?」
上官は笑顔で頷いた。
「あぁ、そうだ。俺よりも階級は上だよ。なんと両司馬だ!これは平の一兵卒がとんだ大出世だな」
 晴れやかな顔をする上官に、兵卒たちは言葉も出せずにその場に佇む。書類の角を揃えた上官は、よっと小さく声を零しながら、その場から立ち上がった。すれ違いざまに兵卒たちの肩を叩いて、上官は上機嫌で敵楼を立ち去る。最後に彼らは上官の言葉を耳に拾った。
「じゃあまた明日からお前たちも頼んだぞ。桓魋に会ったら伝えておいてくれ、な?」
呑気な鼻歌だけが微かに響いて聞こえてくる。だが、その場の雰囲気は、呑気な鼻歌がそぐわないほど、固く冷え切っていることにその場にいる誰も気がつきはしない。
上官の消えたその一室で、忌々しそうに呟く声だけが、落ちた。
「桓魋が…あの半獣野郎が俺たちよりも上の階級だと…?」
信じられねェ、と吐き捨てるような声が後に続く。中央に佇んでいた男が瞳を燃やしたまま振り向いた。
「そんな話があってたまるか…!そもそも半獣如きがこの州師にいるだけで不愉快だっていうのに、あまつさえそいつが両司馬だと…?!ふざけるな!!!」
妬みと憎しみを表情に流し込む男たち――それは、日頃から桓魋を見下し卑下する、あの州師兵卒の一団だった。男は強く握り締めた拳を、思い切り書卓に叩きつける。何度も、何度も卓上に拳を叩きつければ、その上に乗っていた湯呑が傾く。濁った雫が飛び散るのと同時に、鋭く陶器が割れる音がその場に響き渡った。
その場に空虚な沈黙が訪れる。
はあはあと肩で息をする中、他の兵卒の男が、静かに口を開いた。
「気に入らねぇなぁ…。なぁ、そう思わねぇ?なぁんで俺らがあんな獣の下につかなきゃならねぇんだ?」
はた、とその場にいる全員の視線が、その男に吸い寄せられていく。その瞳はぼんやりと空虚で、不気味な鈍い光が浮いていた。
「俺たちが先だろ?普通よぉ。州侯にでも取り入ったんじゃねぇのか?そんな奴を上に置いとく必要なんて無いとおれは思うんだが…」
どう思う?と男は不気味な笑みを口元に浮かべる。周りの人間たちが、興味深げに同じような表情を浮かべた。一瞬の間の後、何かを考えたように、先ほど書卓を叩きつけた男が、目を細めた。
「…それもそうだな‥。俺もそう思う。半獣が州師にいるってだけで奇跡的なものを、それが両司馬に昇格?はっ‥そんなことあってたまるか。きっと何かの手を使ったんだ‥。汚ぇ手を。そんな奴をほっとく方が今後問題になるよなぁ‥」
男の顔にみるみる生気が蘇り始める。先ほどの空虚で不気味な光を目に浮かべた男を、その男は振り返った。
「何か良い考えでも‥お前はあるのか…?」

応えるように、男の目に宿った鈍い光が、鋭く輝く。
口元の傾斜を深くしたその表情、男たちの悪意に染まった顔がその場に並ぶ。

そのぞっとするような光景を、地面に広がる濁った茶の水面だけが、鈍く弾いて微かに――震えた。

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 日は静かに傾き、地平線の彼方に沈もうとしている。残照は、遠方に広がる山の稜線を黄金色に染めていた。顔に受ける、零れる黄昏の光は桓魋の顔を濡らしていく。桓魋は手で目元に傘を作りながら、一日のうちで最も美しい色に染まる町並みを見つめた。風に漂って何か甘く香ばしい香りが鼻をくすぐった。
(今日は、ここの弁当でも買っていくかな…)
すん、と胸一杯に香りを吸い込む。立ち並ぶ屋台の中でも特に香ばしい人が群がっている店に足を踏み入れた。
「お、兄ちゃん今日も来たんだね!何にする?いつものかい?」
「あぁ、いつもの弁当を二つ頼む」
「あいよ!今日は特別にタレとたっぷり絡めて馴染ませてあるから、最高の味になってるはずだ。炙りも最高!いっつもあんちゃん二つ買っていくけど、この弁当は彼女のお気に入りかい?そうなんだろ、そうなんだろ?いやあぁ隅に置けないねぇお兄ちゃん!彼女も良い趣味しているよ。今度また二人でおいで、特別にオマケつけといてやるからさ!」
「そりゃどうも」
店主の口の回る速さと上手さに苦笑しながら、桓魋は懐から銭を渡した。
店主は熱気に紅潮した頬で、手早く弁当を包んでいく。その指の動く速さはいつ見ても信じられないくらいなめらかで無駄がないものだった。素晴らしい速さで包まれた二つの弁当を、店主は満面の笑みで手渡した。
「ほい、おまちどおさん!またよろしくな!!」
「ありがとう」
煙を突き抜けて、湯気を纏う弁当を手にぶら下げた桓魋は再び人並みの中に戻った。薄青く紗が掛かりはじめた空を背に、桓魋は舎館への帰路を急ぐ。無邪気な紅の少女の笑顔が脳裏に浮かんだ。この鳥の肉を甘辛い、果物の果肉を混ぜたタレで漬けて炙った弁当は、陽子のお気に入りだった。思わず少し口元が緩んだ桓魋は、はっとして顔を引き締める。暮れ始めて群青色がとけ込み始めた空の中、祭りの準備に浮き足立つ町の提灯に温かい朱色が鮮色を添えていた。

 祭り――という単語に、ふと桓魋の足が止まった。

(この祭りに、あのちびすけを連れてきてやったら喜ぶだろうか…)
自分が幼い頃は、祭りが大好きだった。兄たちと駄菓子を買って、屋台をからかうあの楽しさ。浮世離れした緩急をつけて空に響く笛の音、複雑な化粧を施した美しい女たち。太鼓の音と共に、踊りながら広途を練り歩く華やかな朱旌の民たち。そのすべてが記憶に焼き付いて、その鮮やかな美しさを、桓魋は今でも感じることができる。まだ控えめに灯りを灯す提灯に、桓魋は口元を綻ばせた。
「…よし、そうしよう」
陽子は最近自分が勤務に出かけている間、どこかに遊びに行っているようだが、一度心配をかけさせられて以来、桓魋が戻ってくる頃にはきちんと舎館に戻っていた。一瞬人攫いの不安が頭を過ぎったが、桓魋が恐ろしい勢いで州堺を警備するようになってから、人攫いたちはこの場所からちりぢりに逃げ出しているようだった。そのあまりの単純さに苦笑が漏れるが、治安が良くなることは州師である彼には願ってもいないことだ。陽子の太陽のような笑顔を想像し、桓魋は思わず歩む足が速まるのに気がついていない。
祭りを楽しめ、と言ってくれた州宰の言葉が、今更ながらに心に染みた。

 帰り道を足早に進む、一人の青年。彼が今気にかけているのは一人の少女。もし必要ならば少女に武芸を教えても良いかもしれないなどと考えながら、彼女の好きな物を手にした彼はただただ帰路を急ぐ。

だが、少女のことばかり気にかけている桓魋は、今はまだ気がついてはいなかった。

もう既に――驚異が自分に向かって、ひたひたと忍び寄ってきていることを。



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