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 木漏れ日が、霞む。
 葉の隙間から漏れた光の帯が、卓上に伏してまどろむ青年の横顔に、薄い斑を落としていた。
 ゆらゆらと揺れる、濃度の違う光が、流れる。
 眩しさに目を閉じたまま、桓魋は顔をしかめた。
 どこかから、声がした。
「かんた-いっ」
 幼い声が、弾む。隣室の扉が開け放たれる音と、なかに駆け込む足音が、壁一枚を透かして聞こえた。隣の部屋からの、あれ?という幼い声に、桓魋は思わず笑いをかみ殺す。
 これほど少女が浮き足立っている理由が分かるのは、恐らく彼一人だけだろう。
紅い髪の少女が転がり込むように駆け込んでくる。
「いた!かんたい、みっけ!」
「ははっ見つかっちまったなー。そんなに楽しみだったか?」
 立ち上がり、陽子の元へと足を進めた桓魋は、膝を折って少女と視線を合わせる。
 陽子は桓魋に向かって、顔を輝かせた。
「うん!今日はピクニックに行くって約束、ずっと楽しみにしてたんだもん。はやく行こう、かんたい!お弁当作ったんだよ!」

 季節は薄紅の花びらが風に舞う--春。
 あの生涯忘れられない夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、そして‥春が来た。あれから、遠甫に学んでいる陽子は、素晴らしい速さで言語を身につけ始めていた。幼い海客などこれまで前例がなかったが、大人の海客が言語習得にずいぶんと苦労するのに対し、子供である陽子はすいすいと言葉を吸収していった。今では桓魋と意志疎通が可能な陽子に、彼は子供の持つ可能性にとことん驚かされる。

 ぴょんぴょんと、紅い髪を揺らして嬉しそうに飛び跳ねる陽子。少女の姿に桓魋は目元を緩める。
 小さな手で、ふたまわり以上大きな桓魋の手を掴んで、一生懸命に彼を連れていこうとする必死さが、たまらなく可愛らしかった。
(ぴくにっくはそんなに楽しいのか?)
 耳に馴染まない異国の言葉に首をかしげつつも、桓魋は手を引かれるまま、足を進める。
 その時、かつんと背後の窓格子に小石がぶつかる音が聞こえた。
「あ!」
 陽子がぱっと顔を綻ばせる。
 振り向けば、窓硝子ごしにが青葉が間の抜けた顔でひらひら手を振っているのが見えた。
「よーお!桓魋、陽子!」
「青葉!」
 陽子が窓際に駆けていく。開いた窓からのぞき込んだ青葉は、陽子の頭をわしわしと撫でた。
「元気にしてたか?陽子。もうすっかり言葉は覚えたか?」
「うーん?覚えたのかな。でも、まだわからない言葉もたくさんあるよ?」
「ま、そりゃそうだろうなぁ。でもそんだけ喋れれば御の字じゃねぇか。すげぇなぁお前」
「おんのじ?」
「上出来ってことさ」
 いたずらっぽく片目を瞑って見せた青葉に、首を傾げていた陽子は嬉しそうにはにかむ。
「んで、お前は今からこの小さなお姫様と‘でえと’ってわけかよ、桓魋?」
 へっへっへとおもしろそうに桓魋を見る青葉の頭を、桓魋は叩いた。いてっという間の抜けた声が青葉の口から飛び出す。
「お前って奴はほんとに…。陽子からおかしな蓬莱の言葉を聞き出すなよ」
「なんだよぉ!『逢い引きって何て言う?』って聞いてみただけだ!ごくごく自然な興味だろう?!」
 ぶうぶう言う青葉と桓魋を陽子はきょとんと見上げている。
 桓魋は鼻から大きく息を吐く。
「まあ確かに、何だかんだいって、二人で出かけることは変わらないけどな」
「だろ?」
 ふふんと胸を張る青葉に、だから…と桓魋はにやっと口角を上げる。
「もうこんな奴ほっといて、俺たちは出発するとしようか、陽子」
「えぇ?!何だよそれ!」
「大体間が悪いんだよ、お前は。元々もうこれくらいの時間には出発する予定だったんだ」
 きょとんとしている陽子の背を桓魋は押してやる。 一瞬どうしたらよいのか分からない、という表情をした陽子に、青葉はにっと笑みを向けた。
「いいよ、陽子。準備してこい」
 顔を輝かせた陽子は、お弁当を取りに駆けていった。
 青葉はやれやれと肩を竦めてみせる。
「何だよ!せっかく遊びに来たのにこんな扱いかよ、桓魋?俺にも陽子の弁当食わせろちくしょう!」
「やらん。俺が食う。今日は二人でぴくにっくなんだ」
「んだよ、それ!何だよ『ぴくにっく』って!それも蓬莱の言葉か?」
 はぁ、と脱力した青葉に桓魋はくつくつと笑いを噛む。桓魋に恨みがましげな視線を向けた青葉。陽子が駆け去っていった方向を見た。
 その目が薄く細まり、視線が霞んだ。
「それにしても…本当に、陽子には驚かされるよ。この短期間で、こんだけ言葉を覚えちまうなんて…。俺が蓬莱に行けたとしても、あんなわっけわからん異国の言葉が話せる気にはまるでなんねぇなぁ」
「そうだろうな」
 目尻に微かに皺が畳まれる。青葉は桓魋を見、屈託のない笑みを浮かべた。
「すげぇな陽子は」
 桓魋は応えず、彼と同じようにただ笑みを口元に見せた。あどけない声が、響いた。
「かんたい!準備できたよ!」
 顔だけ覗かせて、走ってきた陽子はせわしない息を整えながら表情を輝かせている。桓魋と青葉は顔を見合わせ、そして笑った。
「?どうしたの?何か変なこと言ったかな?」
「いや、何でもない」
 陽子と手をつなぎ、部屋を出ていこうとする桓魋は、青葉を振り返る。楽しそうに彼らの背を見つめていた青葉に、桓魋は片手を上げた。
「じゃ、悪いな。行ってくるよ」
「おう、行ってこい!また遊ぼうな、陽子」
「うん!またね~!」
 大きく手を振る陽子に、青葉は笑う。
 ひらひらと楽しそうに手を振る、友の姿に桓魋は思わず微笑んだ。
「よし、行こうか、陽子」
 室内にふわりと、ひとひらの花びらが流れ込む。
 当たり前かもしれないが、その時の風から、春の匂いがした。

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「うわぁ--!きれい!!」
 歓声を上げた陽子は、一面に咲き誇る桜道を夢中で駆け抜けていく。淡雪のように舞う軽やかな花びらが、汗ばんだ陽子の額に張り付いているのが見える。
 弁当を持った桓魋は、その光景に思わず吹き出した。
「あれ?何で笑うの?」
 額に桜印をつけた陽子が、桓魋のもとまで駆けてきた。
桓魋は、息を切らす陽子の額を親指の腹で拭って見せてやる。目を丸くする陽子は額に手を当てて笑った。
「ねぇ、かんたい」
「ん?何だ?」
 首を傾げた桓魋を、陽子は期待を込めた目で見上げる。なかなか言い出せないらしく、えっと…と少しもじもじとしては、視線を泳がせる。薄桃色の唇をより合わせ、陽子は結んでいたそれをほどく。
 嬉しそうな声が響いた。
「くまさんやって!」
「またか!物好きなやつだな、お前も」
 目を輝かせる陽子は、こっくりと頷く。桓魋の熊の姿は陽子のお気に入りだった。弁当を小脇においた桓魋は、芝が生い茂る丘の上を歩んでいく。頂上までたどり着いた時、桓魋は歩みを止め、大きく深呼吸する。薄紅の花びらを幾重にも含んだ風が、衣を靡かせた。
 桓魋の背中が一瞬ひずむ。
 ゆらりと輪郭が溶け、次の瞬間--桓魋がいた場所には、一頭の熊がいた。
「わあぁ!」
 声が弾け、陽子は桓魋に向かって突進する。
桓魋が振り返る前に、陽子は少し固い毛並みの背中に飛びついた。
「うおっ?!」
「くまさんだ--!!」
 キャーっと陽子は大喜びで、桓魋の背をよじ登る。
桓魋は陽子が落ちないようじっと身動きせずに、陽子が体勢が安定する場所まで登りきるのを待った。喜ぶ陽子の声に、表情に笑みを含みながら、桓魋は声を上げた。
「陽子!」
「なあに?」
「しっかり掴まってろよ」
 目を瞬く陽子。
その瞬間、ぐらりと桓魋の背中が揺れる。慌ててその背中にしがみつく。
「わあ?!」
 一瞬目を瞑った陽子。だが、口からこぼれた悲鳴は、次の瞬間歓声に変わる。桓魋が熊の姿で陽子を背に乗せたまま、ゆっくりと歩きだしたのだ。広くなった視野に、揺れる温かい背中から伝わる地面の振動に、舞う美しい花景色に、陽子は言葉を失った。
「…どうだ?」
いたずらっぽい、普段よりくぐもった桓魋の声に、陽子はきれい…と呟く。
「高いところからの景色もまた良いもんだろう?」
 そう声を上げた桓魋の問いかけが響く。薄紅の花びらが舞う中、陽子は力強く、うん!と頷いた。

 それから、熊の姿をした桓魋と陽子は丘の上を転がったり、追いかけっこをしたりして遊び回った。遊び疲れて肩で息をする陽子に、人型に戻った桓魋は一旦弁当の時間にしよう、と提案する。
 陽子が作ったまだまだ下手なお弁当を広げながら、桓魋はふと口を開いた。
「なぁ、陽子」
「?なに?」
 米粒が不自然にひしゃげて、いくつも飛び出したおにぎりを手にしながら、陽子が振り返る。ずっと聞こうと思っていて聞けなかったことを、その時桓魋は口に出した。
「…お前の前で初めて変身したとき…俺が怖くなかったのか?」
 過ぎるのは、少女と出会ったばかりの記憶。陽子を見つめて、桓魋はわずかに目を細める。その時の記憶も、薄く細まった。今でこそ、陽子は熊の姿になついている。だが。
 初めて幼い陽子に自身の真実を晒した瞬間――。
 この世界で最初に信頼した人物がいきなり猛獣に変化したとき、この子は何を思ったのだろう。桓魋を見たときの陽子の表情が過る。陽子はきょとんと無垢な目で桓魋を見上げ、逆に聞き返した。
「…なんで怖いの?」
「え?」
 だって熊さんだよ?と大真面目に言う陽子に、桓魋は呆気にとられて目をしばたく。
「桓魋が変身したとき、あの時は怖くてしかたなかったけど、それは桓魋が怖かったんじゃないよ。桓魋のことは全然怖くなかった」
 少女の瞳が、どこともしれない一点を見据える。それは遠くを見つめるような、本来なら幼い横顔に馴染む筈のない、何かを堪えるような表情だった。
「私は、かんたいが死んじゃうんじゃないのか、あの人たちに殺されちゃうって、そう思った時、死ぬほど怖くなった」
 桓魋の瞳が見開き、反対に陽子の瞳が伏せられる。


 あの時――
桓魋を襲った兵卒達の元から逃げ、遠甫の屋敷まで駆けていく陽子を、どれだけの恐怖が蝕んでいたか。ぐちゃぐちゃに濡れた顔を拭いもせず、駆けた。必死に。ただ必死に。
お願い、死なないで。
転びながら、それでも止まることなく、陽子は足を動かして、履が脱げた裸足の足を、鋭い葉が切り裂いて。あの襲撃が何を意味していたのか、どうして桓魋が狙われたのか、その時の陽子にはまるで分からなかった。
でもただ一つ陽子には桓魋を襲った彼らが、自分を攫った連中と同類だということだけが、直感から嫌というほど分かっていた。

 渡すものか。死なせるものか。
間に合え、と少女はただそれだけを、心の中で叫び続けていた。
 ただただそれだけを、痛いほどに念じていた。

桓魋は、言葉を失って陽子を見つめた。陽子は足を畳んで、小さな腕で両足を抱えていた。折り畳んだ足を覆うのは驚くくらい小さな背だった。
 「だからね、今こうしていられることが嬉しいんだ。かんたいと一緒にいられることが。おかあさんに会えないのはさみしいけど。おとうさんには怒られちゃうだろうけど」
 陽子は、じっと舞い落ちる花びらを目で追う。空中に舞ういくつもの花弁が少女の瞳に映し出され、翡翠の瞳の水面に、美しい薄紅の花びらが浮いているようだった。小さな口から言葉が漏れた。優しい笑顔が漏れた。

「かんたいは、はじめて優しい音をくれたひとなんだよ」

 その言葉の意味は、桓魋には、わからない。
 そんなことお構いなしに、無垢な表情で振り返った少女は笑う。
「かんたい、大好き」
 出会った頃よりも長くなった、陽子の簡素に束ねられた髪が、揺れる。桓魋は言葉が出ないまま。一、二度瞬きする。彼の口元が明るく綻んだ。
「…俺も好きだよ」
 一瞬きょとんとした陽子。
 だが、次の瞬間、言われたことを理解した陽子は嬉しそうに、照れたようにはにかんだ。やった、と言って桓魋に抱きつく。ポンポンと桓魋はその背を軽く叩いた。
「ねぇ、かんたい。私ね、叶えたいことがあるんだ」
「お?なんだ」
桓魋が陽子を見ると、彼女は手のひらを空に掲げて光に透かしていた。
桓魋もつられて、空を振り仰ぐ。雲一つない抜けるような青空を、舞い散る淡い薄紅の花びらが彩っている。ふたつあるんだ、と少女は笑う。
「ひとつはね、あの大きな空に行くこと!」
 雨のような花びらがやんで、透ける青空から、強い一筋の光がさした。
「さっきのかんたいの背中よりもずっとずっと高いところを、この目でせかいいっぱいをみてみたい!」
 陽子は微笑む。誰よりも自由に。そうなれたとき、きっとあそこに行ける気がした。桓魋は穏やかに首をかしげた。
「…もうひとつは?」
「もうひとつは…」
 陽子の顔にひときわ明るい光がさした。
「大きくなったらかんたいのお嫁さんになること!」
 陽子の笑顔が弾ける。予想外の答えに目を丸くする桓魋。
「…俺の?」
「うん!」
 陽子は頷く。真剣な顔で、桓魋に語りかける。
「けっこん、って好きな人とするものなんだって!だから、私かんたいとけっこんする!おとうさんも好きだけど、家族だからけっこんは出来ないんだって」
 「好き」という言葉にはその二文字の中に様々な意味合いが込められている。そして時に、その「好き」は様々な種類に枝分かれし、分類分けされていく。
一番単純な、友愛を示す「好き」。食べ物など自分の好みを示す「好き」。恋愛対象としての「好き」。その他多数。

 でも陽子にはその細かい分類なんて今はまだ分からない。区別なんてない。「好き」は「好き」なのだ。曖昧で明確な線引きなど知らないし――出来ない。

 お母さんも好き。りんごも好き。桓魋も好き。
 目を瞬いた彼は――少女に向かって、微笑んだ。少女が一生懸命に熱弁してくれた言葉を反芻しながら。
(いいっていう訳にはいかないよな)
 一緒にいる「好き」と結婚をする「好き」を一緒くたにしてしまっている陽子に桓魋は軽く苦笑いする。この子の世界には今は桓魋だけなのだろう。きっと成長して視野が広くなれば、恋をすれば、桓魋の元から旅立っていく。彼にはそれが透けて見えていた。目の前の陽子が成長して、他の男を好きになる――それは些か気分が良いことではなかったが。世の父親というものはこういうものなのだろうか。桓魋は苦笑いする。
でも、きっとその時、桓魋は妹を送り出すように笑顔で彼女に花向けの言葉を贈るのだろう。
「私が大きくなったら、もう一回教えて!お嫁さんにしてくれるか、どうか。私、がんばるから!」
一瞬わざと考えこむふりをした桓魋は、彼らしいにやりと悪い笑みを浮かべてみせた。
「そうだな…お前が超すたいるの良い、いい女になったら考えてやるよ」
「え~!!何それ~!!」
 桓魋をゆする陽子に彼は笑う。
その時、あ!と川面が目に映った陽子が唐突に声を上げた。声を上げた陽子が見たものに、桓魋も思わず歓声を上げた。

 ゆらりとたゆたう水面。その表面を幾つもの薄紅の花びらが滑っていく。大きいもの小さいものその全てが重なり合って――花筏を作っていた。水面に敷き詰められた花の絨毯の美しさに、二人は言葉を失う。

 桓魋は小さく呟いた。
「…また来るか。ぴくにっくとやらも良いもんだな」
「うん…!」
 陽子は嬉しそうに頷いて、桓魋に抱きつく。コツンと陽子はおでこを桓魋の額に当て、目を閉じた。重ねた額が温い。花筏は水面を滑る。水面に映る二人の姿が花筏で覆われていく。
 恋という言葉も知らない少女と、幼い少女を兄のように穏やかな目で見つめる青年。
 春の匂いの風が撫でる。

 花びらの美しい、ある春の日の出来事だった。

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