back index next



 木々の薫りがぷんと鼻をつく。視界は全て暗闇に覆われ、葉影だけが揺れる中、篭る自然特有の臭いが胸焼けをおこさせる。だがその場所に限っては森が開け、足下に広がるのは緑の消えた黒い土だけだった。

 桓魋はその場に力尽きたように倒れている。

どす黒い淀みを瞳に湛える男たちは今、崖縁に倒れる青年を囲み、手の中の戈剣を、飛び道具を鈍く光らせていた。
背中を伝う血の感触に、桓魋は自身の力が流れ出ていくのを感じる。地面に伏す指先だけが、ぴくりと動いた。既に姿は人の形に戻っている。剥き出しの白い岩肌を月影が弾き、そこに作られた赤黒い染みをあらわにしていた。崖下からひょうひょうと風が吹き付ける。 
掠れた声が、桓魋の腫れた喉の奥から漏れた。
「何故…こんなことをする…?何のために…こんな…」
額に出来た傷から血が伝い、視力を奪う。それでも、桓魋は顔だけを上げ、男たちを見据えた。
彼らは顔を見合わせしのび笑う。皆が蔑むように桓魋を見下ろした。男の一人の口元がいやらしくひん曲がる。


「理由なんかねェよ」


「…?!」
微かに目を開く桓魋を尻目にくつくつと嗤う声が続く。ふと、男は顎に手を当てて見せた。
「いや…待てよ、そうでもねェか…」
なぁ?と視線を交わす男たちは嘲笑を零した。
「あぁ、そうだなァ…」
「てか、さっきの会話で読み取れよ。本人がここまで自覚してないところが絶望的に救いようがねェな」

男たちは桓魋を見た。顔が歪み、そしてその一人が吐き捨てるように桓魋に言葉を投げた。
「お前に消えてほしいからだよ。存在自体が認めるに足らない半獣。お前が目の前にいるだけで不愉快なんだ」
桓魋の動きが止まる。せせら笑いを浮かべた男たちの顔には粘着質な闇が巣食う。言葉は更に―連ねられる。
「よりにもよって大商家、青家に産まれてくるとはなァ。聞けばお前の兄貴はみんな官吏だそうじゃねェか。少学にも進むことは許されない、親のお荷物になることしかできない半獣が、大手を振って歩いてるんじゃねェよ」
傷を負った、桓魋の背を思い切り踏みつける。桓魋の表情が歪むが、彼は声を上げなかった。男は呟く。

「なァお前…生まれてくる意味があったのかよ」

その言葉に―――桓魋の瞳が開け放たれた。言葉は連ねられる。
「誰もお前の味方なんていねェよ。天にも見放されてるようだな。今この時が、お前を消すのに丁度良いんだよ。お前に上に立たれるなんて反吐が出る。こんな荒れた、誰も検閲官としてなんて来たくもねぇ地に俺たちと同期に来たことが運の尽きだ。お前は匪賊にやられたことにしておいてやるよ」
刃が煌めく。
紡がれる言葉と共に、鞘走りの音がその場に響き渡った。男の顔に残忍な笑みが濃く広がる。
「終わりだ」

朦朧とする意識の中、翻る白銀の筋が迫る。桓魋は最後の力を振り絞って避け、なんとか地面を転がり、体を引きずり立ち上がった。凶器という凶器が桓魋に向けられる。遠くで強く鳴り響く、声がした。
「死ね!!!」

(…!!)
鋭い刃先が桓魋めがけて駆けてくる。自分に向かって吸い込まれてくる刃先を見ながら、目を閉じる。たたらを踏む桓魋の足元が嫌な音を立てて崩れ落ちたのは、その時だった。

「‥!?」

体が下へ引きずり込まれる。刃が桓魋を捉えそこね、青年の体が宙を舞う。一瞬の空白の後、桓魋は自分の体が落下していることに気がついた。
 瞬きをするのが酷く億劫に感じる。
空白の時が押し流されて、止めを差し損なった怒号が頭上から飛び交うのが聞こえる。
だが何一つとして――今の桓魋には、意味のある言葉をなさずに消えていく。

頭の中で繰り返される言葉だけが、桓魋の胸の奥深くへと刺さって彼を抉った。

 酷く緩慢な感覚が彼を包む中、恐ろしい速度で桓魋は奈落の底に身を落としていった。

:::::


 冷たい雨足が、顔を濡らして流れ落ちていく。
呼吸をするのが酷く億劫で、ただ倒れているだけのことにも、倦怠感を持つ。
 背中の深い傷からの出血が止まらずに、雨と溶け落ちていく感覚だけが、桓魋にはぼんやりと感じられた。

――一瞬で死ねれば良かったのに。

 鈍く思考が疼いた。
 崖縁の遙か下の渓流に落ちた桓魋は、水の流れに運ばれ、ひっそりと静まり返った浅瀬に打ち上げられていた。
 さすがにあの兵卒たちでも、ここまでは追ってはこられなかったようだ。そのことが、果たして良いことだったのか、悪いことだったのか、今の桓魋には分からない。
 顔が落ちる水面は、細かい雨粒で叩かれ泡立っている。口から漏れた息が泡となって、波たつ水面を滑っていく。
 桓魋は乾いた嗤いを雫した。
(本当に…俺は何で生まれてきたんだろうな…)
様々な言葉が、桓魋の心を踏み荒らして去っていく。中には去らないまま、心の中に居座る言葉もいた。

 ――消えて欲しい。存在自体が認めるに足らない半獣。親の荷物にしかなれない。味方なんていない。

 何故、半獣であるというだけで、こんな目に遭わなければならないんだ。それだけで、たったそれだけの理由で、どうして存在を否定されなければいけない。世界から存在も認められないのなら、どうして俺は今ここで生きている。俺がここで生きて、やってきたことは――一体何だったんだ。

 どっと虚しさが心を巣食う。もはや心は無表情に閉ざされたまま、虚な瞳はぼんやりと虚空を見つめていた。もう何も感じなかった。瞼が重くなってきて、開けていられなくなってきた。水を、血を吸って重くなった衣が、体を纏わりつく。

 枯れた心がしきりに何かを訴えた。でも、それが何を訴えているのか、桓魋には分からなかった。

:::


 『――!!』

微かな音が遠くで反響している。
 桓魋はぼんやりと途絶えていた意識が暗闇から浮上するのを感じた。

 ――何だ。

 何もかもが酷く億劫だ。深く深く落ちて、もう目覚めたくないのに、何故かそうすることはできなかった。許してくれなかった。


 誰かの声を、聞いた気がした。


『――!!!』

 ――放っておいてくれ。
 だが、そう思っても、反響音は益々強くなっていく。望みとは反対に意識は更に浮上する。
目覚めても何一つとして自分を待っていないのに、どうして目覚めようとするんだ。
揺らぐ思考の片隅で、誰かが何かを囁く。それすらも聞き取れなくて、意識の中で耳をそばたて目を細めたら、瞼の裏側で誰かの面影が描かれた。
紅の髪が脳裏で翻る。朦朧とする意識の中で、無愛想なくせに、笑うときには本当に幸せそうに笑う少女の緑眸を桓魋は見た気がした。
一人の少女のほっとしたような泣き顔、拗ねた顔、何かを考えて眉間に皺が寄る真剣な顔、輝くばかりの笑顔が次々に広がる。
(ちびすけ‥)
心に何か、光が灯った。二度と会うこともないだろう、少女の面影が、冷え切った桓魋の心を焼いた。溺れてしまいそうな息苦しさが胸を満たした。同時に、自分を見るあの恐怖の眼差しを思いだし、ズキンと心が痛んだ。意識は益々浮上して――
瞬間――桓魋は誰かに揺すられていることに、気がついた。

「‥?」

 一気に世界の音が戻ってくる。冷たさも、痛みも、耳鳴りも、吐き気も、全てが急激に押し寄せてくる。戻ってきて欲しくない感覚ばかりの中に、一つだけ温かな感覚が混ざっていることに桓魋は目を瞬いた。小さな、小さな手のひらが、桓魋の肩を一生懸命、揺すっていた。
 緩慢な瞬きをして――桓魋はなんとか顔を上げた。

そこにいたのは、小さな紅の髪の少女だった。

見れば、二度と会えないと覚悟していた陽子が、自分を見限ったと思っていた陽子が、傷だらけになりながら、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、必死に彼を揺り起こそうとしていた。
 桓魋の目が開かないのではないのかと、恐怖で泣きながら彼を揺すっていた陽子は、彼が目を覚ましたことに更に泣き声を大きくする。それは恐怖から変わった、安堵の泣き声だった。
「‥ちびすけ…?」
 桓魋の瞳が見開いていく。信じられない面持ちで少女を見つめながら、彼は自分の唇がわななくのを感じた。
「そんな…なぜ…来たんだ…。逃げたんじゃなかったのか…?」
無表情だった心にポツリと一点の灯火が灯る。
倒れる桓魋の首元にしがみついて、陽子は声を上げて泣いた。泣きながら、決して自分から離れようとしない陽子に、桓魋は呆然とする。

何故?どうして?どうやって?…何のために?

信じられない出来事に、凍りついた桓魋の頭の中に、疑問符を語尾につけた言葉が押し寄せる。
桓魋は目を見開いたまま、唇をわななかせたまま、気がつけば口から言葉だけが溢れ出した。次々と零れる言葉を、桓魋は止める術が無かった。
「何で…こんな危険な場所に…戻ってきたんだよ…。こんなところまで探し出して…。あいつらでさえも見つけられなかった俺の場所を、お前はどうやって見つけたんだ…」
誰にも見つけられずに力尽きようとしていたのに。自分を殺そうとしていた者達でさえ、見つけられない所に落ちたつもりだったのに。
「何でだよ…。こんなに傷だらけになってまで、お前にとって俺は探す価値があったのか…?」
泣き続ける少女に、分からないと知りながらも言葉は止まらなかった。少女の温もりに体を預ける内に、みるみる間に桓魋の心に光が溢れてくる。そうして見えた己の心に、自分自身が訴えかけていたものに、見ようとしなかったものに、彼はその時――気がついた。

心が訴えるあまりに激しい痛みに、桓魋の動きが止まる。

「何だよ…。お前は俺に死んで欲しくないのか…?」
泣きじゃくる少女の顔に、桓魋の表情が――歪んだ。一気に目頭が熱くなって、涙が溢れてくるのに、彼がその時気がついたかは分からない。激しい痛みが心を焼く。だけどそれ以上に、自分にしがみついて泣く少女の温もりが、その痛みに遥かに勝る何かを桓魋に与えた。
「何でだよ…!!!」
何でだよ。何でだよ。何でだよ。何でだよ。
何故。どうして。――答えてくれ。
傷ついた腕が伸びる。青年は少女を抱きしめた。抱きしめずには、いられなかった。
桓魋が夢中で掻き抱いた少女は小さな腕で彼の背に手を回す。我武者羅に抱きしめるその腕の強さが、酷く胸に染みた。咽ぶような声で彼は泣いた。そして声を上げて、泣いた。

無責任な世間が、男が泣くなんてみっともないと言っている気がした。


だけどそれでも、それでも涙が止まらなかった。


たとえ世間が許してくれなくても、小さな少女は青年の涙の受け手であってくれた。次々と零れ落ちるのは止まらない涙。だけど、どれだけ心が腫れて傷んでいたとしても、それでもそれは、決して悲しみの涙ではなかった。

咽び泣く青年と一人の少女は雨の中、お互い涙で顔を濡らしながら抱き合う。雨足だけが遠く過ぎ去る。

酷く冷たい時間の中、互いの体温だけが――温かかった。


back index next