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花火が夜空に散る祭りの夜。光さえも届かない深い影から、一人の青年を凝視する男たち。深いぬるい闇の中、互いの相貌も分からない空間で、男たちの視線だけが交錯する。

彼らが凝視する青年が襲撃を受けたのは、人も疎らになる帰り道だった。



 祭りの帰り道、陽子と桓魋は並んで歩きながら、空に白く浮かぶ月を眺めていた。
歩きながら、緩やかに陽子の足が止まる。桓魋が少女を振り向いた。
「?どうした?」
少女は眉を潜め、ゆるりと周囲を見渡す。その表情が強ばっていることに桓魋は気がついた。
せわしなく視線が、泳ぐ。
陽子の様子に、桓魋は気配を静かに探る。桓魋の衣を掴みながら、陽子は小さく身じろぎした。
「‥!」
視線で桓魋に何か異変を訴える陽子。動きを止めた二人を、ずっしりと重たい沈黙が包む。
(何だ…?)
意識してしまえば、そこは不気味な程静かな空間だった。冷ややかな何かを桓魋が感じた時、木の葉の擦れる音が微かに響く。
(何か‥いる‥)
妖魔ではない。これは‥人の気配だ。桓魋の感覚に、何かがそう囁く。

――何者かに、つけられていたか。

 桓魋の視線が鋭く辺りを見渡した。気配が走り、闇が揺らぐ。――瞬間。


少女がすくむ気配とともに、凶器という凶器が、周囲の闇から青年めがけて飛び出した。


「‥!!!」

 陽子の口から、声にならない声が出る。
冷たい輝きが、一直線に青年に走るのと、彼が少女を抱えてその場を飛び去るのは同時だった。陽子を抱きかかえたまま、桓魋は地面を転がる。僅かに残っていた人がその光景に悲鳴を上げて、蟻の子を散らすように逃げていく。
 体勢を整えた桓魋は陽子を背に庇い、闇を鋭く睨んで叫んだ。
「出てこい!!何の真似だ!!!」
沈黙を保っていた闇が微かに蠢く。
桓魋が殺気を放つ中、枝が折れる音ともに、闇から男たちが現れた。狂気を纏った表情に白銀の月明かりが光を落とし、影をつける。月影に姿を晒した男たちは、桓魋を見つめたまま、凶器を手元で光らせる。

「‥!あんた達は‥!」

それは、桓魋がよく絡まれるあの兵卒の一団だった。桓魋が入兵する以前から勤めているので、事実上は彼の先輩という間柄になるか。
その一人が、高い位置から桓魋を見下ろしながら、口元に不気味な歪みを描いた。
「よぉ、桓魋。瞬時にこれだけの攻撃を避けるとは、さすがは戦闘バカだな」
別の一人が、口を開く。
「なぁんで一発で死なないかなぁ、お前は。ジワジワ死ぬよりさくっとキレイにイっちゃった方がいいじゃん?自分が辛いよ?」
「ってかお前ガキ連れてんのかよ。初耳じゃねェか、お前に妹がいたなんて」
表情を険しくしたまま、桓魋は後ろ手に庇う少女を更に自分の背に隠した。顎を引き、静かに口を開く。
「‥何のつもりですか。俺はあんた達から恨まれるような真似はしてないと思うんですがね」
目を大きく開いたまま桓魋を凝視していた男たちは、一瞬視線を合わせる。
次の瞬間、まるで爆発するかのような笑い声がその場に響いた。
響く下品な笑いに、桓魋は眉根を寄せる。笑いすぎて目に溜まった涙を拭いながら、一人の男が口を開く。
「恨まれるような真似はしてないってよ、そもそもそんなこと以前の問題だって何で気づかないかねぇ」
「‥どういうことだ」
片方の口端だけを上げた男達はニタニタと粘着質な笑いを貼り付けたまま、仲間と目配せをする。鼻で笑う声が微かにした。
「そもそも半獣なんて州師に入れること自体がおかしいんだよ。なぁ?あまつさえ俺らより先に昇格するとか有り得ないねぇ。何か獣臭い汚い手でも使ったんだろう?」
「‥?!昇格?何のことだ‥?」
桓魋の表情に微かに困惑の色が混ざる。だが男たちはその問いには応えなかった。静かに殺気が鋭くなったのを読み取った桓魋は、間合いを取りながら、にじるように後ろに下がる。
(まずいな‥)
桓魋は内心で歯噛みした。
今の状況では会話の合間合間に行われる無言のかけひきだけで手一杯だ。人数的にも、どう考えても相手に分がある。自分ひとりならまだしも、今は――陽子がいた。できるのなら、このまま会話を引き伸ばして、隙を見て逃げたかった。
(こいつだけは‥)
相手が何のために自分を襲撃したのか、桓魋には分からない。いや、ひょっとしたらそれは分かりたくない部類のことなのかもしれなかった。ただ一つだけ分かることは、一番重要な明らかなことは――相手は確実に、桓魋を消すことを目的としていることだ。そして、それは下手をしたら陽子にまでその危害が及ぶ。
(くそ…)
薄く張った緊張が膨れていく。桓魋の頬を汗が滑る。


視線のぶつかり合いの中、沈黙が下りる中で均衡を破ったのは――鈍く光る、男たちの凶器だった。


陽子が声を上げる。身を捻れば、脇腹を鋭い刃先が掠めて飛んだ。
「っ…!」
「―――!!」
陽子が必死の表情で桓魋に向かって何かを叫ぶ。脂汗が滲むが、それでも桓魋は陽子に向かって、口元に笑みを浮かべて見せた。
「大丈夫だ‥」
  掠めた脇腹を、熱が焼く。
再び自分めがけて空を裂く白銀の刃、飛び道具をかわしながら桓魋は陽子を抱えて走り出す。優れた武芸の腕を持つ桓魋でも、その時さっと背筋を寒気が舐めた。
(これは…人間の姿じゃまずい…!)
 だが、そう直感的に感じながら、心に疼くのは微かな躊躇いだった。少女を見つめ、桓魋は唇を強く噛む。躊躇いはまだ胸間の中に残っている。変身した姿を陽子に見せたことが無かったことに、今更ながらに彼は気がついた。
(くそ‥!!)
迷う心に、桓魋は瞑目する。だが次の瞬間、一際大きな太刀音に、桓魋ははっと瞳を開く。
少女の背後から、白い輝きが彼女に迫っている光景が桓魋の目の前に広がる。

その瞬間、――桓魋の中で何かが切れた。

「こいつに…手を出すな!!!」

一人の青年が吠える。地面が揺れたのは同時だった。

桓魋の中でまだ僅かに残っていた躊躇いが押し流される。陽子は悲鳴を上げ、砂嵐が吹き荒れる。土が舞い上がり、顔に降り注ぐ土くれに陽子は顔を覆った。だが次の瞬間、目の前に現れたものに陽子の声が止まり、少女はただただ目を見開いた。
「…!!?」
思わず目を見開く陽子。
桓魋がいた場所に彼女が見たものは、2mはゆうに超える巨大な熊だった。

鋭い光を帯びた武器が、熊めがけて走る。熊になった桓魋は恐ろしい形相で吠えた。男たちの一瞬怯む気配がした。
「!…ま、まずい、変身したぞ!!」
「怯むな、殺れ!!」
次々と飛び道具が空を飛ぶが、桓魋は身を低くして地を駆け抜ける。その先にいた二人をなぎ倒し、刃を飴細工のように捻じ曲げた。空気を切る斬撃を、四つん這いになってかわす。
(ちびすけ…!)
 紅の髪の少女が脳裏をよぎる。だが、少女の方に向かって振り向こうとした瞬間、右肩から背にかけて、強い衝撃が桓魋を襲う。
 斬られた、と桓魋が認識する前に、自身の口から先ほどとは別の種類の吠え声が、その場に響き渡った。
「やったぞ!!」
 吹き出す赤の雫が、激しい目眩と共に視界の中でぶれる。
見つけた少女の姿だけが、桓魋の意識を保つことを支えた。
「…!!」
(ちびすけ‥!!)
「そのガキを抑えておけ!殺しても構わねぇ!!この場を見られてんだ、帰すわけにはいかねぇ!!」
男たちの中から、声が上がる。
吐き気がこみ上げる中、視野の中の少女は目を見開いてへたりこんでいた。ガクガクと足が震え、その顔に浮かんでいるものに、桓魋の動きが一瞬止まる。

戦慄く唇、見開いた目。
桓魋を見る少女の顔に浮かんでいたのは―――紛れもない、恐怖、だった。

(…!)
白刃が動きを止めた一頭の熊にめがけて振り下ろされる。視界の端に刃の弾く鋭い光を捉えた桓魋は、なんとか身を捻って凶器を避ける。桓魋は、その場を動くことさえままならない少女に、力の限り叫ぶ。

「逃げろォ!!!ちびすけ!!!!」

恐怖で足が竦んでいた少女は、その瞬間弾かれたように顔を上げる。震える足で立ち上がり、男たちの手をすり抜け、陽子は走り出した。
振り返るな、逃げ切ろと桓魋は血を吐くように念じる。
白刃が動きを止めた一頭の熊にめがけて振り下ろされた。視界の端に、刃の弾く鋭い光を捉えた桓魋は、なんとか身を捻って凶器を避ける。
「ぐ‥っ」
 体を引きずりながら、桓魋はなんとか陽子のいる方向とは逆方向に走り始めた。
彼の思惑通り、残った兵卒の男たちは、桓魋の後を追う。
「逃げたぞ!!」
「もう少しだ、殺せるぞ!!」
体を引きずりながら、桓魋は森の奥深くめがけて駆けていく。流れ落ちるとめどない血の流れが、彼の硬い毛を濡れそぼらせる。黒い体毛では血を吸っても色は少しも変わらなかったが、代わりに身体に引っかかっていた服が真紅に染まっていた。体毛、衣服、どちらのすそからも、真っ赤な血の雫がこぼれ落ちる。
(ちびすけ…無事に逃げろよ‥)

風が駆けて、夜が深まる。

 桓魋はもう二度とあの少女には会うことはないかもしれないと、零れ落ちる赤の雫を見ながら――思った。



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