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 それから陽子は桓魋が出かけている間、遠甫のところに遊びにいって日々の時間を過ごしていた。
大きな屋敷の書物庫の中、台の上に足をかけ、つま先立ちになって陽子は自分の背より遥か高い場所の本に手を伸ばす。同時に足元の台が危なっかしげに傾いでいるのを少女は知らない。指先が掠り、陽子は唇を噛み締めて、さらに手のひらをはみ出た本に伸ばした。しっかりと手のひらが本の背表紙を掴んだ時、懸命だった陽子の顔が輝く。
(やった!)
だが、そう思ったとたん、ふらふらと重心を定めずに動いていた台が大きくその身を傾けた。
「うわ?!」
けたたましい音を立てて、陽子はそこから台に煽られ、ひっくり返る。引っ張り出した本に引きずられるようにして、きちりと並べられた本が上空から雪崩る。音に驚いたように、隣室から遠甫が顔を出した。
「陽子!何をしておる。怪我はないか?」
陽子は打った頭を押さえて床の上で悶絶していた。落ちてきた本に覆われた少女を遠甫は助け出す。陽子は目に涙を浮かべ、頭をさすりながら謝った。
「ご、ごめんなさい‥。いたた‥。この本が取りたくて…。前はうまくとれたんだけど‥」
「気をつけなさい。酷い怪我でも負ったらどうする。今度から、高い場所の本は儂に言いなさい」
うん、と頷いた陽子に遠甫は言葉を続けた。
「今日は祭りじゃ。せっかくの祭りに怪我をしては楽しみも半減というものじゃよ、陽子」
「え‥!お祭りがあるの?」
「知らなんだったか。今日からは夏至を祝う、慶国麦州最大の祭りが始まるのじゃよ」
 興味深々の陽子は、目をきらきら輝かせてその話に聞き入っていた。声を漏らして、陽子は手に掴んでいた本を胸元に引き上げる。ふとその本に目を落とした遠甫は、その本にほう、と口を開いた。
「それにしても陽子‥お前さんはこの本が気になったのかね?おもしろい本をまた手にとったものだな」
「‥そうなの?」
きょとんと陽子は首を傾げる。翡翠の瞳をそっと本の表紙に向けた陽子はふふっと微笑を浮かべる。小さな掌で表紙を撫でながら、陽子は唇を開く。
「まだ言葉も字も全然分からないんだけどね、この本を下から見てたらとってもきれいだなって思ったの。こんなに鮮やかな赤の本なんて私初めて見たんだ。中にはきれいな絵もあって私はこの本が好きなんだ」
遠甫を見上げた陽子はこれは一体どういう本なの?と尋ねる。遠甫は顎鬚に指を滑らせながら、小さく唸った。
「これはな、陽子。この世界の理、史実などが細かく記された書記じゃよ。真偽が定かではないものから、この世界の真髄を語ったものまで、様々なものがその中には詰まっておる。お前さんが読めるようになったのならば、その本はきっと沢山のことをお前さんに教えてくれるものだと、儂は思うておる」
「わぁ!じゃあ私がんばる!がんばって読めるようになるね!」
陽子は、目をキラキラと輝かせて本を掲げる。その様子に目を細めた遠甫はそっと陽子の目線の高さまで屈んだ。
「少し、その内容を読んでみようかの。お前さんが一人で読めるようになったら、この本を陽子に贈ろう」
「本当?」
ぱっと陽子の顔に朱がさし、少女は本当に嬉しそうに破顔した。陽子は、おいでと手招きする腰掛けた遠甫の膝の上に乗り、卓上の上に置かれたどっしりとした本に見入る。黄ばんだページをゆったりとした仕草で捲る遠甫は、一番最初の項の文字の連なりに指を当てた。
「これは、この世界の始まり、と読む。今儂と陽子がいる世界の始まりの話がこの先から綴られておるのだよ」
「そうなんだ‥」
神妙な面持ちで、陽子は漢字に似た複雑な線が絡まった文字を見つめる。口元に笑みを浮かべた老人はつらつらとこの世界の起源について、文字をなぞりながら語り始める。
「かつて世界は九州と四夷の合わせて十三州からなる世界で構成されていたそうな。しかしそこでは人々は条理をわきまえぬ振る舞いばかりを行う凄惨たる有様じゃった。誰も行いを改めず、戦争が絶えることないその世界では血の河が流れるほど。そこで天帝は五人の神と十二人の人間を除いて全てを卵に返し、世界を一度滅ぼした。世界の中央に五山を作りその山々を取り巻く部分を黄海とし、その五人の神を龍神として五山をそれぞれ守護させたのじゃ」
驚いた陽子は目を瞬く。
「この世界は、一度なくなってしまっているの?」
遠甫は穏やかな目で少女を見、そして言葉を続けた。
「さぁ、どうなのじゃろうな。真偽の程は儂には分からぬ。伝えられたある種の伝説とも言える類のもの。そしてここからが現在のこの世界の成り立ちに繋がる」
頷いた陽子はもう一度文字の連なりに視線を落とす。再び、遠甫の皺を刻んだ指がその文字の上を滑り始めた。
「天帝は、五の神には五山を任せた。そして十二の人には、それぞれ三つの実が生り、蛇が巻き付いている枝を渡した。枝に巻きついていた蛇は解けて天を支え、三つの実は落ちてそれぞれ土地と国と玉座になり、残った枝は筆になったそうだ。蛇は太綱を、土地は戸籍を、国は律を、玉座は仁道を、筆は歴史を、それぞれ指し示しているのじゃ」
「それは、どういうことなの?」
ゆっくりと遠甫の視線が書物から宙に浮く。手を伸ばした遠甫は手近にあった巨大な巻物のようなものを、陽子の目の前に広げてみせた。目の前に伸びていく鮮やかな色彩の地図に、陽子は思わず声を上げて見入る。地図の両端を丸まらぬようおさえた遠甫は、陽子の問いに口を開いた。
「先ほど儂は与えられた三つの実のうち、玉座は仁道を指し示すと言うたな。仁道とはすなわち麒麟を意味する。この世界では十二の国に、十二の王、そして十二の麒麟がいる。麒麟は孤高不況の生き物、麒麟が従うのは王のみじゃ。麒麟は王を選ぶ。その麒麟が死ねば、王も死ぬ。この世界では麒麟に選ばれたものがその国の王、なのだよ。陽子」
「わぁ!王様がいるんだね!それをキリンさんが選ぶの?すごいね!日本には王様はいなかったよ」
陽子は王様、という御伽噺でしか縁の無い言葉に目を輝かせる。そっと遠甫の指が地図の最東端を指して見せた。
「今、陽子がいるのは東の果ての国、慶東国じゃ」
陽子はあどけなく遠甫を見上げて尋ねる。
「じゃあここも、十二の国の一つなの?キリンさんに選ばれた王様がいるの?」
遠甫は複雑な表情を浮かべ、少女を見る。翡翠の瞳には、光しか映ってはいなかった。その老人の表情に巣食う交錯した僅かな翳りは、まだ少女には分からない。少し重い息を、老人はついた。
「いいや‥。今この国に王はおられないのじゃよ、陽子」
「え!そうなの?どうして?」
遠甫は複雑な表情を顔に湛えたまま、問いかけにはすぐに答えなかった。僅かな沈黙の後、遠甫は何か苦いものを噛むように、口を開いた。
「もうしばらくこの国には王はおられない。国に王がおらぬというのはな、陽子。国が荒れるということを意味しておる。そしてその状況は、前代の王が亡くなられ、その次の新しい王が践祚なさっていない、つまり新しい王が未だ見つかっていない状態のことを指していることがほとんどなのじゃよ」
「新しいキリンさんが王様に会えていないんだね」
そう、と遠甫は頷いてみせた。
「景麒は未だ昇山者の中から王を見つけてはいない。王に巡り会えてはいないのじゃ」
「そうなんだ‥。じゃあ!」
「じゃあ?」
陽子はふふっと柔らかい笑みを顔に広げる。きゅっと遠甫の手を握って声を上げた。

「早くキリンさんが王様に会えるといいねぇ」

一瞬、遠甫の瞳が微かに見開いた。少しだけ彼の目元が潤んだことに、その時少女は気がついてはいない。
そっと紅の髪を撫でる老人は目頭を押さえ、そうじゃな、とだけ呟いた。

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「じゃあまたね!」
黄昏時、老人に向かって手を振る少女は、夕焼け色に染まっている。手を振る老人も蜂蜜色を馴染ませる空に目を細め、少女の姿を見送った。一日を遠甫の元で過ごした陽子は、舎館を目指して、思いっきり広途を駆け抜けていく。遠甫に祭りの話を聞いてから、彼女は初めて周囲にかかる提灯の姿に気がついた。微かに聞こえ始めた笛の音に、陽子は鼓動が跳ね上がるのを感じる。舎館にたどり着きかけた時に、こちらに歩んでくる一人の青年の姿に、陽子は飛び上がって駆け寄った。
「お兄ちゃ―ん!」
ぴょんっと飛びついた陽子を受け止める青年は、笑いながら彼女を抱き上げる。彼から漂う飄々と明るい雰囲気が陽子は大好きだった。陽子は紅潮した頬のまま、一生懸命に言葉を紡ぐ。
「あのね、あのね、お兄ちゃん!今日ねお祭りがあるんだって!私お兄ちゃんと一緒にお祭りに行きたい!」
首を傾げた桓魋は、穏やかに微笑んだ。そっと陽子を下ろした桓魋は、小さな手を引き歩き始める。今日の桓魋の歩みはいつもより速い。右へ左へ道を歩きながら、陽子は手を引かれながら、桓魋に話しかける。
「え?え??行かないの?一年で一番大きなお祭りなんだって!提灯綺麗だったよ!」
だが、そう言っている最中も、日本語の分からない桓魋は歩みを止めない。更に言葉を続けようとした時、陽子は視界の端に広がる鮮やかな光に気がついて思わず動きを止める。楽しげな笛の音、ざわめく人の行き交う音を、陽子の耳が拾った。
(え‥?)
次の瞬間、目の前に視線を移した陽子の口から歓声が漏れた。

 もはや暮れて濃紺に浸る空。様々な装飾品が、炎の光を弾いて黄金の輝きを零し、華やかな化粧を施した女たちが舞っている。笛太鼓の音が鳴り響き、立ち並ぶ露店からは客引きの声の声が行き交う。陽子が問うように振り向けば、そこにはいたずらっぽい笑みを浮かべた、桓魋の顔があった。陽子の表情がみるみる輝いていく。


そこに広がるのは、色とりどりの提灯に飾り付けられた、華やかな祭りの光景だった。

:::



 歓声を上げた陽子は顔を輝かせる。祭りの中に入っていこうと走るが、人ごみにつまずいて思わず尻餅をついた。
「ははっ 気をつけろ、ちびすけ!」
それを見て桓魋は笑い、陽子の手を取り足を踏み出した。穏やかな夏の湿気を孕んだ風が顔を撫でた。陽子は広途の中央を練り歩いていく華やかな人々に見入って、流れる笛の音に耳を傾けていた。
本当に楽しそうに笑う陽子に、思わず桓魋も釣られて笑った。
 桓魋に手を引かれ、陽子は辺りを見渡しながら気もそぞろに歩き出す。
陽子は人並みに目を奪われ、色づく提灯の美しさに見とれ、そして踊る花子たちが反対に陽子たちを尻目に広途を過ぎていく。その時、林檎飴を手にする親子とすれ違い、桓魋はその光景に思わず目を瞬く。
陽子が声を上げ、すぐそばの林檎飴を売る露店に人が集まっているのが見えた。陽子がじぃっと飴を見つめているのを見て、桓魋はふっと口元に笑みを浮かべる。膝を折って少女の目線まで顔を下げた桓魋は、懐から小銭を出して渡した。
林檎飴を見つめていた陽子は、きょとんとした顔で桓魋を見上げる。
「買ってきな。これも社会経験だぞ?」
お金と林檎飴を交互に指さし、交換する仕草を桓魋は陽子に示す。仕草から意図を読み取った陽子の顔がぱぁっと輝き、少女は大きく頷いた。
てててっと軽やかな足取りで駆けていく陽子は、飴売りの露店の売台につま先立ちで顔をのせる。飴を指さして小銭を渡す陽子の姿をみとめた桓魋は、視線を暮れた群青色の空に移した。
(俺も昔はよく林檎飴を食ったな…)
 熟れた林檎を溶かした濃い色の飴に潜らせてできる林檎飴は、見た目も艶やかで美しい代物だ。かぶりついた時に絡む果汁と砕けた飴の甘さが舌に残す味も格別で、多くの子どもたちが好んで食べた。
桓魋もその一人で、幼い頃は祭りの露店でしか食べられない林檎飴が好物だった。だけど、年を重ねるにつれ買うことに些か恥ずかしさを覚え、もう暫くは口にしていない。
 なつかしい思い出に、桓魋は目を閉じた。
軍兵として州師に採用されてからは、祭りにすら足を伸ばしていないことに今更ながら驚く。
(もうあの頃に戻ることもない、か…)
思い出に浸る桓魋を、夏の暑さが引き戻す。羽虫がゆるく提灯に集って、蚊柱が立っている光景が見える。
その時こちらに向かってくる足音に、桓魋は顔を上げた。
「お兄ちゃん!」
視線を上げた桓魋は陽子を見て、目を丸くして、そして思わず笑った。
懸命に駆けてくる陽子の顔は紅潮している。


桓魋が一人分の林檎飴を買ってくると思っていた、陽子のその手には、二人分の林檎飴がしっかりと握られていた。


:::



飴を食べ終え、暫く広途に伸びる露店を覘き見ていた桓魋と陽子。
立ち止まった時、陽子が必死に表情を出さないようにしながら、ふぅっと息を吐いた。桓魋は陽子が疲れてきていることに気がつくと、ひょいっと陽子の軽い体を持ち上げ、自分の肩に肩車した。
「わ…?!」
 驚いて咄嗟に目を瞑った陽子。桓魋の頭にしがみつき、揺れる感覚に恐る恐る目を開く。

その瞬間――桓魋の肩で、視界に広がる一変した光景に陽子は歓声を上げた。

緩急をつけて鳴り響く美しい笛の音、行き交う人々の楽しそうな顔。美しい、幻想的な世界全てを見渡している気分だ。目に映るその全てが、陽子には眩しかった。
桓魋は、華やかな一団が通り過ぎる度、声を上げてはしゃぐ陽子を見て、嬉しそうに口元を綻ばせた。
「楽しいか?ちびすけ」
桓魋の声にぱっと振り返った陽子は嬉しそうに桓魋にしがみついて見せた。桓魋は声を上げて笑う。
「ははっ 痛い痛い!分かった、分かった!やめてくれ!」
楽しそうに笑い合う二人を、道行く人々が振り返っていく。そんな二人に、ある露店の主人が声をかけた。
「楽しそうだな、お兄ちゃん。弟かい?かわいいねぇ」
桓魋は軽く苦笑しながら頭をかく。陽子は足を止めた桓魋の肩の上から興味津々に露店に並ぶ商品を眺めていた。陽子をしげしげと見つめる主人は声を漏らす。
「坊ちゃん綺麗な顔立ちをしてるねぇ。こりゃこの子は大きくなったら美丈夫になるよ、お兄ちゃん」
桓魋はどう答えるか決めかねているうちに、ふと並べられた商品を見る。
ここは簪を扱っている店で、目の前には様々な美しい装飾の宝玉がちりばめられた簪が輝いていた。
その中の一つに目がとまり、それを手に取ってみる。華やかさの中に上品さを含ませた簪だ。角度を変えれば、はめ込まれた金を帯びた紅真珠が光沢を帯びる。

ちりばめられた沢山の細かな玉が微かに光をはじいて、まるで光を吹き付けたような、簪だった。

じっとそれを見つめる桓魋に、主人が嬉しそうな声を出した。
「お、目が高いねぇ、お兄ちゃん!ひょっとして玉の商売人かい?それは本音を言ったら買われたくない上物だよ」
そうなのか?と桓魋は簪を見つめる。
「いや…俺はこういう装飾品に関してはてんで素人だよ。俺はただこの簪が…」
ひょいと桓魋は肩の上の陽子を下ろす。目を丸くする陽子の束ねた深紅の髪に、そっとその簪をあてがって見せた。
「この子に似合うと思ったんだ」

紅の髪に、その簪は驚くほど――はえた。

主人が思わず声を無くし、陽子を見つめる。
主人の様子を見ながら、これを貰おう、と桓魋が口元にいたずらっぽい弧を描いて見せた。
数度目を瞬いて、陽子を見つめ主人は頭をかいた。声が弾ける。
「…女の子だったか。こりゃ失礼!じゃあ将来は美丈夫じゃなくて、別嬪さんだな!」
「ま、そういうことにしておいてくれ」
笑いながら桓魋は主人に代金を渡し、簪の露店を後にする。
手を握った桓魋と陽子は二人で祭りの光景の中に溶け込んでいく。その場で値札を切ってもらった簪を、歩きながら陽子の頭につけてやった。陽子は興味津々の様子で頭の簪に手を伸ばして軽く触る。
陽子は必死に表情を引き締めようとするも、堪えきれずに、はにかみながら本当に嬉しそうな顔を見せた。
「やっぱり似合うな」
大きな手の平が、陽子の頭を撫でた。
様々なものに二人で歓声を上げ、笑い、目を奪われる。あっという間の時間だけが、過ぎ去っていく。

ある一瞬、不意に陽子が足を止め、桓魋も釣られて足を止めた。
「?どうし…」

 言葉を出しかけたその時、夜空に打ち上げられた花火が咲く。美しい光の欠片が濃紺の色合いに撒き散らされた。

いくつも、いくつも様々な色合いの花が、夜空に咲いては、散っていく。微かな風を切る音と、弾ける音、そして重なり合った炎の欠片で光の花びらが作り上げられていく。
 桓魋は思わず声を飲み、その光景を見つめる。陽子の方を見れば、少女も空を一心に見上げ、瞳に花火の光を映していた。

光の花びらが夜空に咲く中、青年と少女はただただその光景に目を奪われる。
心に残るその鮮やかな一瞬。不意に目があった二人は、そろって微笑み合った。

だが幸福の裏側から何かが音もなく忍び寄っていることを、その幸せな一瞬の間に、二人に驚異が忍び寄っているのを、当の本人たちはまだ知らない。


 実は桓魋と陽子を後からつけてきた男たちがいたことを。
そして今なお、不気味な光を瞳に浮かべた男たちが建物の影から青年と少女を凝視していることを。
 


祭りの中佇む二人は、貴重な時間を共に過ごす二人は、まだ――知らないままでいる。




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