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最終話


純恋花


 花が舞う。
 薄紅色の透けるような花びらは視界にちらついた次の瞬間には、春の風の嵐に急速に押し流され点にもならず消えていく。そんな花びらが幾重にも見上げる空一帯に重なり合って崩れていく。
 隣にいる男に体を支えられながら立つ陽子は、翡翠の瞳に舞い踊る薄紅の花びらを映していた。その髪には、桓魋から新たに贈られた空のような輝きの宝石の簪が差し込まれている。空に放り出された陽子が落ちた場所は波が岩を噛む濁流の川だった。流れに押し流されながら気がつけば打ち上げられたそこは誰も立ち入ることができないようなひっそりとした密林の奥深くだった。景麒も目覚めていないその時、彼女を追ってくることができたのはただ一人桓魋だけだった。
 遠い世界から隔絶された場所。人が立ち入れないこの場所から怪我を負った陽子と桓魋も出られなかったわけだが、久方ぶりの二人だけのゆったりとした時間を過ごすことができたのもまた事実だった。
 空を見上げながら陽子は微笑む。
「久しぶりにこれだけゆっくりできた」
「はは、そうだな…」
 でも、と陽子は足を撫でる。もう大分負った傷は回復していた。
「そろそろ帰らなくちゃな…。景麒はもう目覚めているかな。きっと目が覚めているとしたら、この二人で過ごせた時間を特別に見逃してくれてるんだろうな。でも心配かけているだろうから、帰ったら、祥瓊と鈴に怒られそうだ」
「浩瀚様もだな」
 桓魋も微笑む。彼のもう片方の手には桓魋に擦り寄る騎獣の姿があった。陽子を追うために彼がすぐに激流の中に飛び込んだ時も、彼の騎獣はずっと主人を探し続けていたらしい。弱りながらも何日か前に彼が桓魋の元まで辿り着いた時には、桓魋自身も仰天した。騎獣も体力を回復し、今か今かと主人の手を鼻面で押すのに、桓魋は微笑んで騎獣の頭を撫でた。
 振り向けば、陽子の髪で輝く空色の輝きに桓魋は息を詰まらせる。自分がもう見ることもないと思った輝きは想い人によく似合っていた。そんな桓魋に、陽子は唇を尖らせる。
「ずるいよ桓魋。最後蘭玉の手紙と簪を置いて私の前から消えようとするなんて」
「う…わ、悪かったって」
 陽子の目が伏せられる。
 それに。
「蘭玉もずるいよ。あんな手紙…遺しておくなんて」
 桓魋の瞳が眇められる。
 手紙の内容を、彼は知らない。それでも陽子の表情から、蘭玉が遺した手紙の影響の大きさを知った。
風が少女の髪を吹き流す。霖雪の言葉が蘇る。陽子がただ一つ思い出すのは、蘭玉が彼女に遺した言葉だ。手紙の文字が――実際に音声にされた筈のない蘭玉の声と共に脳裏に流れていく。
陽子の翡翠の瞳に涙が一粒浮いた。

陽子へ

 元気?ふふっきっとこの手紙をもらった貴方は驚いているわよね。今だって、こうして貴方に見つからないようにこっそり書いてるんだもの。どうしてこんな何でもないときに、手紙なんて書こうと思ったのかしらね。それでもなんだかどうしても今書いておかなきゃいけない気がしているの。
 離れている間、貴方の人生はどうだった?きっとお互いに大変な思いをしたと思う。
貴方の大変な経験を聞いた時は、正直肝が冷えたわ。それでも、貴方が無事でいてくれて再会出来た時、私は信じられないくらい嬉しかった。
 貴方とこうして再び共に日々を過ごせることは私にとってはかけがえのないことなの。
 私がここに手紙をしたためているのは、貴方にこっそり伝えたいことがあったからよ。
純恋花って覚えてる?貴方に教えた、あの花の名の言い伝え。苦しむ人々に催上玄君があの花の木を贈ったと私は言ったけれど、その詳細を貴方はまだ知らない。
 あの花はね。
 恋人たちに贈られた、恋の実りを象徴する花なの。
 長い長い歴史を持つこの国では、暴君が崩御した後も中々新王が践祚せず、仮朝も崩壊してしまって、府第さえも壊滅的な被害を受けて戸籍が機能しなくなった時があったそうよ。そうなってしまった時、何が起こったか貴方ならわかると思う。
 戸籍が機能しないということは男女が新しく婚姻を結ぶことができなくなるということ。それは新しい命が慶に生まれる機会が著しく減少するということ。ただでさえ慶の人口は減っていて、他国から人を招いてでも新しい人口を増やさなくてはならなかったのに、戸籍が変更できなければ新たに家族を作りたい、婚姻したい男女は里木に帯さえ結べないの。慶は妖魔や災害とは別の亡国の危機に陥った。
 その時に、人々は必死に願ったそうよ。
 どうか戸籍という縛りがなくても、里木に帯が結べるようにしてください、と。
 そして催上玄君はその願いを聞き入れ、特例として花の木を贈ったそうよ。それは新たに命を望む人々に与えられた木。
 その花に共に願った男女が夫婦としてふさわしければ、その二人は婚姻して戸籍を変更していなくても、子を授かる資格があるものとして木の花の色が鮮やかに変わるそうよ。そうしてその二人は夫婦として里木に帯を結ぶことができる。天が認めた時――その帯には卵果が実る。こうして慶は亡国の危機を乗り切ったと言われている――恋の花。
 府第が機能するようになってから、もうその話は忘れ去られて今ではおとぎ話と言われる伝説となっているけれど、私はその話は真実だと今でも思っている。
 貴方達の恋も真実だって、今も思っている。
 貴方達は十分遠回りしたわ。苦しいくらいお互いのことが好きで仕方ないくせに。もっともっと――自由でいいのよ。柵なんか壊して、どこにだって行けるんだから。蓬莱に残してきたものは貴方にとってかけがえのないものだったのかもしれない。それでも貴方は今ここで、同じようにかけがえのないものを手に入れることができるんだから。

 だからどうか―――幸せになって、陽子。

 ずっとずっと言いたかったことが手紙で言えて、少しだけ気持ちが軽くなったわ。貴方は――私の言葉にさえ、縛られる必要はないのよ。ただ、私は貴方の幸せを願っていることだけはどうか忘れないで。
 戦乱の世。
 命が泡のように消えていく。その中に激しい刹那が渦巻いている。だからこそ。
 生きて。笑って。恋をして。
ひょっとしたら全てが決着がついたその時には私はこの世にはいないのかもしれないわね。なんだかふと、そんな気がした。私がもしいなくなったら、強い貴方は泣くかしら。それでも陽子。悲しむ必要なんて何もないわ。だって私はきっと。生きていようが、死んでいようが。


 どちらにしても私はきっと―――最後まで貴方のそばにいる。


 花の香りが吹き流される。桓魋が陽子の方へ手を伸ばす。
「帰ろう。陽子」
 騎獣が鼻を鳴らす。
 陽子と桓魋は手を繋いだままただただ空を見上げる。願ったその時、花は暗闇に沈んでいて色さえも分からなかった。あの時願いを込めた―――。

あの花の色は、何色だったのだろう。

:::::


 王宮には春の訪れを示すように、鳥の声が空で輪を描いていた。等間隔に並ぶ大理石の柱の隙間から、溢れるような透明な光が伸びている。外廊を横切った豪槍は、書類の山を抱えた見慣れた後ろ姿を見つけた。
「うす」
「…」
 霖雪が髪を光に透かせながら振り返る。いつ見ても常世離れした男だと豪槍は思った。霖雪の薄荷色の瞳が微かに眇められる。霖雪の持つ書類の多さにげっと豪槍は舌を出した。
「それにしても大層な荷物だな」
「浩瀚の執務室に行く途中なんだ…」
 ふうんと豪槍が片眉を跳ね上げる。
「お前が仕事する姿なんざ初めて見たぜ」
「お前と違って暇じゃないんだ…」
「ははっお前にそんなこと言われる日が来るなんて考えてもなかったぜ」
 豪槍の反応に、彼が怒るとばかり思っていた霖雪は思わず驚いたように目を瞬く。無表情の薄荷色の瞳の底を光に透かしながら、霖雪が尋ねた。
「そう言えば、あの散り散りになったお前の同期の武官たちは無事に戻ってきたのか…」
今度は豪槍が目を見開く番だった。
「あ、あぁ。悠も無事に帰ってきた。燈閃も、虎嘯たちもな。あと帰って来てない奴はあいつらだけだ」
 そうか、と霖雪は抑揚のない声で呟く。
春の日差しが霖雪と豪槍を穏やかに照らす。何かが変わった、と向かい合う男に対して、二人は声に出さずに思った。二人とも肝心な自らの変化に気がついていないままに。二人の男それぞれに何が起こったのか、互いに知る由もないままに。
人に興味もなく、協調性のない霖雪が他者の心配をしていること、暴漢と呼ばれていた豪槍が短気を起こさなくなったこと、二人の男の傷を癒した出来事は春の日差しに遠くくゆる。気を取り直すようにガリガリと頭を掻きながら、豪槍が口を開きかける。
「ま…気楽に待ってりゃそのうちあいつらも…」
 その時だった。祥瓊の激しい声がどこか閑散としていた王宮に強く響き渡った。
「陽子!!!!桓魋!!!!」
 一瞬の間。目を合わせた霖雪と豪槍。だけど目を二回瞬いた時にはポカンする豪槍の手には、さも当たり前のように先程まで霖雪が持っていたはずの書類の山があった。
「浩瀚、執務室、書類、置いてくる」
 猿に言い聞かせるように一言ずつ区切って言いながら、次の瞬間には霖雪は、普段からは信じられない速さで門に向かって駆け出していた。確か霖雪は運動が苦手だったことを思う間もなく、豪槍の抱えた書類の山が弾ける。
「こんにゃろ、霖雪テメェ!!!」
 城門に向かう霖雪の背を追って、豪槍が慌てて走り出す。執務室から飛び出してきた浩瀚の顔に書類が炸裂したが、豪槍も浩瀚自身も、普段なら目尻を釣り上げる程の書類の散乱には目もくれていない様子だった。
「おい待てよ!!!」
 声がはやっているのに、豪槍自身さえも気がつかない。

歓声が聞こえる。

 虎嘯の大きな喜びの声、泣いて怒って喜んでいる鈴と祥瓊の声がする。
帥文君や文官たちがどこか穏やかな目で豪槍とその先にいる人々を見つめる。蓮皇たちが大きくこちらに早く来いとばかりに手をふっているのが見える。龍熄が赤子をあやしながら、待ちくたびれたとばかりに彼らに向かって欠伸をしている。
王と将軍が戻ってきたという騒ぎを聞きつけた人々が目指す先は一点だ。
そしてこの時、また新しい刹那が生まれていることに人々は未だ気がついていなかった。
静まり返った王宮奥深くの一角、路木に結ばれた刺繍帯が風の下で翻る。あの時自分たちが願いを込めた花の色を知らない二人は、そもそも路木に帯を結べたという意味に未だ気がついていなかった。

 薄紅の花が舞う。

 里木に結ばれた下手くそな太陽の刺繍が入った帯が結ばれた場所から金色の光が垂れていることを、今はまだ誰も――――気がついてはいない。
 それに人が気がつくのは、もうほんの少しだけ先の話だ。
ただ今は、待ち焦がれていたかけがえのない人に向かって、人は足をはやらせる。
 自分の声が弾んでいることに、豪槍は気がついていなかった。
「待ちやがれ、お前ら抜けがけすんなよ!!!」



 日差しが溢れる、季節は春だ。




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