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桓魋と陽子


 小さかった自分の世界は、いつの間にか濁流のような大きな波に呑まれていた。
 それでも激動の国の運命に巻き込まれながらも、小さな木の葉として舞いきったと自負して良いだろう。最後に激しく口付けた彼の唇の感触を思い出す。自分が幼い頃憧れていた世界に空高く落ちていくあの瞬間を思い出す。陽子にとっては、もはや地上は天上だった。あそこで死んでも悔いがない人生だった。それでも。
 今、陽子はひとり息をしている。
討ち死にする覚悟だった王が今かろうじて生きているのは、絡まりあったたくさんの人々の強い願いが細くつながり、この状況を創り出しているからだ。陽子が落下した場所は奇跡的に地面ではなく、凄まじい速さで流れていく深い川だった。
そして今、陽子はひとり浅瀬に打ち上げられ、意識が落ちそうな境界線をさまよっていた。赤い波が目の前をたゆたっていく。なんとか助かったが―――きっと景麒も昏倒している今、この場所は誰にも見つけられないだろう。足も折れている。
 このまま一人で死ぬのかと思った。その時。
 遠くから、引き止めるような声がした。もう聞きなれている言葉のはずなのに、陽子にはそれが言葉に聞こえなかった。

 幼い頃に初めて聞いた、優しい音にしか聞こえなかった。

 眠い。眠いんだ。寝かせてよ。誰かの腕が強く自分を抱きしめる。折れそうなくらい強く。耳元で優しい音が温度を伴い繰り返される。
「陽子」
 涙を流しながら、陽子は重い瞼を押し開いた。喉から掠れた声が出た。
「桓魋」
 堪えるように、抱きしめていた桓魋の肩が細かく震える。微かに微笑んだ陽子は目を眇める。
「やっぱり桓魋は…追いかけて来て…くれたんだね」
 もう二度と離さないとでも言うように、強く抱きしめられた。そんな彼の背中に、陽子は自分の手を回す。こらえるような桓魋の口からは、少女の名前しか出すことはできなかった。
 世界中に、二人だけのような気がしていた。誰もいない。
 目の前にいるのは、彼だけだ。太陽の頂上も地平線に沈んだ中、光が溶けた薄い群青色の空さえも夜に消えていく。二人ともずぶ濡れの中、体温が奪われひどく寒い。

 それでも不意に目があった瞬間、二人は深く口付けた。

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 闇に溶け込んだ周囲は、自分たちが今どこにいるのかさえも遠く曇らせていく。足が折れ疲労が溜まった陽子はしばらく動ける状況ではなかった。桓魋に抱きかかえられながら歩く内、二人は打ち捨てられた茅軒を見つけ、そこでしばらくは宿を取ることにした。外は今、白い糸のような静かな雨が降っている。遠雷が聞こえた。
濡れた衣服が床に散乱している。ただ今は――二人とも何も身につけない状況で、同じ衾褥の中で抱き合っていた。ひどく寒い。重なった肌の部分だけがほのかにぬくい。
 陽子の右足は折れていて、をあてていてもしばらくは動けそうにない。何より陽子に今必要なのは、王という場所から離れたところにある空気なのかもしれない。ただただ陽子は呼吸する。
 桓魋の腕の中で陽子はみじろぎをして、ポツリと桓魋に顔を伏せたまま呟いた。
「本当はね。桓魋たちが何かが隠しているということも、気がついていた。この国で何が起こっているのか…詳細はわからなくても…最終的に敵の狙いは王だということも、どこかで分かっていたのかもしれない」
 だって王になった瞬間から、私は逃げたくてたまらなかったんだから。そう陽子は思う。
「だから…あそこで援軍が来たのか」
「…そう。…大規模な戦が起こることだけは何故だか感じた。兵の様子もおかしかったしね。あなた達は私を舐めすぎだ」
 陽子の瞳には冷たい光が浮いていた。
「…最終的に、私は利広の言葉を頼ったんだ。雁、恭、奏…この三国には国で陰謀が進んでいるとわかった時から、協力を願い出ていた。各国兵には半月の間慶国の各所に駐屯してもらっていたんだ。さすがに…延王や利広本人まで駆けつけてくれるとは思わなかったけど」
 雨の音が重ねられる。陽子が放ったのは吐息のような声だった。
「…使えるものは使う。大事なものを守るためなら。不思議だね。旅路での出会いはこのためにあったんじゃないかと思ったくらいだ」
「そして…お前は王であるお前自身も使い切った。自分自身も駒の一つとして」
 桓魋の顔に表情はなかった。そうだね、と陽子は自嘲するように目を伏せる。
「そのつもりだった」
 最後の瞬間、落下する先はむき出しの岩盤だった。自分が今生きているのは霖雪のおかげだ。大砲などがないこの世界、どうやってあんなものを作り出したのか。霖雪の放った空砲が陽子の体をふわりと落下地点が地面になる場所から押し流したのだ。自分に向けて放った、風を起こした張本人である霖雪の決死の表情が見えた。死んでも良かった。それでもいつもの無表情を捨ててでも必死に自分を救おうとしている彼に、思わず陽子は微笑んだ。

 もうあの時自分は、何も怖くなかった。

 ポツリと陽子は桓魋の腕の中で呟いた。
「私は…あなたを止められればもう満足だった。死んでも良いと、あの時思った」
 見つめ返すのは、桓魋の深い海のような瞳だ。
「…死んでも良かったのか」
ただただ静かに返された。のろのろと無表情で桓魋の顔を見た、次の瞬間。激しく陽子の顔が歪んだ。
「いやだ…」
 ひどい声だった。ぼろりと涙が瞳からこぼれ落ちる。えづくように掠れて苦しい声が出た。ひーっと音にもならない声が出た。いやだ。
「いやだ…いやだ…死にたくない。まだここにいたい。やっぱりみんなと一緒にいたい。抱きしめてよ。離さないでよ。貴方達と生きていたい」
 肩を震わせ、久しぶりにこんなふうにさらけ出すように、陽子は泣く。しゃくりあげた瞬間、涙ごと抱きしめられた。桓魋の肩は細かく震えていた。
「ずっと…こうしたかった」
 ぽつりとした声だった。
「もっと早くに、抱きしめちまえばよかったんだな…」
 陽子は目を見開く。桓魋はただ静かに泣いていた。肩を震わせ、嗚咽をこらえるように泣いていた。絞り出すようなたった一言が落ちた。
「生きてて…良かった…」
 その言葉を聞いた瞬間、怖いもの知らずの彼が本当はどれだけ自分の死を怖がっていたかを知る。気がつけば、陽子は懇願していた。
桓魋。
「抱いて…」
涙でぐちゃぐちゃになった唇に口づけられた。唇の割れ目から入る舌は熱くて気持ちが良かった。激しく抱いて欲しかった。
 頭の中心が痺れる。熱くなってこのまま溶けてしまえそうで――気がついたら夢中で舌を絡めて応えていた。息がただひたすらに熱い。体を重ねるうち、雨はいつの間にか止んでいた。
 気がつけば夜も明けていた。
雲の切れ目から、薄い色の光の帯がいくつも漏れる。つながって抱きしめながら陽子の目を見つめはっきりと桓魋は言った。

「好きだ、陽子」
 
ずっと言いたかった―――言えなかったことを、やっと言えた。陽子の目が驚いたように見開いて、次の瞬間苦しげに陽子の瞳が激しく歪む。でもそれが苦しくて歪んでいるのではないということを、彼はもう――知っている。
 ぐしゃりと続くように歪んだ陽子の顔は、美少年と間違われる整った顔が台無しなくらいぶさいくになった。

でも桓魋は、こっちの顔の方が好きだ。

 心を溶かした、涙でゆるんだこっちの顔の方が好きだ。
「好きだよ、桓魋」
 今度は桓魋の瞳が見開く番だった。薄く差し込んだ淡い光が逆光で陽子の姿を浮かび上がらせる。涙を乱暴にぬぐい、陽子は微笑む。その微笑みから目が離せない。何もかもが吸い込まれる。何故だか猛烈に泣きそうになった。

 光の中で淡く笑う少女は、柔らかくふれるだけの口づけを彼の唇に落とす。

 その瞬間。

 聖母に抱かれているような気持ちがした。
 差し込む光の中に溶けた陽子の唇だけが、ただただ温かかった。


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