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 暗闇がずしりと体の周りを覆う。夜中に明々と灯る灯火が、瞼の奥でゆらりと揺れる。 不意に激しく揺れ動いた騎獣の上で、うとうとと微睡んでいた桓魋は、はっと我に返った。
(しまった‥つい居眠りを‥)
 幸運なことに、桓魋は少女を抱えたまま、閉門の時刻ギリギリに里の中に滑り込むことが出来た。通りすがりの騎商を捕まえ、なんとか一頭の三騅をこしらえ、桓魋たちは今その上で揺られながら進んでいる。居眠りをした自身を叱咤するよう頭を振り、桓魋は腕の中の温もりを見て息をつく。先ほど桓魋にすがって泣き続けていた少女は、目を腫らしたまま、今は彼の腕の中で先ほどと変わらずに体を預けていた。
(よほど恐ろしい思いをしたんだろうな‥)
 桓魋は先ほどの少女の様子を思いだし、思わず眉根を寄せる。 泣き疲れて少女が眠ってから、その腕をよく見てみれば、逃げた時に出来たであろう擦り傷だけではなく、打撲の形跡も見られた。腕に青く楕円形に広がる跡は、誰か力のあるものに殴られた時にしか出来ない傷跡だった。そしてそのことが、桓魋の中の怒りにさらに火をくべる。桓魋はそっと眠る少女の髪に手のひらを滑らせる。 少女は眠りながら少しだけ唇を動かし、寝ぼけた様子で桓魋にさらに強くしがみついた。
(この子をどうするか…)
 海客が流れ着いた際、官府に届けを出すのが常だ。しかしその大元である県庁では五日前に県正の汚職事件が発覚したため、現在頭首を失った県庁は壊乱状態に陥っているというなんとも情けない有様だった。 それに…と桓魋は眉を潜めて幼い少女に視線を落とす。
(戸籍を得たところで、この子の行く場所なんて、この国が用意できるのか…)
 慶国では、海客に対し戸籍は個々人に与えられるが、その裏では根強い差別が残るのが実情だ。そもそも現在王の欠けたこの国が、一人の海客相手にそこまで手の込んだ助勢をするとも思えなかった。いくら海客が流れ着くのが最も多いと言われても、実質その頻度は他国より多いだけで、全体数は少ない。その上、海客はその名の通り海から流されてくることが多く、大半が死体ときている。山客のように海以外から不意に現れる者もいると聞く。だが今回の場合、この少女のような子どもの海客などというものは官府も扱ったことのない部類の人間に属するだろう。
 桓魋は薄くため息をついた。
 ならば、海客であるこの子は法の整備が追いついていない慶国よりも、情勢の落ち着いた他国の官府に引き取って貰った方がよいのだろうか。  海客は巧では場合によっては激しい迫害を受ける。奏や範では技術をもたらす海客は優遇されるという話だが、この幼い少女が何かの技術を伝えられるとも思えなかった。結局、この子に一番必要なのは面倒を見てくれる庇護者だ。どこに行っても、戸籍を渡してくれても、優遇されるところに行けても、それは恐らく変わらない。この少女は本当なら、まだ母の腕の中で愛されていればそれで良い年頃なのだから。
(少し…様子を見るかな…)
 桓魋は腕の中で眠る少女の髪をもう一度指で梳く。 この子の居場所を作らなくては、と眠る少女の横顔を見ながら――思った。

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 それから、三日、陽子は高い熱を出して寝込んだ。夢現な意識の中、時折額に冷たいものがあてがわれたりする感覚で、びくりと目を覚ますが、また微睡みの中に引き戻されていく。そっと頭を撫でてくれる乾いた手の感触だけが、気持ちよくて目を閉じた。 そして、桓魋に助けられてから三日目の朝、鳥のさえずりが響く音で、陽子は目を覚ました。
「…?」
  ゆっくりと、景色が陽子の視界を彩っていく。舎館の高い天井の板が目に映って、陽子は思わず目を瞬いた。その時隣でした物音に、陽子は驚いて振り向く。そこでは、陽子が最後に会った青年が、床几こしかけに座ったまま、船を漕ぐように眠っていた。ふらふら揺れる頭をじっと陽子が見てると、不意に揺れていた頭がそばの柱に激突した。
「い゛っ?!!」
 陽子が痛そうに顔を顰めた途端、青年が声を上げて呻いた。  青年は額に手を当ててしばし悶絶していたが、次の瞬間はっと、起き上がって自分をまじまじと見つめる少女の姿に気がついた。照れくさげに頬を掻きながら、青年は顔を綻ばせた。
「お、起きたか!大丈夫か?熱はどうだ、下がったか?」
桓魋は陽子と額と額を合わせ、満足そうに頷いた。
「…大丈夫そうだな」
 呟いた桓魋は陽子の顔を覗き込む。翡翠の瞳が煌き、陽子は思わずぱちぱちと瞬きした。
「湯冷まし、飲むか?喉が渇いただろう。腹も減ってるよな?ちょうど今…」 言いかけて、桓魋は自分をきょとんと見つめる少女の表情に気がつく。あぁ、そっか と桓魋は額に手を当てた。
「お前さん、海客だったな…。じゃあ俺の言葉も分からないか…」
 少し硬い表情になった陽子は、桓魋を臥牀の上から見上げる。それに気がついた桓魋は、ふっと目元を優しくして少女の頭を撫でた。
「安心しろ、大丈夫だ。お前の居場所は俺が作ってやるから。それまで、ここで好きなだけ過ごせばいい」
少女は桓魋の手のひらの感触に、少しだけ表情を緩めた。桓魋は微笑んで、卓子の上に置いてあった盆を陽子の前に持ってきた。水差しの中の水が揺れ、複雑な光を房間の中に弾く。桓魋が湯呑に水を注いで陽子に渡してやった時、トントンと背後から扉を叩く音が響いた。舎館の主人の板越しでくぐもった、ガラガラ声が続く。
「青辛さん、麦州よりお届け物が到着していますが、どうなさります?」
お、来たかと呟いた桓魋は立ち上がり、扉を開けて主人から荷物を受け取った。
「ありがとう」
その場を立ち去ろうとした主人に、桓魋はあぁ、と声をかけて引き止める。
「ひとつ食事の注文をしたいんですが…。何か、病み上がりの子どもが口に出来るような湯菜を、作って持ってきてはいただけませんか」
了承の意を示した主人を見送り、桓魋は荷物を抱えたまま扉を閉めた。  振り返れば、じぃっと桓魋が抱えるものを興味深げに見つめている陽子に、桓魋は笑う。 同じようにじっと陽子を面白そうに見返した桓魋は、にっと口元に何か含んだような弧を描いた。
「気になるか?これはな、俺の実家に頼んで送ってもらった物だ」
きょとんと首を傾げる陽子に、桓魋は目の前で包の中身を開けてみせる。臥牀から滑るように降りて、桓魋の元まで歩いてきた陽子は中身を見て思わず声を上げる。 桓魋は引っ張り出した物を目の前で広げてみせた。
「俺が幼い頃に着ていた袍衫だ。尺が合えば良いんだが…。お前ちびすけだからなぁ。被衫(ねまき)で外を出歩くのも嫌だろう?女物のやつがあれば良かったんだが、なんせ、野郎ばかりの家系で…。俺のお古で申し訳ないが、新しい着物を新調するまでは少しこれで我慢してくれ」
 陽子は目を瞬く。 お古――といっても、その生地は信じられないくらい上質な、絹のような触り心地だった。鮮やかな浅葱色の布地が薄く光を弾く。指の間を流れていく生地に、綺麗――と思わず陽子は見とれた。
(なんだか…七五三みたい…)
  しげしげと興味深げに着物を見つめていた陽子は、並べられた男物の袍や袴、大袖(きもの)(わたいれ)褞袍(がいとう)を手に取る。桓魋に向かって、服を着る動作をしてみて、着てもいいかと服を指差す陽子に、彼は笑って頷いた。ぱっと顔を綻ばせた陽子は、いそいそと衝立の裏に衣類を持って消えていく。 しばらくして、もたつきながら、上手く着こなせないながらも出てきた陽子に、桓魋は笑って裾を直してやった。きちんと着付けた陽子をまじまじと見た桓魋は思わず感嘆の声を漏らす。
「似合うじゃないか。少し袖が長いが、捲れば問題ない…か。うん。よく似合ってる」
よしよしと頭を撫でてやったら、陽子は嬉しそうに笑って、房間の中をきゃっきゃっと走り回った。陽子は、はしゃいで桓魋の足にしがみついたり、よじ登ったりする。
(良かった…。少しでも元気になって…)
少女が元気になったことで桓魋は少しだけ胸をなでおろす。心配事が消えたわけではないとは思いながらも、この無邪気な少女と一緒にいる時間は桓魋の心を和ませた。
(未だ、曹真たちの処分は決まっていない。人攫いなんてとんだ腐ったことに手を染めていたとはな…)
 国が、荒れている。
 桓魋はふと心に過ぎった影から目を逸らすように、少女の髪を撫でた。人攫いが蔓延る世の中、それは即ちこの国の現状が犯罪者を取り締まるところまで追いついていないということだ。玉座に王がいなければ、国が荒れていく。妖魔がはびこり、病が蔓延し、土地を、人を蝕んでいく。前景王の比王は、二十三年という短い治世を終え崩御した。蓬山では既に麒麟の卵果が孵っている。新しい麒麟は〝麒〟だと聞いた。既に黄旗は上がり、景麒は王を選定出来る年頃であることを示しているのだが、未だ昇山者の中から王は出ていない。
 桓魋は生まれた時から王のいない世界で生きてきたため、逆に玉座に王が在る状況が想像できない。荒れた自国の現状しか、自分は知らないのだ、と桓魋は空を睨む。それでも、少しでもこの十二国一荒れていると言われている、慶の役に立とうと思い立ったのはいつの頃だったか。お前の、その腕っ節を国のために活かせ、と両親は桓魋の州師の試験を受けようかと迷う背を押した。
――俺は、一体、何がしたい。この王がいない世界、たった一個人に一体何が出来るというんだ。
心の奥底で未だに残る何か、出会った時より格段に顔色が良くなった少女、玉座空いたこの国の行く末、様々なものが脳裏をよぎる。陽子は遊ぶのをやめて、桓魋の膝に手を置いて不思議そうに青年を見上げている。桓魋は苦笑して陽子を見つめる。 一瞬苦いものが喉にこみ上げた時に見た、少女の真面目くさったあどけない表情だけが、眩しかった。

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 陽子は、桓魋が仕事のない間は、彼のそばを離れずに一日中ついてきた。小さな足でとことこ後ろから付いてくる様子は、正直に言って猛烈に可愛い。大商家青家といえど、男所帯にこのような可愛らしい光景などある訳もなく、おやつの時間が来るたびに、毎回殴り合いの喧嘩が始まる始末だった。あどけない表情でついてくる陽子をひよこみたいだと心のどこかで思う。桓魋がその体を抱き上げてやれば、きゃっきゃっと嬉しそうに陽子は笑顔で手をぱたぱた振った。仕事に出かけるときは、寂しそうにしながらも、手を振って桓魋を見送り、帰ってきたら走って房間から飛び出してきて、彼の腕の中に飛び込んでくる。
ある夜半、いつものように臥牀を陽子に譲り、自分は榻に凭れて眠る桓魋は、何かに起こされるようにして目を覚ました。 いつもこの時間帯に感じる、夜の寒さを感じないことに、桓魋は少し驚く。
(何だ…?夏でもこの時間は肌寒いんだが…)
ふと、臥牀の方を見れば、そこはもぬけの殻だった。眠っていた筈の少女の姿は無い。え と思ったその時、お腹のあたりに何か温かいものに気がついて桓魋は視線を落とした。落として――目を丸くした。
「…ちびすけ?」
そこでは、桓魋の膝の上に座って、抱きつくように胸に頭を預けて眠る陽子の姿があった。小動物のように丸くなり、すぅすぅと寝息を立てる少女は、温かい。(ふとん)を引きずってきたらしく、それが少女と桓魋の足元を覆っていた。目を瞬いた彼は思わず――微笑む。
 少女が風邪をひかないように、衾を陽子の肩にかけた桓魋は、再び夢の世界へと戻っていった。そしてその日、陽子は桓魋が目覚めた後、臥牀の上で目覚めることとなった。

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 何か焦げ臭いような、鼻をつくアンモニア臭が、どこかから漂っている。陽子は臭いに起こされるように、眉根を寄せて、瞼を開けた。
「ぅん…?‥あれ?」
ぱっと目が覚めた陽子は臥牀から体を起こす。夜中に榻で寝ていた桓魋のところに行ったはずだったのだが、気がつけば元いた場所にきちんと衾をかけられて戻っていた。キョロキョロと辺りを見渡すが、桓魋の姿はどこにもみとめることが出来ない。振り返ったとき、僅かに開かれた扉から不思議な異臭がしていることに気がつく。 陽子は顔をしかめた。
「…この臭い…なんだろう?」
被衫(ねまき)のまま、素足のまま、臥牀から滑り下りた陽子は扉を開けて房間を出た。そろそろと、陽子は異臭のする方へ足を進める。きょろきょろと辺りを見渡しながら、廊屋を歩くが、いつもは人とすれ違うのに今日は誰ともすれ違わなかったことに陽子は首を傾げた。 食事をしている飯堂に足を踏み入れれば、そこも同じように、がらんと人気がなかった。
 ただひとり、桓魋の後ろ姿が調理所で揺れている。目を瞬いて、陽子は桓魋の姿を見つめる。どうやら異臭の元はそこからしているようだった。   物音に気がついた桓魋が振り向き、陽子に向かって笑った。
「よぉ!起きたか、ちびすけ。今日は仕入れのための休業日だって、ここのオヤジに言われちまってな。俺たち以外客はいないんだ」
よっと桓魋は作っていた朝食らしい異臭を放つ異物を皿の上に盛る。陽子は自分の背丈より高い椅子を引き、ぴょんと飛び乗った。桓魋は皿を卓子の上に乗せながら、言葉を続ける。
「いやぁ~。食材は自分で買って、厨房を使って自分で作れって言われてしまったから、作ったんだが…」
後ろ頭を掻く桓魋。だがそれよりも、陽子は皿の上の得体のしれない物体に目が釘付けだった。桓魋も席につき、匙を陽子の手前に置く。 なぜか、沈黙が落ちる。 料理(?)を凝視したままの陽子を気まずそうに見ながら、桓魋は声を出す。
「…ま、見た目は悪いが、味はうまいかもしれんから…食うか」
 陽子は一瞬息を呑んで、匙を掴む桓魋を見たが、渋々自分も匙を手に取る。 そして、桓魋は豪快に、陽子は恐る恐る匙で食材らしきものを掬い…口に入れた。 瞬間――
「「?!!」」

この世の終わりのような味がした。

口に入れたものを思い切り吹き出したのは二人同時だった。 猛烈に咳き込みながら、目に涙をためながら二人はゲホゲホ咳き込む。 水を口に含んでも、尚吐き出しそうになる陽子は、目を見開いて必死に吐くまいと耐えている。桓魋は桓魋で、口を抑えたまま、その凄まじい味に無言で堪える。 もはやこの物体を口に含んでいることが恐ろしい。
(ま、不味い。我ながらこれは‥これは不味すぎるだろう…)
そう思いながら陽子を見れば、陽子は顔を真っ赤にして唇をぎちぎちに結び合わせて目を見開いていた。桓魋は顔を真っ青にして目と口元をしょぼつかせた顔で陽子を見つめる。そして陽子も目を見開いたまま桓魋を見つめる。その次の瞬間――
「「!!…ぶはっ?!!」」

酷い味に耐える二人の顔は味相応に凄まじいものだった。

桓魋と陽子は、今度はお互いの顔に盛大に吹き出した。 ゲラゲラと椅子から落ちて笑い転げながら、二人は床で悶絶する。舎館の大門からは、一階の飯堂の様子が垣間見える。道行く人々が不審そうな顔で桓魋と陽子を横目で見ていったが、二人はそんなこと関係なしに、転がり落ちた床の上で腹を抱えて笑い倒していた。
「‥酷いな!」
そう言って、料理を指差して舌を出せば、陽子はくすくす笑って同じように舌を出す。
「いやぁ‥にしてもどうすっかな、これは‥」
桓魋は片眉を跳ね上げ、頭を掻く。 どうしようかと料理に視線を落とした桓魋の腕をとんとんと陽子の小さな指先が叩く。顔を上げた時、陽子が目を輝かせて自分の胸を掌で叩いてみせた。目を瞬いて少女を見つめれば、少女は厨房を指差し、そして何かを言いながら、トントンと自分が包丁を扱うような手真似をしてみせる。そのちょっと得意げな顔に桓魋は目を丸くした。厨房を指差して、料理を指差して、桓魋は思わず驚いた声で呟いた。まさか――
「ち、ちびすけ、お前が朝飯作るって言ってるのか?」
少女は満面の笑みで、少しだけ胸を張ってみせた。 その後、陽子は卵を使って、目玉焼きを作ってみせた。黄身は二つとも潰れたが、それは桓魋が作ったものより遥かに美味しかった。陽子は母親が目玉焼きを作っていたのを、やりたいと駄々をこねてやらせてもらったことがあったのだ。 桓魋は不思議そうな顔で目玉焼きをつついたが、これが蓬莱の料理か、などと言いながら美味しそうに全部食べた。その日の朝食――桓魋の殺人的に不味い料理のあと笑い転げ、拙いながらも陽子が一生懸命作った美味しい料理を食べたこと――は、二人にとっては忘れられないものになった。

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最初は何が起こったのかも分からないまま、ただ闇雲に帰り道を母を探していた陽子だが、徐々にここは自分がいた場所とは全く違うということが、幼い彼女にも理解できるようになってきていた。それでも、やっぱり帰りたいという望みは、捨て去ることはとても陽子には出来なくて。そして桓魋に助けられてからしばらくたった頃には、桓魋が出かけた後、舎館から抜け出して帰り道を探すことが陽子の日課となっていた。 桓魋と朝食をとったその日の午後、陽子はいつものように舎館を抜け出して、帰り道を捜しに行くことにした。桓魋が帰ってくるのは大体いつも夕刻頃だ。一度その時刻まで散策をしていたら、陽子がいないことを心配した桓魋が捜しに出るという事態が起きたので、それからは陽子は彼が戻る時刻には舎館に戻るようにしている。
(今日はどこに行ってみようかな‥)
ふと陽子は、視線を森林へと続く獣道にやる。今までこの道は通ったことが無かったと思い返しながら、陽子はその道に足を踏み入れた。
 濃い草木の匂いが立ち込める中、どこからか水の流れる音がして、その微かな音の方に吸い寄せられるように進んでいく。足を下ろしていた道は草が生い茂り、もはや道とも呼べないものになってきていた。僅かに見えていた地肌が緑に覆われた時、陽子の目の前を大きな葉がしなだれて塞ぐ。水音は葉のカーテンを透かした向こう側から聞こえてくる。そっと葉を持ち上げた陽子。
向こう側を覗き込んだ少女は、自分が見たものに小さく声を上げた。
 葉の向こう側では、小さな湧泉からこんこんと水が溢れていた。ふっさりとした芝が水源を囲み、その傍には小さな木の小屋がある。野花が足元を彩る中で、ひとりの老人が、流れる水を見つめていた。口元から顎にまで蓄えられた白銀の髭を陽子は驚いて見入る。 まるで仙人のようなその人は、陽子が匪賊(ごろつき)に攫われたあの日、彼女が料亭で見かけたあの老人だったのだ。


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