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その出会いは、私の世界のすべてを変えた。 桓魋は鬼のような速さで、目の前の車に向かって疾走する。風が髪を嬲るのを感じながら、桓魋は手にした長槍を握り締めた。重い槍の切っ先は鈍くなめらかな光を帯びる。残照を弾く刃は、同時に桓魋の横顔も映し出していた。 (逃がすか…!!!) 瞳に映る車の影が歪む。桓魋は足に懇親の力を込めて、車の前方に向かって高く跳躍した。ひとりの青年の体が、空中で翻る。 ずん、と音を響かせて桓魋は車の走行を止める形で着地した。砂煙が舞い上がり、目の前に緩やかな紗をかける。褐色の肌の御者の男がぎょっとおののいた表情をしたのを、桓魋は見た。車が音を立てて止まり、揺れた車内から曹真が顔を出した。 「くそっ…!!もう追いついたのか、この化物…。後の奴らはどうした…!足止めもできねぇのか、あいつら!!」 桓魋は冷えた瞳で曹真を見やる。 ゆるりと長槍の刃先を曹真に合わせ、低い声が地面を這った。 「ここまでだ。検問を力づくで突破とはいい度胸じゃないか。その意味が分からんほどお前らも阿呆ではないだろう。 「おのれ…桓魋…!!」 歯を食いしばる曹真の顔には朱が登っている。あまりの怒りでわななく唇を引き結ぶ彼は、腰にはいた剣を抜き放つ。刃が暮れかけた空と、薄い光を弾き出した。 「ここまでか…!お前に頼んだのが間違いだった…!!桓魋!!!」 「そりゃあとんでもない褒め言葉だ」 皮肉を呟く桓魋に、雄叫びを上げながら、曹真は車から飛び降りるようにして斬りかかる。桓魋の視線が鋭さを帯びたと同時に、空中に光の筋が走った。 高い金属音が響き渡り、白刃と白刃が弾きあう。 曹真は桓魋に向かって死ね、死ね!と叫びながら刃をふるい続ける。 「あああぁああ!!!」 「…!!」 桓魋は身を翻して長槍を振りかぶる。白い泡を吹いて尚斬りかかる曹真の胸板を、桓魋は思い切り薙いだ。鮮やかな赤の飛沫が飛ぶ直前、桓魋は一拍おかずにその場から飛びすさった。 再び白銀の筋が空を裂く。 振り向きざまに、褐色の肌の男が雄叫びをあげて斬りかかってきたのを斬り捨てたのが、桓魋がその時長槍を振るった最後だった。 「はぁっ…はぁっ…」 長槍の切っ先の血糊を振って落とした時には、胸を押さえて倒れた曹真と、褐色の肌の男はそのまま地面で呻いていた。虫の声だけが、土の中から、緑陰の奥深くから染み入るように響く。 何もかもが、空虚だった。 「はっ‥」 喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。桓魋はその様子を見つめながら、静かに心の中で囁く声を聞いた。 お前は、一体俺の何を見ていたんだ。俺がお前の悪行を止めることで壊れてしまうくらいの友情だったのなら、俺たちの間に今まであったのは、一体…なんだったんだ。友人、裏切り者、殺したい標的、お前にとって俺はそれほど簡単に揺らぐ対象だったのか。 問うても尚、応えなど返ってこないことは桓魋にとっては分かりきったことだ。ふいに心の奥底を刺した痛みに、桓魋は思わず顔を歪める。曹真に向かって、彼は背を向け最後の言葉を言い放った。 「命に支障はない傷のはずだ。門兵が来るまでそこで大人しくしておくんだな。今動けば出血が止まらなくなって洒落にならん事態になるぞ」 吐き捨てた声に、感情は混ぜない。 言い終えた時、遠くから、武装した兵卒仲間が駆けてくるのが見えた。駆け寄って、彼らは桓魋にねぎらいの言葉をかける。桓魋は少しだけ微笑んで、兵卒たちが曹真たちの傷の手当をするのを任せる。 (終わったか…) 背後からした呻き声を、それ以上聞かずに桓魋は車へ歩み寄る。 半壊した木部屋は (…?) そっと指に絡んだものを引き上げてみると、それは子ども特有の柔らかい髪の毛だった。 鮮やかな真紅が、微かに桓魋の掌できらめく。 桓魋は一瞬 訳が分からず眉根を寄せる。だが視線を泳がせた次の瞬間、地面に残された小さな足跡を見つけ、桓魋はますます眉間の皺を濃くした。違和感が、彼を襲う。 (?なんだ‥?) 視線で辿ってみれば、真新しい足跡が山奥に続いているのに気がつく。何か無性に嫌な予感が、桓魋の胸にせり上がった。 (これは‥) 振り返れば、曹真たちが痛みに呻いて地面でのたうっている。彼らの服に、自身が見つけた紅の色の毛が絡んでいるのを見た桓魋は、自分の中でふと湧いた考えに、背筋が寒くなった。すべてが終わったと思った矢先、脳裏に過る子どもの毛、微かに残された血、検問を潜れない訳が、それぞれ静かに桓魋の中で膨らんで繋がろうとしていく。 (まさか…) うめき声だけがその場に満ちる。目を見開いた桓魋の中を嫌な予感が駆けていく。 気がついた時には、桓魋はいてもたってもいられず、その場から身を翻していた。 「桓魋?!」 兵卒仲間の驚いた声が響く。 だが、その言葉はもはや桓魋の耳に入っていない。青年は恐ろしい速度でそこから消えていく。 桓魋は自分の考えを確かめるように、足跡を追って山奥に駆け込んでいった。 ::::: 日だけが静かに暮れていく。薄闇が覆い始めた山道を、桓魋はただひたすらに走っていた。 「はぁっ‥はぁっ‥」 体を纏う空気は徐々に冷えを含んできている。額に浮いた汗をぬぐい、桓魋は辺りを見渡した。 目を凝らして、慎重に動くものがないかを探す。足跡が途絶えたのはこの近辺だ。静まり返る周囲に耐えかねるよう、桓魋は唇を噛んだ。 (いるとしたら、この辺りなんだが‥) ひょっとしたら、自分の思い違いか。 そんな思いが脳裏を掠めたとき、そんなはずはない、と同時に誰かが心の中で叫んだ。 もう一度、桓魋は目を細めて、周囲を見渡す。その時、桓魋は何か赤いものを視界の端に捉えた。 「‥!!」 桓魋は即座にその赤に向かって駆けていく。視界が揺れるが、徐々にその赤い色は鮮やかさを深くしていく。ぐったりと倒れる、ぼろ雑巾のような体から、だらりと褐色の腕が垂れているのが見える。 それが自分の思った通り、幼い子どもだということに、駆け寄りながら桓魋は気がついた。 (なんてことだ‥!!) 桓魋は小さな体の下に腕を滑り込ませて、そっと紅の少女の体を抱き上げた。真紅の波が地面に流れ、体中に出来た擦り傷には泥が刷り込まれている。自分が見たことのない不思議な衣を纏う、少女だった。 桓魋の腕の中、声に揺り起こされるように、少女はぼんやりと瞼を開ける。その美しい翡翠の瞳に、桓魋は思わず息を止めて見入った。 焦点の合わない瞳が揺れ、桓魋をゆるりと捉える。その瞬間、少女の瞳に光が宿り、びくりと体が跳ねた。 「!!」 甲高い悲鳴が響き渡る。その声を腕の中の少女が発した、と気がつく前に、驚いた桓魋の腕がゆるんだ。その瞬間、少女は身を捩ってその腕を振りほどき、たたらを踏みながら夢中で駆けていく。闇に紛れていこうとする少女に、桓魋は叫んだ。 「!待て!!そっちは危ない!!」 少女は聞こえていないのか、ふらつきながらも足を止めようとはしない。桓魋は迷わず、彼女の消えた方角へと身を翻した。薄闇が足下から這い上がってくる。上空から不穏な影が落ち始めていることに、桓魋は気がついていた。 ―まずい。 息を止め、上空を見上げる。一日が、生気から死気に転ずる。昼は人の時間だが、夜は妖魔の時間だ。今現在、王を玉座に迎えていない慶国では、妖魔の徘徊は珍しいことでもなんでもなかった。毎日、毎日、どこかしらで慶の民が湧き出た妖魔に殺されている。閉門の時刻までに戻らなければ、野木を運良く見つけられぬ限り、妖魔に殺されるのを待つのが落ちだろう。 桓魋は己の手のひらを痛いほど睨みつける。幼い少女の、翡翠の目を見開いた恐怖の表情が、桓魋の胸を過ぎった。 少女から手を放すべきではなかった。 何故、少女があれほど怯えていたのか、どうしてあれ程擦り傷を負っていたのか、傷を追うくらい必死に、あそこから逃げ出さなければならなかったのか。先ほど少女を抱く腕を緩めてしまった、手を離してしまった自分自身に吐唾したい気分だ。 (くそ…) 確か、この先には崖があったはずだ。一歩踏み外せば命は無いだろう。 ――次こそ、決して手を離さない。 桓魋は唇を強く噛む。駆け抜けながら、桓魋は少女の消えた方角に、強い視線を向けた。 ::::: 陽子は必死に荒れ道を、すり傷や切り傷を増やしながらめちゃくちゃに進む。何もかもから逃げ出すように、自分が恐怖で目を見開いていることも知らずに、少女はただただひた走る。 すべてが、恐ろしかった。 ふいに、先ほどの青年の顔が、陽子の中で蘇る。少しだけ鋭さを顔立ちに持ちながら、穏やかな表情を持った彼は、陽子が恐怖で叫んだ瞬間、驚いて腕を緩めた。彼の手を振りほどいて逃げ、陽子は今ここで走っている。 何もかもから逃げ切ったつもりだった。 だが、そう思った次の瞬間、陽子は背後から走った物音に驚いて振り返る。 そこに、先ほど手を振りほどいた青年が駆けてくるのを見た瞬間、陽子は思わず呆気にとられた。こんなに早く追いつかれるなんて、追ってくるなんて、思っていなかった。青年は陽子の姿をみとめると、速度を上げて駆け寄ってくる。 恐怖が急激に這い上がり、陽子を焼き尽くす。ここで初めて出会った男たちの残像を、陽子はその時見た気がした。 「‥いや…!!」 陽子は顔を覆って叫ぶ。すべてを振り払うように、めちゃくちゃに腕を振り回して逃げた。男たちの虚像が陽子に迫る。 「来ないで‥!!」 恐ろしい眼差しが、指先が、生臭い虚ろな匂いが、陽子を恐怖で焼き尽くす。 「いやぁ―っ!!!」 そして、虚像が陽子を飲み込もうとした、刹那――力強い腕が、陽子を包み込むように…抱きしめた。声が、響く。 「大丈夫だ…!!」 陽子は悲鳴を上げる。もう自分が何に対して恐怖を抱いているのかも、分からない。分からないまま、狂ったように喉から血が出るくらいに叫んだ。青年がもう一度、先ほどと同じ、陽子にはわからない言葉を叫ぶ。 (曹真‥お前はこの子に…何をした!!!) 異常なほどに怯えを見せる少女、幼い子どもから透けて見える、彼女に恐怖を植え付けた男に、桓魋の中で怒りの炎が、燃える。 たとえ、それが少女に意味をなす言葉にならなくても、伝わらなくても、桓魋は少女を抱きしめる。じっと真摯に少女を見つめたまま、青年は言葉を零した。 「大丈夫だ‥。俺はお前に危害を加えない。怖かっただろう‥。安心しろ、俺が守ってやる」 陽子は訳もわからないまま、自分の持てるすべての力を振り絞って、必死に自分を抱く腕から逃れようとした。恐怖に焼かれながら、めちゃくちゃに自分を抱く腕を叩き、押し返し、噛み付く。だけど、その腕は微塵も緩まることなく、更に陽子を包み込んだ。どれだけ暴れても、桓魋は決して陽子を放さない。 「いや‥!!放して‥!!お願い‥放して!!!」 自身を傷つけるほどの強さで抗っても、その腕は更に強い力で抱きしめ、陽子が自分を傷つけることを許さなかった。 だけどそれでも、暴れて、暴れて、暴れて。少女に青年の言葉は分からない。それでも、暴れ疲れた時、ゆっくりと顔を上げた陽子は、自分を見つめる優しい瞳に、初めて気がついた。 すべての力を使い切るまで暴れた時に、自分が信じられないくらい優しく温かいものに包まれていることに、陽子はようやく…気がついた。 空虚な表情をした陽子の中で、暴れきって動く力も無い少女の心で、ぽつりとだれかが呟いた。 (あったかい‥) その瞬間――何かが音を立てて…切れた。 喉の奥から一気に熱いものがこみ上げ、ふるふると震える唇を噛み締めた陽子は、目の前の自分を抱きしめる青年を見上げる。 優しい瞳と目が合った途端、陽子は声を張り上げて、泣いた。 始めは細い糸のように、それから、何かが爆発したように。 わあわあ声を上げながら少女は顔を真っ赤にして、火が付いたように悲しみすべてを吐き出すように、泣いた。母とはぐれ、ひとり残された心細さを訴えるように。青年に自分が抱え込んでいた恐怖を吐き出すように。 それは陽子を痛めつけた男たちには決して流させることが出来なかった〝涙〟だった。 何故その時、彼に自分をさらけ出すことが出来たのか、彼を信用することが出来たのか。それは当時の陽子にも、そしてその後の陽子にもきっと分からないだろう。ただただ、獣のように、張り裂けんばかりにめちゃめちゃに泣きながら、陽子は桓魋の首に、自分の涙の受け手になってくれている人の首にしがみついた。しがみついて、尚、泣いた。少女を抱きしめる青年は唇を噛み締め、彼女を抱く腕に力を込める。強く、優しく。 「怖かったな‥。泣いていいんだ。泣けば、いいんだ」 日が暮れていく中、薄闇が世界が包む中、心に突き刺さるような泣き声だけが響き渡る。 それは、少女がその世界で初めて見つけた―――かけがえのない〝出会い〟だった。 |
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