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雪は喜びも悲しみも白に埋める。



 閉鎖的な王宮の空間から一歩抜けてみれば、そこにはただただ深く抜けるように澄み切った空が広がっていた。簡単な荷物を背負った霖雪は歩いてきた道のりを振り返る。市街地にまで足を伸ばせばさすがに見える景色も変わる。だが上空に浮かぶ海のような深さのとけるような青にも、霖雪はただ目を眇めただけだった。民居もまばらに点在するこのような辺境にまで足を伸ばす気になったのはなぜだろう。ひょっとしたら乱も終わり陽子も戻らない今、一度自分自身の心境を落ち着けたかったのかもしれない。
 舒栄との決戦前に最後に陽子と交わした言葉が蘇る。行くなと言う霖雪に対し、彼女が発した言葉は、ありがとうという言葉だった。そしてどこか突き抜けたように穏やかな顔で、必死な表情をする霖雪に、彼女はこう言った。
『霖雪…貴方が苦しんでいたことは、分かるよ』
 少しだけ、寂しそうな表情だった。鳥のなく声が遠くでした。
『貴方は貴方の大事な人を探し続けていると言ったね。そして貴方は、私のそばに私の親友が見えると言ったね。人々のそばにいる今は亡き人が、貴方には視える』
 だったら。
『もう…受け入れて…気づいてあげてくれ…きっと貴方の隣にいるだろうその人にも』

 陽子の言葉の意味は、霖雪にはわからない。

『目を閉じて、心を空っぽにしてごらん。頭はうるさいだろうけど、ちょっとそれを静かにさせてみて。次に目を開けた時には、きっと頭の良い霖雪が見落としていたものが、見えるはずだから』
何故こんなことを今思い出したのだろう。ただ、あの時は相手にしていなかった陽子の言葉をその時はただ素直にやってみようと思った。自分のとなりを見ても相変わらず誰もいない。目を閉じて、深呼吸する。心を空っぽに、ぴくりと肩を押されたように、呼吸するように霖雪は振り返る。
 初めて思考を切った霖雪が瞼を開けた。

 隣に姉の環昴がいた。

「…は…?」 
 呼吸が止まる。
 目に映るのはいつも見ていたまんまの姿、だらしなく着崩して、ボサボサの髪をした明るい笑顔。―――姉は微笑んでいた。
 見つかる筈がなかった。

 だって死者が見える当の霖雪が、本当は姉の死を受け入れられていなかったのだから。

 だからずっとそばにいた姉の存在に、姉の死を拒絶した彼は気づくことができなかった。頭では分かっていても心はついていかないことを知らぬまま探し続けた。どうして姉だけが見えないのだろうと問い続けながら、姉が現れてくれないことに痛みを覚えながら、その答えにさえたどり着けないまま。本当は当の自分が姉の死を受け入れられていないということにさえ気づけぬまま。必死に探し続けた。
 だけど最初から。彼女がいたのは積翠台でも、天国でも地獄でもなく――霖雪の隣だったのだ。


 ずっと、ずっと。


 解けない疑問に呼吸が苦しい時も、姉を探している時も、人生に意味を見いだせない時も、新しい出会いに初めて人知れず心躍らせた時も。本当はずっと、そばにいた。
 言葉も出ない。ろくに声も出ない。誰かこの感情の名を―――教えてくれ。
 喉から出るのは、引き攣れた音だけだ。
「う…あ…あぁああ…!!!」
 次の瞬間。顔を歪ませ、霖雪は人生で初めて声を張り上げて泣いた。立ったまま、涙も拭わず。張り裂けるような声が流れるまま。百用意した言葉も、かなわなかった。自分の中にあった気づきもしなかった激しい感情を前に全てが一気に流れていく。言葉が出ないことが苦しくて、心が形にできないことが悔しくて、かき乱したくなるような感情に顔をぐちゃぐちゃにして、そしてそれでも分かっているよと言いたげに微笑む姉の表情を見て―――。


 そんなものなどなくてもとっくに通じ合っていたことを知る。


 その時彼は初めて、涙が温かいということを知った。やっと安心した死者は、微笑んで命の環の中に還ってゆく。霖雪の頭をぐしゃりと撫でて、どこか飄々と姉らしく豪快に歩き去っていく。涙と共に、霖雪は微かに微笑んだ。死人と称される彼は、呼吸する。鼓動の音を、姉の分まで響かせる。姉が消えていった方向とは反対側に、光射す方へ振り向いた霖雪はまぶしさに目を眇める。
 白に覆われていた景色が色を見せる。感情が色を落とし、止まっていた時が動き出す。

 霖雪には新しい明日が待っている。

:::::


奇跡の意味を、貴方は知る。


 春の匂いが辺りに満ちる。嘘みたいに平和になった世界は、自分がかつていた激動の世界を遠く優しく曇らせる。
足を止めた豪槍は空舞う光を振り仰ぐ。
 豪槍が久しぶりにその場所を訪れようと思ったのは、そこが陽子と桓魋が消えていった方角がよく見える場所だから。そして平和になった今、何故か唐突に妹の顔ばかりが浮かぶから。大きな杏の木が穏やかに佇むこの場所は、かつて妹が行方不明になった 場所だ。皆が諦めていく中豪槍だけは必死になって探し続け、誰もが諦めかけた7日目の晩、この場所で疲れ果てて眠る豪槍の肩を叩いたのは妹自身だったのだから驚きだ。
 一週間もどこに行っていたと怒鳴った豪槍に、雛杏は心底驚いてきょとんとした顔をした。その後消えていた時のことを聞いても、素敵な人に助けられたと応えただけで、ついに分からなかった。無事に帰ってきたから良かったものの、妹に何が起こったのか今ではもう知る由もない。
 豪槍は槍を持つ手に力を込める。
 その時、背後からこちらに駆けてくるような小さな足音が近づいてくる。どこかで聞いた幼い声が響き渡る。
「豪槍~!」
 振り向いた時、こちらに向かって手を振りながら駆けてくる少年だとばかり思っていた子どもの頭には、今日は二つのお団子が作られ、薄桃色の頭巾がかぶせられていた。
桃色の頭巾なんて初めてつけた、そう言いながら明明は頭を気にする。そして少しわくわくしたように豪槍を上目づかいで見上げる。
「ね、似合うかな?豪槍」
 だが残念ながら女心など知りもしない上に豪槍は服装に頓着する類の男ではなかった。豪槍は至極どうでも良さそうにあくびをしながらボリボリと頭を掻いた。
「あ?似合う似合わない以前にガキが何つけようがガキのままだろうが」
 次の瞬間鋭い蹴りが豪槍の足に決まった。
「?!いってえな!何しやがるクソガキ!!」
「バカ豪槍!!!それにガキって呼ぶな!!!」
「ガキにガキって言って何が悪いんだよクソガキ!!!」
 ギャーギャーと言い合う二人ははあはあと肩を上下させる。機嫌を損ねた明明はつんとそっぽをむく。
「ふんだ。せっかくこの前助けてくれたお礼にひとつ何か豪槍のお願い聞いてあげようと思ったのに」
「そうかそうか。だったら今すぐ俺の前から消えろクソガキ」
 再び不毛な舌戦が始まる。最終的に無駄な体力を使った二人は、大の字になって空を見上げていた。息を整えている最中に、明明が何かを話しだそうとする気配を感じた。身構えたが、明明がポツリと漏らしたのはまったく別の言葉だった。
「ねえ豪槍…王様、帰ってくるかな」
 風が流れる。その質問は、豪槍には答えられなかった。
「さあな…俺にはわからねぇよ」
 だが。
「俺は帰ってくるって――信じてる」
 桓魋と陽子が消えた方角を見つめ続ける。そうしていたら、唐突にあの二人が帰ってくるような気がしていた。少しの空白の時間の後、そっか、と明明は笑う。すりすりと豪槍に寄ってきた明明に、 豪槍は片眉を跳ね上げた。
「…何だよ」
「ねぇそういえば知ってる?ここは不思議なことが起きる場所なんだよ」
「?不思議なこと?」
 明明の瞳が笑う。
「神隠しが起きる場所」
 軽やかな声は、まるで夕日が綺麗な場所とでも言うようだった。
「はあ?神隠しぃ?」
「うん。神隠しにあった子はもう二度と戻ってこられない。神隠しに遭う子はもともと命が短い子で、別の場所で命を落とすんだ。本人も知らない短い命の終わりを見せないために姿を消して、どこかで人知れず天へと還る。だから帰って来られない」
「はっ…くだらねぇ」
 吐き捨てる豪槍に、明明は少し寂しそうな顔をする。
「…そんなことより、お前こんな所に俺といていいのか。そんな怪しげな話が出るってことはここは人攫いが出る場所ってこった。また親に心配かけんなよ」
 うるさい声が反応するのを待つ。だが、いくら待っても返事は返ってこなかった。
「…?おい、なんとか言えよ。クソガキ」
 体を起こして明明がいた場所を見る。だけどそこには誰もいなかった。微かに豪槍の夕焼け色の瞳が見開き、ゆるりと彼の首が周囲をめぐるように動く。
(おい嘘だろう…そんなまさか)
 そう思いながら明明を探すために進む足は緩やかに速くなっていく。だが心配とはよそに少し歩いた所で彼の視線の先に小さな子どもが遊んでいる光景が飛び込んできた。
 だが、ホッとするのも束の間、次の瞬間豪槍の顔から血の気が失せる。少女の上に薄い影が被せられたのだ。影は瞬きする間もなく深く濃い色合いになっていく。釣られるように思わず上を向いた時、豪槍は崖の上から突き出していた古木が耐え切れないように少女に向かって落下していく光景を見た。
「危ねぇ!!!!!」
 自分に降りかかっている危機に気がついた少女から悲鳴があがる。考えるより先にバネのように豪槍の体が動く。少女を庇うように跳躍して、豪槍の翻す槍が唸りをあげる。常人離れした力技で、次の瞬間豪槍は老木を木っ端微塵に破壊した。木屑が雨のように降り注ぐ中、本気で怒り狂った豪槍は少女に怒鳴る。
「おいふざけんな!!!心配かけさせんじゃねぇよクソガ…」
 だが、これ程怒っていたのにも関わらず振り返った豪槍の声は最後まで続くことはなかった。だって―――。そこにいたのは、明明ではなかったから。少女の小さな唇が震える。大きな目が呆然として豪槍を映す。亜麻色の髪が風に揺られる。
 時が止まる。何もかもが動きを止める。今自分に起こっている現実の意味がわからない。

 そこにいたのは、幼い日の妹だった。

 明明の声が蘇る。
『ここはね、不思議なことが起こる場所なんだよ』

「雛…杏…?」
 カラカラに掠れた声が、もつれてこぼれた。時が止まって、透き通った日差しが差し込む。少女の瞳が豪槍に焦点を結ぶ。次の瞬間、自分が死にかけたことと助けられたこと、怒鳴られたこと全てが押し寄せたのだろう少女は火がついたように泣き出した。昔聞いていたものとまったく同じ泣き声で。
「うあぁあああああん!!!」
「お、おい!」
 慌てて豪槍は幼い妹を抱き上げる。昔よくやってやったように抱きながら背中をさすってやれば、しばらくして落ち着いてきたのか、少女は豪槍を屈託のない瞳で見つめ笑う。
「う…う…助けてくれてありがとう、おにいちゃん。いのちのおんじんだね」
 まるで、まだ混乱の最中にいる豪槍など置いていくように。
「それにしても、おにいちゃん、なんだか私のお兄ちゃんに似てるねぇ。おにいちゃん今雛杏の名前呼んだし、おにいちゃんは私のお兄ちゃんのことも雛杏のこともしってたの?」
 首をかしげる雛杏に言葉が出ない。ようやく短く頷くことだけができた豪槍に、そっかぁと雛杏は笑う。じっと豪槍を見つめ、ちょっとだけ頬を赤らめた雛杏は髪を撫でて直す。
「おにいちゃんなんだか強そうでかっこいいね。ふふ!雛杏おにいちゃんみたいな人好きだなー。いつも雛杏を守ってくれるうちのお兄ちゃんもおにいちゃんみたいにかっこよくならないかなぁ」
 豪槍は目を眇める。妹を抱く手が震えた。掠れた声が落ちた。突き抜けるように鋭い痛みが胸を刺した。まだ混乱しているが、妹の問いにひとつだけ言えることがあった。
 なぁ鄒杏。

「…生き残れば良かったのは…お前の方だったんだ…」

「…えっ…?」
 雛杏が驚いて豪槍を見上げる。ぽつりと落とされた声。

 豪槍の表情はどこか呆然としていた。

 最後に傷つけた妹の表情が蘇る。のろのろと感情が、喉のあたりまでせり上げてくる。
「ほんとうに…クソ野郎だったんだ。なぁ鄒杏。お前の兄貴はよ。 暴力漢で言い訳しかできねぇ。挙句の果てにはてめえの短絡さを利用され、それさえ気づかないような大間抜け野郎だ。たった一つ自負していた強ささえごまかしの中…大事な…大事な妹さえ…守れなかった…奴なんだ…死ねばよかかったのはそいつの方だった…」
 言葉にして、やっとああそうだと豪槍は思った。
 喉が震える。呆然と雛杏は豪槍を見上げる。少女の唇が震える。次の瞬間、響き渡ったのは叫ぶような雛杏の激しい怒鳴り声だった。

「そんなことないもん!!!!」

 豪槍の瞳が見開く。
「おにいちゃんはお兄ちゃんのこと知ってるって言ってるけど全然分かってないよ!!!うちのお兄ちゃんはね、世界一カッコイイんだよ!!!いっつも危ない時に雛杏の所に来てくれるんだよ!!!自分が殴られても雛杏助けてくれるんだから!!!!ボロボロになっても助けに来てくれるんだから!!!!そんなの世界中でお兄ちゃんだけなんだから!!!!」
 顔を真っ赤にして雛杏は本気で怒っていた。
「私のお兄ちゃんは、誰よりも優しいんだからね!!!誰よりもかっこよくて、雛杏の自慢のお兄ちゃんなんだよ!!!!おにいちゃんがなんと言おうと、雛杏のお兄ちゃんは世界一のお兄ちゃんなんだよ!!!!お兄ちゃんがいいお兄ちゃんかどうかは決められるのは妹の雛杏だけなの!!!!私の大事なお兄ちゃんの悪口言うことはおにいちゃんでも許さないんだから!!!!」
 声が出ない。指先さえも動かせない。こんなことは初めてだ。そんな豪槍に気がつかず、雛杏は泣きながら激しく怒っていた。涙のような声だった。
「お兄ちゃんは…すごいんだから…!!こんなお兄ちゃんは…他にはいないんだがら…!!こんな…ごんな…だったひとりの…」
 支離滅裂になりながら、探す言葉は見つからない。一番伝えたい想いほど、確かな言葉で言い表せない。

「お兄ちゃんは…う…あ…お兄ちゃんは…雛杏の大好きなお兄ちゃんを…そんな風に言わないで…」

 何かが音を立てて崩れた。

 雛杏を抱く豪槍は膝からくずおれて―――立てないくらいに泣いていた。激しい顔で、声もなく。大の男が本気で泣き崩れていた。
「あれ…おにいちゃん?」
 勘違いした雛杏は的外れに狼狽する。そうしてもみじみたいな小さな手で、少女は男の頭を撫でる。
「あ…ごめんね、おにいちゃんのこと嫌いって訳じゃないよ、泣かないで、ごめんね…」
 違う。違うんだ。嗚咽も出ない。体がくずおれるくらいに涙が止まらない。呼吸も苦しいくらいなのに。反応もできない。激しい呼吸に声が混ざる。違うんだよ雛杏、酷いのは俺の方なんだ。なぁ涙よとまれ。頼むよとまれよ、妹の前なんだ。おろおろとする雛杏を豪槍は強く抱きしめた。腕に伝わる温かさに涙とともに謝った。
「ごめん…ごめんな…雛杏…」
 しゃくりあげながら、鄒杏は涙を拭った。
「いいよ…!じゃあ雛杏、仲直りのしるしにおにいちゃんのお嫁さんになったげる!…これでおあいこね!」
「あぁ…そうだな…」
 ようやく少しだけ微笑んだ豪槍に、雛杏は満足そうに笑う。そして大きく息を吸って、呼吸を整えた鄒杏は、押し流される風に振り向くように、どこか遠くを見た。もう行かなくちゃ、と少女は身をよじる。思わず豪槍の少女を抱く腕に力がこもる。焦りとかすれた声が漏れた。懇願していた。
「おい行くな…行くなよ、雛杏…」
「?そんなに雛杏が好きなの?おにいちゃん。ちゃんとお嫁さんになってあげるから今は待ってて。雛杏絶対…帰らなきゃいけないの」
 豪槍を見つめ少女は笑う。そのあまりに幸せそうな笑みに、豪槍は腕に力をこめることを忘れた。一瞬の間に少女は豪槍から飛び降り振り返る。光が差した。

「お兄ちゃんが、待ってるから」

 一際強い光が二人に差し込む。
 手を振った少女の姿は、次の瞬間には掻き消えていた。残されたのはたった一人、その場に立ちすくむ豪槍だけだ。明明の声が蘇る。

『神隠しにあった子はもう二度と戻ってこられない。神隠しにあう子はもともと命が短い子で、飛ばされた別の場所で命を落とすんだ。本人も知らない短い命の終わりを見せないために姿を消して、どこかで人知れず天へと還る。だから帰って来られない』

 そして豪槍はその時―――あの時の妹は、神隠しにあっていたことを知る。ここがあの時の妹が飛ばされた死を迎える筈だった〝別の場所〟であることを知る。妹の声が蘇る。さっきの姿よりずっとずっと年を重ねた妹の声が。かつては意味が分からなかったその言葉が、今という刹那を経て蘇る。


 お兄ちゃん。今という瞬間は、私にとってありえない奇跡なの。だから、たとえどんな終わりになっても私は大丈夫よ。だってたとえお互いを傷つけあう喧嘩の果てでも、それができることさえ私にとっては…奇跡なのだから。
だから…だからねお兄ちゃん。一つだけ確かな約束をする。私は絶対にお兄ちゃんの所に、一度だけお兄ちゃんに守られに帰ってくる。
 今という瞬間のために。貴方にもう一度会うために。本当は私はもうとっくに貴方に救われていることを示すために。今は意味がわからないかもしれない。でもいつか遠い遠い日―――お兄ちゃんは私の言う言葉の意味を知る。


 遠い未来で、貴方は――自分を否定する貴方が起こした奇跡を知る。


 今という時の意味を。こうして過ごすことができたかけがえのなさを。
大好きよお兄ちゃん。世界で一番。だからどうか忘れないで。お兄ちゃんは私のたったひとりの自慢のお兄ちゃんだっていうことを。私はもうとっくに貴方に救われているということを。

 願わくば、あの時私が気づきもしなかった奇跡の時を―――もう一度。

 一陣の風が吹き抜ける。立ち尽くす豪槍に、隠れていたのであろう明明がまろぶように駆けてくる。
「も~豪槍探してよ~!」
 豪槍はなんの反応もしなかった。不思議に思った明明は豪槍の顔を見上げようとするが、その前に彼が持っていた甲を被せられてしまった。驚いた声を上げる明明に豪槍の声だけが振り落ちる。甲の暗闇にのまれ彼の顔は見えなかった。
「おい…お前、ひとつだけ俺と約束するって言ってたよな」
だったら。
「大人になれ。絶対に…ガキのままで死にやがったら承知しねぇからな…」
 豪槍の顔は見えない。明明は訳も分からず、豪槍に抱きついて頷いた。何故か微かに豪槍の体は震えている。どこかが痛いのだろうか。明明は抱きつく腕に力を込める。
 ぽたぽたと被せられた甲に何かが落ちる音がした。にわか雨でも降ったのだろうか。

 振り向けば、大きな杏の木に立てかけられていた豪槍の槍の穂先が澄んだ光をこぼしていた。上空から雛を超えた杏の花弁の雨が降り注ぐ。


 空は快晴だ。 



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