back index next



 小鳥のさえずりが響き渡る。
 若葉色や萌黄色、様々な緑に分けられる色が、これでもかと鮮やかに足元で色を濃く滲ませる。斑の美しい緑の海の中、時折思い出したようにぽつぽつと黄色や橙色、赤色や青色や紫色の花が散っていた。
 そんな景色を自分とはまるで正反対だ、とあくびを噛んで見つめるのは、人斬りと恐れられる男、龍熄。気休めにもならないのかもしれないが、龍熄たちは今戦の跡をまわり生存者がいないかを確かめていた。
 世間では今、舒栄と塙王と靖共の乱が収束し、陽子と桓魋が彼方へ消えてからひと月が経とうとしていた。舒栄の反乱軍は諸国の力添えと慶国軍の力により鎮圧された。あの後すぐ、既に失道していた塙麟が息を引き取ったこともあり、慶どころではなくなった巧の兵士たちも引き上げ慶は本当の平和を取り戻した。だが肝心の、身を呈して舒栄を打ち、今の状況をつくり上げた陽子と彼女を追っていった桓魋は未だ王宮に戻っていなかった。
 血の穢れを落としても昏睡状態に陥っていた景麒が目を覚ましたのはつい最近だ。目が覚めた景麒の元にはすぐさま雪崩のように押し寄せる王の生死と所在を問う人々で溢れかえった。だが景麒はそれには応えず、ただ目を眇め、一言こう言ったそうだ。

『主上は、必ず―――戻ってこられる』

 麒麟と王とのあいだにどんなことがあったのか、この二人のあいだでどのような会話が、約束が交わされたのかは誰にもわからない。
 ただ一つ、王の所在と明確な生死に関しては、彼は口を開かなかった。そうして何かを信じるように、窓の外の薄青い空を見つめていたそうだ。そして景麒の言った通り。
 今玉座に王があるとは言い難い状況なのかもしれないが、まるで天が見逃しているとでも言うように、世界は嘘みたいに穏やかだった。
 二人の消えた方角を見つめながら、龍熄は目を眇める。いない二人に胸間で呟く。
(また…帰ってこいよ。俺はお前らがいなくなった後の新しい王も将軍も願い下げなんだ。お前たちが帰ってこねェんなら、俺はここを去るからな)
 龍熄がここにまだいる理由はこの場所が自分が思ったよりもずっとずっと居心地が良かったからだ。光を当てられず差別の対象となっていた特異な能力を持つ人々がここまで力を発揮することなど、影に目を向けない者たちは気がつきもしなかった。周到に準備されていた計画は木っ端微塵に破壊された。自らが持っていた先入観、偏見の恐ろしさに敵は気がついていなかった。
 今回戦況をはねのけて身を呈して一騎打ちで偽王を打った少女王の決断と、彼女を守るために奮闘した将軍、窮地に突然現れて活躍した予想もしなかった自分たちの存在は他国を非常に驚かせた。
(ハッ…どいつもこいつも調子が良すぎて斬りたくならぁ)
 胎果の若き少女王と半獣の将軍の恋物語。僅かな味方しかいない女王が、差別されていた能力を持つ人々の信頼を勝ち取り、張り巡らされていた陰謀を覆す国の奪還劇。様々な人々の人生が絡まり合って、今がある。
 今世界の人々は、伝えられるまるでお話のような慶で起こったこの出来事に酔いしれていた。話は国を流れるごとに脚色され、人気の少女王の物語の続編として出された朱旌の雑劇は既にどこの国でも大人気とのことだ。
 確かに龍熄たちの存在や行動は、これまではびこっていたひとつの古い考えを打ち砕いた。だけどまだまだ半獣を始め、この世界は差別されている彼らには生きにくいことに変わりはないことも現状だ。自分の同期の武官や文官(帥文君は除く)も気に入っているが、今の自分たちが受け入れられているこの居心地の良さは、陽子が王として立っているからこそだということを聡い龍熄は気がついている。だからもう、陽子や桓魋が戻らないのなら彼がここにとどまる理由もなかった。

 他国とは打って変わり、当の慶の王宮は今は静かだ。皆が皆、ただひたすらに王と将軍の帰りを待っている。
 桓魋たちのことを考えていた時、不意に、猛烈に癒多に会いたくなった。
「頭、どうですかいそっちの方は。生存者はいますかねぇ?」
 背後から、野盗時代からの子分の一人が駆けてくる。龍熄のそばで足を止め、うんと彼は伸びをした。
「アホみたいに平和っすね」
「そうだな…」
 そういえば知ってますか、頭。と子分は龍熄を見上げる。
「こんな戦いの後の日差しが綺麗な日は、人の想いが浄化される日なんだそうですよ」
「…なんだそりゃ」
「昔死んだばあちゃんが言ってたんすよ。ほら、雲が透けた場所から、筋みたいなもんがいくつも地上に落ちてるでしょ?大きな戦いの後、ああいう雲模様になって光の筋が出来るのは、天帝が故人の想いを叶えるために落としてるそうです。一つは成仏しきれねぇ亡霊が天に上がれるように、もう一つは天から地上へ再び降りる故人のための梯子だそうでさ」
「…くだらねぇ」
「ははっそうっすね」
 真っ先に浮かんだのは嘲笑だった。子分も子分でそんなこと欠片も信じてないらしく、彼もただ肩をすくめて笑う。
「第一、天に上がりたいのは分からねぇ気もしねぇでもないが、わざわざこんな地獄絵図に戻ってこようって奴はどんな奴なんだよ」
 こんな世界に地獄を体験してでも戻ってきたい理由があるのかよ、と龍熄は子分には言わずに思う。まぁどっちにしろ龍熄は天に上がれるような人間ではないから元からこんな話に縁すらないのだが。行き先は修羅の門を超えた地獄だけ。別にそれでも良いような気がしている。子分は不思議そうに眉根を寄せたが、次の瞬間には龍熄はもういつものとおりの野盗の親玉だった。
「…くだらねぇこと言ってねぇで、さっさと見回って引き上げ…」

 その時、誰かの声を聞いた気がした。

「?頭?」
 龍熄は雷に打たれたように立ち尽くしていた。視線がある一点に止まり、次の瞬間龍熄は走り出した。
「か、頭?!」
 背後で子分たちの焦ったような声がするが、そんなもの龍熄の耳には届いていない。むずかるような声はどんどん大きくなっていく。天からさす光の筋が、ある一点を照らし出している。偶然にしてはあまりにも趣味が悪い。龍熄が肩を上下させて足をとめた時、足元には布を被せられた何かがバタバタとしているのが分かった。
(俺は…何をしてるんだ…)
 鼓動がうるさい。自分自身の行動に説明はつかない。それでも龍熄は震える指で布を取り払う。
そこに現れたのは、捨てられた乳飲み子だった。
その瞬間、光に驚いたように振り返ったじっと澄んだ瞳が龍熄を見つめる。うーとかあーとか言いながら、ぷにぷにとした白い短い手をめいっぱい龍熄に伸ばして赤ん坊は笑った。

 見た瞬間、その捨てられた赤ん坊が何者なのか龍熄には分かった気がした。

 誰が持たせたのだろう、手には下手くそな花かんむりを持っていた。昔自分が踏み潰したものと全く同じ花かんむりを。震える腕で、龍熄は赤ん坊を抱き上げる。ありえない。嘘だろう。そんな龍熄を置いていくように、花かんむりを持った赤ん坊は龍熄の腕の中で無邪気に笑った。禁軍将軍の鎧をまとった彼を見て、慈しむように。龍熄の喉から嗚咽が漏れた。馬鹿にしたおとぎ話を、本当は信じたかった馬鹿は誰なんだ。

 何で、帰ってきたんだよ。

「癒多」

 振り落ちる涙を、赤ん坊は不思議そうに捕まえようとする。龍熄の鎧を何も分かっていない顔で楽しそうに叩いている。
 流されるように風の中に花びらが散らされていく。ぐるりと渦巻き空へと昇る。
 膝を折って、龍熄は体を震わせて泣いた。

 涙を受けた花かんむりを持って、歯を食いしばるように泣いている龍熄を見つめ、赤ん坊はくしゃりと笑った。

:::::


かわいそうだなんて言わないで。


 吹き流れるように足早にすぎる風に、体は自然と押されていく。見つけた男の後ろ姿に鈴は足をはやめる。勿忘草が咲き乱れる小高い丘の上で帥文君は一人遠方を見つめていた。
「ここにいたの」
 息を弾ませる鈴を振り返る帥文君の手には、花束が作られていた。さんさんと日差しが差し込む丘の上には、小さな墓標のようなものがある。そこに花束を添えた帥文君は微かにうなだれたように見えた。鈴は口を開く。
「…奥さんへ…?」
 帥文君は何も応えない。だがその沈黙そのものが、鈴の質問に対する答えだった。
「奥さん…貴方と一緒で幸せだったんだと思うわ…私が、こんなこと言うのもおかしいのかもしれないけれど…」
「適当なこと言わないでください」
 私の後悔なのです。
「私と一緒にならなければ、出会うことさえなければ妻が死ぬこともありませんでしたよ。かわいそうな死に方をさせた男にそういう適当なお慰みのお言葉は結構こたえるんですよ」
 妻にとって自分は疫病神だ。義母からの言葉、周囲からの言葉が今更浮いた。
『何故白澪は帥文君と一緒になったのだろう。あの若さで死ぬなんてなんてかわいそうな人生なんだ』
「かわいそうなんかじゃない」
 鈴を見つめる帥文君の瞳はただ――冷たく固かった。彼と視線を合わせて、鈴は悟る。


 あぁ、この人は本当は孤独なんだ。


 帥文君の瞳は激しく荒んでいて、将軍の迫力に思わず鈴は後ろへたたらを踏む。以前の口論とは完全に立場が反対になっていた。荒れる鈴をあの時帥文君は受け止めたが、今度は逆だ。だけど鈴は、堪えるようにうつむいたまま、帥文君に向かってもう一度叫んだ。
「…かわいそうなんかじゃない」
 苦しさをこらえる修羅のような顔だった。
 帥文君が思わず怯む。そんな彼を見ないまま、鈴は帥文君の胸に本のようなものを押し付ける。訝しそうにそれを受け取った帥文君に、鈴は低い声で続ける。
「実はそれを渡しにきたの。…貴方の奥様の遺品だそうよ。貴方達の私物はあらかた荒らされてしまっていたようだけど、奥様はこれだけは床板の間に隠してらしたようよ。床が傷んでいて、奥様のご友人が花を手向けに来た時これを見つけたんだって。陽子たちが帰ってきてないしまだ完全に乗り切ったわけではないけれど、乱が収まった今だからこそ、その人はそれを貴方にって金波宮まで届けに来てくれたの」
 帥文君の手にあったのは、長年つけたような古びた妻の日記帳だった。四隅は汚れ、ところどころが欠けている。擦れてよれた日記帳には使い込んだ跡が見えた。
 鈴の表情は激しく彼を睨む鮮烈なものだった。その激しく睨む瞳からは涙が一筋落ちていて、帥文君は思わず息が止まる。適当なお慰みなんかじゃない、と刺のある鈴の声がした。涙で震えていた。

「奥様が本当にかわいそうだったのか…自分のその目で確かめなさいよ」

 帥文君の表情が変わったことに気づかないふりをしながら、鈴は日記帳が開かれる音を聞いた。帥文君の視線が妻の日記帳の最初から最後までを震える指でめくっていく。日記は初めは報告記のように、彼女の日常にあった出来事が、箇条書きに綴られている淡白なものだった。書き手の感情の乗らない日記をめくるうち、ある頁で帥文君の手が止まる。

 予青一年 五月一日
 天気 晴れ
 これまでは日々にあったことをただ並べてみたけど、日記ってそういうものじゃないわね。自分で見返してみて…本当につまらない日記だわ。だから今日から正直な私の心情を書いていこうと思う。ただただ生きてることがつまらない。欲がないとよく言われるけれど、違う。生きる意欲がわかないから、そんなものも出てこないのよ。適当に息して、適当に食べて寝て、適当に生きて――本当は早くこの世から消えたいの。誰も…気づかないけどね。

 予青一年 六月三日
 天気 雨
 広途を歩いている最中、建物の陰みたいな場所で占いをしているようなおばあさんが、料金はいらないからとまで言って私を呼び止めた。なんでも、私に視える者として忠告しておかなくちゃならないことがあるんですって。あんまり興味ないけど、暇つぶしに聞いてみた。
『あんたから二人の男の顔が見える。一人は…顔も人柄も財力も申し分ないね。あんたはその男と一緒になれば長く穏やかな人生を送れる…。もう一人は…ちょっと問題ありだね。周囲よりずば抜けて頭の良い変人でそもそも女を好きにならなさそうな男だ。その男と一緒になれば…あんたは一生をかなり短く終えることになる。やめておいた方がいい』
 そうして彼女はかわいそうなものを見るような目で私を見上げてこう言った。
『でも―――あんたが激しい恋に堕ちるとしたら…きっとその男なんだろうね』

 予青二年 七月七日
 天気 快晴
 忘れられない人と初めて顔を合わせた。噂だけは耳にしていた人。帥文君。男色家の有望株。ぶつかってこっちが息も止まるような気持ちがしたのに、向こうは多分私に対してまったく興味なし。男が騒ぐんだから私も結構美人な方に入ると思うんだけど…全然駄目みたい。でも私の方も全然駄目。だって出会った瞬間から私は何故かどうしても――。
 あの人が欲しくなってしまった。

 予青二年八月六日
 天気 曇り
 帥文君の房間に転がり込んだ。彼驚いてた。当然よね。でもなんだかんだでたたき出されるかと思ってたら、彼置いてくれるんだもの。普段キツイ口叩くのにね。…そこが好きなんだけど。本当はこっそり貴方のこと見てた、なんて言ったら彼どんな顔するかしら。いつもは恋愛ごとに関してからかうのが大好きな彼は、真剣に口説かれたらどうなるのかしら。大好きよ帥文君。ここでなら私も――言えるのに。

 予青二年九月十六日
 天気 雨
 帥文君の朝は早くて帰りは遅い。せっかく同じ房間になっても、会話する機会さえない。そもそも向こうは私とあんまり会話する気もないみたいだけど…。普段はあれだけ口が回るのにね。私生活は結構無口。でも、彼の表情は正直だということに気がついた。いっつもあの不自然な目の笑ってない笑い顔だと思ってたのに。嬉しい時は緩んでるし、怒ってる時はむっつりしてる。今日はなんだか…苦しそうな顔をして出て行った。最近ずっと、苦しそう。その上に、あのいつもの不自然な笑顔を重ねて固めてる。今日あの人が帰ってきたら、少し何か話したい。

 予青二年 九月十七日
 天気 覚えてない
 彼に抱かれた。このまま死んでもいいと思った。

 予青二年 十一月二十三日
 天気 雨
 あの人が好き。好きで仕方ないの。一緒にいられる時間が増えて今嬉しくてたまらない。好きよ帥文君。貴方まだ私を抱くときに顔を赤らめてるのに気がついているかしら。
 大好きよ。

 予青三年 十二月八日
 天気 雪
 生きていることが楽しい。今日は雪の中二人で出かけた。帥文君の鼻の頭が赤くなってて笑っちゃった。鼻の頭を押したら冷たくて冷えてて、帥文君は嫌がったわ。でも、その後。手を繋いでくれた。今が人生で一番幸せなのかもしれない。

 予青三年 三月九日
 天気 晴れ
 彼に、妻になってくれないかと言われた。はいと応えた。涙が出た。
 
 予青四年五月二日
 天気 曇り
 今日は報告記みたいな日記を止めてから三年が経ったことに気がついた。読み返してみたら…すごい変化ね。私の人生。だから今日は、この日記の言葉を、読むはずのない帥文君にあてて書いてみようと思う。
 どうして、私は貴方を選んだんだと思う?
あら、なんだか今、貴方がいなきゃ生きていけなかったから、みたいなことを言ってほしそうな貴方の顔が見えた気がしたわ。ふふ…でもお生憎様。その点に関してはご期待にはそえないわ。だって貴方を選んだけれど、別にあなたがいようがいまいが私は生きていけたもの。
私は、あなたなしで生きていける。呼吸していられる。美味しいものも楽しめる。美しいものに、心を揺らすこともできる。
でも。


 私は知ってしまった。


 貴方と出会った後の人生を。
 毎日貴方の違う表情を見つける楽しさを。貴方に唇を奪われた時の火花を。体を重ねて足を絡めた時の温かさを。深い恋に落ちた衝撃を。
 貴方と共に生きる喜びを。
 だから私は。たとえあなたから離れることでその先で余分に息をすえたとしても。美味しいものが食べられたとしても。美しいものが見れたとしても。
 その度、きっと私は出会ってしまったあなたのことを思い出す。〝もし〟あなたと一緒だったら私はどんな人生を歩めたんだろうって。あなたが隣にいたら、この空気は今よりどんなに気持ちが良くて、この料理は今よりどんなに美味しくて、この景色は今よりどんなに美しいんだろうって思ってしまうの。きっと息を吸うたびに、それを思うの。美味しいものを食べるたびに、それを思うの。美しいものを見るたびに、それを思うの。
 呼吸して生きていけるけど、そんなのもう〝生きてる〟って言えないの。
 私にとっては一人で、もしくはほかの誰かとどこまでも長く生きることよりも、どれだけ短くても貴方と共に歩む刹那(じんせい)の方が意味があった。
 それが私の―――打算。私が生まれてきて良かったと思える刹那。それが―――貴方と結婚した意味。
ねぇ、だから…だから帥文君。どうか貴方だけは。たとえもし私が早くに死んだとしても。どうか貴方だけは。


 あなたと出会った私の刹那を――――かわいそうだなんて言わないで。


 私にとって貴方は生きることそのものだった。
 だけど…だけどきっと。私にとってはそうでも。貴方にとって私は…貴方のたった一部でしかないわ。だから帥文君、もし私が死んだら。貴方の人生のために――新しい連れ合いを見つけて。男でも、女でもいいから。
 貴方の最後の場所に、ちゃんと私はいてあげる。だからその時は、私が知ることができない――私がいなくなった後の貴方の人生を、いつもみたいに胸を張って聞かせてね。

 信じて。だって貴方なら――――きっと素敵な人生が創れるから。

 ふふ。それにしても私も馬鹿ね。こんなこと書いて、貴方が読むわけもないのにね。まあそんなしおらしいこと言ってみたけど…私はまだまだ貴方と生きるつもりでいるからね。あんな嘘っぱちな言葉なんか吹き飛ばして。貴方と出会えない人生なんてありえないけど、本当は私は欲張りだから。
絶対貴方と一緒に――生きていたいもの。

 文はそこで終わっていた。
 本の頁が風に押し流されるように物凄い速さで捲れていく。帥文君自身の髪も風に揉まれて僅かに波打った。目元から何かがぽたぽたと落ちていく。めくられていく頁ごとに、雫は栞のように跡を残す。かがんだ帥文君は、足元に咲き乱れていた勿忘草を一つ摘んだ。淡い青の花弁を持つ花を、白澪の残した文の上に置いた彼は静かに日記帳を閉じる。
 肩を震わせてくずおれた男は静かに激しく泣いていた。そんな彼の背中を見ながら、鈴は彼がいつもどおりの顔で振り返るまで、そばで遠くを見つめていようと思った。

 だって知って欲しいから。本当は貴方はもう孤独なんかじゃないということを。

 風が巻き上がり足元の花を揺らす。

 勿忘草の花弁が、風に揉まれて柔らかく色を零した。



back index next