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刹那


 桓魋を筆頭とした拓峰を、王を目指した進撃は止まらない。固継郷城が目の前に開けたその時、開けられるはずのない中門から、人だかりのようなものが見えた。一瞬敵かと思い桓魋が長槍を構えた瞬間、先頭に見知った顔を見た。
「桓魋!!」
 祥瓊と、文官たちがこちらに向かって駆けてくる。祥瓊と共に駆けてくる子供官吏の真真が燈閃に向かって叫んだ。
「にい様!」
「に、兄様だと?!」
 叫んだ豪槍に、真真が顔を向ける。生真面目に燈閃は豪槍に頷く。
「真真は俺の弟だ。俺が今期の特殊武官の試験を受けると知ったら、特殊文官として王宮に入ると言って聞かなかったんだ。名称の聞こえは良いがその実質業務は諜報活動。こう幼くてはさすがに無理だろうと思ったが…」
「受かってんじゃねぇかどういうことだよ」
 呆気にとられながら豪槍は二人を見比べる。どちらも優等生風情だが、燈閃の流したように涼やかな目元と真真の大きな瞳は正反対だ。虎嘯や夕暉、豪槍と鄒杏のように、顔立ちが似ないことはこの世界の兄弟姉妹の多くに言える。だが蓬来と違い、兄弟姉妹の共通点が少なくなりがちなこちらの世界の中、この二人が揃って種類の違う能力を持っていることに豪槍は驚いた。
 兄と武官たち、桓魋に向かって、真真は報告をした。
「和州拓峰の人質解放、完了しました。拓峰の民は固継郷城でかくまって頂けるとのこと。後は偽王舒栄を討つのみです。青辛師師様はどうかお早く拓峰の方へお向かいください」
 状況はもう把握しているようだ。だが桓魋が頷いて行こうとした時、彼は背後からの砂埃に気がついた。振り向けば、桓魋たちを追って、大軍がこちらに向けて押し寄せてきていた。目測でおよそ十万近いか。桓魋たちを討てなくても、このままではせっかく解放した人質がまた捕らえられてしまう。向こうは全てが騎馬隊で構成されている。こちらは逃げてきた民たちが武装しているはずもなく、固継郷城に籠城したとしてもすぐに堕ちるのが桓魋にはすぐにわかった。
 状況を一目見た涼梗が涼やかな声で言う。
「私たちが抑えますわ。これだけいればまぁ時間稼ぎはいくらかできそうですしね」
 だが…!と桓魋が微かに狼狽したように叫んだ。郷城の兵を入れたとしても、民を含めこの顔ぶれは文官ばかりだ。
「お前たちだけで大丈夫なのか。この人数だぞ」
 唸るように言う桓魋に、祥瓊がいたずらっぽく微笑んだ。きっとやれるわ。
「ほんとにこの人たちすごいのよ、桓魋。文官の人たちの作戦だけでこの拓峰の民の人たちを救えたのよ。この民たちも戦ってくれる気は満々なの。それでも簡単には死なせないわ。今期の武官のすごさも、貴方なら知ってるでしょ?」
 燈閃が弓をつがえた次の瞬間、するどい音が尾を引いて、三里程方向から追い急いでいた敵の頭部を打ち抜いた。
「私がここに残ろう。豪槍、蓮皇、雹牙、お前ら青師師を連れていけ」
 桓魋は虎嘯の方を向いたが、虎嘯はここを動くつもりがないようだった。桓魋たちを守るように大きな体を怒りでふくらませていた。夕暉も静かに弓矢をつがえる。
「おい虎嘯…夕暉、まさかお前たちも」
 桓魋の声に虎嘯の体が更に大きく膨れた気がした。
「豪槍のおかげで俺は大事な友人を馬鹿な嘘のために失わずにすんだ…。こっからは…」
 虎嘯の雰囲気がざわりと変わる。
「俺らがこの馬鹿馬鹿しい嘘の落とし前をつける時間だ!!!覚悟は出来ているんだろうなお前ら!!!」
「虎嘯!!」
「行けお前ら!!!!絶対止まるんじゃねぇ!!!!ここは俺らが相手をして食い止める!!!!陽子のことは任せたぞ!!!!」
「殺せぇえ!!奴ら武装もしてねぇ!!楽に淘汰できるぞ!!!」
 蛮声がなだれ込む。押し寄せてくる最初の軍勢は約二千といったところか。対してこちら側の軍勢は恐らく千にみたない。門を閉ざし、小さくなって、仲間たちの姿は消えていく。文官たちや夕暉の頭脳戦と、弓の名手燈閃の遠射を組み合わせた攻撃はどこまで持つか。だが食い荒らされるのが落ちだと敵味方双方が思ったその時。
 押し寄せてきた敵に向かって槍の雨が降り注いだ。
「?!え…あれ、何?」
 上空から次々と彼らの元に無数の点が押し寄せてくる。近づいてくるその点は、甲冑を身にまとい、虎嘯たちを襲おうとしていた兵士たちに槍の焦点をあわせている。
上空の翻る旗を見て、祥瓊の口から珍しく呆けた声が落ちた。
「恭…?」
「あぁ?何で恭の兵士どもがここに?恭まで敵なのかよ?!」
 虎嘯の声が響く中、何が起きたのか察した夕暉の瞳が見開く。
「違う!!逆だよ!!旗を掲げて武装した兵が国境を越えているのに大綱が発動しないということは…あれは…王に対する恭からの援軍だ…!!!」
 陽子が援軍を依頼した烏合の衆のような恭の軍が虎嘯や祥瓊たちを援護しようとこちらへ向けて速度を上げる。武官たちの腕がなる音がする。使える戦法が増えたことを悟った文官たちは目は作戦を考え始め鈍く光る。点だった恭の軍はもう甲冑の輪郭がよく見える。

 迎撃が、始まる。

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「うわああぁあ!!!鬼だぁあ!!!」
たったひとりの進撃を止めることもできないまま、兵士たちは散り散りになっていく。
だが、逃げていた兵士の一人が歓声を上げた瞬間、それは他の敵兵にも伝染していく。桓魋が振り返れば、右側方から一筋縄ではいかないような大軍が押し寄せてきた。ざっと見て五百はいる。蓮皇が手で傘をつくって額に当てて、目を凝らす。
「わぁ…それにしてもすごい数。やっぱいくら燈閃たちとは言え、全部は止めるのはさすがに無理だよね。こりゃ誰かが足止めしなきゃおじゃんだね」
 駆けながら、豪槍は目の前の背中に目を眇める。気がつけば、豪槍は悪友に向かって決して訊くつもりのなかったあることを聞いてみたくなった。もうじき豪槍たちもこの兵の足止めのため散り散りになる。今この時に訊かなくては、二度と訊く機会もない気がした。
「…雹牙、蓮皇…お前ら一体誰を亡くした」
「オレは双子の姉ちゃんッス。珍しくオレら姉弟どっちも半獣で、いっつも駆けっこしてどっちが速いか競争してたんスよ。…懐かしいなぁ」
「僕は…母だ」
「…そうか。…燈閃は」
 燈閃は、と雹牙は表情を変えないまま少しだけその色を翳らせた。
「…婚約者っていってたッス」
 豪槍は目を逸らす。それ以上何も言わず、ただそうかと呟いただけだった。
 偶然にも、今期の新入文官、武官は皆女人追放礼で近しい者を亡くした者たちが揃ったと靖共は言った。だけど豪槍は思う。―――――偶然な訳があるか。
 新入文官、武官共に、彼らは皆生半可じゃない覚悟で、必死になってここまで来たのだ。新しい王を見定めるために。これからの未来自分たちのような思いをするものがもう生まれないように。何より。

 死者に顔向けできない自分にはなりたくないから。

 桓魋に襲いかかろうとする敵をなぎ払いながら、見えてきた大軍に、豪槍はただ目を眇めて一言言っただけだった。
「蓮皇」
「うん…ここは僕らの出番みたいだね」
 悠と燈閃を思う。
「蓮皇…お前は、誰かを失って得た今の自分の人生についてどう思う。俺たちにできることはあると思うか」
 蓮皇は穏やかに微笑んだ。
「…正直何が良くて何が悪かったかなんて僕には分からない。物事は受け取り手しだいで簡単に翻る。それでも、女人追放礼でたった一人の母が死んでしまったことをきっかけに、僕はこの武官の招集に応募して、君と出会った。母を失って、君と出会った」
 蓮皇の言葉に、豪槍は口を噤む。脳裏に真っ先に雛杏の顔が浮かび、その後に陽子や桓魋、虎嘯。そして霖雪や蓮皇たちの顔が流れた。この出会いはお互いに、かけがえのない人を失わなければ成り立たない出会いだった。
「誰かを失った上でしか成り立たない出会いって、手放しで喜ぶには少ししょっぱいよね。でもきっと繋がってる。…僕はそう思う。そう願っている。そしてまた、感傷に浸る間もなく流れる人生の中で、僕らは僕らの選択を迫られることになる」
 風が流れる。蓮皇の柔らかい髪が嬲られ、まぶしそうに目が細められた。
「人生の岐路ってどこなんだろうね。気がついたら、僕らはいつもそこに立っていることに気づくんだ。そして今も僕らは、きっとまたその岐路に立っている。かつての国を滅ぼした恋の後、今まさに僕らは国を救うかもしれない恋と対峙している」
 蓮皇の声が響いた。
「いいじゃないか。世界を滅ぼした恋のあと、この世界を救ったのが新たな恋なんて。王様をこの世界につなぎとめることができたのならそれは僕らの勝ちだ。陽子を引き止められるのは青師師しかいないよ。あの二人がただの皆が思うような王と臣下という記号なんかじゃないってことを証明してやろう。何にだって乗っかってやろう。かつては呑まれるだけだったけれど、今度こそ。誰かが仕組んだ悪意なんてぶち壊して進め、豪槍」
「…蓮皇」
 蓮皇は笑った。

「何だって出来るよ。君も。僕らも。青師師も。だって僕らは今ここで―――生きているんだから」
 
 雛杏の顔が。陽子の顔が。出会いもせず重なるはずもなかった二人が、豪槍の中でつながっていく。豪槍の人生を通して一本線のように流れていく。二人の少女が、豪槍の突き進むための原動力となる。槍を掴む手に力が篭もり、豪槍は吠えた。
「うおおおおおぉおおお!!!!」
 最後に見た雛杏の顔は、ひどく傷ついた顔だった。最後に見た陽子の顔は、心痛な表情で冷たい覚悟を決めた顔だった。だけど。
 今、思い浮かぶ雛杏と陽子の顔は、どちらも優しい笑顔だった。
 力が増す。速度が増す。ただひたすらに突き進む。今この国の要となる男の背を追いかけ、豪槍は駆け抜ける。桓魋に襲いかかってきた兵卒たちを飛び出した豪槍の槍が殲滅する。桓魋が驚いて振り向いた瞬間豪槍の耳に、出会い、名を訊かれた時の陽子との会話が響いた。
『ごうそう。それって豪快な槍と書くのか?』
『…そうだが』
『!かっこいいな!なんだか見た感じぴったりの名だ。どこまでも邁進しそうな名だな』
 豪槍の表情は静かに締まる。陽子と桓魋に、心の中で囁いた。この名もあながち、自分を表すのに間違いではないのかもしれない。なぁ。もし本当に俺が何にだってなれるのならば。お前たちが進むことを決めるのならば。この名の通り。

 俺はどこまでもお前達の道を切り開く、槍となろう。

 豪槍の槍が、空を裂いた。一本の道が、鋭い輝きと共に突き進む。桓魋の前の、道が拓ける。
「豪槍!!!」
 桓魋が男を振り返る。そろそろ豪槍達の体力も限界だ。だが、まだ終わりではないことは重々承知だ。自身が作り出した細い道を豪槍は見据える。隠し玉は最後までとっておくもんだぜ、そう言いながら豪槍は雹牙に視線を移す。
「さっさと行け青辛!!!ここは俺たちが引き受ける!!!雹牙!!!なんとしてでも、青辛を陽子のもとへ送り届けろ!!!!」
 これ以上ないほど、雹牙の顔が輝いた。
「は、走ってもイイんスか?!豪槍!!!全力で?!!加減しなくてイイんスか?!!!」
「ああ、お前の出せる最速で走れ!!!!誰に止められようがブチ抜いていけ!!!!」
 ひゃっはー!!!!そう叫ぶ声が聞こえた次の瞬間。雹牙が走っていたところにはもう何もいなかった。視線の遥か先で、桓魋を乗せた一頭の巨大な豹が地面を恐ろしい速さで駆けていく。悲鳴をあげる声を裂くように、地面を轟かす吠え声が響き渡る。
 桓魋へと襲いかかろうとする敵を薙ぎ払いながら、豪槍は腹の底から叫んだ。
「いけえええ!!!!!青辛!!!!!陽子の所まで、もう少しだ!!!!!あとはどんな野郎だろうとお前一人で薙ぎ払える!!!!お前の力で…この虫唾が走る今を変えてみろ!!!!!」
「頼みましたよ!青師師長!!」
「豪槍!!蓮皇!!」
 豪槍たちの姿さえも遠く消えゆく。恐ろしい速さで駆けながら、雹牙が桓魋に向かって叫ぶ。
「しっかりつかまっててくださいよ青師師!!!!」
 景色は飛ぶ。桓魋は俯く。長槍を握る手に力を込める。
(すまない…お前たち…!)
 豪槍も蓮皇も、桓魋の力になろうとしていた若者たちは皆、彼が育てたということをこの時彼は忘れていた。ただあったのは感謝だけだった。そんな彼だからこそ、曲者の彼らがついてきたことに彼は未だ気づかない。
 陽子を想う。利広が桓魋だけに聞こえるよう呟いた言葉を思い出す。
『国なんてもう滅びてしまえ…そう言いながら、結局彼女は行ってしまった。…それが陽子だ。だからこそ天は―――』
 静かな水面のような瞳がさざめく。

『彼女を王にしたのかもね』

 陽子と過ごしてきた、今までを思う。ずっとずっと、陽子を守っていたつもりでいたけれど、もう既にあの時――出会ったあの時から、救われていたのは桓魋の方だったのかもしれない。守っているつもりで、守られていたのは自分だったのかもしれない。彼女と過ごしてきた人生が流れていく。虎嘯や夕暉、祥瓊と鈴、豪槍たちの表情が過っていく。これまでとこれからがつながって、今、全力で一番大切なものに手を伸ばす。和州拓峰は、目の前だ。
「陽子ぉおおおお!!!!」

 この手よ届け。今お前にこの手が届かなければ、俺は死んでも死にきれない。

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 拓峰郷城内部では、呪詛のような声が響き渡っていた。
「おのれえぇえ!!!帥文君!!!!」
「ホホホホホホホ!ちょっとぉ皆さん頭も腕も弱すぎですよぉ~がっかりですよぉもっと骨のある方はいらっしゃらないんですかぁー?????」
「畜生ぉおおお!!!!」
 帥文君の頭脳戦と武力行使により早々に縄を打たれてしまった昇紘一派は床の上でもんどりかえっていた。明らかにこの状況を楽しんで高らかに笑う帥文君に歯ぎしりし、外から縄を打たれてきた兵卒に、一人がいらだちをぶつけるように叫ぶ。
「どうした!逃げた人質たちは連れ戻せたのか?!!たかだか女子供にまんまとやられおって役たたずどもが!!!」
 そ、それがと兵卒は青い顔でしどろもどろに呟く。
「逃げた民の軍勢の中にも頭の切れる連中がいたらしく、奴らは固継郷城に籠城したとのこと!希に見ない戦術と、数は少ないですが猛者による猛攻により軍の一部が大破、更に恭からの援軍も加わって大敗したとのこと…!民に負け、巧国の軍は引き上げるしかない状況だとの報せでございます!!」
「な…なんだと…!」
「ホホホホホホホホホ!!!!」
「ええい笑うな帥文君!!!!!」
 本来ならありえない慶の中で行われる奇妙な報告に、鈴は口端を上げる。なんともねじれた戦いとなったが、何はともあれ、敵ばかりだと思われていた女王にはずっと多くの味方がいることが証明された。どこか諦めたようにくつくつと縄を打たれた昇紘は嗤う。
「これも…天意か」
 その瞬間、鈴の表情が一気に冷え込む。そんな鈴を帥文君はただ静かに見つめる。
「天意なんかじゃないわ…この乱にあたしたちが勝ったことも。清秀が轢き殺されたことも。あんたがやったことも。何もかも。あんたの意思で行ったことを、あたしは絶対に忘れてなんかやらない」
 昇紘は鈴の視線の激しさに、思わず声を失って視線を逸らす。
 帥文君自身は、それほど苦しいのなら、復讐をしても良いのかもしれないとさえ思った。この感情は経験したものしか知りえない。だけど彼がそうしたように。

 あれほど復讐の念に苦しみながら―――鈴は復讐を選択しなかった。

 帥文君はどこか穏やかな気持ちで、初めて作り物じゃない微笑みを浮かべる。
「…よく頑張りましたね、お嬢さん。後は偽王舒栄の…」
 だが、帥文君の声が止まる。
次の瞬間窓辺に目をやった帥文君の顔色がざわりと変わる。鈴が息を呑んで窓辺に駆け寄って、唖然と悲鳴もあげられず口を手で覆う。

 二人の目の前に見えたのは、ありえない光景だった。

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 拓峰までたどり着いた龍熄は、振り仰いだ上空に浮かぶ一点に目を眇める。
「頭ぁ!!!あれってもしかして…」
 龍熄は何かを思案するように一点を見つめ続けるだけだった。青空にポツンと目立つ赤い点ともう一点。龍熄の唸るような声が響いた。
「ありゃあ…偽王との一騎打ちだ」

 ごうごうと唸る風の中で女王の髪が遊ぶ。
滞空したまま、騎乗した自身の麒麟に何かを話す女王の顔はどこか穏やかだ。話しかけられた麒麟はただただその言葉に寄り添うように目を眇める。目を閉じ、再び瞳を開いた女王の翡翠の眼下に広がるのは人の波。遠すぎて細部は見えない。ただ、緩やかに動いて流れる白い点が人々の顔だということだけが肉眼で分かる程度だ。だが同じ甲冑で身を包んだ兵や民衆とは反対に、麒麟に騎乗した女王の存在は晴天の中で一点でありながら鮮やかだった。眼下の人々はいっせいに指をさし、どよめき地上では声がゆらぐ。
 だがもはや女王の目に映っているのはただ一人だ。二里ほど先に自分の目線と同じ高さで滞空する偽王舒栄だけだった。白い顔を歪ませ、舒栄は陽子をせせら笑う。
「…ついに来たか…馬の骨の小娘よ。今こそわらわが天下を取るとき、おぬしの短い治世もこれまでじゃ。おぬしに代わってわらわがこの慶治めてくれる」
 一陣の強い風が吹き抜ける。陽子は何も反論のようなものを返すことはなかった。だが。
 簡素に束ねた赤を真横一直線になびかせながら、陽子は目を伏せつぶやいた。
「お前は…何も分かっていない」

 そもそも〝国〟がなんなのかも。

「何じゃと?わらわが何を分かっていないじゃと、小娘!」
「お前は一国という単位に固執して、その長であることに重きを置いているだけだ。何が一番大切かわかっていないんだ。まあそもそも国なんて滅びればいいと思った私もたいがい自分が王位にふさわしいとは思っていないが。人のものの見方も様々だが、少なくとも…」
 鋭く翡翠が光を射る。

「自分の王位のために民を人質に取るような王など、民が不憫だ」

「何人死んでもいいのか。お前が王位につくためならば。そんな身勝手な人間を王に選ぶ麒麟がいると思うのか」
「うるさい!!!黙れ黙れ黙れ!!!もはやわらわは退けぬのじゃ!!!」
 凄惨な激しい声に、陽子は思わず口をつぐむ。不審げに舒栄を見つめた時、舒栄の顔は半狂乱になっていた。もう女は陽子の方を見てはいなかった。
「絶対に…なんとしてでも…わらわが王にならねばならぬのじゃ…わらわは天に間違いを認めさせるまでは止まらぬ…!!」
 そうして狂気を含んだような顔はどこか悲しげに見えた。
「そうであろう?はじめからわらわの所に景麒は来れば良かったのじゃ…。姉など選ぶから…こんなことになった。王として立ち天に間違いを見せつけるまでわらわは死ねぬ」
 それにここで私が死んだら。

「もう私以外に…誰があの誰も死を悼むこともない愚かな姉を想うというの…」

 小さく落とされた声に、陽子は目を見開いて動きを止める。だが次の瞬間には、舒栄は一気に間合いをつめ、陽子めがけて剣を振り下ろしていた。
「死ねぇ!小娘!!!!生き残るのはどちらか一人じゃ!!!!玉座こそがわらわの席なのじゃ!!!!!」
 ケタケタと泣きながら狂ったように剣先を振り下ろしてくる女に、陽子はついに覚悟を決める。自分自身も激しく泣いていることに、少女は気がついてはいなかった。
「終わりだ…!!!!」
 勝者と敗者の視線がかち合う。水禺刀の鋭い一閃が、舒栄の体を貫いていた。
 一瞬だった。目から光を失った舒栄の体が、人形のように落ちていく。血を頭から浴びた景麒が苦しそうに落ちていく。血は麒麟にとって猛毒だ。それでもなんとか最後の力を振り絞った指令たちの手により彼の体が木々のある場所に落下したのを見て、陽子は安心したように吐息を落とした。そしてその瞬間、自分の体も空を舞って落ちていっていることに気がついた。落下地点はむき出しの激しく抉れた岩棚だ。地盤が歪み、刺のように切っ先を空へと向けている。不意に蘭玉の言葉が耳に浮かぶ。
 不思議と怖くはなかった。
たったひとりの顔が浮かぶ。不意に自分の人生を振り返るように走馬灯が流れていく。
桓魋や虎嘯、浩瀚、豪槍や霖雪たちのように虐げられていた人々、祥瓊や鈴を想う。そして舒栄を想う。違う。国が先にあるんじゃない。

 一人一人の生き様すべてが重なり合って―――結果的に国を創る。

 皆が自分自身の王者でなくてはならないんだ。死んでしまった友を想う。だから…だから蘭玉。貴方は私に慶を託したけれど、貴方だって欠けてはいけない一部だったんだ。
 瞬きをしたその時、陽子は自分が幼い頃口にしていた願いを思い出す。桓魋の背よりずっとずっと高い場所からこの世界一帯を見てみたい。自分は今幼い頃の願いの中にいた。
 すべてが終わったということなのか。

(なんて、綺麗なんだ) 

 自分が落ちていく場所が見えた。このまま死ぬんだと分かった。
 突然、破裂するような凄まじい音と共に、陽子の体が巨大な空気の玉に押し流された。落下点が変わる。振り返れば、巨大な箱にすがりつく、必死な表情の霖雪が見えた。自分を押し流した空気の玉はあそこから来たらしい。ただ彼女を救おうとする彼の意図だけが陽子には分かった。
「霖雪…」
 突風が吹き荒れる。ずっとずっと近くなった太陽。青くどこまでも澄み切った空。眼下にはいっぱいに広がる人々の顔と雄大な自然が広がっていた。その中に、こちらに向かってくる桓魋の表情が見えた気がした。
(桓魋…)
 生きててくれた。それだけでもう十分だった。自分が幼い頃に夢見たもうひとつの願いは、ついに叶わなかったけれど、それでも。陽子は想う。

 物事すべてが移りゆく。貴方との時間でさえ、すべてが一瞬で、同じ瞬間なんて一つもなかった。
 私の友人は、すべてが泡のように消えていくと言った。消えていく物事に意味なんてないのかもしれない、とその人は言った。でも。
 貴方に初めて抱きしめられた時、貴方に感情をぶつけて泣いた時、不味い料理を食べて笑い転げた時、目があった時、微笑みあった時、怒鳴りあった時、貴方とキスを交わした時。私にとって。貴方とのひとつとないすべての瞬間が―――――かけがえがなかった。
 すべてだった。消えた刹那は今の私を創る、すべてなんだ。
 私の人生。誰にも同情なんてさせない。だって全ては、私が決断したことだから。
 だから――――。ねぇ桓魋。これが終わって、もし、もし次があるのなら―――。
 今までの私たちを創ってきたすべての刹那を抱えて。



 新しい刹那(あす)に、会いにゆこう。



「陽子ぉおおおおおお!!!!」
 その瞬間、一人の男が鬼のように数多の敵を薙ぎ払いながら現れる。豹の半獣の少年が足の力を使い切り、最後の役目を男に託す。落ちていく人影を見ながら、桓魋の走る足は更に速度を上げていく。龍熄が、霖雪が、帥文君が、鈴が、その場にいる人々すべてが、息を呑んで決戦の行方を目で追うことしかできなかった。
 偽王を討伐した小さな人影は、空高く落ちていく。いつの間にか、桓魋の前の人々が割れて、彼のために道を自然に作っていた。鬼のように激しい顔で涙を流しながら、駆け抜けながら、走馬灯のように出会った頃から今までの陽子の表情が流れていく。笑った顔、すねた顔、怒った顔、泣きじゃくった顔、照れた顔。桓魋はたった一言だけ少女に願った。

 死ぬな、陽子。

 空高く舞う光だけが、神様みたいに美しかった。
ただひとりの男が、遠く遠くに行くように消えていく少女を追いかけるように、小さくなって――――消えていった。 




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