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 駆け抜けろ。青辛桓魋までは―――もうすぐだ。



先程の光景を思い出したらしい燈閃が、面白そうに呟く。それにしても。
「…随分と子供に懐かれたようだな、豪槍」
ったく、と豪槍はため息をつく。
「あいつ俺のこと嫌いなんじゃなかったのかよ。とっとと安全な所へ行けクソガキ」
 堯天を出る直前、豪槍は泣きながら子供を探している明明の両親を見つけた。
 いやだー豪槍と一緒にいる!と泣きじゃくりながら両親に連れて行かれた明明の顔を思いだし豪槍は頭をガシガシと掻いた。だが、本当に親が見つかって良かった。これから先、どれほど豪槍が強くても、恐らく子供ひとり守りきってこの戦塵を突っ切るのは無理だ。
 豪槍は視線を研ぐ。もう既に、かなりの距離を駆け抜けた。それでも――――。
「マジすか…これ…」
 目の前に広がる光景に、雹牙が絶望的な声を上げる。豪槍たちを阻むように、目の前には待ち構えていた巧の兵士たちにより広大な分厚い人の壁が築き上げられていた。
「クソ!!!あいつら何人いやがる!!!!ただでさえ時間がねぇのに!!!!」
 豪槍が叫んだその時、悠の静かな声がその場に走った。
「…私が行く」
 ばっと音を立てその場にいる全員が少女を振りむく。
「ねぇ豪槍。…私、ずっとどうして女人追放礼で…親友が死んで…私だけが生き残ったのか…今でもわからない…どっちも男装…してたのに」
 砂塵が駆ける。こちらに押し寄せてくる人々の顔に紗をかけて消えていく。
「親しい人を亡くすのは…辛い。それが…どうしようもないことほど…辛い。そういうのは…もういい」
 襟巻きに顔をうずめ、額当てから僅かに覗いた悠の大きな瞳が、豪槍を映す。だから豪槍。
「私が作った道を突破して…。絶対…青師師長連れ戻してね」
「おい待て…悠…!!無理だ!!!」
 豪槍の手が伸びる。届く前に少女が騎獣から飛び降りる。だぶだぶの余った袖口から飛び出した暗器が鋭い音を立てて光を弾く。次の瞬間には、悠の暗器が周囲一体の兵士たちを一掃した。
「うわ!!!何だコイツ…!!ガキか!!」
「女だぞ!!!」
 豪槍の瞳が見開く。悠が微笑んで、見えない速さで体を回転させる。
「あまり私を…舐めるなよ。私は…史実に名を残さない暗殺集団…陰の一族と人は呼ぶ。闇に紛れて全てを消し、消えたと気づいた時には全ては虚無へと還りゆかん。貴方がたの…」
 
「御命頂戴致したい」

 少女は微笑む。次の瞬間少女の姿は掻き消えて、周囲一体の兵士の胸から彼岸花のような血が吹いた。阿鼻叫喚の叫び声がその場に満ちる。
「こ、殺せ!!!そのガキを!!!」
 速すぎて悠の姿は捉えられない。暗殺者の少女はその場を地獄に変えていく。それでも豪槍たちが突破できそうな細い隙間が生まれた瞬間、悠の体から霧吹きでしぶいたような血が吹いたのを豪槍は見た。
「悠!!!!」
やめろ、そう叫ぼうとしたその時、大丈夫、と少女の声がその場に残る。

「絶対、死なないから」

 蓮皇が豪槍の腕を激しく掴む。振り向いた豪槍に、今まで見たことのない表情を湛えた蓮皇は叫んだ。
「進むぞ豪槍!!」
 豪槍は唇を噛む。
(畜生…!!)
 絶対に迎えに来ることを同士に誓い、次の瞬間彼の槍が唸りをあげる。
「おらあああぁあ!!!どきやがれぇええ!!!!」
 目の前の集団を、ぶち抜いた。そして、そのずっとずっと遥か先に、豪槍は見た。今にも掻き消えそうなくらい霞んだ先、目的としていた―――その一団。

「青辛――――!!!!!」

 追いついた。桓魋が州境まで行ってしまう前に。
 男が、振り向いたように見えた。豪槍、蓮皇、燈閃、雹牙、夕暉が飛び出る。猛烈な速度で、桓魋たちの一団へと、武官たちは突っ込んでいく。速い。騎獣の足がちぎれそうだ。景色がただの色の線に見える。悠の姿はもう見えない。目的の人影だけがじわじわと大きくなっていく中、夕暉が叫んだ。
「兄さん!!!!」
「な?!!せ、夕暉?!!」
 虎嘯が弟の存在にたじろぐ。桓魋が豪槍を見て一瞬目を見開き、すぐさま表情を固くする。
「豪槍…!!」
「帰るぞ、青辛!!!!」
 必死の思いで叫ぶ。
「陽子が危ないんだ!!!!!」
 その名前が出た瞬間、初めて桓魋の表情に困惑が混ざる。だが豪槍が次の言葉を続けようとしたその時、ぞっと生気のない気配を感じ、彼は反射的に振り返る。
 桓魋も視線を走らせ、二人の視線がかち合う先に一人の男が歩んでくるのが見えた。
(何だあいつは…)
 一瞬、同じ生気がない男として真っ先に霖雪が浮かんだが、彼の雰囲気とも全く違う。同じ死人と言っても、霖雪は静謐で聖職者のようなどこか神聖な雰囲気さえ漂わせている。だけどこの男からはどす黒い怨念のような淀んだ臭気が感じられた。
 兵卒たちのざわめくような声が響く。
「塙王陛下…!」
「な…?!塙王?!」
 豪槍は男を驚いたように凝視する。だけど男――塙王が見ているのは鋭い覚悟を決めた表情をたたえた桓魋だけだった。
「来たか…青辛桓魋…愚かな…半獣」
 桓魋は何も応えない。淀んだ光が、男を映す。
「景王の代わりに、その首、この手にもらおうか」
 塙王の手が高々と掲げられる。武官たちの瞳が見開く。豪槍がいち早くその場を飛び出す。
 桓魋めがけて黒山の人だかりが押し寄せようとしていた。
 桓魋が、豪槍達の方を振り向いた。
「悪かったな…お前達。こんなところまで来てくれたのに。勝手だが、陽子のこと…頼んだぞ」
「青辛!!!!!」
 叫ぶ。
 だが誰よりも速く飛び出した豪槍でさえもその波には逆らえない。伝えるための一瞬の機会さえも潰されて、桓魋の姿は荒波の中にあっと言う間に遠く消えゆく。
「違う…!!そうじゃないんだ…!!」
 声さえももう、届かないのか。伸ばしたこの手も空を掻くのか。
違うんだ。伝えたいことは、そんなことじゃない。もっと残酷で切実な真実を、事実を、俺はお前に伝えなくてはいけないんだ。
 陽子は、陽子は。
「おまえじゃなきゃ、救えねぇんだよ!!!!」

 虎嘯が飛び出し――――桓魋を殴り飛ばした。

「バカ野郎桓魋!!!豪槍の話を聞け!!!!」
 一瞬、虎嘯の突然の行動に、驚いた周囲の動きが止まった。それが全てを決めた。
 一際鋭い光が射した。空から黒山の人だかりが影を落とす。
次の瞬間、桓魋に襲いかかろうとしていた巧の兵士軍に空から槍の雨が降り注いだ。
 桓魋の瞳が開け放たれ流れる視線は豪槍の更に―――上。訳が分からず釣られて振り仰ぐように振り向いた豪槍の耳に桓魋の声が流れる。
「何故お前が…ここに」
 利広、と桓魋が男の名を呼ぶ。騶虞に乗った黒髪の優男が、天から舞い降りてくる。
「間に合った!やあ桓魋。久しぶり」
 戦場に似つかわしくない穏やかな声。逆光の中で微笑みが落ちる。

 咄嗟に―――蓮皇に似ている、と豪槍は思った。

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 周囲の兵卒たちが一斉に一度桓魋たちから距離を置く。利広を見、彼の周りを飛び交う奏からの援軍を見、歯ぎしりをしながら塙王が吠えた。
「おのれええ!!!どういうことだ!!!何故、奏が突然しゃしゃり出てくる…!!!」
「実は景王から援軍を求める趣旨の文書が私たちの国に飛ばされてきましてね。私は景王の援護をするために慌ててここまで来たんです。私情がいくらか絡まり合っているようですが、客観的に見たら慶を潰そうとしているとしか思えない貴方たちの思惑を潰すために」
 豪槍を見て、利広は微笑む。
「…お礼を言わなくてはいけないね。集団の君たちは上空から見つけやすかったよ。桓魋を必死になって追ってくれたから、その後をついてここまで来ることができた」
 利広の話し方は、物腰が柔らかく知的で上品な感じがした。豪槍は思わずたじろぐ。やはり似ているがこの男は蓮皇とは違う。顔立ちもそうだが、言動や行動も蓮皇の方が甘ったるい感じがする。この男の顔立ちも柔和で甘いが、どこかすっきりした涼やかさの方が強い。年季を重ねたようなどんな猛者でもひらりと笑み一つでかわしてしまうような侮れなさを持っていた。
 くるりと利広は桓魋に向き直る。
「間に合って良かったよ。知ってたかい?君は塙王に自分を差し出しに行くことで陽子を守ろうとしているみたいだけど、あの人たち君の約束守るような人たちじゃないみたいだよ?そこにいる塙王は――君を陽子から引き離すためだけの囮だ」
 ピタリと桓魋の動きが止まる。表情が変わらないものの、心の風向きが僅かに揺らいだのを、笑顔のまま利広は見透かす。
笑顔でありながら、まったく笑っていない表情で利広は桓魋に言う。そういえばね。
「ここに来る途中で陽子に会いに行ったんだ。陽子は一人で偽王舒栄の元に向かう途中だと教えてくれたよ。何でも塙王陛下たちの作戦の本命は本当は舒栄さんの方なんだって。しつこいくらいに陽子のぼでぃーがーどを務める君を陽子から引き離して、その隙に味方の少ない彼女の首を取る算段なんだって。何でも、彼女が行かなきゃ代わりに和州の拓峰の民が皆殺しにされるらしい」
 次の瞬間、利広は桓魋に胸ぐらを掴まれていた。
「!おい、どういうことだ…!そんな話は聞いていない…!お前…それを知ってて…陽子を止めなかったのか」
「私でも、彼女は止められなかった。慶の人々は陽子を守ろうと必死になっているけれど、彼女が行かなきゃ結局何の関係もない民が死ぬことになる。…彼女の言い分は正しかったよ。逃げて自分だけ助かろうとする王なんて民によって斃される。そう彼女は言った。だけどどっちにしろ、このままじゃ景王は登極早々に崩御するハメになるね」
 陽子は死ぬ覚悟だ。こんな王斃れてしまえばいいと彼女は自分で言った。だから。
「君が生きて彼女を止めなきゃ、誰も彼女をこちら側に引き止めることはできないってことだよ」
 桓魋の顔色が変わる。豪槍の胸元から、霖雪の声が響く。
『靖共により軍が動かせないよう、禁軍将軍たちは皆殺害されていた。軍を使い舒栄の乱を抑え民を救うために…陽子は帥文君と龍熄を臨時的に禁軍の中将軍と右将軍に任命した。現在は帥文君と龍熄の二人が中心となって新入文官、武官たちが慶国悪管の討伐、和州拓峰の人質解放、巧国の兵士の炙り出しを行っている最中だ。だが、皆手一杯で、陽子に関しては彼女の護衛として人を送れていない。皆彼女がまさか偽王の元へ一人で乗り込むなんて思っていないから、当然かもしれない』
 ふらりとすべての状況を理解した桓魋の足が後ろに下がる。勝ち誇ったような塙王の声が響き渡った。
「ハハハハハハハ!!!愚かよのう…半獣!!!お前ごときが景王の首に値するとでも思うたか!!!!お前があの小娘に情を抱いていることは知っていた…。情が深くなればなるほど、お前は来ることも分かっていた!!!もう少し茶番を続けたかったが…致し方ない。儂らは決戦の時にお前そのものをここまで小娘から引き離せればそれで良かったのだ…後は靖共、舒栄が胎果の景王の首を落とすのを待つのみ!!!!囮は儂の方!!!まんまと引っかかりおったのう半獣風情が!!!!」
 高らかに塙王が笑う中、桓魋はうつむいたまま何も応えない。
「どうだ言葉も出ないか半獣!!!!これが儂らのやり方よぉ!!!今更すべての種が分かった所でもう遅い!!!!諦めて大人しく首を…」
 だがその瞬間、その場にいた利広を除いた全員が、走った殺気に息をのんで各々の武器を構え臨戦態勢を取っていた。皆精鋭の武官たち。殺気に反射的に反応した自分に訳がわからないという顔をした全員の視線が緩やかにひとりの男に吸い寄せられていく。いち早く、殺気源に気がついた豪槍の背筋が戦慄に粟立った。
 怒りを通り越して狂気じみた――――桓魋の瞳が鋭く歪む。次の瞬間。

 ひとりの男が、吠えた。

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 ぬるい殺気が膨れ上がる。膨張して、手に負えなくなり、ただただその場を吹き飛ばすためだけに殺気は濃度を上げていく。桓魋が咆哮をあげた次の瞬間、彼を囲っていた兵卒たち全員の体が舞った。バカみたいな量の血が吹き上がった。
陽子の元に向かって駆け出した桓魋は止められない。
「ぎゃああああぁああ!!!」
「た、助け…」
 圧倒的な力の差に真っ青になった兵士たちはあっという間に散り散りになって逃げていく。豪槍たちでさえ、その瞬間は呆然と桓魋の姿を見送ることしかできなかった。
優れた鷹程爪を隠す。普段冗談を飛ばし飄々としている顔で想像していなかったのだ。本気の闘いの時でさえ、いつも手加減されていたことを。だけど今、この場にいる全員がはっきりとそれを思い知る。豪槍が野獣なら―――。

 この男は、鬼だ。

 誰よりも早く、現状に気がついたのは豪槍だった。
「行くぞお前ら!!!ちんたらやってる場合じゃねぇよ!!!なんとしてでも、桓魋を陽子の元に送り届ける!!!あれじゃあ陽子の元までもたねぇぞ!!!」
 塙王は口の端から泡を飛ばして叫ぶ。
「させるかぁ!!!慶にはなんとしてでも沈んでもらう!!!ぜ、脆弱な慶に豊かになられてしまったら…儂の治世が…なんと言われるか…!!!!そう簡単に行かせてたま…」
兵士が溢れかえる。豪槍たちが武器を構える。だが、塙王が言葉を言い切る前に、朗々とした力強い声がその場に響き渡った。
「ほう。それほど慶に熱を上げるか塙王よ。寂しいな、同じ隣国のよしみで、雁も気にかけてはくれんのか」
 一瞬の空白の時間。周囲が一斉にどよめく。その隙をついて、豪槍たちは一斉に包囲網を破り桓魋の後を最速で追いかけていく。利広の姿も、その男が現れてから姿が消えていた。だが―――そんなことなど頭から吹き飛び、塙王はヒゲを震わせ声を落とした男を見上げる。

 武装した黒髪の偉丈夫、雁州国国主 延 が空から塙王を見下ろしていた。彼の背後には大量の雁の援軍が空で緩やかに輪を描いていた。

「どうやら…奏からも援軍が来ているらしいが…この巧の兵士たちを抑えるには少し数が足りないようだな」
「おのれ…!!!!!何故お前が…お前がここに!!!!胎果め…!!!!!慶に武装して入った時点で大綱は発動しないのか!!!!」
 力強い眉が跳ね上がる。景王からの要請でね、と延王は目を眇める。
「大綱の裏口など、お前が一番よく知っているだろうが」
 風とともに舞い降りる。空からの雁の援軍が雄叫びを上げて地上に降ってくる。
「お前の相手は、この俺だ」

 激しい乱闘が幕を切って落とされた。

 呪詛を吐くような塙王の叫び声が響き渡る。消えていく桓魋たちの後ろ姿を見ながら、尚隆はふっと口元を緩め剣を握る腕に力を込める。塙王の姿は兵士たちに警護するという名目で引きずられていき、尚隆からは遠くはなされていた。目の前の敵を斬り払う。
 いつの間にが、尚隆のそばで姿を消していた利広が舞うように敵をのしていた。やぁ風漢、久しぶりだねと白々しく笑顔が流れる。
「偶然だね」
「全くだ」
「お前、刹那と呼ばれるものにはもう興味がなかったんじゃないのか?こんな激動の刹那を体現したような国に何故拘っている?」
 利広は笑った。
「…そうだよね。それを言われてしまったら…私も耳が痛いな…。でも…ある友人に指摘されてしまったんだ、私も気づかなかったことを…」
 思い出す。
 空で出会った少女の言葉を。偽王の元に行くことを止めようとしている利広に向かって、行っても意味なんてないと言った彼にまっすぐ少女は言った。
『以前…貴方は、すべての物事は消えゆくだけで意味なんてないと言いましたね。執着するだけ無意味で、全ては刹那で結局は何もかもが移り行き消えていく。あなたからみたら、私の行動は確かにバカバカしいとも思うでしょう。でも…私の行動を非難することは…貴方にはできないはずだ』
『…どういうことだい』
『貴方だって貴方が言うようなバカバカしいことをしているから』
 時間が止まった。息が止まった。虚無さえも感じさせるような透明な朝の光の中で翡翠が男を貫く。利広。刹那に意味なんてないのなら。


『ではなぜ、貴方は私たちのような消えゆく刹那に命をかけているんですか』


 利広は―――答えられなかった。自分の行動に気づかなかった。雷に打たれたように、少女の言葉だけがその場に残った。
 利広は微笑んだまま、どこか試すように男に目を眇めてみせる。自らを刹那と呼んだ少女を想う。そんな自分を振り払うように、話題を変えるように、いつもの会話は唐突に始まる。それはそうと、知っているかい?
「そういえばこの乱の中に延が紛れ込んでいるという噂だ。奏の太子がここに来る理由はなんとなく分かるけど、なぜそんな人ががこのような戦乱の慶までおもむいたんだろう、風漢には想像がつくかい?」
 さあな、と尚隆はにひるに口角をあげる。

「まぁ大方…慶に新しい友人でも出来たからじゃないか?」

 肩をすくめた利広は尚隆に背を預けたまま襲い来る敵を斬り払う。歌うような声がする。目の前には巧の大量の兵士たち、空からは入り乱れる奏と雁の援軍たちが押し寄せる。桓魋や虎嘯、夕暉、武官たちの姿はもう見えない。

互いに正体を名乗ることもないまま五百年越しの茶番は続く。

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 青く冷たい空気がその場に満ちる。壁に等間隔に開けられただけの大きな穴が、薄く伸びるような太い光を幾筋も差し込ませる。そこはまるで何かの儀式の場のようで、何の目的もなくふらりと訪れた人がいたら、その静けさに、思わず息をのんだだろう。だが、そんな人間はここには入れない。

 ここは、和州拓峰郷城―――頂上。

 決戦の前の拓峰郷城の頂上は、厳重に封鎖され、誰も訪れることができる人間はいないはずだ。しかしこの男にとってそんなものは通用しない。様々な裏口など必要な情報はこの男の前ではすべて筒抜けだ。
(まさか…こんなことになるなんてな…)
 この決戦のためだけの用意した巨大なそれを、霖雪は静かに撫でる。小さい頃姉がお遊びで考え出した構造の、不思議な箱。六面あるうちの一面を丸くくり抜き、中は空洞で出来ている。これになんという名をつけたらいいのか霖雪には分からない。姉が考えたこの箱のもっと小さなもので小さい頃はよく遊んだ。呪具で強化したこれがあれば、最悪の場に合自分が望む現象が引き起こせる筈だった。
(彼女を…死なせては…ならない)
 世の中で起きるほとんどは霖雪にとってはどうでもいいことばかりだ。ただ、姉以外に初めて好意を抱いた人々と、今目の前に訪れた人物と再びともに日々を過ごすことができるのなら、霖雪にはこれ以上望むことはない。そのためなら、必死にだってなれる。
 苦しいくらい静かだった。
 その瞬間沸いた感情に名前がつけられず、霖雪は思わず無表情な色の目を眇める。目の前のその人の名前を彼は呼ぶ。自分が想定した中でもその人がここに訪れることは最悪の展開へとつながるものばかりだった。今回ばかりは、自分の想定が外れることを霖雪は願っていた。
「陽子…」
 少女が振り向く。こらえきれないように漏れるように吹き込んだ風が弱く陽子の髪をなぶる。

 刺し貫くような静謐で透明な光の中で、少女の翡翠の瞳だけが淡い決意をたたえていた。



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