back index next


慶はその男を人斬りと呼ぶ。


 龍熄が掴んでいた男の首が飛んだ。龍熄の目は本気だ。誰かが武器を構える音がする。空気が凍る。ざわめきが止まる。次の瞬間。
「う、うわあああ!!!殺されるぞ、逃げろぉお!!!」
 誰かが叫んだのが、最初だった。口から泡を吹いて後ずさる人、殺気立つ人、すべてが雪崩のように龍熄から少しでも離れようとおしあいへしあいをしながら半狂乱で人々は逃げていく。だが。
「え…何であいつ、動かないんだ…」
 龍熄も彼の手下も、一向に動く気配を見せなかった。
訳が分からず困惑する人々、どこかで武器が擦れる音がする。警戒するような視線が飛び交う。放たれた龍熄の言葉を聞いていた人々の様々な反応、その全てをしばらく感情の無い目で見つめた龍熄は次の瞬間――のけぞって笑い始めた。なーんてな。
「嘘だよ嘘!!やっぱ一人殺しとくと説得力はちげェよなァ!!人間本気で危機を感じねぇと素性も見せやしねェ!!なァ巧の兵士どもォ!!民に扮してれば殺されねェとタカくくってたみてェだが、自分も殺されると思ったらそりゃあ本性晒すよなァ!!!」
 だけど。
「おかげで今の反応でどいつが武器を隠し持ってんのか、どいつが兵士としての訓練を受けた連中なのかこっちには筒抜けなんだよ!!!マジな反応してんじゃねェよ!!!」
 下衆が。そう思ったのは誰なのだろう。だがそんな思いに浸る間もなく、龍熄は振り向きざまに胸に短刀を隠し持っていた男の首を跳ね飛ばす。
「き、貴様!騙し…ぎゃああああ!!!」
「ハハハハハ!!!本気にしたか?!!効率のいい迫真の演技だろ?!!こんなソッコーのショボイ手法に引っかかってんじゃねぇよバァカが!!!!!」
 龍熄の抑えていた凶暴性が血の匂いに牙をむく。唇に飛んだ小さな血を舐めとる龍熄はこんな時でもどこか気だるげだ。野郎共、今のであらかた目星はついただろう、その言葉が終わる時には、あっと言う間に潜んでいた兵士たちの大半は匪賊団の荒くれどもに喰われていく。匪賊時代からの龍熄の手下の蛮声と、龍熄の高らかな笑い声、兵士たちの悲鳴が響き渡る。明明を背にかばい、豪槍は思わず後ずさる。

話に聞いていた突拍子もない手法で相手を手玉に取る戦いの鬼才。敵に回したくない男だと本能的に思った。

 龍熄は返り血を拭いもせず彼を振り返る。思わず身構えた豪槍だが、予想に反して龍熄は連れてきていた騎獣の手綱を豪槍に放った。反射的に豪槍はそれを受け取る。気だるげに龍熄は刃に筋を作る血を振り払い自身も騎獣に乗る。
「…乗りな。急いでんだろ。んなチンタラやってたら間に合わねェ…堯天を突っ切るぞ」
 龍熄の視線が明明に移る。
「怖がらせてわりィなお嬢ちゃん、ああしなきゃ間に合わなかったんでね」
 明明は応えられず、豪槍にしがみついたままだ。警戒しながら未だに震えている。だが豪槍はそれよりも――。
「…は?お嬢ちゃん?」
 益々おもしろそうに龍熄が首を傾ける。
「女の子だぜ、その子」
 ポカンとした豪槍に対し、ポカッと明明は頬をふくらませ豪槍を殴る。そんな様子に龍熄は高らかに声を上げて笑う。
 一瞬ためらったが、豪槍は騎獣に飛び乗る。同じく騎獣に乗ったとなりの龍熄に視線を走らせた。名はよく耳にするが、唐突に現れたこの男の素性は何もかもが謎だった。
「あんたの噂は聞いている。…何で助けた」
「豪槍くんだっけ?野犬だと評判だぜお前も。あそこで刃を振るったのは…たまたまお前たちがいたあの場所が周囲一体を見渡せて、かつ俺の縄張りに巣食う奴らを皆殺しにするいい機会だったから。そして…」
 龍熄の瞳が底光りする。
「お前たちが青辛を止めに行く輩だから」
 ちぎれるように景色が飛んでいく中、豪槍は何も応えない。くつくつと龍熄は空を仰ぐ。
「バカだよなァあの男も。真面目なんだよ、おかしなところで」
一つ聞いてもいいか、そう問うた豪槍に、龍熄は片眉を跳ね上げる。
「何故、あんたも青辛に拘る。国の要だからか」
 そんなこと至極どうでもいいねと龍熄は鼻で笑う。俺が青辛を追わせるのは…。
「あの男が後悔するのが見えるからだよ」
 後悔する奴を見るのは自分を見ているみてェで虫唾が走るんだ。

目を眇める。龍熄様、と名を呼ぶ舌足らずな声が耳元で響いた気がした。

:::::


 

龍熄様。〝ひーろー〟ってご存知ですか。



「…ガキが一人生きていやがる」

 龍熄が初めてその少女と出会ったのは、血だまりの中だった。龍熄たちが訪れた時、別の匪賊団が皆殺しにした村の者の中でただ一人生きていたのが――癒多(ゆた)。正確には生きていたというより、最後癒多を斬ろうとしていた男を斬り払った男が龍熄だった。癒多はざっくばらんな若草の髪にそばかすが浮いた垢抜けない顔の少女だった。彼女を生かしておく気になったのはただのきまぐれだった。
ぱっとしないみすぼらしい冴えないガキ。それが龍熄が最初に癒多に抱いた印象。
 匪賊団に引き入れるにも幼すぎたため、近くの村に預けてやることにした。匪賊とはいっても常に里を襲う訳ではない。その頃は懐が潤っていたため、他の野盗団から里を守ることで近くの里に腰を落ち着けていた。
 だから、龍熄が戦闘を終え戻ってきた時、癒多が何かを自分に差し出している時は正直意味が分からなかった。
「…?んだこりゃあ…」
「お花の冠ですだ。龍熄様へのぷれぜんとですだ」
 顔を真っ赤にした少女は舌足らずな方言の混ざった声で必死に言葉を紡ぐ。
 親もなく奴隷のようにこき使われていた癒多は辛くも龍熄に救われる形となっている。だが、癒多はここの里でもこき使われているようだった。これでは領主の頭がすげ変わっただけだが、それでも癒多は龍熄に感謝しているようだった。鼻を鳴らし、龍熄は花かんむりを踏み潰す。
「…いらねェ」
 癒多は微かに傷ついたような顔をした。それでも、すぐに笑顔を作り龍熄の後をついてくる。おかしなガキだと何の感慨もなく思った。
「…なんでついてくる」
「お、お話できる機会だから…!ずっとおら、龍熄様にお伝えしたいことがあるとです…」
 そして、ドキドキとした面持ちで癒多は龍熄に話しかける。
「龍熄様。〝ひーろー〟ってご存知ですか」
 癒多を無視したまま、龍熄は歩み去ろうと足を進める。でも、癒多は一生懸命龍熄についてくる。
「ひーろーは英雄のことを言うらしいとです。少しこっちの言葉が分かる海客の人から教えてもらったとです。ぷれぜんとって言葉も、ひーろーって言葉も!」
 龍熄は応えない。それでも癒多は話しかける。
「昔…おらは幸運にも禁軍将軍様に助けていただく機会がありました…。それ以来、おらにとって禁軍将軍の鎧は、ひーろーの証なんです。かっこよかったなぁ」
 龍熄は顔をしかめる。禁軍将軍なんて言ったら国の重鎮だ。裏の日陰の世界とは反対の日なたの人間の証。国側の人間では身近な所で最近対峙した征州師将軍帥文君の強烈な印象もあって龍熄はうんざりとした顔をした。
「はあ?ひーろーの証ィ…?頭沸いてんのか。この俺に対して禁軍将軍自慢か…?結局何が言いたい。これ以上ふざけたこと言ってやがると頭と胴体切り離すぞ…」
 国官どもの功績を目の前で賞賛されても不愉快なだけだ。ここは匪賊団、敵のことなど豚扱いはしても英雄扱いするなど頭がおかしいのかと思った。龍熄は冷えた目をする。ひっと癒多は龍熄の迫力に身をすくませる。それでも、ようやく龍熄と話せる機会に、癒多は一生懸命潰された花かんむりを握りしめて呟いた。
「え、えっと…ごめんなさい。おらにとって…龍熄様は〝ひーろー〟だから…」
 禁軍将軍の鎧は、とどもりながら癒多は呟いた。

「きっと、龍熄様にお似合いになりますだ」

 予想もしない言葉に雷に打たれたように龍熄の動きが止まる。だがそんなことに気づかず、癒多はやっとずっと思っていたことを言えた達成感から恥ずかしそうに顔を赤らめながらもどこだグズ癒多と叫ぶ罵声の中に帰っていく。
 ただ呆然と、龍熄は何も言えずに癒多の背中を見送った。

 それから月日は流れた。

 龍熄は、徐々に一人で作業をする癒多のところへと訪れるようになっていった。癒多も大分成長し、娘と呼べる年代へと緩やかに移っていた。癒多のところへ通っているということは龍熄と癒多を除き誰にも知られてはいなかった。だけどその時、一瞬癒多を見つめていた龍熄の様子を見て、手下の一人が龍熄に言った。
「龍熄の頭。その…頭と癒多ってデキてるんスか」
 龍熄は一瞬沸いた衝動から目をそらすように言った。
「…んなわけねぇだろうが」
 ですよね、あんなブスと下品な笑い声で手下はゲラゲラ笑った。人の気配が外でした気がした。
龍熄にとって女は消耗品だ。龍熄の力強く整った顔立ちは気だるげな色気を含んでおり、猟奇的な男性性もあって女は自然に彼に群れる。腐るくらいにたくさんの女を抱いて、相手が本気になればその度に捨てる、龍熄にとってはそれが普通だった。何故癒多のところばかり訪れるのか、それは彼にも説明できない。

 そして今日も龍熄は、癒多の所へ訪れる。
 
 夜が満ちた空間。僅かな月明かりの中、茅軒で作業を続ける癒多に影が落ちる。
「龍熄様」
 気だるげな様子で柱にもたれる龍熄はそれだけでどこか絵になる。人は正義が好きだが、悪人には悪人なりの華があった。
「来てくれたとですね」
 等身大の自分で、今日も癒多は平和に笑う。何も言えず、龍熄は顔を逸らす。

 なぁ。好きだ。

 この一言が言えればいいものを。だけど龍熄には何故かそのたった一言が言えなかった。いつもただ癒多の所に来るだけで終わってしまう。話したくても声が出ないのだ。癒多の前だと普段饒舌なのに口数も少なくなってしまうものだから、ただそこには仏頂面をする龍熄と穏やかに笑う癒多がいた。龍熄は一言声を落とす。
 癒多。

「…お前…毎日毎日こんなふうに働いてるが…願いはないのか」

 一瞬だけ、癒多の表情に読み取れないものが閃く。だけどそれも瞬間のことで、すぐに癒多はいつものように穏やかな表情をする。癒多は何も応えなかった。

「そう仰る…龍熄様のお願いはなんですか?」

 龍熄も応えられなかった。ただ好きだと癒多に心の中で語りかけた。彼女の願いは、その時の龍熄には結局分からなかった。まろやかな乳白色の絵の具をポタンと上空に落としたような月だけが、二人の横顔を照らしていた。
 日々はただただ流れていく。癒多と龍熄が離れることになったのは、突然の出来事だった。濃い草花の臭いが満ちた日だった。生暖かい風に混ざるように飛ぶ紙吹雪のような蝶達が美しかった。龍熄たちの資金もそろそろ底をついてきていたので、狩りにでなければならない。そんなときに、言葉を切り出したのは癒多だった。
「龍熄様も一緒にここに腰を落ち着けましょう。もう匪賊団さやめて」
 そんなこと、できるはずがなかった。匪賊団がまとまっているのはひとえに龍熄の器量ゆえ。龍熄が頭としていなければ、匪賊団は統率が取れず裏世界で猛者たちは一斉にバラけ、シャバにも影響が出る。それだけはできない。自分は〝ひーろー〟なんかじゃないからこそ、龍熄にも日向から程遠い裏の人間として通すべき筋というものもあった。
 そして癒多のことも。普通なら絶対に離す筈がなかった。でもその時は――――龍熄は思ってしまった。想像できてしまった。癒多が普通の穏やかで幸せな人生を歩んでいる姿を。そして自分はそうなれないことを。あの時はできなかったことが、その時はできた。
「じゃあな癒多。ここで―――お別れだ」
 なぁ。好きだ。
好きなんだ。だからこそ――自然の中で幸せそうに笑う癒多を龍熄は手放した。


 女人追放礼で真っ先にその里が焼き払われたのは、それからひと月後のことだった。


 必死に龍熄たちがその里へ駆け戻った時には、村はすでに黒い煙をあげて死んでいた。それでも龍熄は声を張る。
「おい癒多ァ!!癒多どこだ!!」
 駆け抜ける火に巻かれた村の中は焦げた死体で溢れかえっていた。自然の美しい紙吹雪みたいな蝶の村はもうそこにはなかった。必死で龍熄は癒多の姿を探す。焦げた死体の中に癒多の姿はない。
(…ひょっとしてちゃんと逃げて…)
 その時一つの馬小屋に、龍熄の目がとまった。直感的に―――分かった。ゆっくりと歩みをすすめる。開け放たれたままの馬小屋の扉をくぐれば、目的とした少女が散乱した藁の中血まみれで横たわっていた。この状態で幸か不幸か少女はまだ息があった。
「…癒…多」
静かに抱き起こす。馬小屋にいたせいで火に巻かれることはなかったようだった。それでも喉はすっぱりと刃物で切られ赤い肉が見える。驚いたように死にかけてくすんでいた瞳に光が戻った。龍熄様。
「龍熄様…龍熄様…」
「…いい。喋るな」
 食いしばるように龍熄は言うと自分の掌で癒多の首の傷を抑える。滑稽な光景だった。いつもは躊躇なく跳ね飛ばす首を龍熄は必死につなぎとめようとしていた。だけどそんな龍熄をあざ笑うように、癒多が口を開くたびに指の隙間から血は溢れて龍熄の手を汚し続ける。涙で声を濁らせながら癒多は微かに微笑んだ。
「やっぱり龍熄様は…〝ひーろー〟ですね。来て…くれたとですね」
「喋るなっつってんだろ…!!!」
 穴のあいた喉から空気が漏れるひゅうひゅうとした音がする。ただ涙を流しながらゆるく癒多はかぶりを振る。痛みも相当なものだろうに、彼女は痛くて泣いているようではなかった。
「ねぇ龍熄様。おこがましいかもしれませんが…おら…龍熄様のお願いが…分かる気がするとです」
 気がついていましたか、龍熄様。
「貴方はいつもおらといる時、お言葉が出ないことに苛立っておいででしたね。ですが貴方は本当は…口数が少ない人です。人のお心を掴むためのお言葉はとても上手に操られますが…貴方が本当に欲しかったのは、きっとそれさえいらない誰かとの静寂だったんです」
 龍熄の瞳が見開く。
「龍熄様もおらの願いを聞きましたね。おらは…応えられなかった。だってそれは…龍熄様が関わることだから。それが叶うんだったら今すぐ死んでも良いと思えるような大事な願い…」
 おらは。
「貴方の腕の中で死にたかった。それ以上幸せなことはおらには考えられない。こんなおらでも身の程知らずな誰にも言えねぇ叶わねぇ…夢ぇ見てました。だからこそ…おらは貴方から離れてこの里さ残ったとです…。貴方が残れねぇことを知っていたから」
 身勝手でしょう、そう癒多の目から涙が溢れる。そしてその時龍熄は癒多が本当は――あの時子分と自分との会話を聞いていたことを知る。顔中ぐちゃぐちゃになりながらも、それでも止めることはできなかった。
「…不思議ですね、龍熄様。おらは天が本当にあるのか分かりません…。でもね。今…ひょっとしたらお天道様みたいな人はいるのかもしれない、おらはそう思えるんです…」
 目を見開く龍熄の耳に、掠れた声が震えた。だってね龍熄様。
「もう貴方にお会いすることもできないと思っていた。それなのに。おらの一生の願いは」
 泣き笑いが、崩れる。

「…叶ったんですから…」

 龍熄は、癒多を見つめる。涙の筋を作ったまま、目を眇めて微笑んでいる少女を。
唇が最後の言葉をつくった形のまま、少女はもう、事切れていた。
 ゆるゆると彼は腕の中の癒多を揺すった。ぬくもりが引いていく体を、起こすように揺すり続けた。
「…何でだよ」
 やっと出たのは、絞り出すような泣きべそをかいたような、自分でも聞いたこともないみっともない声だった。彼の口から出た言葉は、それだけだった。
「…何でだよぉ」
 答えてくれる人は、もういない。
 なぁ。鬼だろうが神だろうが、誰でもいい。誰でもいいから、どうか教えてくれ―――。
「何でなんだよぉおお!!!!!」

 なぜ、この子なんだ。

 何が天だ。本当に天があるのなら何故こんな真似をする。何故残虐非道な行いばかりをしている自分が生きていて、心の綺麗ななんの罪もない癒多が死ぬのか分からなかった。 
女人追放礼の余波は悲しいくらい平等に押し寄せた。国のお堅い役人にも正反対の日陰者にも。激しい爪痕だけを残して人は痛みに沈んでいく。
 龍熄は癒多を激しく掻き抱く。悲しいくらい、少女の体はまだなお温かかった。残虐で名の通った男は、癒多の事切れた体を抱き肩を震わせて――――初めて声を上げて泣いた。
記憶の中の声が響いた。 
『龍熄の頭にお前が口聞けるとでも思ってんのか、グズ癒多』
『キャハハハハあんたみたいなブスが龍熄様に釣り合うわけないじゃなーい』

 俺もお前らも最低だよ。

 あの中で本当に綺麗なのは癒多だけだったんだ。癒多が俺に釣り合わないんじゃない。俺が癒多に釣り合わないんだ。無意識に俺はそれを知っていたからこそ―――癒多にだけは拒絶されたくなくて、幸せそうに自然の中で笑うあの子を手放したんだ。でも。

 奪っちまえばよかったんだ。

 これほど激しい後悔に苛まれるのならば。手を離さなければよかったと血を吐くように思うのならば。誰かが作った自分が受け入れた建前なんか叩き潰して。抱いてはなさなければ良かった。たとえそれが―――これ程汚れ切った手だったとしても。

 それが生涯で初めての本気の恋だったのなら。

 手をつなぐことさえ、できなかった。差し出された花冠さえ、受け取らなかった。振り仰ぐように声を上げて泣きながら、癒多の声だけが蘇る。何気ない本当は幸せだったあの時のことを思い出す。初めて癒多に心奪われた瞬間――禁軍将軍を輝いた目で語っていた癒多を思い出す。
 慶国将軍の鎧。そんなもの日なたの道から正反対の場所を歩いてきた自分に似合うわけがない。禁軍将軍も大悪党の匪賊団も、敵対し合うそれぞれを当たり前みたいに垣根なくくぐり抜たのは。日陰と日向を行き来できたのは、ただひとり癒多だけだった。それでもまっすぐな目で龍熄を見つめ、日陰者に癒多は言った。

『きっと、龍熄様にお似合いになりますだ』

 たとえ世界全てに嫌われている大悪党だろうと――――癒多にとって、龍熄はたったひとりの〝ひーろー〟だから。

 時を超えて、バカみたいに少女の言葉を追いかけた龍熄は空を振り仰ぐ。鎧は龍熄の胸で光を落とす。彼をここに呼んだのは、癒多だ。彼の今を知ったら彼女はなんと言うだろう。龍熄は頭を振る。そんな彼を追憶から引き戻すように子分の聞きなれた下品な声が高らかに響く。
「頭ァ!!!暴れ時ですぜェ!!!」
 霖雪の声が豪槍の胸元から響く。
『豪槍、北西へ進め。3里進んだ先に他の武官たちがいるはずだ』
「行きな、豪槍くん。青辛をなんとしでも止めてくれよ。あいつは俺も気に入ってんだ。女ァ逃すと男ってもんはどこまでも引きずるらしいんでね」
「!あんたはどうすんだ…!」
 ふっと龍熄は口元の弧を伸びやかに伸ばす。振り向けば、大量の武器を持った人間が押し寄せてくる。腹の中心がゾクゾクする。喉が鳴る。豪槍が表情に出すその前に、獣のような獰猛な笑みを、大匪賊団の頭首は浮かべた。

「俺たちはここで狩りをする」

――――前代未聞の禁軍将軍の鎧が、鈍く光を弾いて揺れる。


back index next