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この回には大人向けの要素が含まれます。PG12推奨です。

帥文君が妻に最初に抱いた印象は、かわいくない、だった。


 あいつが、師文君か。

 その言葉は大抵の場合、自分に会ったこともないのに悪意9:驚き1の割合で発せられている。
元から敵は作りやすい性質だったが、征州軍で能力を買われ駆けあがっていけばいくほど、彼の特異さが際だち攻撃の対象となった。頭が切れ口論になっても負け知らずなものだから、直接ぶつけられない彼に対する嫉妬や溜まった鬱憤は陰口へと形を変えて周囲を取り巻く。苛立ちのあまり歩む足が速くなる。
角を曲がって少し歩いた時、前から歩いてきた誰かとぶつかった。普段より反応が遅れた。

「あら…ごめんなさいね」

 蓬髪が揺れる。流れる髪を掻き揚げ、冷たく整った顔立ちが全く悪いと思っていないような表情で謝罪を述べる。美しい女だった。冷たい視線で舐めるように見られた。それがまた気分が悪かった。顔を見た瞬間、周囲の武官たちが噂していた名前と結びつく。確か名前は―――白澪(はくれい)。最近征州城に入ったばかりの女文官で、美しいと評判の女だった筈だ。
だが男色家の帥文君にとってはなんの感情もわかない頭の中の知識だ。そもそも帥文君は好みはあっても、元々顔で人を選り好みしたりしない。正直なところ顔立ちなど至極どうでもよかった。向こうも少し機嫌が悪そうに帥文君を見つめる。お互いにそんなつもりはなかったが、にらみ合うように目があった。
知識と実物の態度が結びついて、帥文君の中の女の第一印象へと変わる。

「…かわいくないですねぇ」

 可愛げのない女の後ろ姿は、小さくなって消えていった。
次に帥文君が白澪に会ったのは、それから三日後のことだった。訓練を終え、房間に戻ってきた帥文君は自分の牀の上に寝転がっている白澪にしばらく言葉が出なかった。
「…何で貴方がここにいるんですか」
「この間ぶつかっちゃったからそのお詫びを届けに。しばらく外で待とうかと思ったけど、空いてたから入っちゃった」
 ちらりと机案を見ると、小さな焼き菓子を入れた袋が乗っている。憮然として帥文君は鼻をならした。
「いりません。帰ってください」
「…ていうのは嘘。…いや、ちょっとほんと?だって本件はそっちじゃないもの」
 帥文君の片眉が跳ね上がる。白澪は伏し目がちにため息をついてみせる。
「実は、房間を追い出されちゃったの。ここに来たばかりでツテがないって困っていた時、ぶつかった貴方のことを思い出したから…。女性をひとり寒空に放り出したりはしないでしょう?」
「何勝手なことおっしゃってるんですか」
 白澪の冷たい顔立ちが初めて微笑む。緩慢な動作で白澪は机案に手を伸ばし、焼き菓子を入れた小さな袋を振って見せた。
「だからこれはお詫びの品っていうより、私を貴方の房間に置いてっていう賄賂」
「いりません」
 征州は州の官吏たちの生活のために、寮制度を導入している。多くの独り身の武官文官たちが利用している便利な制度だが、男性寮に女性を泊めることは禁止されている。この女もその制度を利用していたのか、と帥文君はため息をつく。そもそも、この女は自分の元に流れてきた情報網によれば既に女性の友人もいるし、州師の男共にも人気は高い。彼女ならいくら禁止されていても男は喜んで房間に泊めるだろう。ツテなどいくらでもあるはずなのに、ほとんど面識のない自分のところに来る意味が分からなかった。
(…とにかく)
 少し脅かしてやればすぐに出て行くはずだ。帥文君は目を眇め、いつもの作り物じみた笑みを浮かべる。
「ホホホホホホ第一、貴方ここがどこかわかってそれをおっしゃってるんです?男の房間に転がり込むとはいい度胸じゃないですかぁ。喰われてもいいんですかぁ?」
 あら、と白澪は興味もなさそうに伸びをした。
「貴方男色家なんでしょ?女には興味ないくせに何言ってるの?」
 ぎゃふん、と益々渋い顔を帥文君は作る。するりと白澪は牀から滑り下り帥文君の胸に焼き菓子の袋を押し付ける。彼の胸に押し付けた瞬間にパッと袋を手を離すものだから、つい帥文君は反射的に袋を受け止めてしまった。
 くすりと女は笑う。
「賄賂のお受け取りありがとう。私は白澪よ。荷物はもう用意してあるからすぐ運ぶわ、よろしくね帥文君」
 そう軽く言った白澪は、そのまま猫のように帥文君の房間に住み着いてしまった。

 今でも尚、何故自分があの時転がり込んできた白澪をそのまま置いてしまったのかわからない。常時ならただぶつかっただけの相手(しかも女)を房間に置くなんてありえない。だがただその時はまあいいかと思ってしまったのだ。白澪に抱いている感情の種類はまるで磨硝子がかかったように自分にも見えなかった。別に共に住んでいても、帥文君の朝は早く、夜帰ってくる時間は遅いので眠っている白澪と顔を合わせて会話することもなかった。特に噛み合うこともなく二人の生活は流れていくだけに思えた。だがそんな奇妙な同居生活がしばらく続いたある日のことだった。
 夜遅く、ようやく房間に帰り着いたその日。小さく灯る蝋燭の灯に帥文君は目を眇めた。別に誰ひとりとして待っている人間もいなかったから、どれだけ帰りが遅くなろうと彼にとっては変わらないのだが。その日は一際激しく嫌がらせを受け、返り討ちにはしたが酷く気分が荒み、疲れているのに倒れ込んで眠れなかった。相手を叩きのめしても自分が欲しいものが分からなかった。気分が落ち着くまで何も考えたくなかった。ずるずると扉にもたれるようにして座り込んだ帥文君に、小さな声が投げかけられた。
「…眠らないの」
 白澪が衾にくるまったまま、帥文君に顔を向けていた。顔を持ち上げた帥文君が呟く。
「…起きていたんですか」
「貴方が出て行く時も、帰ってきた時も、眠っていたことはないわ」
 小さく笑った白澪が衾を蹴った音がする。するりと絹がすべるような音がして、気がつけば白澪は帥文君の目の前にいた。手に持つ燭光の光が柔らかく振れる。冷たい闇の中、滲んだような暖かな光が二人の顔を淡く濡らして揺らしていく。相変わらず自分がこの女に抱いている感情が磨硝子の向こう側のことのように帥文君には分からなかった。ただ――房間から追い出す気にはならないことが分かるだけで。この奇妙な同居生活になんという名前をつけたらいいのかもわからない。分からないことは、頭の良い帥文君にとっては酷くむず痒いものだった。そんな帥文君をからかうような、面白いものを見るような目で見る白澪の言葉が流れる。
「いつも貴方出て行く時も帰ってくる時も、違う顔してるの知ってる?毎日毎日。普段はいっつも作ったような笑みばっかり貼り付けてるけど、この房間だと気分に合わせて変わるの。本当に…わかりやすくて笑っちゃうわ。だから、毎日衾の中で貴方が出て行く時の顔を見てから…今日はどんな顔で帰ってくるかしらって予想するの。そして仕事を終えて戻ってきて…衾褥にくるまりながら、貴方が帰ってくるのを待つの」
 冷たい白澪の顔立ちに、瞳に、暖かな燭光が柔らかく溶ける。瞳の中の滲むような光が揺らぐ中、帥文君は映し出される自分も彼女の瞳の中に溶けているのを見た。息が止まる。胸が苦しい。どうしてだ。帥文君の瞳が見開き、彼の頬に手を添えた白澪の唇が言葉を創る。
だけど。
「…今日はちょっと遅かったわね」

 光が止まる。瞳の中の二人が止まる。時が止まった。

 その衝動の名は、わからない。その言葉が、何の引き金となったのか、帥文君にはわからない。ただ気がついた時には、自分の行動に訳もわからないまま帥文君は白澪の腰を強く引き寄せていた。彼女に対する磨硝子のような膜が取れて顕になった感情は、ひたすら激しい衝動だった。ただ激しく食らいつくように唇を重ねていた。自分がなぜ彼女に口づけてるのかもわからないまま、白澪の僅かに漏れた唇の隙間から漏れる喘ぎと共に舌を絡めていた。気がつけばお互いに服ははだけ、晒された素肌に食らいつく。喘ぎ声が漏れてさらにお互いに体を重ねて、そのまま牀にも行かず、床の上でめちゃくちゃに抱いて抱かれた。雄としての本能を呼び覚まされて、ぐるぐると喉を鳴らしながら犯すように激しく抱いた。彼女の中で果てた時、白澪の指が帥文君の頭を掴んで、指と髪と絡まって再び目が合い――――角度を変えて、さっきよりも深く唇を重ねた。ずっとずっと欲しかったのは、たった一つの温かさだった。

 疲れも苦しさも何もかもを押しのけて、その日は朝まで体を重ね続けた。女を抱いたのは初めてだった。
 
 その日から、白澪は帥文君と同じ牀に眠るようになった。訓練から戻ってきた帥文君はそのまま白澪が眠る牀に滑り込んで眠るようになった。体を重ねる回数は増えていき、休日は二人で過ごすことが多くなった。
気がつけば白澪は帥文君の妻となっていた。
男色家の自分に妻ができるなんて想像もしていないことだった。そんな帥文君に、白澪はいたずらっぽく笑った。ある時体を重ねながら首筋に唇をあて白澪は彼の耳元で囁いた。
「いつか…頭の良い貴方にも誰かの問いかけにこたえられない日が来るのかもね」
「ホホホお生憎ですがこれでも私は質問に答えられなったことなどありませんよ」
 少し得意げな顔をした帥文君を愛おしそうに白澪は見つめ、それ以上は何も言わなかった。唇を寄せ、彼の耳に囁く。
「…私、実は予言ができるって言ったら驚くかしら」
「はは…男色家の私と結婚するのも予言してたんですか」
 まぁねと冗談じみた声で白澪は目を細める。
「最初私が転がり込んだ口上は嘘だって言ったら、あなたどうする?」
「…どうもしませんが、何故?」
「貴方を狙ってたから」
 帥文君の片眉が跳ね上がる。クスクス白澪は笑った。
「貴方頭は切れるくせに、こういうことはからっきしわかってないんだもの。ふふっ。房間を追い出されたっていうのは…本当は嘘。普通なら気づくのに…。だから貴方こんなふうに私に転がり込まれて食べられちゃうのよ」
 私と結婚したのは何故ですか。そう問うた帥文君に、目を閉じた白澪は歌うように言った。 
「打算よ。ただのね」
「打算?」
「隠れたこんな有望株放っておくわけにはいかないでしょ」
 帥文君は唇を尖らせる。私が出世することを見越したからですか、可愛くないですねぇ。一層楽しそうに白澪は帥文君と額を重ねた。怒らないでよ。
「あとは…自分の欲望に従ったの。貴方のことは噂で知っていたわ。だから貴方は男色家だし口もキツイから、女は圏外だろうってことは分かっていた。周囲も貴方のことは対象から外してたみたいだしね。でも、私自身興味もなかったはずなのに…目が合った瞬間から―――私は貴方がどれだけ私に興味がなかろうと、どうしても貴方が欲しくなった。喉から手が出るくらい欲しくなった」
顔を見られないようにさりげなく白澪から顔を逸らした帥文君の口元は真一文字に結ばれ、耳は真っ赤に染まっていた。普段は口説いてるんですか?とからかうのが好きな帥文君の本気で好きな相手から真剣に口説かれてしまった時の反応は白澪だけが知っている。そんな彼をぞくぞくとした熱の篭った瞳で白澪は見上げる。もっと見たい。他の男になんてあげない。白澪は喉の輪郭をなぞるように舌を這わせ、ビクリと体を震わせる帥文君を猫のような目で見つめる。彼の胸を白澪の指先が滑り、思わず息がつまった瞬間唇で塞がれた。
「男色家なのに女に堕とされちゃったわね、帥文君。ふふっ あと、私が貴方の妻になった一番大事な理由は…貴方といた方が人生得しそうだったから」
 あ、またわかってない顔をしたわ。そう楽しそうに白澪は帥文君の鼻の頭を指で押しころころ笑った。クラクラとした熱の篭った余裕のない瞳で帥文君は白澪を見つめた。
 白澪。
何度もその名を呼びたくなる。
 空虚な感覚の中であの時のことを思い出す。靖共の嗤い声が響き渡る。靖共に初めて会ったのは、妻が死んだその日だった。

「これはこれは。貴方が帥文君ですか。いやはやお初にお目にかかる」

 名乗った靖共に帥文君はただ眸を眇めただけだった。そんな彼の様子を見、おやおやそのような反抗的な態度でよろしいのですかな。とそう靖共はにやりと嗤う。
「ちょうど良い。やはり私が目をつけておいたものに間違いはない。この州は元々反抗的だったからな。これを機に反省をしてもらわなければ」
「ホホホホホ反省ですって?ご自分達のなされていることを振り返ってから仰ってくださいよぉ。いい迷惑です」
「…小賢しい男だ。だがどれだけ頭の回転が速かろうと、圧倒的な力の前では無力。国の力を知らしめるためにも見せしめは必要。現在の無能な王の生贄には国に逆らった将軍の妻などいい駒だと思わないか。お前のような生意気な男の妻だからこそ殺す価値がある」
そう呟く靖共にざわりと背筋が粟立つ。帥文君を見据えながら、靖共の瞳が歪んだ。

「もう何もかも終わっていると知った時、お前はどうするんだろうな?」

 帥文君は靖共になど目もくれず軍議室から飛び出していた。靖共の嗤い声だけが、どこまでもどこまでも彼の後をついてきた。向かう先は―――妻がいるであろう、我が家。
 自分たちの房間から、返り血をまだらに鎧に滴らせる男が出てきたのが見えた。次の瞬間には男の首と胴は離れていた。斬った男を振り返りもせず、帥文君は必死でいつも待ち望んで開ける扉に手をかける。

 扉をぶち壊さんばかりに開けた時には――――白澪は帥文君の衣を抱きしめて血濡れて息絶えていた。

「…白澪」
 揺さぶっても、もう彼女の目は開かなかった。冷たくなった彼女を揺さぶり続けた。彼女が握り締めるものを見て、帥文君は膝をつく。彼女が事切れても尚握り締めていたのは、初めて彼女と出会った時に帥文君が着ていた彼の衣だった。
 まるで衣を帥文君だと言いたいように、いない彼を抱きしめるようにそのまま死んでいた。
もう衣を抱きしめる腕は固まって剥がれなかった。あれだけ重ね合って温かかった、体の温度だけが冷えていった。
 白澪。
 自分の妻にさえならなければ、あんな所で、あの若さで死ぬこともなかった。引き絞るように胸がギシギシと音を立てる。
 思い出す。彼女の両親に彼女の顛末を知らせに行った時のことを。
 帥文君は土下座をしていた。だから反対だったのよ、と震えるような声が自分に落とされた。
「それまで全く欲のなかったあの子がある時突然、嫁に行くって言って聞かなくなった…。聞けば相手は男色家の問題ありと有名な男…。そんな男についていって幸せになれるかどうか最初から怪しかったのよ。結果的にこの若さで死ぬなんて…なんてかわいそうなの」
 あの子に何をしたのよ、と吐き捨てるように母親は呟いた。
「貴方の妻でなければ…慶国の外に逃げることが出来た筈よ…!だって私もまだ無事なんだもの…。どうして…白澪だったの…?!何でよりにもよってあの子を嫁にとったのよ…!!あなた男色家なんでしょ?!!女には興味なんてなかったんでしょ?!!どうしてあの子じゃなきゃいけなかったのよ!!!!応えなさいよ帥文君!!!!」
 どうしようもないことだと、きっと言っている本人が一番分かっている。それでもやめられない。彼女の母の罵る言葉も後半は声は涙で歪んで聞き取れない。やめないかと咎める父親の声が遠い。

『いつか…頭の良い貴方にも誰かの問いかけにこたえられない日が来るのかもね』

 彼女の母の問いかけに応えなければとそう思った。だけど帥文君は彼の心を。彼女に抱いていた他の人間とは比べ物にならない感情を説明しようにも、何一つとして言葉にできなかった。誰かの質問に答えられないなど経験したことなんてなかった。それでも。
 どうしても、応えられなかった。恋に堕ちてしまったその心を。

 言葉になんかできなかった。

 土下座をし顔を伏せたまま、帥文君は投げられた物を何も言わずに体に受け続けた。額が切れて血が目元を流れていった。漏らさないようにしていた涙と血が混ざり合って地面に吸い込まれていった。それでも投げられる物の雨はやまなかった。
 白澪。白澪。白澪白澪――――白澪。
 いつも彼女の名を心の中で呼ぶと、思い出すことがある。女人追放礼が出て、国が荒れに荒れ始めた時期のことだ。女人たちを救おうにもどうにもできる問題ではない。だが当時妻の身を案じながら苛立つ帥文君に、当の白澪は事も無げに言った。
「大丈夫よ」
「適当なこと言わないでください」
 それでも白澪はいつも冷たい顔立ちのまま、大丈夫、と言った言葉を曲げなかった。その頑なな様子に、その日の帥文君の苛立ちはついに最高潮に達した。
「希望的観測ってやつですか?くだらない。根拠もないのに…そういうことを言うのは苛々いたしますのでやめてください。この国は…終わりです」
「希望的観測なんかじゃないわ…。ただの、確信」
 確信ですって?と帥文君は眉を跳ね上げる。
「強気なあなたの口からそんな弱気な言葉が出るなんて驚いちゃうわ。確かに…今の状況はひどいわ。いつ私も殺されてもおかしくないもんね。目に見える的確なもの以外信じない貴方にはわからないかもしれない。それでも何が起こっても、たとえこの国が滅びかけても、きっと大丈夫よ」
「…何を持ってして、そんな言葉が言えるんですか?それ程までに、この状況で貴方がそんな呑気なことを言い切れる根拠があるなんて気づきませんでしたよ。私も知らないようなそんなご大層なものなら是非聞いてみたいですねぇ」
 皮肉を含めた言葉に、白澪はびくともしない様子だった。ただまっすぐ何かを信じきったような眼差しが、帥文君には眩しすぎた。ふっと視線を緩めて、少しどもりながら、白澪は呟いた。

「この国は、大丈夫。―――――貴方みたいな人がいる限り」

 貴方みたいな人がいる限り、きっとこの国は何度でも立ち上がれるから。
 時間が止まる。なんの根拠もない抽象的な言葉。だけど。

 その瞬間の帥文君の表情は、なんと形容したら良かったのだろう。

ぱっと視線を逸らして両腕に顔をうずめた白澪はどこか呆然とした、いつもの不自然な笑みが剥がれた帥文君の表情を見逃した。そして帥文君もまた、らしくもないことを言ってしまって顔を見せないようにした白澪の表情を見逃した。だけど、彼はどうしても忘れられない。
今なお帥文君の心の中に一番残る彼女の表情は、最初のつんとした可愛くないと思った顔でも、はにかんだ顔でも、怒った顔でも、微笑んだ顔でもなく。


あの時自分が見たはずのない、必死に本心を伝えた照れた白澪の顔だった。


 人は極限での選択を迫られた時、何を基準に自分の行動を決めるのだろう。彼は国に妻を殺されている。国なんてもう滅びてしまえばいいと何度も思った。白澪を殺した男を殺したところで、憎しみは止まらないことを知った。時折溢れかえる憎しみの衝動は、賢い彼にも制御ができない。身が焼き切れそうな程苦しいのなら、もういっそのこと復讐鬼となることも、それもひとつの選択だったと思う。それでもいいと自分は思う。思った以上に自分にできることは少なくて。結局自分の無力さだけを痛感して。妻一人守れなかった男であることを知って。どうしようもない思いの行く先さえ決めることはできなくて。
だけどそれでも。
まだこの自分に叶えられることがあるとするなら。たとえそのせいで復讐心を殺すことになっても。たったひとつ。ひとつでいいから。
『この国は、大丈夫。―――――貴方みたいな人がいる限り』


 私は―――――私を信じた貴方の言葉を、嘘にだけはしたくない。


 風景が流れていく。過去から今へと流れるように。帥文君は今、走る足に力を込める。 
「確かに不安もご最も。荒れるお気持ちもご最も。ですが、きっと―――」
時が止まる。記憶の中の白澪が笑う。白澪の微笑みを胸に抱いたまま、帥文君は涙で目を濡らした鈴に言った。

「大丈夫です」

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 ひとり残された空間は、痛いくらいに静かだった。

 佇む陽子は何か決意を固めたように、冴え渡るように差し込む朝日に目を眇める。
 目を閉じれば脳裏に先程までの帥文君や龍熄たちの会話、瞳に光を灯す鈴や祥瓊の姿が、泡のように浮かんでは消え押し流されていく。
 物音がした。
 必死に駆けてくるその音に、陽子は静かに背筋を伸ばす。誰が来るのかは分かっていた。
 きっと彼は、靖共に襲われた時、陽子の身の危険を感じここまで走ってきたのだ。陽子は振り返って、息を切らしてこちらを見つめる彼の名を呼ぶ。
「…景麒」

 金の髪が朝日に透ける。深い紫の瞳が透明度を増した気がした。

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