![]() |
このままでは終わらせない。いたぶり尽くして、揺さぶってやる。真実を明かし鉄砲を食らったような顔をした周囲の馬鹿な人間の顔に少しは気は晴れた。だがまだ足りない。もっともがき苦しめ。底辺の人間にはお似合いの姿なのだから。そしてひとりの男に、靖共の目が止まる。久方ぶりに見るその男の地雷を、靖共は知っていた。男を目に写しながら、にやりと残虐な笑みが歪む。 「それにしてもお前とこんなところで会うとはな…帥文君」 表情のない帥文君が、靖共を振り返る。対照的に靖共はいたぶるように笑みを深くする。 「私に名を知られないように登録は偽名を使っていたのだろうが…お前何故ここにいる?白澪殿のことは残念だったなぁ~」 ピタリとその名前が出た瞬間、帥文君の動きが止まる。表情から色が抜けたその顔を見、靖共は獲物を見つけた蛇のように口端を釣り上げる。 本当にお可哀想に。 「あれほど美人で、彼女を欲しがる男はごまんといたのに!!!お前の妻になどならなければ、きっと今でも幸せだったろうに!!!あの賢い美人は嫁ぐ男だけは間違えたなぁ!!!そう思わんか、帥文君!!!!」 その瞬間陽子は――――ぶちり、と何かが切れる音を聞いた気がした。帥文君の理性が飛んだ音だ、と気づいた時には陽子は視界に疾走する影に叫んでいた。 「帥文君!!」 うねるように凄まじい速度で白銀が走る。影が飛び出す。 次の瞬間には今まで余裕綽々で誰かの戯言など相手にもしていなかった帥文君が、飛び出した龍熄に抑えつけられていた。 「…!!!!」 ふーっふーっと鼻息荒く、怒りのあまり顔面が蒼白になっている帥文君を、龍熄が羽交い締めにする。 「オイオイ…いつも散々人をおちょくるテメェが乗せられてんじゃんねェよ、頭ァ冷やしやがれバカ野郎!!!!」 靖共が心から愉しそうに、腹の底から嗤い声を上げる。 「ハハハハハ!!!!愉快愉快!!!!小賢しい口も頭も回る男でも頭に血が上ることもあるものだな?帥文君!!!!お前が口より先に手が出るなんて!!!!まぁ自分がいなければ奥方はお亡くなりになることもなかったのだから言葉も出ないのはしょうがない!!!人間図星を突かれると我を失う!!!!」 ぎらりと靖共の瞳が歪む。 つらつらと靖共の言葉が愉しげに流れていく。そして再び陽子に視線を戻す。思い出す。 すべての始まりは、慶の内乱がようやく収まり、慶の空に瑞雲が駆け巡った日の夜のことだった。 幾月か前の――巧州国、翠篁宮。 その時、誰も立ち入れない内宮の奥深くある者たちの真夜中の密会が、小さな灯りを囲いながら密やかに執り行われていた。 「嘆かわしいことよ…。最悪の事態が実現してしまうとはな…」 室内にも関わらず目元深くまでかぶりものを被った男の口元が動く。蓄えた口ひげが蝋燭の燭光を鈍くはじいていた。鋭く落ち窪んだ眸。死人のような土気色の顔色。 その時鈍い光が――――塙王の顔を弱く濡らしていた。 「これほど援助をしたかいのないことはない。景麒をつけさせ、塙麟の使令に捕らえさせた時点で賽は振られたはずだった…それを侵入者に麒麟を逃がされ、誓約を結ばせてしまうとは!」 のぅ、舒栄。 その場にいたもう一つの影が、不遜に顔をあげる。細かく、高く結い上げた髪が揺れた。 「麒麟を奪われるとはこちらも想定外。起こってしまったものはしようのないこと」 舒栄の白い能面のような顔の中、赤い口紅だけがてらてらと燭光を受けて艶かしく光っている。 塙王は冷たい視線で舒栄を突き刺す。ほう?と片眉が跳ね上がった。 「我らは誓約が結ばれる前に、景王になり得る人物も絞れていた…。違うか?常時ならありえないことにな。慶国に入り込んだと知れた時点で、お前が真っ先に消すべきだった。何よりも早く消すべきは浩瀚などよりも、あの半獣と海客とわかりきったことだったものを!!」 舒栄はバツが悪そうに目をそらす。それでも舒栄の不遜な態度は変わらなかった。 「麒麟を捕らえた段階で殺せたはずだった…!二人共!!忌々しい!!!手をくだせたはずだった!!!何故半獣如きに!!!景麒の使令が応戦する前に指令を付けられたら、あやつらを見失わずに済んだものを!!!」 塙王の頭からかぶりものが落ち、騒乱した表情がむき出しになる。思い出すたびに苛立たしさで歯噛みしたくなる。あの時――――巧に景麒が訪れたと知ったその時、答えはもう絞られていたのだ。慶国の女人追放令により追い出され巧に腰を据えた慶国の女人たちか。――それとも、慶の旅の者か。 巧に住む慶国の女人の方は話が早い。捕らえて、皆殺しにすれば良いだけだった。だが女達に手を下す前に、別の情報が塙王の耳に入った。 慶国から逃げ出した海客の少女兵と、半獣の州師左将軍が巧にいる。 運命とはいかなるものか。塙王の命により、塙麟と彼女の使令が二人を追った。そして、景麒が王気に辿り着いたのと、塙麟が陽子をその目で見つけ出したのは、同時だった。 奏と巧との国境線上で。 二人の知らない所で、国境線が命運を分けていた。塙王の命により使令が二人に襲いかかった時――桓魋が陽子を庇って負傷し、その後景麒の使令が応戦した。その時景麒は捕らえられたが、塙麟は使令を陽子たちにつける時間はなかった。景麒と引き換えに二人の姿は闇へと消えていった。その後血なまこになって行方を探させたが塙麟が二人を見つけることはできなかった。塙王は内心戦慄する。 景麒が王気をたどって二人の前に現れたのは明らかだった。王たるものは二人のうちのひとり。その時可能性としては将軍の方が大きかった。あの小娘がただの海客なら消去法で景王はあの男になるからだ。だが確証を得ようにも景麒は肝心な逃げた二人のうちどちらが景王かということについて、とうとう口を割らなかった。景王になったら、どちらの方が自分にとって驚異か。 どちらでも驚異だった。 海客の王か半獣の王か。 どちらが即位しても、慶が豊かになれば塙王の評判は地に落ちることは明白だった。海客、半獣に劣る王に落ちるのかと思った。 そして今――胎果の少女王が誕生した。 より慶が豊かになる道を見せられた気がして塙王の怒りは湧き上がる。ちらりと隣国延のいまいましいくらい精悍な顔が彼の脳裏を横切り、さらに怒りに油が注がれた。 そんな塙王の様子を尻目にご安心めされ。と低く笑うような声がした。 「ご助力していただいたことは決して無駄にはなりますまい」 腹の黒い声だった。舒栄の緩慢な視線と、塙王の煮えたぎるような視線が、今までただ静かに座っているだけだった一人の男に注がれる。黒いヒゲを蓄えた口元がいびつに歪んだ。 「景王陽子は赤子同然。あのような小娘、私の采配でいかようにもできるもの。慶に舒栄様以外の王が立つような忌まわしきこと事態、長くは続きませぬ」 ねっとりとした笑みを目元につけ、舒栄が男を見、塙王を見た。塙王が耳を傾ける男の言葉が静かに続く。 「 冷えた瞳で男――――靖共は、嗤ったのだった。 馬鹿な周囲の人間、全てが自分たちの思うまま。多少の誤算は生じているが、今、計画した何もかもが遂行され、最後の仕上げに入っている筈だ。靖共は嗤った。 「全てが手の平の上だ!!!王が立った今だからこそ!!!決戦の時なのですよぉ主上!!新しく立った王!!その王が起こった内乱、侵略を止めるために出ていけば、圧倒的戦力差になすすべなく討たれる!!!一方で初めから州まるごと見捨てるような王など信頼は即座に砕ける!!!!貴方が行こうが行くまいがこの王政は遅からず崩れる算段なのですよ!!!!」 行くか行かないか。選択を迫られたのなら、貴方はどうしますかな。 「きっと貴方は行くでしょう。奇しくも貴方も青辛と同じ選択を迫られるとはね…。そして…貴方が戦場に行って舒栄に首を落とされることは我らの計画通りなのです。貴方が戦場に飛び出していくのも。我々の思惑の中…」 靖共の瞳がぎらつく。 「皮肉ですなぁ!!!こんなに面白い見世物がありますかな?!!!最初から塙王陛下が出した要求は青辛を赤子から引き離すためだけに用意されたものだ!!!力のあるあの男が邪魔だから!!!そしてまんまとあの男は我らの思惑に乗って行ってしまった!!!青辛桓魋は貴方を想って行ったが故に、貴方を失うことになるんですよ!!!!その決断こそが、貴方を追い詰めるとも知らず!!!塙王陛下そのものが囮とも知らず!!!その判断故に、貴方が死にゆくことを止めることもできずにねぇ!!!!悩み悩んだ末に貴方を想って出した結論が貴方を殺すなんて最高じゃあありませんか!!!!」 雷が落ちたような気がした。陽子や帥文君、龍熄以外の人間の表情が、呆然とただその場を流れていく。男が嗤う。 「なんて馬鹿なんだ。どいつもこいつも。まぁ私もすべての手の内を明かさざるを得なかったが。だが…思惑を知られようが、もう大した問題ではない。何故なら…」 低く陽子にだけ聞こえる声で、靖共は囁く。 私の思惑を分かった上で。それでも。 「…行くのでしょう?主上。貴方もまた愚かな王だ…」 ねっとりと舐めるように靖共は陽子を見る。喚け。吠えろ。だが、彼女と目が合ったその時、びくりと靖共は動きを止める。予想に反して――。 陽子は、何も応えなかった。 ただその目はまっすぐ光を弾いていた。ただ黙っているだけなのに、靖共は何故かその瞳が見つめられず、思わず怯えるように目を逸らす。 「ダメよ、陽子!そんな奴の思惑に乗っちゃ!!」 「行く意味なんてないわ!!」 陽子は、祥瓊と鈴の懇願にも何も応えなかった。陽子の様子を見て何を思うのか。まだ息の荒い帥文君が目を眇める。 「…そのお嬢さんがたが仰る通りです。ようやく得た王を失うわけにはいかない。今最も必要なのは、和州の人質解放と巧の兵士たちの処理、そして舒栄含めた慶国悪官の討伐です。それさえできてしまえば主上が出て行く必要もございません」 陽子は視線を上げる。だがそれに関して振り向きもしない少女は何も言わなかった。帥文君が振り仰ぐ。 「それに…鼠は龍熄一匹じゃなさそうです。他のお行儀の悪い方々も隠れてお話を伺っているようですしねぇ」 出てきなさぁい。そう帥文君が言った瞬間、悠と雹牙が梁から身を落として陽子の前に着地する。 「不覚…」 「ちぇー!何すかこのおっちゃん、完璧に気配消してたのに何でバレたんすか!何者っすか!」 その瞬間、床板が跳ね上がり燈閃と蓮皇が飛び出す。 「雹牙、お前隠れて一体何を聞いていたんだ…」 「あはははー」 その他にも、武官たちが無言で姿を表す。涼梗と真真が柱の影から亡霊のようにその場に現れる。続々と現れる闖入者達に祥瓊と鈴は悲鳴を上げた。 浩瀚が登用した新入武官と文官がその場に現れた。 「みなさん私に気づかれないなんて百年早いんですよぉ出直してくださぁい」 「あははー見つかっちゃいましたねぇ」 「隠れんぼで得られたものは何かありましたかぁ?蓮皇さぁん」 「まぁそれなりに。帥文君、謎が多かった貴方の素性も知れたし、それに…」 いつものように優しい笑みを浮かべたまま、微かに蓮皇の視線が鋭くなる。 「王様だったんだね、陽子」 武官と文官の視線が一斉に陽子に向く。蓮皇の瞳は、どこか試すような色をたたえていた。 「ねぇ陽子。君にとってさ、国って何なの?君は自分が僕たちの王としてふさわしい自信はあるのかい?」 陽子は視線を落とす。正直わからない、という応えに蓮皇の表情は変わらない。 「国とは…あなた達だ。そして王もまた…あなた達一人一人だ。私はただ麒麟に選ばれただけの小さな人物に過ぎない。あなた達がいなければ、何も変えることさえできないんだから」 ぴくり、と蓮皇たちの眉が跳ね上がる。 だから、これは勅命なんかじゃなくお願いだ。次の瞬間、彼らは女王の行動にどよめいた。女王は彼らに向かって、頭を下げた。 「どうかあなた達の力を、貸してほしい」 じっとたくさんの視線が陽子に集中する。空白。次の瞬間。 彼らは一斉に女王に向かって拱手した。 「うっし、決まりだな」 「そのようです」 ただ、帥文君、龍熄と陽子は男達の名を呼んだ。 「任せたぞ」 静かに二人が拱手した。帥文君は龍熄に視線を寄越す。 「龍熄、塙王がいるであろう巧国付近の戦況と潜んだ巧の兵士たちの処遇は貴方に任せます。腹立たしいですが卑怯な奇襲は貴方の得意分野ですからね」 「ほざけ帥文君。俺とあんたは同等だ。だが…まあいいだろう。その区域や戦闘方法は俺の十八番だしな。あんたに捕虜の金玉を袋詰めにして送りつけてやらァ」 「相変わらず下衆と減らず口は変わりませんねぇ。…あと、貴方は靖共の身柄をお願いします。貴方に任せます」 龍熄の片眉が跳ね上がる。ゆったりと舌なめずりをするような笑みを龍熄は浮かべる。 「良いのか。俺はこいつに関しては生かしておけばいいってぐらいの認識だ…。俺に任せるとこの男が五体満足で帰ってこれねェのはあんたが一番知ってるだろうが」 表情を動かさない帥文君の瞳に読み取れない程微かに、乾いた炎が揺れる。ぐるぐる喉が唸るようになった。 「…私に任せるよりはマシでしょう。私は今…自分の制御ができない…。その男を渡されたら…どうしてしまうかわからない」 ふぅんと獲物を見つけたように視線を流す龍熄に、縛られた靖共は真っ青になって口を開け閉めする。陽子は龍熄に釘を刺した。 「…この男は法で裁く。龍熄、拷問はやめてくれ」 了解、と少しつまらなそうに龍熄は陽子に拱手をすると、悠々と踵を返しその場を後にする。頭ァ!と潜んでいた子分が慌てて彼の後を追い、兵卒たちが続く。それを見届けた帥文君は祥瓊と鈴に向き直る。一瞬鈴はびくりと身を竦ませたが、振り返った帥文君はもういつもと同じ帥文君だった。 「…さあ!仕切り直しです。お嬢さん方、朝がお早いのは良いことですが、こんなところでつったっておられても何にもなりませんよぉ」 ここからは貴方も主役のお一人なんですから、そう帥文君は鈴に向かって眸を細める。訳が分からず、鈴はただでさえ大きな眸を、円にする。 「えっ?それってどういう…」 「そんなの…決まってるじゃないですかぁ」 言うやいなや、現状を認識する前に、鈴の視界が反転する。訳が分からず目を瞬いた時には、鈴は帥文君の肩に担ぎ上げられ飛び出した回廊を凄まじい速度で移動していた。祥瓊の驚いて鈴の名を呼ぶ声が遠のいていく。 「は?!!」 鈴を担いで駆け抜けながら、後ろを振り返った帥文君が声を張る。 「涼梗!真真!」 いつからいたのだろう。呆然と佇む祥瓊のそばに既に女官吏涼梗と子供官吏の真真がいた。祥瓊は思わず驚いて声をあげる。二人はピクリとも表情を動かさず、祥瓊に会釈する。帥文君の声が響く。 「そちらの麗しいお嬢さんのことはお任せしましたよぉ~。この馬の骨のお嬢さんは私が承ります。ひ弱なふりには慣れているでしょう。和州の人質の開放はあなた達にお任せしましたよぉ~」 「誰が馬の骨よ!!」 「ホホホホホホ!!さあここからが本番ですよぉお嬢さぁん!!!それにしてもやっぱり軽すぎますねぇちゃんと食べてらっしゃるんですかぁー??」 「う、うるさいわね!大きなお世話って…ちょ、ちょっと速い!!!速い!!!!どこに行くのよぉおお!!!きゃああああ!!!」 「すぐに分かります、時間がありませんので最速で行きますよぉ~はり~あ~っぷ!!」 行き先も告げないまま高らかに笑う帥文君の声と悲鳴を上げる鈴の声が遠く消えていく。彼に付くことになる兵卒たちが大慌てで帥文君の後を追う。蓮皇たちが身をひるがえす。 「僕たちはまず豪槍捕まえなくちゃね!」 「あの狒々はどこにいるんだ…まったく」 「きっと喧嘩…」 「えー!また喧嘩っすか豪槍!」 呆然とする祥瓊の肩に、涼梗の声が投げかけられる。 「祥瓊様。帥文君が申しました通り、わたくしどもは和州の人質解放へ向かいます。一緒に来られるのでしたらご支度の方をお早く」 陽子と目が合う。無理に行かなくてもいい、そう言う陽子の瞳に対し、祥瓊はきりりと視線を研いだ。 「勿論、行くに決まってるじゃない!」 陽子の瞳を見て、まっすぐに言い切った。 「陽子、安心して。貴方をあいつらになんて渡さない。だから、どうか貴方はここにいて」 「…祥瓊」 じっと祥瓊を見つめていた涼梗がうふふと微笑んだ。 「ご心配なさらずとも算段は何通りも立ててありますわ。祥瓊様と同じように、私たちは帥文君と違い武力に関してはからっきし。ですがわたくし達を舐めてかかるなど100年早いのです。ねぇ真真?主上が出るまでもございませんわ」 「物事を動かすのは必ずしも武力ではありません。僕らの腕の見せどころですね」 涼梗の目元を隠すように切りそろえたれたまっすぐの白藤色の前髪の隙間から、一瞬だけ見えた切れ長の目が猫のように細まった。紅を塗った薄い唇が嗜虐的に伸びやかに弧を描く。 「お馬鹿さんたちに目にものを見せて差し上げましょう」 ::::: 景色が恐ろしい速さで流れていく。 線のより合わさった景色に酔いそうになりながらも、帥文君に担ぎ上げられたまま鈴は、彼の背を容赦なくバンバン叩く。 「ねえ、ちょっと!大丈夫なの?!巧国の兵士たちのこと任せて!!そう簡単に対処できることじゃないわよ?!私たちがしっかりしなきゃ、陽子が偽王の元に出て行くことになるのよ?!!」 鈴の力の強さに顔をしかめながら、大丈夫です、そう帥文君はこともなげに言い放つ。 「巧国の兵士に関してはあの匪賊に任せておけば問題ないでしょう」 敵対している時はこの自分が散々手を焼かされた。あの男がどんな風に敵を葬るのかが見えるようだった。 龍熄。 大匪賊団の親玉として荒くれの野郎共の頂点に立つ男。頭も切れ、残虐。気に食わないが、ただ一つ言えるのは。 ―――あの男は強い。 ただ一つ気になることといえば鈴が言うとおり王のことが挙げられるが、こればかりは王自ら決断しなければならないことだ。それに恐らく、王に関してはあの男が動くはずだと彼は思う。 確信じみた帥文君の様子に、鈴はそれ以上何も言わずに口を噤む。一瞬無言になった時、鈴はため息をつく。ポツリと、鈴はずっと気になっていたことを呟いた。 「…何であんたそんなに強いのに文官になったのよ」 さあね、と帥文君は視線を飛ばす。 「ま、簡単に言えば今期の特殊文官になれるだけの頭があったからですね」 「聞くんじゃなかったわ」 「ホホホホホ!手厳しいですねぇお嬢さん!まぁ…そうですねぇ。文官を選んだのは…ただの気まぐれです。武官だと元州師軍の人間として知り合いがいる可能性もありましたし…そもそももう刀を握るつもりはなかったのです。後、なにか起こったときのために正体は隠しておいて損はありません。文官でもイイ男がいないか気になった、というのもありますねぇ」 「…なによそれ」 ホホホホホと帥文君は重ねて笑う。 鈴の目がふっと眇められる。 忘れようとしていた、自分がここに居る動機が心に渦巻く。先程まで陽子のことを考えていて、気がつきもしなかった喉を焦がす激しい感情にうめき声が漏れる。帥文君の言葉はあながち鈴にとっても否定できなかった。 人間というものはいい加減に激しく、矛盾だらけにできているのかもしれない。だけどその中でも。 それを分かっても尚制御できないのが、憎しみという感情だ。 鈴はどんなに納得させようとしても消えない、自分の中に渦巻く復讐への激しい感情に俯く。唇を噛み締める。目の前の、妻を失って尚ここにいる男の衣を握り締める。 だから鈴には、この男のことが理解できない。 「…本当にあんたの考え方なんて理解不能だわ」 なんでよ。 「なんであんた、ここにいるのよ…。忠誠心もないんでしょ。聖人君子でもないんでしょ。だったらどうしてこんな…憎しみしかない筈の場所に帰って来ようと思ったのよ。飄々とした顔して憎しみも癒えてないくせに。なんでよ。バッカじゃないの」 鈴は泣いていた。 「自分ばかりがかわいそうだと思ってた私が馬鹿みたいじゃない。確かにあんたが私に言ったことも救いようがなかったけど…あれ、私を怒らせるためにわざと言ったんでしょ…。私は素であんたにそれ以上に酷いこと言ったわ。自分でも引くぐらい酷いこと言ったわ。ほっとけばいいのに、それなのに…」 息が止まる。胸がつかえる。言葉が落ちる。 「どうして、あなた私のことを助けたりしたのよ…?!!!」 思い返すのは、陽子に禁軍を動かしてもらおうと意気込んでいたあの時のこと。帥文君と初めて顔を合わせて喧嘩腰に言葉をぶつけ合った時のこと。あの時鈴は本当は、陽子が軍を動かす気がなかったら、そして陽子とその日会うことができないのなら、自らの手で呀峰や昇紘の悪事の黒幕である靖共を殺すつもりでいた。決死の覚悟で靖共を殺すために厳重にくるまれた冬器を購入し、服に忍ばせていた。 だがいざそれを使おうとしたとき、鈴は自分の懐から冬器が消えていることに気がついた。その日に靖共を殺すことは不可能になり、鈴は二重の意味で帥文君を恨んだ。だが。 本当はあの時自分の行動は、帥文君だけでなく、靖共にも何もかも筒抜けだったと後になって知る。 後日、鈴の行動を見越した靖共の思惑で、買収されていた武器屋から渡されていたその冬器には頃合を見て破裂するように呪具が仕組まれていたことを知った。 後になって、自分が泳がされていたことを知った。 ヘタをしたらあの時――鈴は自分だけでなく陽子を巻き添えにしていた可能性があることを知った。 「ほんとに…馬鹿みたいだわ…」 ぼろり、と涙が頬を滑る。落ちた涙が、帥文君の肩の布に染みを作る。それでも鈴は毅然と帥文君とは真逆の方を見つめたまま。強がりながら、顔が見えないまま走る帥文君に涙を悟られないように。目を見開いて、嗚咽で喉が震えないようにしがみつく帥文君の衣をさらに強く握り締める。 そんな少女の様子に、帥文君は気づかないふりをしながら目を眇める。 「なぁんのことをおっしゃっているのか分かりませんねぇ」 鈴を抱えたまま帥文君は駆けていく。ふっと彼の口が伸びやかに弧を描く。 「さあ!しょげている暇はありませんよぉお嬢さん!せいぜいいつものクソ生意気さを忘れないことですねぇ、じゃなければ貴方を選んだ意味がない!お気持ちを切り替えなさい」 「え、それってどういう…」 決まってるじゃないですかぁそう帥文君の瞳が猫のように細まる。訳が分からず混乱する鈴は次の帥文君の言葉を聞いて眸を見開いた。 「私たちは今から呀峰と昇紘の討伐に参るのですから」 目を細める。妻の笑い声が耳元で響いた気がした。 |