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 世界が廻り、風が踊る。空が沈んで、日がまた昇る。
少女にとって、そして青年にとって、全てを変える出会いは――すぐそこまで迫っていた。


 慶東国 最西端の州境、華西街。

 祭りを待ち望む人々の、どこか浮き足立った声だけが重なって響いていた。
 長旅でくたびれた着物の裾が、砂を含んだ風に煽られる。桓魋は辿り着いた赴任先の地を見聞するように、ゆるりと辺りを見渡した。
 空も、地も、光も、風も、熱く乾いている。
歩けば、地表の砂が(なぶ)られてゆったりと空中に舞い上がった。楽しげに過ぎていく人々を横目に、桓魋はゆるりと息を吐き、再び前を見据えて歩みを早める。道行く人、混み合う道をするすると避けながら、目的地に向かって進んだ。人並みを縫い、見つめる先は一点だ。
(それにしても、この辺りは相変わらず賑やかなところなんだな…)
 桓魋は周囲の様子に、微かに眉根を寄せる。
 周囲は人気で溢れ、一年で最大の祭り前に似合った雰囲気を醸し出している。幼い頃、母や兄弟と祭りを訪れた記憶が過ぎり、桓魋は少しだけ目元を緩めた。丁度、こんなふうに人で溢れる中を、はぐれぬように母の衣を掴んでいたことが克明に思い出される。
 当時はどこまでもどこまでも、祭りの赤提灯の中この人波が続いていく錯覚に襲われたが、実際は違う。華やかなのはこの辺りだけで、州境の検問所はほとんど人気のないことなど、当時の幼い桓魋は知る由もなかった。
 やがて辿り着いた、郭壁に隣接した寂れた検問所を桓魋は見上げる。人の気配の乏しい、くすんだ壁の色だけが妙に脳裏に焼き付いた。桓魋は目を瞬く。
「ここか…」
 呟いた時、軋んだ物音を立てて検閲所の扉が薄く開いた。中から出てきた鎧で身を固めた男の胸には、伍兵の長であることを示す紋章が光っている。
 州境検閲官の男は、出てくるなり佇む桓魋を目に留めた。
「お前は…」
 使い込んだ武器を持つ手に力を込め、桓魋は顔を上げる。お初にお目にかかります、という声が、はっきりと響いた。
「私は今期の検閲官としての責をこちらで務めさせて頂くため、州城より参りました」
 ゆるやかな風が吹き抜ける。自ら志願してこの地を訪れた青年の口元に、彼に馴染んだ明るい笑みが浮かんだ。

「青 辛 桓魋と申します」

 門卒の男は、青年の姿に瞬きをする。見つめる青年の立ち姿は凛としていた。

 一年の暦の中、麦州最大の(もよお)しである夏至祭、開催3週間と一日前。
 その日から、桓魋はこの地で検閲官として、奮闘することになる。




 それから9日間、桓魋は門闕に張り付くように検閲に全霊を注いだ。何をそんなに執心しているのか、寝食などを除いて、自身の担当時間以外も警備にあたる桓魋は通る違反者全て取り締まっていく。違法者が出るたび、桓魋は何か複雑な顔をしたが、その表情の奥の心情は誰にも分からない。そしてその日、桓魋は門闕(もん)の前で、暮れかけた群青と金色が溶け合う空を見上げていた。
(それにしても‥ここは本当に〝穴場〟のようだな‥)
 雨季の時期とかぶるこの時期、地盤がゆるくなり、所々で土砂崩れなどの災害が多発し、警邏よりも土木事業に駆り出される兵卒の方が遥かに多い。
 その証拠に、桓魋が門兵をしている時以外は、軒並み閑古鳥が大合唱というようなひどい有様だ。
 目に見える問題に人手が裂かれ、目に見えない問題に当たる人間が極端に少ない、その事実に気がついている者はどれだけいるのか。
(だが‥これくらいの方が、俺が動きやすいってのも皮肉な話だな‥)
 桓魋は使い込んだ長槍の柄を掌で握り込んだ。そろそろ、目的の人物がここを通ってもおかしくない時期に入っている。
 微かな音が立った時、桓魋はふと走った気配に顔を上げた。
(何だ‥?)
 目を凝らせば、遠くにうっすらと微かな影が見えてきた。霞んでいた影は揺れながら、色を濃くし、輪郭を強くしていく。
 その形を認識した瞬間、桓魋は目を見開く。

 それは、鹿蜀(ろくしょく)が引く、何かの荷物を積んだ、車の数々だった。

:::::


 暗い。何もかもが、沈んで、目の前から光が消えていく。このまま死ぬのかと、少女は体から力が抜けていく最中、そう思った。


 雑草が背丈を比べるようにして、炉端(ろばた)から顔を覗かせている。均されていないおうとつが激しい(みち)を、鹿蜀(ろくしょく)に引かれる車が進む。その車を先頭に、後ろから、二台、三台と同じ形の車が続いていた。
 揺れる先頭の車の上、鹿蜀の手綱をとる曹真が背後を振り返った。
「おい、ガキの様子はどうだ?」
 がたり、と車が一層激しく動く。その時、開いた扉の隙間から、褐色の肌の男が顔を覗かせた。
「駄目だ、やっぱり何も食おうとしねぇ。何も食わなくなって、もう二日だぞ」
「何だと?それは不味いな‥。もうすぐ、華西街に到着するのに、死なれたら困る。無理にでも食わせろ」
 褐色の肌の男はひょいと肩を竦めて奥へと消えた。苦虫を噛み潰したような表情で、曹真は前方に視線を戻す。苦々しく胸中で毒づいた。
(やっとここまで来たってのに、しくじってたまるかよ‥)
 桓魋が示唆(しさ)したとおり、西に行くに従って、気風はゆるくなってきていた。残るは、一番の難関、州境の検問をくぐるだけだ。旧友が教えてくれた校閲の抜け穴が生じる時期も、彼らに合わせたように勝手が良い。せっかく物事が上手くいきかけているその最中、問題が起こるのは至極避けたいところだ。
(せっかく丁度良いガキも手に入れたんだ‥なんとしても成功させなきゃな‥)
 手綱を握る掌に、力が篭る。曹真は揺られる御者台の上で、視線の先を、睨んだ。
 その時、背後からした一際大きな物音が、曹真の思考を遮る。訝しげに振り向けば、先ほどの扉から再び褐色の肌の男が顔を出した。
「どうだ?」
 海客の少女の様子を聞けば、男はうんざりした表情で首を振る。曹真はため息をついて、手綱を男に手渡した。
「代われ。俺が行く」
 場所を男に譲りながら、曹真は箱状の荷台の扉を開けて中に入る。足を踏み入れた瞬間、包み込む暗闇に一瞬目が眩むが、曹真は目を細めて暗闇と視力が馴染むのを待つ。やがて目が慣れてきた頃に、うっすらと視界の隅に蹲る小さな影が闇に浮かび始めた。
 影が小さく身じろぎし、ふらふらと更に隅に逃げようとするのを、大股で近づいていく。近くによれば、口にされなかった食べ物が、そのまま残っているのが見えた。
「おい、ガキ。何で断食なんて始めやがった。俺の計画を潰す気か」
 蹲る小さな影は何も答えない。少女はただぐったりと力の入らない体を、なんとか壁に預けるだけで精一杯だった。陽子の見開いた瞳から、静かに涙が滑っていく。それは恐怖を表現することさえ制限された、幼い子供の姿だった。曹真は苛々と首を振る。
「テメェに死なれたら、取引先と契約した子供の頭数が足らねぇんだよ」
 少女は何も答えない。何も反応しない少女の様子に、苛立ちだけを募らせる男の瞳が淀んだ炎を灯す。
「なんとか言えよ‥」
 少女は何も答えない。酷く傷つけられた少女の、応える気力さえ失くした姿に、曹真の怒りが吹っ切れる。目を見開き、男は瞳の炎を燃やして、叫んだ。
「なんとか言え、このガキ!!!」
 衝撃が、陽子の頬を襲う。殴られた瞬間、高い悲鳴が自分の喉から響いて、陽子は床に叩きつけられた。嗚咽が漏れ、ぼろぼろと瞳から大粒の涙が溢れていく。目を見開いて、傷ついた少女は男を見上げた。

 曹真の手が、尚も追い討ちをかけるように、大きく弧を描いて振り上げられる。

 その瞬間、電流が走ったように少女が悲鳴を上げて傷だらけの身を縮めた。
 見開いた翡翠の瞳に、大きな男のムチのように振り下ろされる掌が克明に映し出される。

 ―どうして。

 どうして、こんな風に殴られるのか、少女には分からない。母に会えないのか、少女には分からない。何もかもから引き離された少女は弱者としてなぶられ、痛めつけられる。恐怖を植えつけられるには少女はあまりに‥幼かった。

(いや‥!!!)

 迫り来る、狂気。
 だが、瞳を燃やした曹真の手が陽子に当たるその寸前、馬車が一際大きく揺れた。

「?!」
 掌が身を縮めた陽子の真上を通り過ぎていく。衝撃に曹真の体がなぶられ、軸足をとられた彼は、すぐそばの壁に叩きつけられる。車が音を立てて止まった。
 額を押さえて呻いた曹真は、前方に向かって叫んだ。
「何やってやがる!ちゃんと操縦しやがれ!!」
 だが前方から答えは無かった。
 虚しく声だけが反響し、曹真は眉根を寄せて訝しげに目を細める。陽子を捨て置き、曹真は目の前の扉を押し明けた。車が止まった場所は麦州華西街の最西端の検閲所のようだった。人気のない寂れた風景が目の前に広がる。
「おい、どうなって‥」
 声を荒げて飛び出した曹真の目に、先ほど褐色の肌の男の後ろ姿が飛び込んできた。口を開こうとしたその時、男の様子がおかしいことに曹真は気がつく。固まったまま、男は動きを止めていた。
(んだよ‥一体…)
 曹真は眉をひそめ、男の見る方角に視線を滑らせる。

 目の前に佇む男を見た瞬間(とき)、曹真の呼吸が止まった。

「は…?」
 ゆるい風が吹き向ける。
 人の気配のない検問所にただひとり佇む、甲冑を纏った青年が、曹真を視線で射抜いていた。
 それは彼の、旧友だった。
「桓…魋…?」
 青年が口元に不敵な笑みを浮かべる。

「よぉ、また会ったな」

 二人の男が呆然とひとりの青年を見つめる。寂れた風が流れていく中で、暮れかけた空が沈んでいく。

 それはあまりにも今の状況に似合わない、穏やかな口調だった。

:::::


 穏やかな声が、静かに流れる。
 二人の男はしばし呆然と桓魋を見つめていたが、やがて曹真がはっと我を取り戻し、表情を見る間に険しくした。桓魋を険を含んだ顔で睨み、噛み付く。
「どういうことだ、なんでお前がこんなところにいるんだよ、桓魋!」
 鎧を纏い、武器を腰にはいた友人の姿は、あきらかにこちらが通ることを歓迎していない風情だ。桓魋はひょいと肩を竦める。
「見ての通り、俺がここの検閲官だ。よろしくな」
「よろしく、だと…?ふざけるな!邪魔をする気か、貴様!!」
 桓魋は静かに、曹真の怒りで朱に染まった顔を見据える。穏やかに、桓魋は言葉を続けた。
「お前が俺にも言えない売買物をやすやすと通すわけにはいかない。お前たちの〝商売〟とやらが何かは知らんが、それがこの国を出て許されるものなのか、否かはここで確認させてもらう。俺の目さえくぐれば、お前たちはここを出られるってことだ。他のところよりは随分と緩いことに変わりはないだろう」
 不満か?と曹真を見据えたまま囁く桓魋に、曹真は歯を食いしばって睨みつけていた。そして、投げやりな言葉を吐く。
「なんだよ…それ‥」
「お前たちを素通りさせるわけにはいかない」
 暫く曹真は桓魋を睨んでいたが、やがて吐き捨てる。
「やっぱり、お前はそういう奴か。友情を踏みにじってまで、お前は俺の邪魔をするんだな。これだから半獣は信用ならねぇよ」
 
 その瞬間――空気が凍った。一瞬の間が落ちる。

 桓魋は何も表情を変えずに、視線で曹真を射抜く。
曹真は、自分が何を言ったのか、言ってしまったのか、その時気がついていなかった。

――これだから、半獣は。

 その言葉を、桓魋の友人であると自称するお前が言うのか。
道を外れずに曹真を止めようとしている桓魋を、人身売買に手を染めるような倫理の概念が欠如したお前が、そういう奴だと罵るのか。
 そして何より、その言葉が彼にとって何を意味するのか考えもしないお前が、友情を名目として振りかざすのか。

 彼を罵ったその同じ口で。彼の人と違う決定的な部分を踏みにじったその口で。

 桓魋は、一言も言葉を発しなかった。そして、その表情の奥に何を隠しているのか、それは恐らく、その時誰も読み取ることはできなかっただろう。
 桓魋は何も言わないまま目を閉じ、やがて静かに、検閲を行うとだけ言った。弾かれたように曹真は顔を上げる。
「そんなもん…受けるもんか!!」
 男が、吠えた。
 その瞬間、図ったように背後で大きな爆発音が響き渡り、地面が揺れる。見れば、最後尾の車が火の粉を撒きながら炎上し、(おのの)いた鹿蜀(ろくしょく)が手綱を引きちぎって駆けていく光景が見えた。
「?!!」
 桓魋の気がそれたその一瞬の隙をつき、彼の脇を曹真達を乗せた車が恐ろしい速度で横切っていく。
(最後尾の車は捨て駒か…!)
 燃え盛る車が瞳の中で揺らぐ。先頭の車を皮切りに、次々と車が小さな門闕に殺到していく。
「抜けろー!!」
「門卒はひとりだ、突っ切れ!!」
「あんな尻の青そうな野郎なら抜けられるぞ!!」
「どけ!!半獣!!」
「数で押しきれ!!」
 車に乗る男たちは口々に叫びながら、桓魋に向かって突進してくる。
 ざわり と桓魋に全身の毛が逆立つような感覚が広がった。
 武器を握る腕の筋肉が、目に見えて盛り上がる。次の瞬間、どん、と青年兵卒の周りの空気が膨れ上がるのを、突進してくる暴漢たちは見た。
「は‥?!」
「オイ‥何だよ…!」
 もう、驚く間も無かった。一瞬で桓魋の姿が目の前から消え、気がつけばもう、彼らは地面に叩きつけられていた。最初に引き倒された車に足を取られ、全ての車が倒れていく。
 鬼のような速さで疾走する桓魋は車を叩き、乗っていたの男たちは引き倒されて地面で呻くことになった。
 何もかも止められ、暴漢のひとりが咳をこぼしながら、そのあまりの強さに呆然と桓魋を見上げた。
「お、お前…」
 桓魋の長槍が空気を裂いて弧を描く。軽々と槍を背に構え直した桓魋は見下ろすようにして男に言葉を落とす。
「通さない、と言ったろう」
 数で押し切るつもりだっただろうが…と桓魋は静かに言葉を紡ぐ。彼の瞳が静かに、光った。
「お前たちは俺ひとりで十分だ」
 そう言い捨てると、桓魋は身を翻し、曹真たちが抜けた方角へ走り始めた。騒ぎに驚いて飛び出してきた兵卒たちに、桓魋は叫ぶ。
「違反者だ!!こいつらを抑えておいてくれ!!」
 兵卒たちは地面で呻く男たちと、散らばる木片に気がつき息を呑む。了解の意を示したのだろうが、彼らの是の声を耳にする前に、既に桓魋は塞門刀車を潜り、門闕を突き抜けていた。
(逃がすか…!!!)
 恐ろしい速度で疾走する桓魋の瞳が光る。

 やがて見え始めた森の畦道を全速力で走る車の小さな影だけが、桓魋の瞳の中で――揺らめいた。



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