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刹那の中で、人はその感情を、恋と呼ぶ。 時は少し遡る。 何故最後自分がここに来たのか、桓魋には説明ができなかった。微かに甘い夜の香りが漂う中、視界の遠くで厳重に守られた王宮の路木の葉がさわさわと音を響かせる。漣のような音が満ちていく。 引きずるように視線を上げたその先に、今最も会ってはいけない人物が、そこにいた。 夜に紅の色を僅かに沈ませながら、その人は路木の枝に何かを巻きつけようとしているのが見えた。背後からの気配に気がつき、桓魋を振り返る。陽子の瞳が、桓魋を写し出す。 「…随分と、私に対して酷いことをするんだな。桓魋」 「最後は…貴方ですか…」 「…傷つくな。まるで私に会いたくなかったみたいな言い草だな」 桓魋は何も応えない。 「だけど…矛盾しているよ、桓魋。そう言う割に…わざわざ私がここにいる可能性が高い正殿まで…ここに来たお前は…なんのつもりなんだ」 一瞬桓魋の表情に動きが走る。 陽子は何も言わず、静かに歩みを桓魋に向けて進める。 自分がこれ以上近づけないこの距離からでも、見覚えのある下手くそな太陽の刺繍を施された帯が夜の風に遠く嬲られるのが見える。何の意味もなさない願いの帯が翻る。 少し冗談めかして、陽子は肩をすくめた。 「…私を守ってくれるんじゃなかったのか?」 「お守りしてますよ、昔も、今も…これからも」 へぇと陽子の片眉が跳ね上がる。 「死人に護衛ができるとは、知らなかったよ」 陽子らしくない皮肉めいた物言いに、桓魋は肩をすくめる。にひるな飄々とした笑みを彼は浮かべる。 「…主上も中々悪い言い回しをなさるようになった。お生憎ですが貴方には守ってくれ、なんて言葉似合いませんよ」 「…そうだろうな。あまり口に慣れない言葉は言うもんじゃないな。実際にお前は私のことを気にかけているみたいだが、当の私は別に護衛なんて必要だと思っていないしな…」 「主上は俺を泣かせたいんですか」 じろりと陽子は桓魋を睨む。でも。と陽子は呟いた。 「どれだけ似合わない言葉だろうが、どれだけ胡散臭い言葉だろうが、たとえ本心とはかけ離れた言葉だろうが、お前を止められるなら―――私はどんな言葉だって重ねてやる」 低い風が、駆け抜けた。 桓魋の表情から、冗談の色が引いていく。短い陽子の言葉が重ねられた。 「行くな、桓魋」 風が、びょう、という音を立てた。 うつむく桓魋の揺れる前髪の縁から見えたのは、彼には似つかわしくないどこか自嘲気味な笑みだった。 「本当に…男前すぎて惚れ惚れしますよ。もし貴方が男だったのなら、こんないい男ほとんどいないでしょうね。お仕えすることに迷いなんてなかったのに」 どこか憎しみさえ篭っているような声だった。それなのに、どこか弱っているような声だった。ポツリと桓魋は呟く。 貴方は。 「…生まれてくる性別を、間違えた」 あげられた桓魋の顔は皮肉を突きつけるような声に反した――――死ぬほど苦しそうな顔だった。苦しそうに陽子を見つめる視線には、抗おうとも堪えられない熱が篭る。 思わず泣き言をこぼしてしまったような、見てるこちらが胸をかきむしりたくなるような顔に、陽子は言葉を失う。 そして俺も。 「…生まれてくる場所を、間違えた」 うつむいた陽子は、言葉を搾り出す。 「何故、お前が塙王のために行かなくてはいけないんだ。まだほかに方法はあるはずだ。どうして行こうとするんだ…何で私にはなんの相談もなしなんだ…」 桓魋は何も応えなかった。ただ、陽子の方を見ずに、彼は足を踏み出す。その行動こそが、桓魋のこれ以上会話を続ける意志がないことを示していた。低い陽子の声が走る。 「…私とも話す気はないのか」 ならば、と陽子は目を薄く光らせる。 「力づくでも、止めてやる!」 陽子の姿が消え、桓魋のすぐ目の前に刀を振りかぶって現れる。桓魋はなんなくそれを弾き飛ばし、陽子の体は放り出される。何度も何度も。桓魋は顔を歪める。 低い声で、やめろと囁く。それでも陽子は決してやめない。ボロボロになりながら、陽子は桓魋に突き進む。桓魋の手刀が陽子の剣を持つ手を叩き、水禺刀が飛ぶ。桓魋の歯が食いしばられる。うつむいた顔が跳ね上げられる。激しく叫ぶ。やめろ。 「何故分からないんだ!!!!」 「分かるもんか!!!!行くなら、私も連れていってよ!!!!」 わかってなんかやるもんか。貴方が死ななければいけない理由なんて。 陽子の言葉に桓魋は苦しげに顔を歪ませる。今まで二人のあいだに薄い膜を張っていた敬語が吹き飛んでいることに、当の本人たちだけが気がついていなかった。 「…!あいつらの本当の狙いはお前だ!!俺の首を餌に、お前が出てくることを望んでいる!お前が付いてきたら、それこそ奴らの思う壺だ!!それに…」 桓魋の表情が激しく歪む。 「もう何もかも忘れろと言った筈だ!!!どこまで行こうが半獣の俺はお前の枷になるばかりだ!!!この国では、俺と共にいることがお前の評価を下げる!!!!お前の評価がこの国の未来に関わってくるんだぞ?!!」 そして。 「今、俺が行かなきゃ国が滅びる自体につながっていくんだぞ!!!!」 息が止まる。目を見開く。 激しい声が放たれた。 「滅びてしまえばいいんだ!!!!!」 雷に打たれたように、桓魋の瞳が見開いた。 陽子は肩で息をする。自分でも今まで思ってもみなかった言葉が滑りでたことに、陽子自身も息を荒くする。ゆっくりと、心が今まで言葉にしなかったことを、語り始める。 ずっと、ずっと思っていたことがあった。国に虐げられていた人々。 俺に感情はない、そう無表情に言う霖雪の背中はいつも泣いているように見えた。攻撃的な鬼の表情をして噛み付く豪槍の背中は、いつも泣いているように見えた。 孤独の中で声ひとつなく。 自分より遥かに強い、目の前にいるそのひとりに、陽子は強く爪が食い込むほど拳を握る。 異端者だから。日陰者だから。半獣だから。海客だから。胎果だから。女王だから。 だから、何だ。 蘭玉の、親友の死に際の顔がセピアがかって蘇る。最後の彼女の声が蘇る。 『慶を…慶を…救って…』 蘭玉。慶を救うってどういうことなんだろう。私はこの国を守ると貴方と約束したけれど、今慶はこの人を切り捨てることで前に進もうとしているよ。それを進ませることが、貴方の望んだ慶を救うことなのかな? 陽子は血が出るくらい唇を噛み締め、上空を振り仰ぐ。 浮かぶのは、霖雪や豪槍たちの顔。そして、初めて等身大の自分を、むき出しの自分をさらけ出す桓魋の顔。死んでしまった、蘭玉の顔。 人を虐げる国のために死ぬことが正義だなんて――――――そんな言葉に反吐が出る。 人の頭を踏みつけることを良しとするような国ならば。目の前のこの人を切り捨てていくことを正義に仕立て上げるような国ならば。 貴方の死を是とするような国ならば。 そんなもの―――――――滅びてしまえ。 雲が晴れるように、初めてまっすぐに、思った。 桓魋は、何を思ったのか咄嗟に陽子から顔を逸らす。顔を見せない桓魋の震える低い声がする。 「…この国の王が、そんなことを言っていいのか。…蘭玉が泣くぞ」 落ち着き払っているようで、震えている声の表情は見えない。堰を切るように、激しい言葉が溢れ出す。 「何が王だ!!!偽りの本心でも誰かの都合が良いように綺麗に並べてればそれでいいのか?!!!蘭玉が願った国はこれだったのか?!!!私に託したのは、こんなふうにただ今の朝廷の形を維持することだったのか?!!!形だけの約束を守れば、蘭玉は喜んでくれるのか?!!!違うだろう!!!!」 だとしても!!と桓魋が声を荒らげる。 「お前がどれだけこの国を変えようとしたところで、全ては一朝一夕で変えられるようなことじゃないぞ!!間違いだらけのこの国に、この俺に、結局お前は何を望んでいる?!!今お前は何がしたい?!!!今、命を賭けること以上に、半獣の俺に何ができる?!!!」 自分の喉が、息を吸い込む音がする。音が爆ぜた。 「貴方が生きてくれさえいれば!!!!」 ほかに何も、いらないよ。 涙のような、声が出た。 息が止まる。桓魋の鋭い瞳が見開いた。呆然と、殴られたようにふらふらと後ろにたたらを踏む。見開いた瞳の表面が、桓魋自身訳も分からないまま、微かに濡れた。 陽子には、どこかで泣いている人が見える気がした。豪槍と霖雪の後ろ姿が見えた気がした。目の前のこの人の背中も同時に見えた。そうだ。ずっと、ずっと。この人の背も泣いていた。 涙が一筋、目尻から滑る。 桓魋、貴方は気がついていない。今の私には、貴方以上に大事なものなどないということに。 貴方の私を想う行動と、真実が笑えるくらい矛盾していることに気がついていない。何かを誰かを守ると言いながら、一番傷ついているのは、貴方だ。 陽子は涙で顔を汚しながら手を伸ばす。悔しそうに唇を噛み締めながら、まっすぐ、まっすぐ。目の前の桓魋の頬に手を添える。私たちが、大事にしたいことって何なんだろう。正解ってなんだろう。―――間違いって、なんだろう。 「…さっき桓魋は、しきりに間違いって言ったよね」 『俺は生まれてくる場所を間違えた』 『間違いだらけのこの国に、この俺に、結局お前は何を望んでいる?!!』 間違いなんてないよ。桓魋。 誰に否定されようとも。 私が私として生まれてきたことも。貴方が貴方として生まれてきたことも。霖雪や豪槍たちがここにいることも。貴方と私が出会ったことも。 「間違いなんて…ないよ」 記憶の中の蘭玉が、微笑んだ。きっと自分も、微笑んだ。 目の前の桓魋の、息が止まる。時間が止まる。瞳が濡れる。 何かが爆ぜた。 自分が誰かも忘れてしまうような刹那の時間。 気がついた時には、陽子は、折れるくらい強く桓魋に抱きすくめられていた。理性のタガが外れ、肩を振るわせる桓魋の表情は見えない。ただ、まるで陽子を抱きしめなければ死んでしまうとでもような必死な力が身体に伝わる。呼吸がしづらい。喉が震える。顎を持ち上げられ、彼と二人で目と目があって。 信じられないくらい、我武者羅なキスをした。 知らなかった。彼が男の顔をすることを。彼の唇がこんなに熱いことを。何もかもが熱くてしびれて気持ちがいい。息が止まるような激しい火花が見える。 自分の口から声が混ざった吐息が漏れる。顎の角度を変えられて、より深く唇が重ねられる。腰を引き寄せられ、体が強く密着して、触れあった足がお互いに擦れる。 考えがまとまらない。想いがまとまらない。何もかもわからない中で、ただひとつ分かること。それは。 きっと人は、この感情を愛とは呼ばない。 衣で薄まった体温を重ね合わせて、熱い舌と舌を絡めて私ははっきりと分かってしまった。彼の幸せなどよりも私は私の幸せがかわいいことに。桓魋が自分の意思を貫くよりも、彼を失うことの方が怖いことに。国などどうでも良いことに。気がついた思いは一瞬にして、作り上げた美しい自分像、すべての幻影を打ち砕く。 だけど。それでも。 それでもそばにいてほしい。 誰になんと言われても。世界中を敵に回したとしても。 私はあなたが欲しい。 世界なんかいらない。他に何もいらない。だからどうかいるかも分からない神様、私にこの人をください。あなたを私にください。 本当は、何もかも知っていたくせに、気がつかなかった。 桓魋、私は初めて目があった瞬間… あなたに掬い上げられた瞬間から―――私はあなたに穏やかな景色と、激しい火花の両方を見出していた。 はじめてのキスは、そんな幼い頃読んだ絵本の中のような甘い景色がついた、とけるように優しいものなんかじゃなかった。今までの優しい桓魋からは想像できない。ただ激しく、燃えて擦り切れるまで互いを貪るようなキスだった。 「か…んたい…」 死にたくなった。人は最大の幸福の中にいると、そのまま消えてしまいたくなるのか。矛盾している。胸が潰れるくらい気持ちよかった。呼吸ができない。息ができない。キスの合間に金魚のように口だけがぱくぱくと空気をつかむ。 とりとめのない思考がはぜては消えて泡となる。 笑えるくらい矛盾した熱に、涙だけが止まらない。 悟ったふりをして、二人共何も分かってはいなかった。 陽子が初めての恋を知ったのは、足がくずおれるような快感にしびれるキスの最中だった。 貪りながら、貪られながら、火花を散らして纏まらない思考に揉まれる中、陽子は自分が激しい恋の中にいることを自覚した。 桓魋は徐々に足元が崩れていくことに抗えず。陽子に至っては最初から堕ちていることにさえ気づかずに。 最初、予王の愚かな行動を聞いた時、なんと愚かなんだと思った。でも、違う。そうじゃない。はっきりと、それを二人は自覚する。 恋は、国をも滅ぼす。 そして自分たちも。激しい恋に―――堕ちていて。 息が止まる。苦しさが流れる。行くなと全力で瞳で訴えかける陽子に、桓魋は弱い言葉を搾り出す。 「すまない陽子…だけどそれでも…それでも俺は行く」 陽子の瞳が見開いた。桓魋は目を閉じる。 ただ殺されるつもりなど毛頭なかった。巧の州境まで行き、死んでも塙王を引きずり出すつもりでいた。大義とは裏腹に何人死のうが、一人で乗り込んででも陽子に危険をなすものを討つつもりでいた。 「何で…!!」 「…俺の勝手な私情だ…」 もう『国のため』などとは言わなかった。 龍熄や豪槍に吐いた言葉の浅さに嘲笑がこぼれる。二人にも、自分にも見透かされていた薄っぺらさ。 何が国のため。 だって―――本当は。 陽子の口から自分が死ぬくらいなら国なんて滅びてしまえと言った言葉が、死ぬほど嬉しかったんだから。 桓魋は――国で苦労しすぎた。差別されすぎた。 国のため。結局そんなものは役職上都合の良い、体のいい謳い文句でしかなく。 元からそんな形骸化した綺麗事などほざく権利さえなかった。龍熄の言うとおり、そんなものは誰かの都合の良いように作り上げられた虚構でしかなかった。知っていてそれを振りかざした。大義に綺麗に包装された本心は自分自身でも見えなくなった。 だけど皆が褒め称える大義が、自分にとっての嘘だなんてことは分かりきっていた。 国のためなんかでもない。自分を蔑んで捨て駒になるためでもない。 じゃあ、何故行くのか。 桓魋のところにだけ、塙王からの使者が訪れていたことはきっと浩瀚も知らないこと。堯天で豪槍を誘導していたあの時、塙王の脅しに屈する以外道はないのかと迷う桓魋は塙王の使者と会い、直々の文が手渡された。手紙の内容は簡素な一文だった。 『お前の命ひとつで、慶国からは手を引いてやる。来なければ、景王を最初に殺す』 目を閉じれば、たくさんの戦友の亡骸が見える。陽子の友人だった蘭玉の、涙を流した静かな死に顔が見える。泣く陽子が見える。 この判断が陽子を苦しめることも分かっている。幼い陽子が必死に泣いたように、自分の命はもう自分のものだけではなくて。これも自分勝手な私情しかない。分かっている。それでも。ここでもし俺がいかないことで。 「お前に先に死なれたら――――俺が、耐えられないんだ!!!!」 吐き出されたのは、自分が思っていたよりも、ずっと激しい怒号のような声だった。 どれだけ鬼となったとしても、切り捨てられない、行動原理。彼を戦場に向かわせるたった一つの理由。 陽子がいない世界を見るなど、国が滅びること以上の地獄でしかなかった。陽子が幼い頃から、彼をずっと突き動かしてきた、すり替えられないたった一つの理由だった。初めて激しく叩きつけられた、絞り出された一言に、陽子は声を挟むことはできなかった。 「…!!」 未だ熱が残る腕は、胸は、唇は、どこまでも温かい。止める間もなく陽子の意識を落とすために、首筋を桓魋の手刀が叩く。抗うこともできず意識が遠のく中、空はもう白んで、桓魋の姿は目の前で掠れていく。そしてぷつりと意識が真白に染まる。歯を食いしばり、悔し涙が一筋伝う。声が出ないことに、胸が潰れる。心で声を搾り出す。そんなのってないよ。―――だって。 私の思いはどうなるんだよ、桓魋。 ずるいと、思った。 |