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 対峙する男が二人。
桓魋は豪槍を見、小さく息をつく。
「…穏やかじゃないな。お前は一体何の用が…」
 とぼけるな、と豪槍は鼻を鳴らす。単刀直入に彼は口を開く。
「貴様を行かせるわけにはいかねぇんだよ」
 桓魋の表情は変わらない。
「…言うじゃないか…。だがお前に俺は止められん。お前に俺の行動についてとやかく言われる筋合いもないしな」
 じゃあな、そう言って桓魋は豪槍に背を向ける。だが次の瞬間、桓魋の目の前にあったのは固められた豪槍の拳だった。
「?!」
 眉根を寄せる間もなく、豪槍の拳が桓魋の頬に向かって振り抜かれる。体制を整える間もなく拳をもろに受けた桓魋は豪槍の怪力に吹き飛ばされた。今までの豪槍からは想像できない速さだった。
「…!」
 地面に土埃を上げながら受身をとった桓魋は、砂に向かって口の中に走った血を吐く。
 豪槍の瞳に浮いているのは冷たい怒りだ。
「…舐めやがって。死んでも止めてやる。独りよがりの自己犠牲ってやつが見てて一番虫唾が走んだよ。クソ野郎」
 桓魋は何も応えない。ただするりと体勢を低くしながら手を背にしていた長槍の柄にすべらせた。空気が揺れ、桓魋の姿がその場から消える。次の瞬間には、豪槍が歯を食いしばって、振り落とされた長槍の一撃を自らの槍で受け止めていた。瞳を静かに光らせたまま桓魋が囁く。
「…浩瀚様の差金か」
「さあな」
 ギチギチと揺れる力の均衡を豪槍は思い切り弾き飛ばす。桓魋は長槍の柄を手のひらの中ですべらせた。
「いくら浩瀚様の言葉だろうが、俺は聞かん。なんのためにここに来た」
「…勘違いすんなよ。俺はあんな野郎に頼まれたから来たわけじゃねぇ。個人的に俺が貴様の行動が気に入らなかったから…そして…」
 言いかけて、豪槍は口を噤む。渋面を作り、続きを口にするのはやめた。槍を振りかぶった豪槍は一気に間合いを詰めてくる。力づくで我武者羅な激しい攻撃の雨が桓魋を襲った。
「…!!」
 素早い猛攻に、桓魋は思わず驚いて受身に回る。少しの間手合わせをしていなかっただけなのに豪槍の武芸の腕が―――上達している。ただでさえこの男の戦闘能力は武官達の中でも頭一つ抜いている。隊の新鋭の成長は喜ぶべきものだが、この時ばかりは桓魋は舌打ちする。
 降り注いで流しきれなかった槍の筋が桓魋の頬を裂き、血がしぶく。
「オラァアアアア!!!!」
「ぐっ…」
 槍の斬撃を受けながら桓魋が顔を歪めた時、豪槍が叫ぶ。
「くだらねぇジジイ共の思惑なんぞにのこのこ乗ってんじゃねぇよ!!!国を救うために今更死んでやって自分を虐げてた奴らに媚でも売る気か、貴様!!!くだらねぇんだよバカ野郎!!!」
 桓魋の瞳が見開く。何かをこらえるような、表情にかすかな憎悪が混ざる。
「…お前に…何が分かる!!!!」
 初めて桓魋が、激しく吠えた。振り抜かれた長槍を豪槍は瞬時に避ける。
 豪槍の声が独り言のように落ちる。
「…虫唾が走るんだよ…」
 豪槍の視線が桓魋を突き刺す。思わず桓魋は顔を跳ね上げる。だが、その時豪槍と目が合った桓魋には―――豪槍が桓魋を透かして別の誰かを見ているような感覚に襲われた。目の前にある音が出るほど食いしばった歯、獣の皮を被ったぶつけようのない激情、本当は、修羅の顔の奥には、何がある。
「…豪槍…お前…」
 豪槍は益々歯を食いしばる。声だけが絞り出される。
「畜生…」
 翳る豪槍の心に、堯天での出来事が浮かぶ。陽子に出会う直前の、大暴れしていた時に叫んだ子どもの言葉。
消えちゃえ豪槍!!乱暴者のろくでなし!!大嫌いだ!!お前なんか慶にいるな!!
いっつも弱い人に当たり散らして、本当に弱いのはお前だ!!お前は強くなんかないよ!!!
「畜生…畜生…畜生…」
 返す言葉がなかった。
強さは、ただ単に力が強いこと、戦闘能力が高いことをいうのではないなんてこと、とっくに気がついていたはずなのに。
「畜生!!!」
 激しい一撃が、桓魋に向かって振り下ろされる。今の豪槍の頭の中にあるのは、ただ絶対に、この男を止めなくてはならないという執念だけだ。陽子の顔が浮かぶ。浩瀚の声が蘇る。
 豪槍、お前は何故…この方が王と分かっても――主上を守ったんだ?


 言えるか。
心の底から憎みたかった女王が、出会った瞬間一番大切だった存在と重なってしまったなんて。


 あの時意識をなくし無意識に豪槍の首にしがみついた陽子は、彼の耳元で桓魋の名を呟いていたことを、今になって思い出す。聞いてしまった、二人の夜の演習場での会話を思い出す。滅多に泣かない、ぶっきらぼうな陽子の涙を思い出す。何もかもが泡のように遠く儚い。激しい死闘の最中だというのに、悲しさだけが吹き上がる。

 すべては奇跡なんだよ、お兄ちゃん。

 その時、今となってはもう遠いものとなってしまった――――耳元に呼び起こされた妹の声に豪槍は目を見開いた。


 よく泣く妹だった。


「わあああん!!お兄ちゃーん!!お兄ちゃあぁん!!」
 穏やかな春の日のなか、つんざくような泣き声が響き渡る。またか、とどこか辟易とした思いを持ちながらも、豪槍は家の戸口から弾丸のように飛び出した。あたりに甘い果物の香りが満ちる中、一際匂いの強い場所――大きな杏の木の下で、自分と同い年くらいの悪ガキたちに髪をひっつかまれた妹がギャンギャン泣いていた。 鬼のような顔で豪槍が突っ込んで来るのに気がついた悪ガキたちは、さっと顔を青くした。
「う、うわああ!!豪槍だあああ!」
「てめえら全員歯ぁ食いしばりやがれ!!!」
 豪槍が吠えるやいなや、ひいっという声を上げて蜘蛛の子を散らすように悪ガキたちは散っていく。豪槍が杏の木の下に辿り着いた時に残っていたのは、上機嫌で笑う妹ひとりだけだった。
「…逃げたか」
 肩で息をする豪槍に幼い妹は胸を張る。
「よくできました、お兄ちゃん!今日はもうお兄ちゃん暴れる前に蹴散らしたね!最速記録!」
 豪槍はじろりと妹を睨む。妹の雛杏(すうあん)は意にも介せず、肩くらいの長さに揃えたすべすべした自慢の亜麻色の髪を整えた。豪槍は眉間に影を走らせながら唸る。
「ったく毎日毎日!なんでお前は毎回こういうことを引き起こしやがる!しかも尻拭いは全部俺じゃねえかふざけんなよ!」
 今日は何でこんなことになってんだ、と腕を組んだ豪槍に、つんとそっぽを向いた雛杏は、だって、と唇を尖らせる。
「…杏がほしかったんだもの」
「…はあ?」
 キッと雛杏は自分よりも上にある兄の顔を睨めつける。まだほんの幼いはずなのに、既に女の迫力を湛えた眼差しに、豪槍は思わずたじろぐ。
「だって!!あいつら雛杏も杏がほしいって言ったのになんて言ったと思う、お兄ちゃん?!この杏は全部おれらのもん、お前になんかやるかバーカって言ったのよ!!舐めてるわ!!そんなのおかしいもん!!杏の木はだれのものでもないもん!!」
「ま、まあそうだが…」
 小さいながら火を吹いている妹に、豪槍は頭を抱える。豪放磊落の言葉を体現したような豪槍でも、妹には手を焼かされていた。自分も喧嘩は日常茶飯事だし、泣き寝入りしないところは良いと思うが、雛杏は誰彼構わず突っかかるので怖いもの知らずだ。今日はまだ良かったが、前は豪槍が辿り着いた時には既に目に青あざができていたこともある。もし何かあったらと思うと頭が痛い。ため息をつく豪槍の心中を察したように、雛杏は笑う。

「ふふっだいじょーぶよ!お兄ちゃん!だって今日もお兄ちゃんがまもってくれたじゃない!」

 にっこりと笑った妹に、豪槍は思わず毒気を抜かれる。ガリガリと豪槍が頭を掻いた時には、妹の興味は上空で甘い香りを放つ熟れた杏に向いていた。
「そんなことより、雛杏、杏ほしい!杏!杏!」
 そら行け、お兄ちゃん!と豪槍の背中を叩いた雛杏は木になっている杏を指差しぴょんぴょん跳んだ。

 そんな妹が、一度だけ行方不明になったことがあった。一週間、何の手がかりもなかった。最初は大規模な搜索が周辺住人らによって行われていたが、やがて脱げてボロボロになった雛杏の沓が見つかった。その後血に濡れた雛杏の帯も見つかり、生存は絶望的との見方をされた。それでも親が嘆き、皆が諦めていく中豪槍だけは必死になって探し続けた。
「雛杏!!!どこだ!!!雛杏!!!」
 そして気がつけば夜通し探し続けていた豪槍は気絶するようにその場に倒れ込んで眠ってしまっていた。その時眠っていた彼を揺り起こしたのは、雛杏だったのだから驚きだ。
 うつろな意識の中、目の前でしゃがんで豪槍を揺する雛杏に、豪槍は跳ね起きる。
「お前今までどこに行ってた?!!!!」
 雛杏はきょとんとした表情をしていた。
「え?え??すぐそこの杏の木の森だよ」
「嘘つくなよ!!そこも俺は探しまくったぞ!!!一週間も何してたんだよ!!!」
「一週間?!嘘だ~私がいたのは2、3時間だよ」
「そんなわけあるか!!!どれだけ探したと思ってる!!!」
 心底驚いたように雛杏は目を瞬く。少しの間妹は不思議そうに首をかしげていたが、まぁでも帰ってきたからいいじゃないと雛杏は豪槍に微笑む。豪槍にはまったく訳がわからない。ただ確かなのは一週間妹が姿を消し、諦められていた今こうして何事もなかったかのように戻ってきたということだけだった。

「遊んでたらね、素敵な人に、助けられたの」

 そう言って、何でもないことのようにへにゃりと妹は笑った。
「…帰ってきたよ。待たせちゃってごめんね、お兄ちゃん」
豪槍は妹が見つかった安堵感から、気が抜けてこらえていたものが全て流れてしまいそうだった。

 雛杏。

 家のそばにあった豪槍が実をもいだ大きな杏の木の香りを両親は気に入っていた。豪槍が野郎だったため、豪槍の名に杏の文字を付けることはなかったが、女の子が生まれたら絶対に杏の文字を名前に入れると決めていたらしい。
雛のように愛らしく、杏の香りが似合う子になって欲しいと名づけたその名を、親も、雛杏自身も気に入っていた。

 でも豪槍は―――なんて不吉な名前なんだと思っていた。

 まるで大人になることを考えていない名のような気がしていた。豪槍は別に妹が両親の願いどおり愛らしくなんかなくても良かった。杏の匂いなんて似合おうが似合わなかろうが心底どうでも良かった。
 健やかに育てば、それだけで良かった。
 皮肉なまでに、雛杏は名を表したように愛らしく育った。豪槍とは似つかないくりくりとした大きな瞳。すべすべした髪、薄桃色の唇。幼いながら女の武器を使って、彼女の周りにはいつも男がよってきた。中には雛杏が成人していないということを分かった上でおかしなことをしようとしてくる輩も多く、その度に豪槍が出ることになった。
 女人追放礼が出てからは、特に。
 豪槍や両親は雛杏だけでも慶国から出そうとした。だが、雛杏は母が共に行くといっても頑として首を縦にふらなかった。豪槍から離れたがらなかった。だが慶国から国民がいなくなることを危惧した国は成人した男が出て行くことは許さなかった。
 ある時、豪槍が自分の房間の衾褥で眠っている時だった。体に何か柔らかいものがくっついていて、寝返りを打つときの違和感で豪槍は目を覚ました。目を開けた豪槍は、自分の衾褥に潜り込んでいる妹の姿に思わず目を瞬く。
「は?雛…杏?」
 状況が訳がわからず混乱する豪槍をよそに、雛杏は何か堪えるようにポツリと呟いた。
「お兄ちゃん、益々あの人に似てきたね」
 雛杏は豪槍をどこか眩しそうに、切なそうに見上げた。その視線に思わず豪槍は目を逸らす。最近妹の様子がおかしいことに、豪槍は気がついていた。
 焦りのような感情が沸く。思わず衾褥の中で後ずさったが、雛杏は更に強く豪槍に抱きついてきた。豪槍は困惑する。
「な、何だよあの人って」
「昔私が消えたあの時――助けてくれた私の初恋の人」
 鄒杏が何故こんなにも泣きそうな顔をしているのか、豪槍には分からない。
「…また顔怪我してるのね、お兄ちゃん」
「…フン。まぁクズにはお似合いだろ。いつもみたいに喧嘩ふっかけられて…後は…想像つくだろ、お前にも。出来の悪ぃ兄貴を持つと苦労するだろうが」
「…確かにお兄ちゃんは沸点が低いわ。でも…でもね」
 月明かりが差し込む。鄒杏の声が優しく響く。

「お兄ちゃんは、自分と他の人が思っているよりもずっとずっと―――優しいのよ」

「?!な、なんだよ…んなわけねぇだろうが!お前やっぱりおかしいぞ!」
「あ、照れてる。あははっでも分かってないわ」
 豪槍はポカンと妹を見る。いつも自分をふざけてけなすばかりの妹とは思えなかった。
「お兄ちゃんはね、本当は私だけじゃなくて、いろんな人を守れるのよ。だから、お兄ちゃん。ひとつだけ約束する。私はお兄ちゃんに妹としての兄孝行をしてあげる。もしもお兄ちゃんが私を守れなかった時が来たとしても」
 雛杏は微笑む。

「私は一度だけ、またお兄ちゃんに守られに戻って来てあげる」

 豪槍は、何と応えたら良いのか分からなかった。
 雛杏の豪槍に抱きつく腕に力が篭る。一度だけ強く抱きしめたその後、雛杏の腕の力が緩んだ。
「おやすみお兄ちゃん」
 豪槍の瞳が眇められる。気がつけば、豪槍は去りゆく妹の背に声を投げていた。
 雛杏。

「お前――やっぱり慶を出ろ」

 否を言わせないような豪槍の声に、一度だけ、雛杏の背が揺れる。
「…くだらねぇこと言ってんじゃねぇ。お前一人くらい…守ってやる。今度…そんな馬鹿なこといいやがったらいくらお前でも承知しねぇからな」
 妹は、何も応えなかった。
 大事な妹を守るために、絶対に妹を慶国から出そうとする豪槍と、絶対に出ていこうとしない雛杏。
 激しい喧嘩が引き起こされるのは、そう遠い出来事ではなかった。運命のその日。兄妹が激しく言い争う声が辺りに響き渡る。
「お兄ちゃんなんか大ッ嫌い!!」
「勝手にしやがれ!!!!お前なんかもう知るか!!!!」
 売り言葉に買い言葉。激しい喧嘩で消耗しきった後の締めの言葉。どちらも刺されたような顔をしたことにはお互いに気づかない。
 頭に血が上っていた豪槍は雛杏に背を向け、雛杏は、戸口を開け放ち飛び出した。豪槍の直感が胸騒ぎを伝えたが、意地を張って心が発した警告に見て見ぬふりをした。

 外に飛び出した雛杏を、女がいることを受けて巡回していた空師の槍が貫いたのは、豪槍が振り向いた瞬間だった。

 槍で貫かれる雛杏と、最後に目が合った。今まで必要としてくれていたたった一人の人がいなくなった時、人は何を感じるのだろう。最後の瞬間に交わした言葉が最悪の言葉、なんていう考えられる最も凡庸で最も残酷な別れに、豪槍は声が出なかった。
雛杏の声が蘇る。

 すべては奇跡なんだよ、お兄ちゃん。今この瞬間でさえも。
 どういうことだ。
 ふふっ…いくら鈍いお兄ちゃんでも、いつか分かるよ。

 槍で体を貫かれる雛杏の姿が繰り返し再生される。なぁ。


 奇跡って何だよ、雛杏。


 雛杏の言葉の意味は―――今なお豪槍にはわからない。

 霖雪のように超常現象なんて信じてもいない。でも心の中で反駁するその言葉だけは、豪槍は妹の表情とともに忘れることができなかった。

「豪槍ぉおおお!!!!」
 叫び声が、豪槍を刹那の追憶から呼び戻す。一瞬の気の乱れが、目を見開いた桓魋の激しい一撃を許した。吹き飛ばされ壁に叩きつけられた豪槍はのけぞり、その場にくずおれる。意識が一瞬で遠のいていく中、桓魋の声が短く響いた。
「許せ」

 虫唾が走る。
 目の前にいる青辛に。目の前のこいつは――――かつての俺だから。
 自分の心を見て見ぬふりをし、結果的に大事なものを取り落とした大馬鹿野郎だ。
 ―――――大馬鹿野郎だ。

 国の武官の招集に応募したのは国に対する恨みもあったが、何より自分を信じていた妹の言葉に無意識に押されたからだ、なんていう矛盾に気がついたら豪槍はどんな表情をするのだろう。そしてその決断は、荒れていた彼を必然のように陽子と引き合わせた。
「陽子…青辛…」
 遠のいた意識が戻った時、桓魋の姿はもうなかった。それでも豪槍は、もういない男を追うように、震える手を地面につきながら心の中で桓魋に小さく呟く。

 何が許せだ。貴様はこれで終わりだと思っているが…終わりじゃないぞ。
 諦めてなんかやるか。人は失ってから気づくんだ。それはどんな霖雪のような天才だろうが俺のようなどうしようもない馬鹿だろうが。悲しいくらい平等に残酷な気づきは押し寄せる。

 だから、俺は。俺を信じてくれたお前が俺と同じように大事なものを取りこぼしていくのを見たくない。俺はお前が同じように癒えない後悔に沈むのを見たくない。


 何よりお前がいなくなってしまったら―――きっと陽子が泣くだろうから。


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