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「霖雪」

 名前は、生まれた日の情景からつけられた。なんてことのない名づけの背景だ。子が生まれた時の情景を名として贈ることは比較的多く、もはやどこの国でもありふれた光景となっている。姉もそうだったからと、彼も当然のように名に生まれた時の情景を充てがわれた。姉が生まれた日は、珍しく春の星が環を描くように瞬いていた。だから彼女の名前は、環昴(かんこう)。霖雪とは正反対に命に興味を示し追い続ける姉の姿は、星の光がよく似合っていた。

 彼が生まれた日は――雨のように静かに降り積もる雪の日だった。

 降りしきりながらも雨だれの音もなく、ただ雪片が景色に真白を重ねていく、ひどく静かな日だったそうだ。吐息さえも白く染めた日に、彼は卵殻から出た。
 雪。白い。冷たい。静か。息も凍って。――無音。あらゆる意味で起伏もなく温度も感じられないと言われる霖雪にはこれほど当てはまる情景はないと誰かに言われた。

 人は生まれ落ちる時さえも選んでいるのかもしれない、そう時折彼は思う。

 先程の少女、陽子が生まれた時の光景はどんな光景だったのだろう。太陽の名を持つ彼女が生まれた時は、抜けるような晴れ渡る青空に日射しがはえていたのだろうか。

「霖雪」
 自分の名を呼ぶ声がする。その呼ぶ声は遠い記憶の中のものだと、彼はとうに気がついている。確かこの声を姉が発したあの日は、幼い彼が初めて喧嘩というものを体験して戻ってきた日のことだ。記憶の中の姉の姿が見える。思い出すなと言われても、あの時の姉の声はそんなことお構いなしに霖雪の脳裏に溢れてくる。そんなところまで姉らしくて、彼は苦い笑みを浮かべたくなる。
 今から、二十年も前のことなのに。



「うわあああ!!またやっちゃったー!!」
家から光が放たれたと思った瞬間、激しい轟音と白い煙が爆発する。丁度霖扉をあけた時、爆発音とともに吹き飛ばされた書類が彼の顔面に炸裂した。顔中ススまみれにして振り返った姉の陽気な声がする。
「うお!おかえり!!霖雪!!!」
 ぼとりと紙が顔面から剥がれ落ち、鼻を赤くした霖雪はむっつりと姉を睨みつける。もうこういったことに慣れている自分が悲しい。
「また…実験失敗したの…?」
「失敗じゃないぞ霖雪!!これは大きな成功への第一歩だ!!」
 昔から命に興味のある姉は、生物学者となった。研究室を作るだけの資金がないものから、いつも家で何やら実験をやっているのだが大抵吹き飛ぶ。生物についてたくさんの書物を持つと言われる王宮の蘭雪堂や積翠台をいつも訪れたがっていた。姉の言葉に、霖雪は小さくため息をつく。
「…もうその言葉聞き飽きた…おれは何回顔面にモノをくらえばいいんだ…ちょっとはおとなしくしてくれ」
 顔中すすだらけにして豪快に笑う環昴を、目に青タンを作っていた霖雪はむっつりとした表情で睨みつける。
「はは!そう言いながら、今日は霖雪だって派手にやってきたじゃないか!喧嘩か!」
 姉が首を傾ければつむじで簡素にくくっただけのボサボサの髪が揺れた。見目にも頓着せずまめに風呂に入ったり、身奇麗にしたりしようとする概念は元から彼女の頭にはない。研究に没頭するあまりかけた眼鏡にはほっとくとうっすらと脂が浮いていることも多いしまつだ。蓬莱で言う「まっどさいえんてぃすと」だろう。いつもだらしなく着崩している姉は女性にしては声が低く上背があることもあり、霖雪と並んで歩けば必ず兄妹に間違われた。
「で?記念すべき男の勲章を作った喧嘩の理由は?」
 ボソボソと、霖雪は呟く。
「少譚が…死んだひとが見えるおれは…おかしいって。気持ち悪いって…。全部おれが見えているものは、おれがつくった…嘘だって言ったから…」
 言葉尻が消えていく中、あぁ、なるほどと状況を理解した環昴は目を眇める。
 静かな名を持つ彼の幼少期は人と喧嘩さえしないものだった。元から口数も多い方でもなく異質な程賢かった彼は死者が見えるのも相まって、薄気味悪がられて誰からも近寄られなかった。初めてまともに話したと思ったら、これだ。
「なんで…姉さんはしんじてくれるの…?姉さんがきょうみがあるのは、命とか、生きてるものだし…。姉さんにも、おれが見えてるものは見えないのに…」
 きょとんと姉は目を丸くする。姉は本当に周りから見たら不思議な人種だろう。それでも多少ズボラでも女らしさなど欠片もなくても、明るく等身大の自分を見せる環昴はいつも人から好かれていた。何もかも彼とは反対の姉だ。
 そんな彼女は昔から飛び抜けて頭が良かったことから官吏になる将来が期待されていたが、当然のようにそれをはねて、誰も見向きもしない生物学者になる道を選んだ。環昴は微笑む。
「霖雪、世界は広い。広くて広くて、とても私たちじゃ知りえないほど!みんな見えている世界だけが真実だと思っているけど、本当はそうじゃないかもしれない。知らない世界があったって、何もおかしいことじゃないだろう?」
 体温の低い霖雪の肩に、体温の高い環昴の手のひらが置かれる。今自分を見ている、命を追っている眼鏡の硝子越しにきらめく姉の目が、霖雪はとても好きだった。
「だから…私は霖雪の見えている世界を信じるよ。霖雪が感じている世界を信じるよ」
 霖雪。
「君は君の世界を大事にしていいんだ。そしてそれができたら、今度は他の世界にも目を向けてごらん。霖雪。きっとそこには君の世界を更に広げるものがある。きっとたくさんの自分とは違う人、世界を知ることで、君がより一層君らしくなれる」
 霖雪は目を逸らす。
「別に…知らなくて…いい」
 物心ついた頃には既に、両親は蒸発していていなかった。面倒を見てくれていたのは、年が離れていた環昴だ。最近ようやく若き学者として走り始めたが、まだ霖雪が今よりもっと幼い時は彼女だって学生の身。学業の合間に働きながら、二人で食いつないでいくのがやっとの日々だった。自分がいない方が姉は楽に暮らせただろうに、環昴はそんなところはおくびも見せなかった。姉が内心自分のことをどう思っているのかはわからない。それでも。
(姉さんがいれば…それでいい)
 霖雪にとっては死人たちと――姉だけが彼の世界の全てだった。そもそも彼の死後世界以外に関する興味関心は薄い。自分にも他者にも基本的に生きているものに興味はなかった。そんな彼をおかしいと気持ち悪がって最初から歩み寄る者もいないから、何かが足りなくて悲しいなんて概念は霖雪の中にはなかった。姉さえいればそれでよかった。
 困ったようにそっか、と姉は苦笑する。
「じゃあ…いつかでいい。君に任せるよ。ただ…これだけは覚えておいて。関係ないと切り離しても、すべてはつながっているんだ、霖雪。霖雪はいつも正反対だと言うけれど、本当は私たちがやっていることはつながっているように」
 命は環をなしているんだよ、と姉は言う。
「私たちは本当におもしろい姉弟だね。一人は生を追って一人は死を追う、ひょっとしたら私たちは誰も疑問に思っていないこの世界の根本を追い求めているすごい姉弟なのかもしれないよ。きっと私たちは新しい分野の開拓者になれるぞ」
 初めて言われた言葉に、霖雪は思わず顔を跳ね上げる。瞳に希望を灯した戸惑ったような霖雪に優しい目をした姉が笑う。その後言われた言葉は、いまでも霖雪の胸に残っている。
「霖雪。これから先、きっといろんなことが起こる。でも――私はどれほど酷い世界が来たって乗り越えられるって思える。人生には必ず祝福があるんだって、私は知ったから」
 ポカンと霖雪は環昴を見つめる。掠れた声で、霖雪は尋ねた。
「何で…?ずっと大変だったじゃないか…。何があったの?祝福って…何だったの?」
 姉は微笑んだ。それは。

「君が私の弟として生まれてきてくれたことだよ」

 霖雪。
「自分を誇れ。誰がなんと言おうとも。君は私の人生の中で一番の祝福なんだから」

 環昴の言葉に、霖雪は声が出なかった。自分の名を呼ぶ優しい声に、彼はなんと返したらよいのか素直に分からなかった。
 自分が生まれた寒かったその日は、姉にとっては祝福の日だったと彼女は笑う。
全てが白に還るひどく静かな祝福の日だった。
その思い出される笑顔に、自分らしくもない制御できない感情に、彼はどうしたらいいのかわからなくなる。
 そして嫌でもこの時の記憶から、あの光景が引きずるように思い出される。

 喧嘩の日から18年後―女人追放礼が出された時のことを。

 あの日家を出ようとしていた彼は振り向きざまに姉に言った。
「とにかく…俺が帰ってきたら、もうこの国を出る…。まだ大丈夫だろうが…早いに越したことはないからな…」
 それでも目を丸くした環昴はゆったりと笑っていた。微かに苛立った霖雪が呟く。
「姉さん…状況がわかってるのか…」
「ごめんごめん。大きくなったなぁと思ってさ。昔はずっと私の後をついてくるばかりだったのになぁ」
 珍しく怒った自分を見て、背を向けた姉の笑った気配がする。私のために一生懸命になってくれてありがとな、と呼びかけられた唐突な言葉に彼は驚いて瞳を見開いて振り返る。
「…なんだ…いきなり…」
 光が環昴を照らし出した。どうしても伝えたいことがあるんだと姉は微笑む。
「初めて霖雪が喧嘩して帰ってきたときのこと覚えている?あの時の言葉、君は今も覚えている?」
これは私にとって一番大切なことだから、もう一度伝えたいんだと姉は笑う。

「世界を知れ、霖雪。忘れないで。君は何にだってなれることを」

 環昴の言葉に、霖雪は声が出なかった。
 あの運命の日―――。
 自分の里で女人が殺戮されていると聞いた時、うそだと思った。だけど人の狂気は、霖雪が考えていたよりもずっと足が速かった。それでも霖雪は、必死に駆け戻った。王は台輔の恋相手となり得る対象を無くしたいだけだ。女の匂いもさせない環昴が、辛くも台輔の恋相手の対象になどなり得る筈がない。だから大丈夫だ。姉だけは大丈夫だ。息を切らして帰り着いた時。

 姉の体は、ただの物になっていた。

 衝撃が過ぎて涙は出なかった。涙が流れなかった自分は、どんな顔をしていたのだろう。
 目の前の目を半開きにしたまま血濡れて横たわる環昴の顔をした物が、彼にはどうしても姉だと信じられなかった。意味がわからなかった。ただ流れるのは時間だけだ。

 賢い彼は、未だに何故見せしめのためだけに姉が死ななければならなかったのか、わからない。

『自分を誇れ。誰がなんと言おうとも。君は私の人生の中の一番の祝福なんだから』
『世界を知れ、霖雪。忘れないで。君は何にだってなれることを』
 あの時彼が受けたざわめきをもし人が持ったら、彼らはどんな名をつけるのだろうか。だけど人生を支える言葉を姉がくれた時、彼には自分に湧いた感情の名がわからなかった。名づけようにも名づけた瞬間別のものになってしまう気がした。理解できないざわめきを姉に伝える言葉を、口数が少なかった彼は選べなかった。

 それを思うと胸が締め付けられるように沸く、この感情の名もまた、わからない。

 環昴の姿は霖雪が探せども探せどもどこにもいなかった。最後の望みを託して忍び込んだ王宮の積翠台にも。彼女は天国にいるのだろうか。それとも地獄にいるのだろうか。
 確かなのは生を追った姉が死に、死を追った自分が生きているということ。
 おもしろいね、といつも聞いていた姉の声が壊れた機械仕掛けの人形みたく繰り返し頭の中で再生される。聞きなれた好んだ声のはずなのに、湧き上がる訳のわからない嫌悪感に彼はたまらず頭を抱える。呼吸がしづらい。無機質な数字だけが目の前を流れ点滅する。それでも霖雪の表情は動かない。だから誰も彼の声には気がつかない。人々に疎まれる彼の特技は死者との会話だ。

 死んだ姉には、未だ会えない。

 高い能力と王政の勅令より姉を失っている経緯から、自分が知らぬうちに王殺しの捨て駒の暗殺部隊の諜報員として目をつけられていたことを後になって彼は知る。靖共は彼が女王を殺すためにここまで上り詰めたのだと思い込んでいた。
『さぞ女王が憎いでしょう』
 だけど賢い霖雪は無表情に思う。気がついているのか。靖共が目論んだその考え方は、女だからだという理由だけで民の半数を国から追いやった女王と同じ思考回路だということに。
違う。違う―――――違う。
 霖雪は本当は最初名も知らない新女王になど興味はなかった。ただ彼は、彼にとってただひとりの姉を探しに来ただけだった。
だってもう慶国全土で。姉を探せていない場所が、王宮だけだったから。
 どうして誰も気がつかない。復讐の念より、まず何よりも先に。


 ただ霖雪は、たった一人の肉親にもう一度会いたいだけだった。


 最後の望みをかけて、彼は文官として王宮に入ったのだ。
 心に風が吹き抜ける。気がつけば、ぽつりと自分の中から声がした。涙さえ流せず、唇がわなないていることには、きっと誰も気づかない。

 姉さん、生き残るべきなのは貴方の方だった。俺は自分にも他人にも興味がないことを言い訳に、そばにあった刹那の意味も考えなかった。天才だと豪語されながら俺は、あなたと共にあれた刹那にさえ気づかなかった。

 もらうばかりで伝えたかった言葉さえ選べなかった俺は――貴方に何を贈れたのだろう。

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 生ぬるい風が押し流されていく。
自室へと続く外廊を過ぎようとしていた恒魋に、唐突に闇の中から低い伸びのある声が投げかけられた。
「よォ、青辛。死に装束の用意はすんだか?」
 恒魋は足を止め、暗闇を無表情に振り返る。暗闇の中でゆらりと輝く、二対の瞳に恒魋の顔が映っている。さぁなとそっけなく恒魋は顔を背けた。
「質問の趣味が悪いな」
 飄々と眉を跳ね上げる龍熄を恒魋はねめつける。冗談交じりの男の声が流れる。
「お国のために自らを差し出そうとしている男の最後の言葉を聞きに来たんだ」
 恒魋の憮然とした表情は変わらない。龍熄はゆったりと悪い笑みを浮かべる。
「もっと悲嘆にくれた面してやがるかと思ったらそうでもねェな、つまらねェ」
「ご期待に添えなくて悪かったな」
 龍熄の高い位置で無造作に纏められた髪が揺れる。本当は何の用だ、と恒魋は短く言葉を発した。冗談の色を抜いた龍熄の瞳が眇められた。
「何のために…塙の死にかけたジジイの要求なんざ飲もうとしてやがる」
 恒魋の表情も変わらない。顔半分を影に浸からせた恒魋は短く応える。
「…俺がいかなくては、民が死ぬ」
 その瞬間、拍子抜けしたように龍熄は恒魋を見つめ――次の瞬間盛大に吹いて笑いだした。
「マジでそんなこと言ってやがんのか、あんた。想像以上の応えが返ってきて腹いてェよ…!」
「お前に何がわかる」
 かすかに湧き出す苛立ちを、噛み殺す。
「俺たちは民を守るためにここにいる。すべてはこの国…慶のためだ」
 恒魋は龍熄を睨む。
「国のためなら…命など惜しくはない」
 龍熄は気だるそうに片眉を跳ね上げる。心底どうでもよさそうに欠伸を噛んで、一蹴した。
「くっだらねェ」
 俺から言わしてみりゃ――

「虚妄だよ…んなもん」

 龍熄の瞳には、影とともに読み取れない表情が湛えられている。
「揃えたみてェな言葉ばっかりほざきやがって…国のため…それが『綺麗事』というふうに世の中でまかり通ってる風潮自体が気持ち悪ィぜ。耳障りのいい語句だけ並べて中身スッカスカの演説されても萎えるだけなんだよ、気色わりィ」
 龍熄の腕が恒魋の胸倉を掴む。余裕を持つ男の瞳が獰猛にぎらつき、かすれた声が走った。

「麗しい自己犠牲だな、反吐が出るよ。そんなに死に急ぎたいなら、明日まで待たずとも俺が今すぐ“国のために”その首落としてやるよ」
 
 鈍い音を立てて、恒魋を片腕で突き飛ばす。昏い瞳が恒魋を貫く。
「あんたがどんな信条を持ってようが口出すつもりもねェ…。正直どうでもいいしな。あんたが世間で讃えられるようご立派にお命を捧げようが最初から止める気もねェ…。ただ何が嘘で何が建前で何が本音じゃないかってことくらい聞いてりゃこっちも分かんだよ。…あんた…」
 龍熄の表情から色が抜ける。
こんな時でさえそんなお為ごかしでごまかして終わろうとするのなら。―――最後は。

「後悔するぜ、死ぬほどな」

 ポツリと落とされた声だった。桓魋は思わず動きを止める。
 刹那遠くを見るように浮かんだ男の表情はなんと形容すればいいのだろう。会話の終焉を表すように、生ぬるい風がふくれあがる。
 龍熄は桓魋を一瞥すると、衣を翻して踵を返す。
 衝動に似た行動の説明はつかない。恒魋は、初めて去りゆく男の名を呼んでいた。気が付いた時には声は喉から押し出されていた。
「おい龍熄」
 信条もない。忠誠心もない。愛国心もない。ならば。
 声は僅かに掠れた。

「お前何故…国官になどなろうと思った」

 かすかに男の背が揺れる。動きが止まる。
 だが振り向いた時の男の顔は、いつものにやりとゲス顔を浮かべる匪賊の親玉の顔だった。
「…さーな。他人のことより自分の心配しろよ」
 じゃあな死にかけ野郎。そう言って後ろ手にひらりと手を振った龍熄は、今度こそ闇に消えた。
 生ぬるい風が押し流されていく。
 出発予定時刻は静かに迫ってくる。先程の男の声を消すように、桓魋は頭を振った。――さっき龍熄の瞳から顔を背けたのは、あれはあの男の瞳に映された自分自身から目を背けたかっただけじゃないのか。
 答えはわからない。
 桓魋は出発の準備のため、足を踏み出そうと顔をあげる。だがその瞬間背後に走った気配に、振り返らずにため息をつく。それが誰かは――すぐにわかった。

「お前まで俺に何の用だ」

 豪槍。

 応えはない。炎のようなゆらぎが男の背から立ち上る。
 桓魋を睨めつける男の瞳が、何かを覚悟したように鋭く閃いた。


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