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 嘘だと思いたかった。
だがそれでも陽子は、声を絞り出す。まだ大事な話が残っている。
「新入文官、武官たちが最終的にここに送り込まれたのは…本当はお前ではなく靖共の計らいだろう。名目上はお前が集めたということになっているが。文官たちは…諜報部員として。武官たちは…暗殺者として。靖共は、王政に恨みのある異端者たちを寄せ集めた」

 捨て駒の王の暗殺部隊として。

「文官たちは自分たちがここに集められている思惑には気がついているが…皆賢いから動きを抑えている。文官、武官の彼らは皆王政に恨みがあるが、こんな風に利用されていることを武官たちの方は皆知らない。それは恐らく…知らない方が彼らが御し易いから…、その中の誰かが王に手を出した時、初めから関係のない方が簡単に切って捨てやすいから」
 浩瀚は何も応えない。
「なんとか言え…」
 陽子は声を絞り出す。
「なんとか言え!!浩瀚!!!」
僅かな沈黙の後、彼は静かに視線を揺らす。
「確かに…文官、武官たちの件。そして…主上と豪槍が出会われた堯天の件。全てに私は関与しております。靖共たちに加担した…そう思われても、致し方ございません。現に、私は主上が耳にされている通り…主上を裏切るという名目で靖共に取り入ったのですから。ですが」
ただこれだけは信じてください、と浩瀚は拱手しながら顔を上げる。
「私は、あなた様を裏切っているつもりは毛頭ありません」
陽子は無言で浩瀚を見つめる。
「恐らく…情報は霖雪からでしょう。私は靖共に寝返った体を保ちながら情報を集めていました。ですが堯天で貴方に刺客を放ったのは…主上をお守りするためです。王宮ではない場所で豪槍や霖雪を主上を引き合わせるために私は刺客を放ちました。うまく貴方たちが出会うように、と」
 低い声で、陽子は言葉を紡ぐ。
「なんのために…彼らと私を引き合わせるようなことをした」
「…一種の賭けです。こちら側は人が少ない。特に武官たちを…こちら側に引き込むためです」
 その時、背後で扉が開け放たれる音が響いた。逆光の中、扉を開け放った男の身体から激しい怒気が湯気のように立ち上る。影の中で刃物のような瞳が閃いて、ゆらりとどす黒い火花が散る。戸口に光を背にして立つ男に陽子は声を失くす。

 そこにいたのは、仁王立ちで佇む豪槍だった。

 いつから話を聞いていたか、などということは聞かなくても分かった。
「…そういうことだったのか」
 声は掠れていた。怒りのせいだ。
「…霖雪の野郎が俺に教えなかったのは、こういう訳だったんだな」
 陽子を超えて、豪槍は浩瀚の前に詰め寄る。体躯の良い豪槍の姿は、かなりの迫力を持ってみえた。浩瀚は無表情で豪槍を見上げる。歯を食いしばるように豪槍は声を出す。
「陽子と初めて会ったあの時――いざこざに巻き込まれる寸前に俺は堯天の街で青辛を見た。今思えば…あいつは俺を誘導していたんだろう。違うか…?追いかけようとした瞬間、偶然にしちゃ出来すぎた頃合で意識を失くした陽子が飛んできた」
 豪槍の表情に、読み取れない激しいものが閃く。
「あの時陽子を最初に襲撃した刺客。あれは…虎嘯だろう。お前らみんなグルだったんだな。くだらねぇ根回ししやがって。虎嘯が俺にしきりに話しかけてきていたのもお前の目的のために俺の信頼を勝ち取るためか。最初から…俺たちの境遇も何もかもを分かった上で仕組んでやがったのか」
 虎嘯があんなふうに親しげにずっと話しかけてきたのも、別に豪槍に好意を持っていたからではなかったのか。やっと手に入れたまっすぐな友情でさえも誰かの思惑の中だった。豪槍の拳が震える。浩瀚の表情は動かない。月明かりに濡れた彼の顔には闇が落ちる。
「すべてお前たちと主上を…自然に引き合わせるためだ。現にお前はもう主上に手をあげることはできないだろう?この方を知ってしまったから。情が移ってしまったから。お前を敵に回すわけにはいかなかった」
「ふざけやがって!!何故俺なんだ!!そっちの思惑は知らねぇが…人が少なくて武官たちを仲間に引き入れたいんだったら俺よりも顔が広くて物腰が柔らかい蓮皇あたりの方がよっぽど適任だろうが!虎嘯や陽子をけしかけるんなら余計にな!!」
「違う。武官たち、ではない。…お前でなくてはいけなかった。何故なら…」
浩瀚の口から無表情な言葉が言い放たれる。


「あの時お前は裏では…新入文官、武官の中でも群を抜いて――主上を殺すことを期待されていた男だったから」


 豪槍の鋭い瞳が見開く。
 唐突に、先日夜の院子で霖雪に詰め寄った時の会話が脳裏を流れた。
『お前なら…今の慶も俺たちの状況も把握してんだろうが。俺の知らない…お前の知ってること全部話せ』
『嫌だ』
 微かに豪槍のこめかみに青筋が立つ。だけど彼が言葉をまくしたてる前に、霖雪の方が先に口を開いた。
『知っても…今のお前にどうしようもない。真実は…時として残酷だ…』
『…どういうことだ』
 霖雪は何も応えない。闇のような漆黒の短髪を持つ引き締まった巨躯の武官と、対照的な月明かり色の長髪を持つ柳の体躯の文官の姿がその場から浮いていた。彼の口元が言葉を形作る。

 文官なら霖雪。武官なら豪槍。

 王宮内でよく囁かれている言葉だった。豪槍が霖雪から聞けた言葉はそれだけだった。意味深に呟いた霖雪はどこか自嘲気味な笑みを見せた。豪槍が見た中で初めて霖雪が表情を動かした瞬間だった。その時は意味が分からなかった。

ただ霖雪の自嘲気味な表情だけは、豪槍は何故か忘れることができなかった。

 浩瀚の声がする。
「お前たちは特に目をつけられていた。中でも靖共は文官よりも武官の方を主上暗殺の実行隊として重視していた。武官の中に荒くれ者たちが多いことに目をつけ、主上殺しを犯しそうな輩を絞っていた。だから――偶然を装って、堯天での騒ぎを利用してお前たちと主上を引き合わせた。主上との間に絆ができるかどうかは賭けだった。だが、一度立場を抜いて主上に直接会わせてしまえば、お前は恐らくもうこちら側に引きずり込める可能性が高いと踏んでいたのは確かだ」
 声が出ない。自分の目が見開いていることにさえ、豪槍は気がついていなかった。
「もしお前が主上に手を上げるようだったらその時点で潜んでいた桓魋が出て行く算段だった。靖共はがっかりしていたよ。龍熄は理性で獰猛性を抑えられる輩だからやっかいだ、だが豪槍のような一番暴漢として協調性もなく乱暴で人殺しも厭わないような男が、どうしてさっさと主上を殺さないのか。自分の思惑どおり獣らしく手のひらの上で踊らないのか。どうして王を野放しにしているのかとしきりに不思議がっていた…。それを私が根回ししたものとも知らずな」
 言い終えるか終えないかのうちに、豪槍は浩瀚の胸ぐらを掴み、激しい力で持ち上げていた。
 喉を潰されかけながら、掠れた声で浩瀚は囁く。
「…私を殺すか」
 怒りすぎてドスのきいた声が走る。
「どれだけ人を馬鹿にすれば…!!!!」
 浩瀚の顔が苦しげに歪んでいく。陽子がなりふり構わず、豪槍の腕にしがみついた。
「豪槍!頼む、やめてくれ!!」
 陽子の声にも豪槍は絞め上げをやめない。だがやがて舌打ちをした豪槍は浩瀚から手を離す。床に崩れ落ちた浩瀚は、喉に手を当て咳き込みながら無理に言葉を続ける。
「…本当のことを言えば、靖共の思惑とお前の評判…お前たちの境遇を耳にした時、私は最初からお前を隔離してしまおうかとも考えた。靖共が目をつけた時点で、主上への危険は速やかに排除することが…私の勤めだから」
 暗く視線を落とす浩瀚の顔が持ち上がる。
「だがもうお前が知っている通り、結果的に私は…手法を変えた。何故なら…」
 息が止まる。時間が止まる。ポツリと浩瀚の声が落ちた。

「桓魋と虎嘯が…お前のことを信頼していたから」

 豪槍の肩がかすかに揺れた。
「…信じられないくらい単純な理由だろう。だが、本当だ」
 お前は私の根回しだと言ったが、私が手を回したのは堯天の件に関してだけ。虎嘯たちがお前に近づいたのはあいつらの自由な意思だ。そう浩瀚は呟く。
「あいつらは人を見る目がある…だから私はお前に賭けることにした。隔離するよりもこちらの戦力になってくれた方が味方の少ないこちら側の陣営としてもよっぽど合理的だったしな…。だから靖共が初めから切り捨てていた…桓魋と虎嘯が信頼できると言うお前を…信じてみることにしたんだ」
 豪槍の拳が震える。室内の空気が動きを止める。痛いくらいの沈黙がその場に落ちていた。

 すまなかった、と浩瀚は囁いた。

「随分とお前には…酷いことをしたと思っている。お前の人格を勝手に慮って、犯罪者予備軍としての烙印を押して、利用して…。だが同時にお前がしてくれたことに…私は感謝している」
 豪槍は笑って皮肉を吐き捨てる。
「貴様のために動いたことなんざ一度もねぇよ…その言葉も俺に何かをさせるための策略か」
 浩瀚の瞳がふっと遠くに流れる。
「…わからない。だがそうなのかもしれない…。現に私はこの後に及んでまだお前に頼みごとをしようとしているのだから」
 ピクリと豪槍の眉が跳ね上がる。陽子の眉根が寄る。その瞬間初めて表情らしい表情を見せた浩瀚に、思わず豪槍は動きを止めた。眉根を寄せ、目を見開いて、口元を歪めて。

 彼の表情は、必死にすがる人間の顔だった。

 頼む、豪槍。
「…桓魋を止めてくれ」

 ――――もうお前しかいないんだ。
 そう言って彼は、土下座した。

:::::


 幾日か前のこと。浩瀚宛に贈り物としていくつかの人間の首が届けられた。
 贈り主は隣国の王、塙王。贈られた首は、慶国の民の首。愕然とする浩瀚や桓魋が見た添えられていた塙王の言葉はこうだった。

 現在の貴国には我が国の軍が国籍を変えてお世話になっている所存。貴国には国籍を変え紛れ込んだ我が国の出身者が今や分からぬ状況と思われる。我が命令一つで、元巧国軍兵士たちはいくらでも現慶国民として貴国の民を根絶やしにできる状況である。今から読まれるだろう我が願いを聞き入れていただけるまで、景王陛下に慶の民の首をお贈りいたす。

 塙王が要求したものは―――桓魋の首だった。

 浩瀚は咄嗟にその塙王の要求を桓魋の目に触れないところへ隠そうとしたが…遅かった。
「どういうことか、もうお分かりだと思うが…」
 歯ぎしりする浩瀚の声は、今まで聞いたことがないほど殺意に満ちていた。彼のものとは思えない激しい声が空気を震わす。

「これは…本来ならこういうことが決して起きぬようにと、鉄の条理として張り巡らされている大綱の裏をかいた…実質的には国境を超えた戦争が起こるということだ…!」

 雷が、落ちた気がした。
「兵士に国籍を変えられてしまえば、どれだけ侵略されようが、大綱は発動しない…!!桓魋とは名ばかりに、本当は主上と桓魋の関係を見越して貴方が出てくることを狙っているのでしょう。明日の正午に、巧と慶との州境で桓魋を処刑することが塙王の望み…。奴の望みは慶の没落。もし主上が出てこなくても、軍事では優秀な指揮官の損失は万の兵士の損失と同等。巧側からすれば最悪でも半獣であり、将軍級の力を持つ桓魋を殺すことでこちらの戦力を大幅に削ることができます。思惑に乗る方が愚鈍ということは分かりきっています。だがそれでも――彼が行かなくては民が死に続け、最後は主上に…手が回ってしまう。桓魋はそれで塙王の気が収まるのならと、行くと言っています」
 陽子の息が止まる音がした。浩瀚の声が低く震える。
「すぐにお伝えせず申し訳ございません。ですがお知らせしたところで、敵の思惑の全容が分からない今叩きようがない。ですがお伝えすれば貴方はすぐに王宮から飛び出していってしまうでしょう。主上をお守りするためにも、人に知られず対策を練るためにも、すぐにお伝えするわけには参りませんでした」
 頭を地面につけたまま、浩瀚の指がぐっと敷物を掴む。拳が震える。最後の言葉は豪槍に向けられた。
「だがやはり、この短時間では今の塙王の思惑を止めることは不可能に近い…。やはり自分が行くと言った桓魋は止めても聞かない。虎嘯は桓魋の意思を尊重する姿勢を見せて私には立ち入れない。私にできることは、思っていたよりもずっと…少なかった。だが、己の無力さを痛感する今でも」
 それでも。

「それでも私は…あの男を失いたくない…」

 必死に絞り出した浩瀚の言葉に豪槍の瞳が見開いた。味方の数が少ないと言っていた浩瀚の声が今になって蘇る。本当に自尊心が強い彼が土下座をしてまで――今は利用した自分以外に頼る相手すらいない状況なのだ。堰を切るように浩瀚は言葉を重ねる。
「まだ塙王の脅しに対抗する手筈はあるはずだ…!!今!桓魋が行ってしまうことの方が、塙王の思惑に乗ることになってしまう…!!脅しに従うことは、それは慶が他国に屈することを意味している!!!どうか…頼む…!!!」
豪槍は自分の口から落ち着き払った声を聞いた。
「…俺が行くと思ってんのか」
 浩瀚は頭を上げなかった。
 豪槍は何も言わない。だがそれでも、再びフンと鼻を鳴らした音にはもう刺はなかった。ひとつだけ聞かせてくれ。豪槍。

「豪槍、お前何故…ここに来ようと思った?お前は何故…この方が王と分かっても――主上を守ったんだ?」

 浩瀚に背を向けた豪槍は何も応えなかった。影が落ちている豪槍の背中からは陽子も浩瀚も何も読み取ることはできなかった。
「…すまない。…踏み込みすぎた。愚問だったな」
 それでも、と浩瀚は顔を上げた。これだけはお前に言いたい。
「影で…主上をずっと守ってくれてありがとう」
 一瞬の間。豪槍の背中が微かに揺れる。彼は何も応えなかった。次の瞬間には、もう彼の姿は室内にはなかった。
陽子も即座にそれに続こうとするが、浩瀚の声が彼女を止めた。
「…主上」
 浩瀚の言葉の意図を汲んだ陽子の視線が据わる。口を開いて声を上げようとした時、浩瀚の声が響いた。
「お気持ちはわかります。ですが桓魋と豪槍は恐らく乱闘になる…。巻き込まれます」
 それでも陽子は豪槍を追おうとする。桓魋の元へすぐにでも行こうとする。陽子は浩瀚の声を聞かず足を踏み出し、その腕を無礼を承知で浩瀚は掴んだ。
「主上…後生ですから、どうか少しだけ私の話を聞いてください!この国が危機に立ち向かうためにも…私はまだ、どうしても貴方に話さなくてはならないことがあるのです…!…すべてにおいて、貴方は最後の切り札なのです!!」
 唇を噛んだ陽子は思い切り浩瀚を振り返る。
「桓魋が出るのは明朝です。それまでに貴方はまだ知らなければならないことがあるのです。それに…豪槍でも駄目だったのなら、最終的に桓魋を止めることができるのは恐らく貴方だけです。だから今は無駄に思われるかもしれませんが、少しだけ…少しだけこの私にお時間をください」

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 悔しそうに陽子は唇を噛む。気持ちを抑えて、なんとか声を絞り出した。
「…私が知らなくてはならないこととは…何なんだ」
「今期の特殊文官、武官たちの闇です。そもそも彼らが〝何故〟王政に恨みがあるのか…主上は知らないでしょう」
 ピタリと陽子の動きが止まる。
 浩瀚の視線を落としたまま告げられる声が流れる。
 女人追放令を覚えておいでですか。そう訊かれた瞬間鮮烈に沸いた記憶に、陽子は思わず口を抑える。思い出したくないことを思い出させてしまい、申し訳ございませんと浩瀚は囁く。
「しかしあの法令は酷いものでしたが、ほとんどの女人がまだ追放されるだけですんだものでもありました。これだけが唯一不幸中の幸いと言えることです…。しかし、中にはそうならなかった州もあります。逃げようとしている意志があるにも関わらず、強行的な手段に出たところもあったのです」
 浩瀚の表情が、昏く翳る。
「今期の特殊新入文官、武官。彼らの多くは――――」


「追放令の際、見せしめに近しい女人を…虐殺された者たちです」


 陽子は目を見開いて――浩瀚を凝視した。
 ゆらり、と陽子の足が後ろに下がる。関わってきたすべての武官と文官の顔が走馬灯のように流れていく。
 そしてその時、陽子は死者が見える霖雪が〝何を〟探しているのか…分かった気がした。
 浩瀚の声が流れる。
「異質だと遠ざけられている彼らそのものが、誰も気づかないふりをしているこの国の〝闇〟なのです。そして…もう一つ。主上に知っておいていただきたい話がございます」
 彼は首を傾けた。
「先程の話を聞いていたら、主上は最初から靖共があの者たちを集めたと思われているようですが、詳細は違います。選抜試験の発案者が私だということは…事実です。靖共は結果的に世間から異端者として扱われる彼らを抱き込むことで、主上を窮地に陥らせることを狙っただけ。偶然のように集まった彼らが王政に恨みがあるということも、靖共にとっては抱き込む利点となったのでしょう。靖共にとってはあまりにうまい話に奴は私が他に何かの思惑があって彼らを入れたのではないかしきりに気にしておりました」
 陽子はうつむく。以前靖共に、浩瀚が何を思ってこの制度を作ったか知っているかと訊かれた時の記憶が反芻される。何故、という声は掠れた。
「それでも、まだわからない。現に私だって、靖共と同じように気になっている。…そもそもお前は何故彼らを登用しようと思ったんだ…?」
「…はじまりは、私の考えではございません」
 陽子は顔を跳ね上げる。浩瀚の言っている言葉の意味がわからなくて、陽子は思わず眉根を寄せる。唐突に、浩瀚は微笑んだ。
「10年前のご自分のお言葉を、覚えておいででしょうか」
 その時のことを思い出し――――浩瀚は懐かしいような表情を浮かべる。彼の耳に幼い日の目の前の少女王の言葉が繰り返される。
 
 その話が出たのは、少女にとっては自然な、浩瀚にとっては唐突な瞬間だった。

『何で半獣だとダメなの?人と違うとダメなの?どうしてそれだけで痛い思いをしてる人がいるの?大人はチャンスをうばうの?』
 麦州の執務室に遊びに来ていた陽子から唐突に投げられた問に浩瀚は目を丸くした。だが子どもにとってはどんな時であろうと、気になったことは気になった瞬間に訊く。浩瀚は陽子の頭を撫でながら訊き返した。
『陽子は、誰かが虐げられる国は嫌か』
 唇を尖らせた陽子は、納得できないように頷いた。
『そんなことされていい人なんていないよ!浩瀚様、私、やっぱりみんなでつくる国がいいなぁ!いい人も悪い人も最後はみんなが、自分を恥じることなく顔をあげられるような!みんな自分の得意なことをいかして、顔を上げればいいんだよ!人を差別するための名前なんていらないよ!』
 脳裏から消えていく言葉尻に、浩瀚は思わず懐かしむように目を閉じる。走馬灯のようにこれまでの記憶すべてが駆け抜ける。ポツリと彼は呟いた。
「私は、王ではありえない」
 その時だけは幼い頃に見ていた浩瀚の穏やかな優しい表情が陽子の前にあった。
「私はその言葉を聞いた瞬間、無意識の内に気がついていたのです。新しい国を創っていける未来の王が誰なのか。人を裁くだけだった私とは違う答えを見い出せるのは誰なのか」
 浩瀚の声が流れる。
「私は王宮に新しい風を入れてみることにしました。壊してみたくなったのです。今までは倦厭されていた…慶国にも必ずいる優れた能力を持ち合わせながらも、差別を受ける者たちと共にすべてを。結果的に今回集まった者たちの多くが王政に恨みがあることが波乱の火種になり、想定外に靖共の思惑も絡んだことから豪槍に関してはこちら側の都合で振り回してしまいました。ですが私はこの判断について、間違っているとは思いたくありません。豪槍にはもう信じてもらえないかもしれませんが、理不尽な痛みを受けた人々と皆が顔を上げられる国がつくれるという思いは…変わりません」
 浩瀚は呟く。
 国の秘密を陽子に打ち明けた、霖雪の言葉が浮かんだ。あの時去りゆく霖雪に、陽子は思わず声を張った。
『霖雪!!何故だ?宮中で敵ばかりのこの私に…!!お前がこんなに情報を持っていると知れたら…こんなこと私に教えたと知れたら、お前だってどうなるか…!!それに…』
 息が詰まる。
『…お前もう気づいているんだろう、本当は私が今の傀儡まがいと呼ばれている王だって…!!お前たちは王に恨みがあるんだろう…?!それなのに、何故だ?!』
 ピタリと霖雪は足を止め、さぁな、とそっけなく彼は呟いた。
『確かに俺たちの多くは…王政に対してやりきれない想いを持っている…。だが、お前と会ってから、俺は論理づけられない…説明のつかない行動ばかりを取るようになってしまった…。お前を信じたのは…きっとそれはお前の隣にいる黒髪の娘…蘭玉と言うのか…その娘がお前のことを大切に想っているのが伝わってくるから…』
 衝撃に陽子は瞳を見開いた。
 澄んだ薄荷色の瞳が陽子を見つめる。
 霖雪は続ける。俺に忠誠心などというものはない。それでも。何より…

『…俺はお前と話すことが…嫌いじゃないんだ…』

 そう言って淡い光の中―――初めて霖雪は、微笑んだ。
陽子は遠い蓬莱の記憶を見た。絵の中で見た聖母や天使たちの柔らかな微笑を見た。普段の彼からは想像できないあまりに優しい微笑みだった。
 記憶の中の霖雪の声が、微笑みが淡く溶けて消えていく。
「皆あの者たちは私の酔狂か、靖共の陰謀によりここに送り込まれたと思っております。豪槍や…霖雪でさえもそう思っているでしょう。理不尽な痛みを受けた彼らは捨て駒として利用されるために、呼び寄せられたと思っているでしょう。ですが本当は私でも、靖共でもなく…」
 
 時が流れる。光が流れる。呼吸が流れる。
 それは刹那を縫うような優しい声だった。


「あの者たちをここに呼んだのは―――――あなたなのです」


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