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「霖雪!…霖雪!!私だ!!」
 張られた声が、滑るように歩いていた霖雪の足を止める。振り向いた彼の目に、先日助けた赤髪の少女が駆けてくるのが見えた。共に歩いていた三人の文官のうち、特に帥文君が興味深そうに少女を振り返る。
「この前はありがとう。おかげ様で無事にここまで帰ることができたよ」
「…そうか」
「そ、それにしても…」
 陽子は微かに顔を引きつらせて身を引く。それもそのはずで彼女の周りには、彼女を食い入るように見つめる三人の文官がいた。
「えっと、霖雪…この人たちは…」
 霖雪はため息混じりに小さくつぶやく。
「…同期だ」
 女性文官が軽く会釈をする。
「涼梗ですわ。霖雪に話しかける方など初めて見たので、つい」
 美しい白藤色の長い髪が流れる。前髪を目の下で切りそろえているのであまり顔立ちはわからないが、鼻筋や唇から美人だろうということが予測できた。
「真真です」
 すとんと背が小さい子供の官吏が陽子を見上げる。丸く大きな琥珀色の瞳は、同時にどこか切れ長の形をしている印象を与える。彼の瞳はすでに大人と同じ光を帯びていた。
「私は陽子だ。よろしくな」
 そう陽子が言い終わるか終わらないかのうちに、ずいと一際背の高い男が陽子の前に進み出る。近すぎるくらい目の前に落とされた顔に、陽子は思わず退きそうになった。
「ホホホホ帥文君と申します。以後お見知りおきを」
 カッと見開いたまつげの長い目。彫りの深い顔立ちに焦げ茶色の細い八の字髭。霖雪も彫りの深い顔立ちをしているがこっちの方が更に深い。にっこりと口元だけが微笑んだ形で固まっている。
(あれ…この人…)
その時ふと感じた感覚に陽子は帥文君を見上げる。
「えっと、いくつか訊いても?」
「どうぞぉ」
「…私たち、どこかで会ったことがないか?」
 帥文君は変わらぬ表情のまま首だけを傾げて見せる。
「…?…さぁ?申し訳ありませんが私の記憶にはございませんなぁ」
「そうか、失礼した…勘違いかな」
 陽子は頭をかく。この男を、どこかで見たことがあるような錯覚に陥った。まるで既視感のような。だが確かにこんな男に以前に会っていたら確実に記憶に残っているはずだ。
ふと思い出す。そういえば、霖雪の時も同じような既視感を抱いた。
(あ…そういえば…)
思い当たる節を一つ見つけた。北欧系の外国人だ。彼の後ろに流した巻き毛も顔立ちも蓬莱で見ていたテレビの中の外国人のようで貴族や海賊の格好が似合いそうだった。常世の名前も中国風の袍もどこか違和感を感じて馴染まないと思ったらそういうわけか。
「いいえ!いいですよぉお嬢さん」
「すまない…あと貴方、随分と立派な体をしているんだな」
 武道の道に生きてきた陽子は、袍で隠れているがこの男が文官とは思えないくらい筋肉の引き締まった体つきをしていることに気がついた。上背もあり、武官でもゆうに押し通る体躯の良さだ。
ひょいとかがめた体を持ち上げた帥文君はおやと口元に手を当てる。
「お嬢さぁん、ひょっとして先程から私を口説いていらっしゃるのですかぁ?どこかで会ったことない?いい体してるね、なーんて!ホホホホいけませんよぉ貴方もなかなか凛々しくてオモテになりそうですが、私の好みは虎嘯さんや豪槍さんのようなお方ですので」
「な?!く、口説いてない!」
「ホホホホホホホホまぁでも悪い気はいたしませんなぁ」
「口説いてないったら!」
「…遊ぶな帥文君、お前男色家だろう…」
「そうですわ」
「悪い癖です」
三人の文官の言葉に帥文君は笑いながら身を引く。陽子はどっと疲れた気分で手を振る。
「と、とにかく霖雪、会えてよかった。おもしろいお仲間を紹介してくれてありがとう」
「…もう行くのか」
あぁ。と陽子は頷く。
「これから豪槍に剣の稽古をしてもらうんだ」
 助けてもらった上にむちゃくちゃなお願いしてしまった、と陽子は頭を搔く。
 あの時のことを思いだし、霖雪はあぁと微かに声をあげる。豪槍は最初は何で俺が!と散々吠えて断っていたが、結局彼の方が折れたらしい。
「…そうか」
 じゃあまたな、そう短く笑って笑って陽子は離れの演習場に消えていく。静かになったその場に、帥文君の声が響いた。それにしても。
「随分と面白いお方とご友人になられたようですねぇ?霖雪」
 霖雪は振り向く。生ぬるい風が吹く。文官たちの目は、皆低く底光りしていた。
「…何のことだ」
「とぼけないでくださいよぉ」
 貴方が気づいていない訳ないじゃないですかぁ。

「―――あの方の御正体を」
 
 すべての音が、淡くその場で消えていく。
霖雪の無表情な顔は動きを見せない。真真が、背の高い彼を見上げる。
「何故、あの方と御友人になられたのですか霖雪さん。僕たちとは最も遠い所にいる人だということは貴方もわかりきっているでしょう」
 霖雪は何も答えない。帥文君の目が、霖雪の懐へと走る。
「色々と教えて欲しいですねぇ。特に今、懐に何を持っておいでなのですかぁ?霖雪」
霖雪の表情は動かない。堯天で回収したあの紙が、彼がこの場に帰ってから誰にも知られずに懐に収まっている。微かに、視線が揺れた。
「…別に」
 何も答えずに、霖雪は彼らに背を向け一人歩き出した。

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「はああぁああ!!」
 陽子の声と共に、頭上から鋭く刃が振り下ろされる。やすやすとそれを片手で握った槍で受け止めながら、豪槍は軽く手首を捻る。槍に中途半端に食い込んでいた刃先が外れ、陽子は勢いで吹き飛ばされた。
「うわ?!」
「軌道が見え見えなんだよタコ」
 だが陽子の方もただでは吹き飛ばされない。素早く受身をとって、再び強く地面を蹴って一直線に豪槍の脇腹を狙う。その速さに、豪槍は思わずほぅと目を細めた。
(…狙いはいいじゃねぇか)
だが。
「――まだまだだ」
 おお振りの槍が走った斬撃を受け止める。ギチギチ、と軋むような嫌な音を立ててお互いの力が均衡し、危うく動きが止まる。まだ未熟な点はあるが、陽子の線の良さに豪槍は内心感嘆する。
「――誰に武芸を習っていた」
 少なくともかなりの腕のものだ。だがそれを訊かれた瞬間、ピクリと陽子の指先が動く。顔を伏せ、陽子は小さく呟いた。
「…大切な人だ」
 豪槍の片眉が跳ね上がる。だが続きを言及する前に、陽子の方が均衡を破って自ら大きく後ろに弾き飛ばされた。着地した瞬間、反動で飛び出した陽子は刃を振り上げる。
 僅かに髪の隙間から覗いた少女の瞳は、鋭く冷たい光を放っていた。
(いい眼をしやがる)
 ゾクリ、と豪槍の獣性が反応する。ギラリと獰猛な笑みが彼の顔に広がった。陽子は再び恐ろしい速度で豪槍に向かって剣を構え接近する。豪槍と陽子の槍と武器がかち合う直前に、青年の声が割って入った。

「うっわ珍し!豪槍がお守りなんて!」
「今日は槍が降りそうだな…」

 大きな音と砂埃を上げて、豪槍が動きを止める。陽子の方も咄嗟に膝をついて、斬りかかりかけていた動きを止める。振り向きもせず、低い声を豪槍は発する。
「黙れ蓮皇、燈閃。邪魔しやがるんなら貴様ら削ぐぞ」
「やーだね~削がれないよーだ」
「冗談も休み休み言え。お前が手を上げる前に私の矢がお前を射抜いてる」
 欄干から身を乗り出して覗いていた青年二人が、演習場にふわりと着地する。鬱陶しそうに豪槍は渋面を作る中、陽子は降り立った二人に目を奪われていた。
ひとりは紫がかった黒髪の、泣きボクロを持つ女顔の美青年だ。彼を見たとき、陽子は咄嗟に利広を思い出した。柔和で洒落た印象を受ける。着ているものを彼なりに着崩しているからかもしれないな、そう思ってぼんやりと彼の着物を見たその時――。
「!?…まさかそれって蓬莱の着物?!」
 気がついた時には、陽子は驚いて彼に話しかけていた。
「え!君、分かるの?!」
 蓮皇と呼ばれた青年は嬉しそうに陽子に顔を向ける。
「いや~目が高いねぇ!!今まで褒めてくれた人はいたんだけど蓬莱の着物ってことまで当ててくれた人なんていなかったからさ!」
「そうか。私は海客だから、なんだか懐かしくて…。小さい頃、七五三で赤い着物を着たことを思い出してしまった」
「赤い着物?!!海客?!!それって蓬莱の着物たくさん見放題ってこと?!!ほ、他には着物ってどんなのがあるの?!!」
 驚いて目を瞬いている陽子を見て、二人の内のもうひとりの方が蓮皇を止めた。
「やめろ蓮皇。困っているだろう。お前は着物のことになると歯止めがきかん」
緑がかった黒髪を高く結った、弓矢を背負っている青年だった。すらりとした細身の筋肉質な体、堅物そうに力強く整った顔立ちをした彼は凛としていて、育ちが良さそうだった。連れがすまないなと青年は陽子に視線を落とし、名乗る。
「燈閃だ」
 二人とも見たところ二十くらいだろうか。
どちらもタイプは違うが、荒々しいと噂される武官とはかけ離れたイメージの青年だ。蓮皇は豪槍に向かって唇を尖らせる。
「それにしても豪槍、堯天の着物の件どうなったの?あれほど頼んだのに知らんの一点張りだしさぁ~見てきてもくれないなんてがっかりだよ!」
「やかましい…。貴様勝手に自分で探してこい」
「んもーつれないなぁ豪槍は。一回着てみたら良さがわかるのに。よし、今度は一緒に行って豪槍に似合う着物見繕ってあげるね!」
 渋面をつくった豪槍は額に手を当て、脱力する。その時、上空からバネのようにひとりの青年と少女が陽子たちの場所におりた。
「なんか騒がしいっすね」
 色素の薄い青年の逆だった髪が揺れる。口元を襟巻きにうずめながら、少女の目がするりと陽子に滑る。雹牙と悠だよ、という蓮皇の紹介に、陽子は微笑んだ。
「陽子だ、よろしく」
 雹牙はにっと八重歯を見せて笑い、悠はペコリと頭を下げた。
「それにしてもまた豪槍、喧嘩っすか」
「懲りない男…」
「それはいつものことだろう。この男の血の気の多さにはついていけん。もしこいつに合わせられる奴がいるなら是非会ってみたいものだ。恐らく狒々くらいだろう」
 雹牙と悠の言葉に燈閃が鼻を鳴らし、腕を組む。豪槍の額には青筋が立っていた。寄せられた眉根と鼻頭には濃い影が走っている。あ、やばいみたい、と蓮皇が笑顔で両手をあげ降参のポーズをつくった。
「どいつもこいつも…好き放題言わせておけば…!!」
 周囲にいるものたち全員にあてて、豪槍は吠えた。
「もういい今日はここまでだ!!貴様ら全員散れ!!!鬱陶しい!!!」
 さっと武官たちは豪槍の怒りを察知して散る。豪槍と目が合い、意図を汲み取った陽子はにっと笑った。
「ははっわかってる、今日はもう行くよ。稽古ありがとう、豪槍!」
 豪槍と周囲の武官たちに手を振って、陽子はその場から身を翻した。少女の背は軽やかに小さくなっていく。何かを思うように、目を眇めた豪槍の背中に蓮皇ののんびりとした声が投げかけられた。
「いやーいいもの見せてもらったよー豪槍」
 振り向かないまま豪槍は後ろの男に口を開く。
「あの小娘…お前はどう思う」
彼はふわりと読めない柔和な笑顔で微笑む。
「…いい子だね。少なくとも…豪槍もうあの子のこと大事になっちゃってるみたいだし」
「は?!誰が…!!冗談も大概にしやがれ、蓮皇!!」
「あはははは。図星だからって怒らない怒らない!ほら、虎嘯さんと話してる時みたいにご機嫌ご機嫌!」
「馬鹿にしてんのか貴様!!!」
 どうどう、と豪槍を窘めながら、蓮皇はさらりと口を開く。
「それで…あの子との稽古は何回目なの?」
 豪槍の動きが止まった。
「さっきは珍しい、なんて言っちゃったけど、あの様子だと何回も手合わせしてあげてるんだよね?」
 豪槍は何も答えない。いきなり静かになってしまった彼に、蓮皇は穏やかに微笑んだ。
「…君のそういうところ僕は好きだよ」
 フン、とせめてもの抵抗か、鼻を鳴らす音がする。
「でもあんまり暴れすぎないでね。王様に睨まれちゃったらさすがの君でもここにはもういられないんだから。君くらい強い同期がいなくなるって僕らにとっても結構な損害だし」
 その瞬間、豪槍の目が据わった。知るか、と豪槍は激しい殺気に満ちた声で吐き捨てる。
 関係ねぇ。

「…会った瞬間ぶち殺してやりてぇよ、王なんざ」

 ――彼の表情の中でも一際荒んだものだった。空気が変わる。風が揺れる。豪槍は視線の先を睨んだまま、砂埃が彼らの間を駆け抜ける。

お前は違うのか、蓮皇。

 間をおいて、問われた言葉に蓮皇は少し遠くを見るように笑った。痛み分けをするような。少しだけ、寂しそうな笑顔だった。
「…気持ちは、わかるよ」
 細く柔らかい蓮皇の髪を、風がなぶった。
「世の中はいつも刹那的だね、豪槍。どうしようもなくて…悲しいくらい」
 緩やかに正午から少しだけ傾いた日の光が、なだらかに二人を炙る。蓮皇の微笑みと豪槍の強面の表情に、刹那の影と憂いを映しだす。でもそれさえも、泡のように消えていく。
戻ろっか、と声を上げた時の蓮皇は、もういつもと同じ笑顔を浮かべていた。豪槍は何も応えず踵を返し、蓮皇の方も彼に続いて小走りに駆け寄った。
 だが、去ろうとしたその時、背後から走った軋むような音に二人は振り返る。
 宮廷の隅に植えられた朽ちかけた大木が、音を立てて倒れていく所だった。恐らくもう撤去される予定のものだった筈だ。だがそんなことよりも、二人の目はその下を丁度駆け抜けていこうとしている先程見送った一人の少女に吸い寄せられる。

 何が起ころうとしているのか、瞬間的に理解できた。

「!まずい!!」
 だが蓮皇が叫んだ時には、既に豪槍は弾丸のように少女に向かって駆け出していた。しかし先頭を切る豪槍でもとても間に合わない。遠すぎる。
「陽子!!!」
 少女の足が止まる。少女と大木に気がついた周囲にいた者たちが口に手を当てる。誰かが悲鳴をあげる。豪槍のなまじりがはちきれんばかりに見開いた。 
「―――!!!」
 少女の姿が、大木の下に引き込まれていく。豪槍が、周囲にいたもの全員がその瞬間を目を見開いて迎えた。

刹那のことだった。

:::::


 自分の瞳が見開き、周囲にいた人々が悲鳴をあげる。駆けてくる豪槍の決死の形相が見える。だけど全てが、遠すぎる。間近に迫るのは朽ち果てた、自分よりも何回りも大きい大木だ。振り落ちる薄い影。潰される、と陽子が直感的に思ったその時だった。

 恐ろしい音を立てて、大木が木っ端微塵に砕かれた。

見開かれた翡翠の瞳。砕け散って崩れていく大木。呆気に取られる周囲。
舞い散る木片の雨の中で、桓魋の髪が揺れる。
「…!!!」
その時になってようやく、陽子は庇うように体勢を低くした彼の胸に抱かれていることに気がつく。片腕で抱いていた陽子を下ろし、桓魋は口を開く。
「ご無事ですか、主上」
 陽子は応えられずに、目を見開いて桓魋を見上げる。何かを訴えるような強い視線。衝撃に脱げた陽子の沓は脱げたままはかれもせずに打ち捨てられている。
それを無言で見た桓魋は、身をかがめ――彼女の足をとって脱げた沓をはかせた。
「…どうかお気をつけください」
「…桓魋…」
 絞り出せた言葉は、それだけだった。彼の名前だけだった。桓魋は振り向かずに背を向けその場を去っていく。陽子の伸ばされた手が、届かずその場でさまよった。傾き始めた昼下がりは光と影がもっとも強く浮き出る。

幸か不幸か。丁度その時、その場には――たくさんの者が居合わせていた。

 庭院のすぐそばの回廊でそれを見ていた祥瓊は、その時訪れた鈴に声を上げる。
「鈴!聞いて、今陽子が危うく大木の下敷きに…」
 だが祥瓊が血相を変えて鈴に駆け寄るも、鈴は祥瓊の話など聞いていないようだった。
「鈴…?」
 鈴の激しい視線は、陽子ではなく一人の男に向けられていた。反対側の回廊で、取り巻きと共に陽子と桓魋をじっとりと見ていた、冢宰――靖共に。
 二階の外廊では、欄干にもたれる野性味のある男がその光景を見ていた。
「龍熄の頭。何をそんなに見てるんで?喧嘩ですかい?」
 匪賊時代からの部下に、振り返りもせず男――龍熄は悪い表情で目を眇める。その危険な色気のある表情に、部下は思わず口を噤む。龍熄の口元の片側だけがぐっと傾斜を描く。
「バーカ…もっとおもしれェもんだよ」
 同じく二階の外廊。帥文君と涼梗、真真がその光景を見下ろしていた。何を思うのか、帥文君が瞳を薄く光らせる。
 そして――帥文君や龍熄たちからも離れた角で一人、霖雪の無表情な瞳が陽子と桓魋を映していた。
「豪槍…豪槍ったら!」
庭院では、燈閃や悠、雹牙が豪槍の方に駆けてくる。蓮皇が彼に追いつき、しきりに何かを話しかける。
「おいどうした豪槍!」

だが目の前の光景だけで全てを理解して立ちすくむ豪槍には―――それは意味を持った言葉として届いてはいなかった。

 様々な人間の思惑が、疑惑が、感情が、この国の王を中心に交錯する。歯車は回る。運命は廻る。


 だけど陽子が見つめる先は、消えゆく一人の男の背だけだった。



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