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 砂煙が巻き上がる。
 腕の中の少女はぐったりと意識がない。周囲に人が群がってくる中、巻き込まれた訳のわからない状況に、豪槍は眉根を寄せる。
(一体何なんだ…)
 周囲の人間は、一定の距離を保ったままそれ以上豪槍たちに近寄ろうとはしなかった。人垣からひとりの小柄な男が出てくる。小柄だが、戦闘力に長けているということが、武の道に生きる豪槍にはひと目でわかった。
「その娘を寄越せ、豪槍」
「…何故俺の名を知ってやがる…」
 知っているさ、と小柄な男は言う。
「クズ野郎の評判は名高い」
 その瞬間、豪槍のこめかみに太い青筋が走った。
「とにかくその娘をよこせ。そいつは…」
 だが、最後まで豪槍は聞いちゃいなかった。男が気がついた時には、目の前に豪槍の強面があった。虚を突かれ、声を上げる前に振り上げられた豪槍の鉄拳が顔面に叩き込まれる。
「なんだか知らねぇが」

男が吹き飛ばされる中、ごきり、と豪槍の指の関節が音を鳴らした。

「いやなこった」
なぜこいつらがこんな小娘なんぞ狙うのか、そんなことは頭に血が上った豪槍にはどうでもいい問いだった。この娘が誰かなどということよりも。ただ――。
「お、抑えろ!!」
一斉に、豪槍の出方を伺っていた周囲の者たちが襲いかかる。豪槍の獣のような目が鋭く輝く。歯が剥かれ、ぐるぐると、男の喉が音を鳴らす。

無性に腹が立つ。
どいつもこいつも。

 次の瞬間には、ひとりの少女を抱えた男の槍が周囲の者たちを殲滅していた。
「な、なんでこんなことに!あいつが娘に味方するなんて…ご、豪槍の相手をするなんて聞いていない…!!」
「バカ野郎引くな!!取り逃がすぞ!!!」
縄を持った者たちは、慶の民か。
(ひとまずこの場を離れねぇと…)
悲鳴のような声が上がる中、前方に人だかりが出来ているのを見取った豪槍は露台を足場にして屋根の上に飛び乗った。
「!まずい逃げるぞ!!」
「撃ち落とせ!!」
 豪槍は屋根の上を駆けながら内心で舌打ちを打つ。この速さでは狙い撃ちされる絶好の的だったが、これしか退路がない。身軽さと身のこなしの速さという点では同期の雹牙や蓮皇の方が上だ。筋肉のせいで只でさえ彼の体重は重い。肩に担ぎ上げた少女の重さも相まって、足元の連なる家々の屋根はどこかもろいところを踏み抜いてしまったら終わりだった。それでも豪快に屋根の上を飛び移りながら、追っ手との距離を保つ。
 目を細めたその時、下から先程の男のものと思われる声が投げかけられた。
「何故お前がその娘を庇う!!!」
 豪槍は無言で眼下に視線を落とす。
 先程追っていた人物を取り逃がした怒りが今更のように浮いてくる。何故この娘をつれて逃げているか。それはとにかくこの娘を連れ去ろうと必死になっているこいつらそのものが…。
「気に入らねぇからだよクソ野郎共が!!!」
 頭で考えるよりもまず先に手が出る豪槍にとっては、それだけで十分だった。
 下から一斉に飛び道具が彼らめがけて打たれた。
「んの野郎…!!!」
その時、自分の肩に担がれていた少女が身動きをする。意識が曖昧に覚醒して混乱していた彼女は無意識に豪槍の首筋にしがみつく。
「―――」
その時少女は何かをつぶやいたが、頭に血の登りきっていた彼の耳には意味を持った言葉として認識されなかった。
(クソ…!!)
ひとまずどうすればこの場を切り抜けられるか。歯噛みしながら豪槍は頭上で槍を回転させ一斉に飛び道具を弾き飛ばす。少しだけ、彼の頭に冷静さが戻ってくる中で現状を整理する。
(このままじゃジリ貧…一瞬でも奴らの目を巻かねぇと…)
 状況は悪い。だが二回目に襲いかかってきた飛び道具を弾き飛ばした時、突然目の前に煙が弾けた。
「?!」
 目の前が白に包まれ、次いでするのは刺激臭。その場にいたものが一斉に目を潤ませて咳をする。豪槍も例外ではなくむせたが、咳の音をかいくぐって脇路から走った低い男の声を、彼の耳は聞き逃さなかった。
「こっちだ」
 豪槍は声のした方を覗き込む。打ち捨てられたような家の間の細い路、薄暗い中でこちらを見上げるひとりの男の白い顔が浮いて見えた。無表情な顔。光のない薄荷色の瞳。美しい顔立ちだがかえってそれが温度のない死人のようで、一瞬豪槍は後ずさる。

 だがその顔は――どこかで見たことのある顔だった。

「今煙弾を投げたのは俺だ…。この場を切り抜けたいのなら俺についてこい…」
抑揚のない声で男は囁くと、すぐに背を向ける。迷っている時間はなかった。煙は既に薄くなり始め、このままではどのみち遠からず蜂の巣にされる。
彼は舌打ちをすると、少女を抱えたまま誰にも見咎められないような細い路に体を落とした。
 少しして豪槍と少女が消えたことを気がついたのか、背後の喧騒は益々大きくなっていった。
(巻いたか…)
 少女を背負って歩く豪槍と、麦色の髪の男が歩く路だけが、ひっそりと静まり返っている。高い壁が影となって、その場に息も冷えるような薄暗さを引き出す。
 左右に挟まれた壁によって落ちる光が弱まる中で、周囲に人の気配が完全に消えた時、二人はようやく足を止めた。上空では青空と光が溢れている。
「この娘の知り合いか」

 目の前の男が振り向けば最初と変わらない無表情が、影に濡れていた。やはりどこかで見たことがある男だと豪槍は思う。
「いや…今日会ったばかりだ…」
「ならば何故助け船なんか出しやがった」
 男の視線が豪槍にとまり、そして左下へと流れる。麦色の絹髪が、肩を滑り落ちた。
薄荷色の瞳は一体何を見ているのだろう。先程聞いたものと同じ、抑揚のない声がした。

「…さぁな…俺にも分からない…」

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 誰かが叫ぶ声がする。こちらに向かって武器が飛び交う光がちらつく。弾く金属音と運ばれる自分の体。先程の叫びとは似ても似つかない、無表情な声を聞いた気がした。
 鈍い頭痛と共に、陽子は重たいまぶたを開く。
「う…」
 視界がぼやける。誰かが振り向く気配がした。無表情な顔が、こちらを見つめていた。霖雪 と呼びかけようとした時、彼の方が先に口を開く。
「…まだ起きない方がいい…」
 時刻は夕暮れどきか。沈みかけた夕日があかあかと燃えている。
痛む頭を抑えながら、意識をなくすまでを振り返る。地下水路から飛び出して、その後あの筋肉質な刺客に襲われた。相手の方が少しばかり腕が立ったようだ。背後に回り込まれ、首筋を叩かれたところを最後に意識は途絶えている。
 そこから何が起こった?
 何故自分がこんなところで無事でいるのか。目の前にもう会うこともないだろうと思っていた霖雪がいるのか。何もかもが辻褄が合わなくて陽子はめまいを覚える。
(私は…)
視線を上げた時、こちらに背を向けて座る立派な体躯の男の後ろ姿が目に入る。ちらりとこちらを振り返った男は、すぐにそっぽを向いてしまった。霖雪の声がする。
「あの男が…刺客をすべて追い払った…お前を…ここに運んだのも…あの男だ」
「!そうだったのか?」
 記憶に掠れるように残った光景、声を思い出す。あれは夢ではなかったのか。
男はガシガシと乱暴な手つきで頭を搔く。
「…ただの気まぐれだ。勘違いすんなよ小娘」
 目を瞬く陽子に目つきの悪い視線が向けられる。
「貴様がいきなり俺の目の前に吹き飛んできたんだ。お尋ね者かなんだか知らねぇが随分と人気だったぜ。俺がムカついたんであの野郎共に渡さなかったってだけだ」
 それに、と彼は霖雪を顎でしゃくる。
「最後に助け舟出したのはそいつだ。どっから現れたか知らねぇがな…」
 陽子は霖雪を振り返る。霖雪は相変わらず無表情に目を逸らしている。
「ありがとう…二人とも、見ず知らずの私を助けてくれて…」
二人とも礼を言われ慣れていないのか、目を逸らしたままだった。陽子は体を起こし、少しためらいがちに体躯の良い男の方に微笑む。
「…私は、陽子だ。あの、もしよかったら、名前を聞いてもいいだろうか」
 振り返った強面の顔には影が叩き込まれている。見たところでは桓魋の容姿年齢と同じくらい――二十代半ばくらいだろうか。怒髪天のように逆だった硬い黒の短髪。大きな口。眉尻に行くに従って鋭く上に流れる眉のすぐ下には、刃物のように研がれた夕焼け色の目があった。髪型も顔立ちも瞳の色も、霖雪の静を表したようなものとはどこまでも対照的だった。
「…豪槍だ」
 ぐるぐるという唸り声が聞こえてきそうだった。陽子はふと、その名をどこかで聞いたような記憶が浮かぶ。霖雪の時と同じように。でもそれがどこでだったかうまく思い出せなかった。
「ごうそう。それって豪快な槍と書くのか?」
「…そうだが」
「!かっこいいな!なんだか見た感じぴったりの名だ。どこまでも邁進しそうな名だな」
 豪槍の表情に虚を突かれたように動きが走る。さっと顔に朱が登り、彼は思わず顔を背けた。
「…おかしなやろうだ」
「そうか?」
 豪槍はため息をついて陽子に口を開く。
「何故追われていた。あんときはどうでもよかったが…今になるとお前みたいな小娘を大の大人どもがあんな血眼になって手に入れようとするなんざおかしな話だ」
 豪槍の言葉に、陽子は顔を曇らせる。
 陽子が王であることは、誰も知らないはずだ。ならば――何故?一度あの筋肉質な刺客に捕まったことだけは覚えている。本来ならあの時自分の命はなかったはずなのに、何故か彼女は生きている。自分の知らないところで何が起こっているのか、気味が悪かった。
「まぁいい…。お前が誰であろうとそこまで踏み込む気はねぇしな。自分の身は自分で守りやがれ」
 豪槍は霖雪を見て夕焼け色の目を眇める。
「それにしても、貴様…どこかで見たことあると思ったが…思い出した。文官の霖雪だな?悪ぃ噂を聞く…。最初に入官式で見たときも不気味な野郎だとは思ったが、こんなところで話をすることになるとはな」
ゆるりと霖雪の視線が豪槍に向けられる。
「お前相当頭が切れるだろう。お前ら文官共は王宮で一体何してやがる」
「ただ…やりたいことを…しているだけだ…。武官の方も…随分と評判は悪い…」
「ハッ知るか、そんなこと」
 フンと豪槍はつまらなそうに鼻をならす。
「情報通のお前だって俺の名ぐらい知ってるだろう。俺とお前がこうして話す機会なんざそうないぜ。お前は武官について何も訊かないのか」
 霖雪はするりとつまらなそうに視線を道端の石ころに向けた。
「別に…興味ないし…」
 ふぅと悪気のないため息が漏れる。
「お前…見たところ頭悪そうだし…」

 一瞬の空白。

 次の瞬間には、瞬速で霖雪の胸ぐらを掴む豪槍を同時に陽子が必死に止めるハメになった。
「貴っ様ぁああ!!!」
「うわぁ!!ちょ、ちょっと待て待て待て待て!!」
「ぐっ…!このデコッぱち根暗野郎完全に舐めてやがる…!!」
「…額はお前の方が広い」
「やかましいわ!!!激昂してる奴の罵倒にいちいちケチつけんな貴様ァ!!!」
霖雪は胸ぐらを掴まれて揺さぶられても尚無表情で、視線を石ころに流したままだ。それが更に豪槍の怒りの温度を上げているようで、舌戦の中今にも霖雪を殴ろうとする豪槍を抑えながら陽子は必死に声を上げる。
「お、落ち着けって豪槍!!お前も…王宮で武官として働いているのか?!」
 あぁ?と振り向いた豪槍は攻撃的に吐き捨てる。
「…だったら何だ」
目の前には、彼を抑えながらも瞳を輝かせた陽子がいた。
「そうか武官か!!だからそんなに、気絶した私を助けられるくらい強いんだな」
豪槍の振り上げられたまま固まった拳を、陽子は掴んだ。
 予想もしない答えに思わず呆気にとられて豪槍は動きを止める。だがそんな豪槍のことなどお構いなしに陽子の声が続けられる。
「実は私も金波宮で仕えているんだ。武芸をやるんだが…最近稽古をしてくれる人がいなくて…。さっきの輩を自分で成敗できなかったのもきっと鍛錬不足だ。だからもしよかったら、私の剣の相手をしてくれないだろうか?」

 言われている意味が、一瞬理解できなかった。何故この流れで、いきなりそうなる。

 呆気にとられている豪槍の左手には、未だ胸ぐらを掴まれながら無表情に視線を石ころに流す霖雪。振り上げた右手にはそれをしっかりと握る目を輝かせた陽子。ぐっと豪槍の大きな拳を握る力が強くなる。彼に向かって、目の前の少女の言葉が重ねられた。
 
「な、頼むよ豪槍!これも何かの縁だと思って!」

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 桓魋が、演習場に足を踏み入れた瞬間だった。
風を切りこちらに向かってくるものを反射的に弾き飛ばせば、鋭い金属音が辺りに散った。暮れた夜の風景の中で、視界の隅にちらつく灯火の明かりだけが鮮やかな光を落としている。
「…出てこい悠、雹牙。悪いが今日はお前らの相手はしてやれん」
 振り向きもせず言われた言葉に、次の瞬間影から人影が2つ飛び出してくる。体を回転させながら素手で落とされた馬鹿力と、弾けたいくつもの暗器を桓魋は右手と左手それぞれで受け止める。
 ぶぉん、と柔らかく風を切る音を響かせながら、二つの人影は桓魋から少し離れた地点に着地する。一人は陽子とそう変わらない、やっと少年から青年に足を踏み入れ始めた年代だ。どこにそんな力があるのかわからない細身の体、やんちゃそうな顔つきは笑えば八重歯が映える。逆だった色素の薄い髪が風に揺れ、顔を上げた雹牙が口を尖らせる。
「どうしてっすか、青師師。今日も一日いなかったし、俺ら退屈してんすよ」
「…つまらない」
 年端の行かない少年のような見た目の少女、悠がぼそりとつぶやく。額布をして襟巻きに顔をうずめ、澄んだガラス玉のような大きな目と鼻筋だけを覗かせていた。桓魋は長槍を担ぎなおす。
「今日は上の用で紀州まで出ていたんだ…。報告も兼ねて今から行かなくてはならない。だから奇襲はまた今度にしてくれ」
なんすかそれ、と雹牙はつまらなそうに空を仰ぐ。
「ちぇー仕方ねぇ、行こうぜ悠」
「…」
「悪いな」
 ため息をついて、雹牙と悠は一瞬後にはその場から音もなく消えていた。
 今までは桓魋のことなどお構いなしに斬りかかってきて、倒れるまで攻撃をやめる気配さえ見せなかった。少しだけ会話ができるようになってきた新入武官たちに、桓魋は思わず微笑む。だが立ち去ろうと踵を返したその時、彼の背に低い伸びやかな声が投げかけられた。
「お優しいねェ青 師師。見てたら泣けてくるぜ…あんまりにも」
生ぬるくてよ。
「…?!」
 勢いよく、桓魋は声のする方へ振り返る。桓魋の目に、少し離れた柱にもたれて腕を組んだ男の姿が映った。一瞬隣国の王、延を彷彿とさせられる力強く整った顔立ち。だが延よりももっと…荒々しい。固い黒髪。かの人より傾斜の強い眉、笑みを浮かべる口元は抑えてはいるが獰猛さがにじみ出て、その目は理性を持った獣のようだった。
 この男は――。
「…お前は…」
 桓魋が聞かされていたこの男の詳細が、彼の脳裏に警鐘をならす。

 この男は元大匪賊団の親玉だ。
 巨大な裏組織を作り上げた、残虐で有名な悪党の頭。女子供構わず血祭りにあげ、襲われた里の跡には何も残らないと周辺の里を震え上がらせていたそうだ。国が怒り治めようにも、頭が切れ予想もしない戦法で随分困らせられていたと聞く。名前は―

「龍熄…」
 男の眉が跳ね上がる。無造作に束ねた髪はところどころ毛がこぼれ、女が恋に堕ちそうな危険な野性味のある色気を感じさせた。
「嬉しいね。師師様が俺を覚えてくれていたとは…」
「入官式で最も危険だと感じた男を忘れる筈がないだろう」
 苦々しく桓魋は吐き捨てれば、不敵に龍熄の口元の孤が深められる。思い返すのは、この男が他の新入武官文官たちと共に並んでいた入官式だ。桓魋が真っ先に警戒したのは、豪槍をはじめとした現在の自分の部隊にいる5人。そして…この男だ。
今回の選考では特別に半獣と裏の世界からの参加者も認められている。雹牙は半獣として、悠は裏世界から住人としての参加者の一人だった。
桓魋は視線を尖らせる。何よりも気になるのは…。

(なぜこんな男が、国の武官になどなろうとしたんだ…)

 残虐無比。武官でありながら柔軟な思考を持ち、野郎をまとめあげる器量を持つ男。
 国と敵対していた男がなぜこの場所にいるのか。それが桓魋には一番気がかりだった。彼が何をしようとしているのか、全く読めない。あの時、少なく見積もっても確実に自分の部隊しか収まる先のなかった実力を持つはずのこの男は、桓魋の部隊へ来ることを当然のように避けた。
「なぜあの場で本気を出さなかった」
 彼の所属する部隊の師師長の実力と明らかに釣り合っていない。あの部隊を決定する洗礼の場で、この男が本気を出していなかったことは明白だ。

 現に先程、一瞬とは言えこの男の気配を感知できなかった。

「自分の実力を認められるために全力を尽くせってか?…硬いね。バカバカしい。どうでもいいんだよんなことは…。軍人様の思考はゴロツキにゃ理解不能だ」
 それに。
 龍熄の表情に影が差す。

「誰かの下につくなんざ性に合わねぇ。俺はあんたの部隊だけは御免だ…」

桓魋は龍熄に背を向ける。
「…お前は俺に何の用があってここに来た?」
 沈黙が、その場に漂った。桓魋が訝しんだ時、龍熄はニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「丁度、あんたに訊いてみたいことがあったんだ。あんた今日紀州に行ったっつってたよな」
 桓魋はちらりと龍熄を一瞥すると、無言で踵を返す。ふっと龍熄が伸びやかに笑う気配がした。待てよ、青辛。そう投げかけられた声に、桓魋は振り向かず吐き捨てる。
「…もう話は終わりだ。これ以上お前は何を確認したい」
龍熄の口元の片方が鋭い傾斜を描く。
「…でもよ」
 風が緩やかに吹き抜ける。龍熄の瞳が面白そうに眇められる。俺には慶国各地に手下がいるんだけどよ、と龍熄はゆったりと囁く。
「紀州にいる俺の子分どもは聞いてみりゃ…誰もお前の姿を見てなんかいないんだよ。別のやつらが…別の場所で、お前の姿を見てるんだ」
 沈黙がその場を駆け抜けた。なァ。

「あんた―――――今日本当はどこに行っていたんだ?」

 立ち去りかけていた桓魋の足が止まる。龍熄の眇められた瞳に揺らいだ炎の欠片が踊る。

「青辛。あんたは何を…隠してる?」

 視界の隅の灯火が揺れる。鮮やかな橙色の色合いが狂ったように踊っている。振り向いた桓魋の顔から表情が消え、対照的な表情をした男の顔が、同じ灯りで濡れている。

夜の闇に、二人の男の視線だけが交錯した。


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