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光が漏れ始めた朝の空は、どこまでも鋭く青く澄み切っている。そんな朝の風景の中、廊下をかけるパタパタと軽い足音が周囲の人々を振り向かせる。
「どいてどいてどいて~!」
日に焼けた黒髪が翻り、大量の洗い物を抱える鈴が回廊を駆けていた。
(できるだけ、陽子の力になれるように考えなきゃね)
ふふと微笑んで小走りに回廊の角を曲がったその時だった。彼女の思考を遮るように、鈴の耳が誰かの話し声を拾った。
「?」
奥まった房間から、ぼそぼそと声を落とすような話し声だった。そのまま通り過ぎても良かったのだが、なんとなく気になった鈴はそっと声の方へ足を進める。
「それで―――は―――――なんだろうな」
なんだろう、と鈴は耳をそばだてる。二人の人間が話をしているようだった。一人は秋官長の女、もう一人は男のようだったが、それが誰だかわからない。
息を殺してギリギリまで近づいた時、鈴の耳にはっきりと声は言葉として聞こえた。
「朝廷の方はまだ我らが牛耳っているようなもの。今のうちに体勢を整えたほうが得策かと思います」
「慌てるな…まだ我らのつながりが嗅ぎ取られないよう慎重にならねばなるまい」
「ご安心を。我らと和州とのことなど誰も夢にも思わぬでしょう」
「…和州で女が、子どもが何人死のうが誰も気にもせんわ。州民は今日を生きることで精一杯。暗黙の主従関係が州の中で出来上がっているかぎり、外部に漏れることはない」
 男の満足気な声が嗤う。
「昇紘の方もうまくやっているということだな」

 鈴の息がとまった。

 蜜柑色の髪をした少年の面影が閃光のように閃く。朝の爽やかな空気が場違いにその場を流れる。ここにいる理由ではなく、ここに来た理由が雷鳴のように脳裏に落ちる。

彼女の復讐はまだ―――始まってもいなかった。

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 ひそひそと、息をひそめるような噂話が宮中を流れる。だが大柄な一人の新入武官が通りかかればたちまち声は静まり返った。じっとりとした悪口いう者たちの蔑んだ視線にその新入武官は顎を煽る。
「あ゛?」
 恐ろしい顔立ちに流れた殺気と迫力にひぃっと声を上げて彼の陰口を叩いていた官吏たちは逃げていった。ただでさえ彼は先日桓魋に負けて虫の居所が悪い。ハエのような連中だと豪槍はうざそうに目を細めた。
その時後ろからぽんと豪槍に臆することない手が背中を叩く。
「機嫌悪いねぇ豪槍」
 飄々とした優男が彼の前に顔を出す。泣きボクロの位置が彼が笑っていることでふにゃりと変わっていた。彼の方を見向きもせずに豪槍は言い放つ。
「何の用だ、蓮皇」
甘い顔立ちとソツのない物腰から、心象の悪い新入武官でも彼は女に人気が高い。
「今から下におりるんだろう?市井に行くんだったら、蓬莱の着物がないか見てきてもらおうと思ってさ。珍しいから、やっぱなかなか手に入らなくて」
「んなチャラチャラしたもん着て何が楽しい」
「えー!!この秀美さがわっかんないの、豪槍?!」
 豪槍は横目で蓮皇の今着ている蓬莱の着物に目を眇める。ご丁寧におしゃれに着崩しているあたりがこの男がモテる点の一つなのだろうが、豪槍には到底わからない趣味だった。多分豪槍が着ても似合うと思うよーというへらへらした声がするが、そんなものはもう彼の耳には入っていない。顎を引けば顔に影が走る。彼が気になっているのはそれよりも。
「…何故貴様俺がおりることを知っている」
「いっつもそうじゃない。青 師師に負けた時は下におりて大暴れしてんの、もう恒例でしょ?」
 その瞬間ビキィッと音を立てて青筋が豪槍のこめかみを走る。蓮皇はひらりと笑む。
「もうそんなしかめっ面ばっかりしてるから気持ちまで荒んでくるんだよー。もっと気楽になろうよ。只でさえ豪槍が機嫌良い時なんて虎嘯さんと喋ってる時くらいなんだから」
「黙れ蓮皇。削ぐぞ」
あははははと笑いながら蓮皇は降参のポーズを作ってみせた。ひらりと体を翻し彼は手を振る。
「ま、とにかく一般人相手に本気出しちゃダメだよー。豪槍が本気で殴ったら一般人だと一発で死んじゃうからね。じゃ、着物の件よろしくね!気が済んだらまた一緒に青 師師に奇襲しかけましょーう!」
 物騒な言葉を爽やかな笑顔で放ちながら、颯爽と蓮皇は消える。豪槍は舌打ちをしてその場を後にする。
 今日の豪槍の喧嘩の被害者は多くなりそうだった。

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「おや、珍しい。お出かけですかな?霖雪」
 白麦色の長髪の男が振り向く。近すぎるくらい目の前にある、目を見開いた彫りの深い顔と細い八の字ヒゲに、顔色を変えることなく彼はただ頷いてみせた。
「下に降りられるのですかな?何を買いに行かれるおつもりで?」
「…呪具だ」
 霖雪と呼ばれた男は相変わらず無表情で目線を滑らせる。絹のような美しい長髪。温度の低い彫りの深い顔には影が落ち、角度によっては不機嫌にも見える。出かける前にふらりと蘭雪堂に立ち寄ったが、いたのはもはや馴染み顔のこの男一人。いつも成り行きで共に行動している残りの二人、女官吏 涼梗と子供官吏 真真の姿は見当たらなかった。涼やかな表情のない薄荷色の瞳がするりと動く。
「…涼梗と真真は」
「今日は休日ですからねぇ。涼梗は実家の方に、真真はお兄様に会いに行かれると言っていましたよぉ」
「…」
 興味なさそうに視線を滑らせた霖雪に八の字髭の文官は口に手を当ててホホホホと声をあげる。
「ちょっとぉ貴方聞いたくせに興味ないじゃないですかぁ。他人に興味なさすぎですよぉ。もうこの短さでお答えしている途中で飽きるくらいなら聞かないでくださいよ」
「…」
霖雪の視線はあさっての方に向いたままだ。男は気にした風もなくいつものことのように自分が言葉を重ねる。
「武官の方たちも大概ですが、貴方も物好きな方ですねぇ。堯天は最近おバカさん達のたまり場となって荒れているらしいので、巻き込まれないようにしてくださいね。貴方の顔立ちはわたくしの好みではありませんがお綺麗ですので変な輩が寄ってきそうです」
 言葉を背にしながら霖雪はそのまままっすぐに蘭雪堂の外へと足を踏み出す。だが出る直前に足を止めた。
「帥文君(すいぶんくん)」
「はい?」
「俺からも言わせてもらうが…お前もたいがい物好きだ」
振り向きもせず言われた言葉に、帥文君は目を丸くする。そしてすぐに面白そうに目を眇めた。
「ホホホホホお褒めの言葉と受け取ります」
 それでは霖雪、お気をつけて。その帥文君の言葉が終わらないうちに霖雪の姿は音もなく消えていた。
「ふー…皆さん出てしまってつまらないですねぇ。どうしましょうか」
 帥文君は大きな体躯を仰け反らせ伸びをする。自分を楽しませられる相手が今みんな出払ってしまった。久しぶりにゆっくり本でも読もうかと思いかけたその時、ふと彼の耳が誰かの話し声を拾った。軽い足音がパタパタと響き渡って、あぁこれは10代の女性の足音だと彼は判断する。
「鈴ー?鈴、どこー?」
 祥瓊が蘭雪堂の目の前の回廊を駆けながら声をあげる。
「陽子もいないし、二人ともどこ行っちゃったのかしら…。鈴までこんな風に誰にもなにも言わずにどこかに行くなんて…とにかく陽子が勝手にいなくなっちゃ、台輔もお冠だわ!」
 そうして盛大にため息をついて少女は友人を探しにまた駆けていく。
 小さくなっていく少女の後ろ姿を横目で見ながら帥文君は回廊に出る。
(あの子は…)
少女の階級と身分がするりと彼の頭の中に出てくる中ふと彼は少し考える。首をごきりと鳴らした彼は、いつもの目を見開いて口元だけ微笑んだ表情のままひとりごちた。
「気が変わりました。…今日は宮内をお散歩致しましょう」
 おもしろそうな餌に辿り着けそうです。
 緩やかな日差しが回廊を駆ける。先程少女が漏らした言葉を反芻しながら消えていく文官の姿には誰ひとりとして気づかなかった。男の表情には影が浮かぶ。

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喧噪は街の中を潮騒のように満たしては引いて、また満たす。
後ろから走った気配に陽子は息をつめて建物の影に駆け込んだ。
(やはりつけられている)
目を眇め周囲の気配を伺う。
今日の朝、陽子を起こしにくる筈だった鈴が来なかったことを良いことに彼女は一人で堯天に飛び出した。つけられていることに気がついたのは、堯天に着き少し歩いた後だった。喧噪にとけ込むように紛れていた足音が、陽子を見失った途端惑うように揺れた気配がする。すぐにそのまま気配が消えた。
(これは、好意的な気配じゃないな)
戦闘に慣れた者の気配だ。誰だ。
宮中の誰にも何も言わずにここまで来た。もう陽子がいないことは一部の者には感づかれているだろうが、行き先まで知っているのは陽子だけの筈だ。あと一人考えられる人物として王気で居場所が筒抜けの景麒がいるが、彼がそれを口外するとも陽子には思えなかった。
景麒の顔が脳裏をよぎった時、陽子の顔に陰が走る。
王になって分からないこと、うまくいかないことばかりだ。
あげ出すと―――切りがない。
だがいくら現在の自分が力を持たない傀儡まがいの王であるとしても、何故国内でこのような敵意に晒されているのか陽子には分からなかった。自分の直感を確かめるためここに情報収集に来たわけだが、まさかこちらがいきなりつけられることになるとは思わなかった。
(さてどうするか・・・)
とにかく後からつけてくる輩を完璧に巻かなくては。陽子は体を屈め暗い影から広途へ飛び出そうとする。

だがその寸前、待ち構えていたように、脇道に潜んでいた太い筋肉質の腕が背後から陽子の腕を掴んだ。

「な…?!」
 強い力で再び人気のない影に引き戻され、体が背後に流れる。男の腕に絡められそうになった瞬間に、陽子は体をひねりながら回し蹴りを放った。鋭い蹴りが相手の脇腹を掠めて男は大きく後ろに飛びじさる。男はすぐにまた体勢を整えるが、二人の間には大きく間合いができた。

男の背丈は高く、筋肉質な立派な体躯をしている。深くかぶっていた男の被り物が揺れたが顔は影になってよく見えなかった。

「お前…何者だ」
 男は何も答えない。声さえもあげない。
ただ一瞬動きを止め、次の瞬間弾丸のように陽子に向かって駆け出した。当然か、と舌打ちを打った陽子は広途へ飛び出す。男は陽子の後を追う。だが広途を流れる人波は体の表面積の大きい男の方が進むことを困難にする。くぐり抜けながら、必死に陽子は人の流れに逆らって進む。
陽子は咄嗟に角を曲がり際に軒先に掛けてあった薄物を羽織って髪を隠した。隣の広途に出た瞬間、思ったよりもずっと早く背後から男の姿が出るのが見えた。
(…!)
男の視線が陽子を探る。咄嗟に周囲を見渡したとき、丁度彼女の前を一人の男性が通り過ぎた。男の視線が陽子に止まる前に、彼女は男性と連れ合いのように駆け寄る。
見つからないように焦った反射もあり、刺客の視線が動いた瞬間、陽子はその男性の腕に自分の腕を絡めていた。ピクリと男性の腕が揺れる。付け焼刃のしのぎは、ここで驚いてこの人が叫んだら終わりだった。
(頼む、何も言わないで…)

 その人は何の反応もしなかった。

 驚いた素振りも見せず。ただ流れのまま変わらずに歩く。腕を絡めたまま、まるで恋人のように陽子とその人は人波の中へ深く深く紛れていく。
追ってきた男はしばらく辺りを見渡したがやがて首を傾げてすぐに踵を返していった。
「はあ…」
 男が消えた瞬間どっと汗が吹き出す。ゆるく息を吐き出して陽子はその時になってようやくきつく絡めていた腕の力を抜いた。陽子は緊張しながら、男を見上げる。
「い、いきなり腕を組んでしまって申し訳ない。驚いただろうがもう少しだけこうさせてもらってもいいだろうか」
 まだここで腕を解くのは危険だった。
 初めて男性がこちらに顔を向ける。普通なら驚いて振り払われているが、この人は何も言わなかった。
見たところの年齢は大体二十代後半だろうか。中性的な美しい無表情な顔に、光のない薄荷色の瞳がゆらりと揺れる。彼の常世離れした顔立ちが、陽子の記憶の片隅を叩いた。蓬莱で昔見たような――。
陽子の思考など関係なしに男は抑揚のない声を発する。
「…別に」

 男性の絹のような長い白麦色の髪が、光に透けた。

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「オラァア!!弱えよてめえら!!!」
豪快な男の叫び声が響き渡る。激しい怒号と悪態がその場一帯を行き交っている。口に這った血の味を豪槍は炉端に吐き捨てた。
「死んじまえよ豪槍!!このクズ野郎があ!!!」
 豪槍は眸を鋭く光らせる。集団でかかってきた輩をまとめて豪槍は一掃した。短く鈍い悲鳴を上げて、かかってきた男たちはその場に卒倒する。片足重心で槍を担いだ豪槍は首を傾ける。
「…欠伸が出る」
 漣のように音が引いて静寂が辺りを包む。もうそれ以上彼にかかってこようとする者は誰ひとりとしていなかった。肩で息をする豪槍の呼吸だけがその場で上下する。その時豪槍の目端に、隣の広途を歩く見慣れた人物が一瞬映った。

 笠を目深にかぶって、すぐにその人物は人波の中に消えていった。

(なんであの野郎がこんなところに…?)
 豪槍が大嫌いな人物だった。目を眇め、豪槍はその人物の後を追おうとする。だがその瞬間、コツンと誰かが投げた石が豪槍の後頭部を直撃した。誰だ、と叫んで振り向こうとした時豪槍は唐突に動きを止めた。
周りを見渡してみれば自分の周囲に不自然に空間ができていることに気がついた。人々が自分から距離を置いていることに気がついた。口元を抑えているの女性、嫌悪した表情をさらす店屋の主人、怯えた老人、目も合わせようとしない道行く恋人たち。

 唐突に、静けさが痛いくらいに浮いた。

 豪槍の顔から表情が消える。
 その時、見晴らしの良い彼の周囲に小さな男の子が駆け込んできた。豪槍に向かって叫ぶ。
「消えちゃえ豪槍!!乱暴者のろくでなし!!大嫌いだ!!お前なんか慶にいるな!!」
 恐らく先程石を投げたのはこの少年だろう。豪槍は立ち止まって視線を彼に投げる。
 男の子は、はっきりと豪槍の目を睨む。どこから来るのかわからないが、度々この堯天に姿を表して大暴れする豪槍が彼は大嫌いだった。
「馬鹿!!明明お前なんてことを…!!」
 駆け込んできた親が、必死に子供を連れ戻そうとする。余計なことを、とでも言いたげに顔をしかめた親はサッと豪槍の顔色を伺う。ざわざわと周囲の民衆たちが距離を取りながら彼らを見ていた。短気な豪槍が子供相手に何をするのか、肝を冷やしている。
だが豪槍は静かに子供を見下ろし、そして何も言わずに彼の脇を通り抜けただけだった。親がほっと胸をなでおろすのも束の間、子供は思い切りその背に言葉を畳み掛ける。
「逃げるのか!!お前みたいな奴、景王様がやっつけてくれるんだからな!!」
 豪槍の足は止まらない。

「いっつも弱い人に当たり散らして、本当に弱いのはお前だ!!お前は強くなんかないよ!!!」

 その瞬間ピタリと豪槍の動きが止まる。殺気に似た鋭いものが一瞬で彼から走り、ひやひやと見ていた民衆たちがあっと言う間にその場から消える。
 殺気のような鋭い気配にも、少年は怖がりながらも目をそらさなかった。
 多分ブチギレられてボコボコにされる。それでも大嫌いな奴に言いたいことを言ってやった。幼くて綺麗な子供は「悪」が大嫌いだった。豪槍はまさにそんな奴だ。怖くていつも暴れている乱暴者。みんなから嫌われている。見るのも邪魔だった。「悪」は死んじゃえばいい。お前なんかいなくなればいい。
 豪槍が振り向く。
 彼の顔を見たのはまっすぐに彼を見つめるその子供だけだった。

「え…」

振り向いた鬼のような表情を想像していた少年の瞳が見開く。表情が浮かんだのは一瞬だった。そのまま豪槍は何も言わずに何かを追うようにその場から駆けて消えていく。彼がいなくなった時、周囲はドッとほっとしたような雰囲気に包まれた。親は腰を抜かし、周囲からは人が寄ってくる。
「明明お前よく無事だったなぁ」
「豪槍がキレなくてよかった…運良かったなぁ坊主!」
「お前よくあんなこと言ってやれたな!ざまあみやがれ、豪槍悔しそうな顔してたか?」
だが少年明明は目を見開いたままその場に固まっていた。だって。豪槍は、彼が想像したような怒った顔はしていなかった。驚いて豪槍が反射で浮かべた表情は一瞬で、すぐにいつもの不機嫌そうな顔に戻った。自分にとってあいつは悪で、大嫌いで、けれど刹那の中にすぐに消えた豪槍の表情が忘れられなかった。目を見開いてこちらを反射的に驚いて振り返って。

 
 ――豪槍はあの瞬間刺されたような顔をした。


 遠くで、何かが衝突するような激しい轟音が響いた。




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