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「主上!」
 内殿の回廊に大きな音が響き渡る。下仕えの者たちが驚いて振り向き、そして慌てて目をそらして伏礼する。その状況に陽子は更にうんざりと空を振り仰いだ。後ろからはよく通る声が追いかけてくる。
「主上!お待ちください!!」
 静かな内殿で声を荒げているのは台輔だった。しきりに景麒から逃げようとする陽子を逃さまいと、景麒は後を追う。普段あまり表情が動かないことで有名な景麒のなまじりが今はつり上がっていた。
「主上、再三申し上げていることがどうしてお聞き入れいただけないのですか!先ほどの朝議の席といい、私の話を少しでも活かそうという気はお持ちでないと見える」
 眉根を寄せて、陽子はため息を吐く。王となってから大量に舞い込む執務の数々、官との信頼関係作り、すべてにおいてが後手に回ってしまっている。それに――。
 陽子は視線を尖らせる。王になってから拭えない違和感が彼女の周囲を取り巻いていた。何かが怪しい。自分の知らないところで何かが動いているような、そんな直感を彼女は感じていた。
(…一度、堯天に降りてみよう)
そう思った時、背後から低い男の声がした。
「まぁ台輔、そのように強くおっしゃらずとも主上はちゃんと台輔の諫言をお聞きくださっているでしょう」
 振り向いた時、目の前には配下を引き連れた靖共がいた。冢宰靖共は予王時代からこの朝廷に在籍している男だ。偽王軍に乗り込まれた時、靖共は偽王舒栄に早々に金波宮を明け渡している。この男を見たとき、一瞬うすら寒いものを感じたが、陽子はすぐにそれを頭から振り払った。
「靖共…」
「ご無沙汰しております。主上、台輔」

この男は、何を考えているのか、わからない。

「…そういえば、主上はもう新入官吏にはお会いになられましたか?」
陽子が首を横にふれば、にこやかな笑顔に次の瞬間黒いものが混ざる。
「お気をつけください…あやつら、特に武官たちなど能力はバカ高い代わりに話の通じぬ輩だそうです。突出した能力を持ってはいるものの、官吏に最も欠けてはならない協調性が欠落した者が集まってしまったようなのです…」
 陽子に向かって靖共は唇の端を釣り上げる。

文官では霖雪、武官では豪槍。

「中でもこの二人は特にお気をつけください…。一際悪い評判をいくつも聞きますので。新入官吏どもは責任者である浩瀚殿でも制御が聞かぬらしいではないですか。あのような異分子どもを取り入れるなど浩瀚殿は何を考えておいでなのでしょう。主上は何かご存知で?」
「…知らない」
「そうですか…」
一瞬、期待はずれのような表情が靖共の顔をよぎる。すぐに靖共はその表情をつくろったが、陽子にとっては、そんな表情一瞬で十分だった。
登極してから早もう三ヶ月。
朝廷整備は追いつかない。走馬灯のように流れる王になるまでの光景、王になったあとの光景。すべてが彼女を困惑させる。
「…お二人のお話のお邪魔をしてしまいましたな。それでは失礼いたします」
 衣擦れの音をさせて靖共は去っていく。
 わざとらしい靖共の目配せに目を眇め、陽子も反対方向へ歩き出した。景麒が慌てて後を追う。
「主上!」
 陽子は止まらなかった。
「主上、まだお話は終わっていません!」
陽子の肩を掴んで景麒は、振り向かせる。
「私の話を聞い…」
 だが、彼女の表情を見た瞬間、景麒の動きが凍りつく。
陽子は強い目で景麒を睨んでいた。景麒は思わず陽子の肩を掴んでいた手を離す。呆然と立ち尽くす半身をおいて、陽子はその場から身を翻した。景麒はもう追ってこようとはしなかった。
 
 潰れてしまいそうな息苦しさが胸を満たす。
 王になってから、向き合わなくてはならにものに、彼女は向き合えていない。瞬間的に、浮かびかけた桓魋の存在を無理矢理に頭から消す。消したって後からいくつもいくつも問題はあぶくのように浮上する。誰かどう向き合えばいいのか教えて欲しかった。
 執務に。官に。大切な人たちに。朝議はいつだって、陽子抜きで進んでいく。
 
 何よりも、目の前の麒麟に対しての感情をどうしたらいいのか陽子は分からなかった。

:::::


 残照の中、あるひとりの官吏が回廊を足早に歩いていた。あまり人目につくわけにはいかない。早くしなければ、大事な会合に遅れてしまう。
(くそ…あそこで仕事が長引かなきゃ…)
焦って角を曲がった時、どん、と音を立てて止まっていた男の背にぶつかる。ひっくり返りそうになってなんとか踏みとどまった。謝りかけて、口をつぐむ。
 そこにいたのは四人の見ない顔の文官だった。男が三人、女が一人、年代層もまちまちだ。ぶつかった白麦の絹のような長髪の男以外の三人が静かにこちらを振り向く。

 今季から特殊な選抜で選ばれた新入文官だ、とその時頭の片隅にあった知識が反応した。

フンと馬鹿にするような気分が湧き出る。一瞬上官だと思い謝りかけたが、だとしたら道を譲るのは向こうだ。先に宮中にいるものとして当然の権利だ。
「どけよ」
首をふれば、ぶつかった麦色の髪をした背の高い男が振り向いた。絹のような髪が残照に透ける。だが、謝るかと思いきや、男の顔は無表情で少しも顔を動かさない。彼はますます苛立ちをつのらせる。
「お前たち、噂の新入官吏だな?悪い噂ばかりを聞くぞ。そんな態度だから、悪く言われるってことくらい少し考えたら分かることだろ」
 こちらを見つめる新入官吏たちは、不気味なくらい静まり返っていた。反応はない。上官を敬う気もないのか、と舌打ちを響かせ、無理やり間を通り抜けようとした時、少年の声が響いた。
「秋官所属 李 楚牧さん」
 ぴたり、と男の足が止まる。信じられないようなものを見る目で彼が振り向いたのは――それが少年が知っているはずのない彼の名だったからだ。
「は…?」
 新入官吏の一人である少年の目が、まっすぐ楚朴を見つめている。輪郭も子ども特有の丸みが微かに残り、背の高さも他の文官と比べてすとんと小さい。だけど、子供らしさの象徴のような少年の大きな瞳は、少しも子供らしく見えなかった。
「秋官の会合場所は、朝士の諸都合により内朝に変更になった模様です。こちらの方角ではございません」
 ポカンと彼は少年を見つめる。彼は秋官所属だっただろうかと一瞬思ったが、やはりこんな少年文官見たことがなかった。それに、そもそも。

この会合は同じ秋官でも一部の者しか知らない、極秘事項のはずだ。

(な、なんなんだ…こいつら)
 ゾッと何か得体の知れない気味の悪さが彼の背筋を駆け抜ける。だが彼が何か言う間もなくじっと楚牧を観察していた文官たちはそのままするすると彼を残して去っていく。だがそのまま行かせるわけにはいかなかった。
「お、お前たちなんなんだ!なぜ俺の名を知っている、気味が悪い!そもそも今日会合があること自体…」
 思わず声が詰まる。極秘事項、という言葉事態その場では大きな声で言えなかった。
「…っ秋官内部の一部しか知らないはずだ!なぜ俺の知らないことまで知っている!!」
 ぴたりと彼らの足が止まる。振り向いた、前髪を目の下で切りそろえている、長い髪の女文官の口から出たのは、信じられない言葉だった。
「あら…そうでしたの?」
「は…?」
思わず言葉をなくした時ぬっと立派な背の高い体躯をかがめて、目の前に彫りの深い顔立ちをした文官の顔が現れる。肩くらいまでの長さのゆるやかな巻き毛をすべて後ろに流し、カッとまつげの長い目を見開いて八の字髭を蓄えた口元だけが不自然な笑みをたたえている。不気味な大男に楚牧は悲鳴をあげた。
「いけませんな。そのように大切な情報ちゃんでしたら、もっと扱いを丁寧にいたしませんと。簡単に逃げられてしまいますぞ。現に私たちのところまで流れてしまっているじゃないですかぁ。まぁどれだけ情報ちゃんは流れないようにしたところで、簡単に漏れちゃうものですが!はっはぁ!いやはやあなた様の扱いでは私たちはもはや新入文官ではなく侵入文官ですな!!」
全然おもしろくない。
ホホホホホと口に手を当てて笑う目の前の男に、楚牧は絶句する。
「そんな、馬鹿な!!!!漏れるはずが…!!!」
一瞬後に、カッと目の前の文官たちに疑念が沸く。
「この謀反もの…!何を嗅ぎ回っているかしらんが、お前ら逆賊だな…!!」
 瞬間そこにいる全員が、きょとんと心底彼が何をいっているのかわからない、というような顔をした。
「逆賊??」
「そうだ!!国に王が立たれ、今は国を立て直す大事な時!そんな時にこのような内部を乱すような行動が許されていいはずがない!!王の言うこと、しいては上官の言葉には従うのみだ!!!お前たちも新入官吏なら新入りらしく、国に仕える際の心得というものを先の文官たちから学ぶべきだろう!!そんなこともわからんのか!!!」
目の前の彫りの深い顔立ちの40代の男は、はふんと息をつく。
「…イワシちゃんですねぇ」
「は?!」
「えぇ。まったくもって邪魔な観念ですわ」
 目元の見えない女文官の言葉に、声をなくした。こいつらは…
「お、お前たちには愛国心というものがないのか」
 彼らは何も言わない。ただ八つの視線だけが静かに彼を刺している。残照が無表情に佇む彼らの姿を一層不気味に浮き彫りにする中、風が生ぬるく吹き抜けた。
怒りに駆られ楚牧は叫んだ。
「王に対する絶対的な忠誠!国への愛国心!ほかに何が必要だというのだ!!そんなふうな態度だからこそ、結束すべき内部が荒れるのだ!!恥をしれ!!」
 言い切った、と彼は思った。これで少しはこの常識知らずどもも聞くだろう、と楚牧は息をつく。40代の男は興味がなさそうに首を回す。
「ほうほう。それでは、愛国心とはなんなのでしょう?」
馬鹿か。
「そんなこともわからんのか!愛国心とは国を愛する心!国民なら誰もが持っている心情だ!!お前らは慶国民ですらないのか!!」
目の前の40代の男はパチパチと瞬きをすると、くるりと他の三人を振り返った。
「さーあどうでしょう?皆さん?」
女の冷たい無機質な声が答える。
「見事なまでの同語反復ですわね。あと軍国主義的、排他的、盲信的な要素が目立ちます。なぜこの方が中立の立場に立ち続けることを求められる司法の秋官としてやっていけていらっしゃるのか、ほとほと疑問ですわ。罪人を裁こうにも、型に当てはめたような事例しか扱えないのではないでしょうか」
「なっ…?!」
 少年がじっと見つめたまま、いえ、秋官だからこそやってこられたのではないでしょうかと女文官の後に続ける。
「女人追放令が発布された際、征州ですべての投獄された女人に対して手を下した某秋官の発言記録と重なる部分が多々あります。思い込みが激しいようなので一度教育してしまえば、命令さえすれば根拠がなくても考えずに、反対意見の者に対しても実力行使で型を付ける上官からしたら都合が良い存在ではないでしょうか。女人追放令の際は秋官府の仕事は腐るほどあって手が回らない状況でしたでしょうし、予王時代、腐敗した秋官府内で一定の地位を確立できたのも頷けます」
 つらつらと流れるような言葉に、絶句したまま楚牧は二の句がつげない。
40代の男の文官が、目を見開いて口だけ笑んだ表情を変えないまま、うんうんと頷く。くるりと楚牧に向き直る。
「とのことです。わたくしも全く同じ見解ですな。だからイワシちゃんなんて言われてしまうのですよぉ」
 ピンと張った八の字ヒゲの顔がぬっと目の前に寄る。
「せっかく仙籍を捨ててまで嫁がれた奥様もあなたがそんなんじゃがっかりなされてしまいますよぉ。数刻後にはあなたがたの会合内容も漏れていることでしょうし、これから発言に関しては、少しはそのイワシちゃん頭をつかってあげてみてくださいねぇ」
「お…お前ら…」
「それでは、ごきげんよう」
 一番に、最初から最後まで口を開かなかった、楚牧がぶつかった押し麦色の長髪の男がその場をあとにする。流れるようにこちらを向いた無表情な顔。興味も生気もない瞳に思わず楚牧は得体の知れない悪寒を感じた。まるでこの世のものではないような瞳だった。

「それにしても今回の〝情報げえむ〟は私たちはまた霖雪に負けてしまいましたねぇ。ホホホホやりますなぁ」
「・・・・・」
「今だけですわ」
「次は僕が勝ちます」

 文官たちの声は遠くへ消えていく。呆然と、楚牧はその背を見送った。自分に妻がいることも、その妻の情報までもが流れていることに彼はその時になって気がついた。噂の新入官吏たちの素性は一切わからない。噂だけが交錯する中確かなことをつかめたものは誰もいない。今回身をもって分かったただひとつだけ言えることは。

こいつらは化け物だ。

:::::


ぴたり、とひとりの男の足が止まる。自分以外誰もいるはずがない禁軍演習場で、稽古を終えたはずの男の手が長槍に伸びた。
 戦闘は起きる時を選ばない。いついかなる時も、彼の武人としての神経は研ぎ澄まされている。
 桓魋の手が、長槍を持ち直した。
(…くる)
目だけで周囲の気配を探った瞬間、四方から、桓魋めがけて一気に冬器製の武器が襲いかかってきた。
「はっ!!」
長槍で、一気に降り注ぐ武器をなぎ払う。確認した武器の種類は矢と暗記だった。桓魋は腰に指していた二本の短剣を流れるまま抜き取ると、武器が飛んできた二方向に向かって迷いなく打ち込んだ。短剣を飛ばした方ではそれぞれ、ガンッという木に食い込む音と、ギィンッと無理にはじくような金属音が響き渡る。音がした時には桓魋は既に投槍を取り出し、軌道をずらして再び投げていた。
遠方攻撃を仕掛けてきた人物たちは、体勢を直そうとした次の瞬間には、衣と柱を身動きできないように縫い止められていた。息を呑む音がする。
(これで二人、あと…三人)
桓魋が体を舞わせながら地面に受身を取った瞬間に、弾丸のようにひとりの青年が突進してくる。人間離れした速さと力を弾き飛ばした。青年は壁に叩きつけられ、呻く。
(あと二人)
息つく間もなく今度は背後から、鋭い細身の剣がなめらかに桓魋をさばこうと襲いかかる。首だけを傾け突き出された細い白刃を避けた桓魋は、自分の肩の上に重なる刃の持ち主の腕を掴んだ。桓魋は自分の目の前の地面に襲いかかってきた人物を投げ飛ばす。回転して地面に叩きつけられた泣きボクロのある女顔の青年は、衝撃に咳をこぼした。
 しんと沈黙が訪れた。
 ぱんぱんと衣の砂を払いながら桓魋は周囲を見渡す。溜息をつきながら桓魋は長槍を肩に担いだ。
「これで満足か?お前ら。まだ一人出てきてないやつもいるが、お前ら四人はもういいだろう」
壁側では細身の青年が腰をさすりながら立ち上がり、桓魋の目の前の女顔の青年は参った、とでもいうふうに体を大の字に投げ出した。柱の影からは黒の長髪を高く一つに結った青年と、額布をあて口元を襟巻きで隠した少年のような少女が出てくる。どちらも自分の自慢の武器を見て顔をしかめていた。青年の弓弦には桓魋の投げた短剣が深々と突き刺さり、少女の暗器は欠けている。桓魋の目の前の女顔の青年があぐらをかく。
「あ~あ、またダメか~」
桓魋に壁際まで吹き飛ばされた細身の青年が頭をかく。
「なんで毎回やられちまうんすかね、俺たち」
 他の二人は何も言わずそれぞれ桓魋から目を背けていた。
「武官になるにあたって特殊な選考状況を上がってきたのかなんだかしらんが、まだお前たちには負けるわけにはいかないんでね。今のままじゃ何回やったって駄目だ」

 目の前の自分の部隊に配属された新入武官たちに、桓魋は目を細める。

この者たちは入官式後の選抜式で特に暴れに暴れ、壊滅的な被害を講堂にもたらした。最後にようやく桓魋の部隊に収まったが、自分が倒されたことがよっぽど衝撃だったらしく以降何度も桓魋に挑んでくる。実際勝ち続けている桓魋にとっても危うい場面はいくつかあった。そんなところまで彼を追い込んだ猛者はここ何年か会っていない。こんな奴らが慶国にいたことに誰も気がつかなかった。
 化け物並の戦闘力。誰の言うことも聞きゃしない。こいつらは猛獣だ。

 弓矢の名手 燈閃
 暗器の達人 悠
 半獣 雹牙
 剣の鬼才 蓮皇
 怪力の槍使い 豪槍

皆強者ぞろいだがこの中でも実力が頭一つ抜きん出ているのは豪槍だった。桓魋が背後に視線を滑らせた時、意図したのかしてないのかちょうど考えていた男が現れる。
隠そうともしないむき出しの殺気に桓魋はゆるりと振り向いた。
「遅かったな、豪槍」
 虎嘯よりも大柄な筋肉質な体、黒い短髪は怒髪天のように逆だっている。鋭く太い眉に獣のような夕焼け色の目、歯を剥きだした大きな口が一丸となって桓魋に敵意を示していた。
 何も言わず荒々しく豪槍は桓魋に向かって突っ込んでくる。風が鋭く巻き上がった。被害を想定したのか他の面々はそれぞれがその場から飛びじさって距離を取る。目をすわらせて桓魋は自分の長槍を静かに構えた。こいつらの信用を得られるまでは自分は何度だって相手をする。
(あと一人)

 ぬるく膨れた突風が桓魋の顔の表面に吹き付けた。





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