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微かに息を呑み、後ずさる陽子。その目に浮かんでいたのは――恐怖、だった。 陽子は頭に乗せられた男の手から逃げるように、男から距離をとる。先ほど自分が見失った鳶色の瞳の男が無機質なものを見るように自分を瞳に映していることに気がついた時、陽子の肌が粟立つ。少女は口に湧いた生唾を飲み込んだ。 頭に手を乗せていた若い男は黒目に黒髪で、陽子がよく見る色合いを持つ男だったが、話している言葉は少しも分からなかった。不気味なゆらぎを見せる男の瞳に、陽子の背筋を何か冷たいものが撫でる。 意味は全くわからないのに、陽子は何故かその紡がれる言葉に恐怖を覚えた。 (なんだか‥変‥) 決定的な違和感が、陽子を襲う。それは言葉では説明できない、何かだった。陽子は恐る恐る男たちの表情を見つめる。 男たちの顔に、表情は、無かった。 ただ‥彼らの眼孔には落ち窪んだ光が宿っていた。灯った光は、それは薄暗くどこまでも深くて底知れない闇だ。その光に気がついた瞬間、陽子は自分の呼吸が微かな音を立てて止まるのを感じる。男たちは未だ彼らの間だけで言葉を交わしていた。 その光景を尻目に、気がつけば陽子は彼らから身を翻して、駆け出していた。 後ろから何か声がする。それは怒号のようで、陽子はただひたすら恐怖に押されるようにして異国の地を駆け抜ける。何故こんなに恐ろしいのか分からない。でも何かが、本能的な何かが、陽子に向かって逃げろ、と叫んでいた。背後から伸ばされた腕をすり抜け、陽子は脱兎のごとく男たちから逃げ出した。 「逃げやがったあのガキ!!」 「逃がすな、金の元だ!!」 必死に足を動かし駆け抜ける陽子。逃げろ、走れ、捕まるな、捕まったら―――終わりだ、と幼い少女の耳に誰かが囁く。陽子は突き動かされる己の足に従った。 「はぁっ‥!はぁっ‥!!」 陽子はただ我武者羅に人にぶつかりながら駆けていく。後ろを振り返って、陽子の全身の毛が逆立つ。 そこには、鬼のような形相で追いかけてくる、男たちの姿があった。 ::::: 「はぁっ‥!!はぁっ‥!!!」 寂れた家の塀の影、その薄暗い影で陽子は一人震える。なんとか、男たちの手から逃れた陽子は小さく手足を折り畳み、息を潜めて誰にも見つからないように気配を隠す。 すりむいた膝小僧の傷が今更ながらにじくじくと疼いて熱を帯びていた。恐怖で、声が出なかった。 啜り泣きながら、陽子は汚れた頬に伝った涙を拳で拭う。なんとか男たちから逃げのび、今こうして見つからないように建物の影に身を潜めているが、気を抜けばすぐさま見つかるだろう。知っている者も誰もいない。その底の知れない恐ろしさに、陽子は小さく身じろぎした。 (おかあさん‥どこ‥?迷子になっちゃった‥怖いおじさんたちが、追いかけてくるよ‥) だが、震えていても助けが来るわけではない。少女は夏の暑さの中の寒さに、自分で自分の腕を抱いて、蹲った。 それからどれくらい、時間が流れたのだろう。 暫くの間、小さく丸くなっていた陽子。だが、ふと目の前に光が零れたことが、彼女の時間を動かした。 「‥?」 チカチカと何かが反射して、陽子の顔に光を跳ねている。恐怖が未だ微かに疼いたが、しばらくするうちに、好奇心に負けた。少し気持ちが落ち着いてきたせいもあるだろう。陽子はそっと物陰から顔を出し、光の元を探す。光の筋を目でたどれば、少し離れた高級料亭の入口に辿り着いた。 (何だろう‥?) ぱちぱちと目を瞬いて、陽子はじぃっと目を凝らす。そこでは、店主らしき男が店の前に置かれた飾り物の掃除をしていた。狐を象ったそのレリーフは上質そうな色艶を放ち、陽子が見てもひと目で高価なものだと分かる置物だった。その上ではつるし飾りが風に揺られて優しい音を立てている。これも値が張りそうな代物で、薄く虹色を帯びて連ねられた貝が、一枚一枚身を翻しながら光を弾いていた。そこから跳ねられた光が目に当たり、陽子は思わず目を細めた。 「きれい‥」 陽子がそう呟いた瞬間だった。 漆の置物を磨いていた男が顔を上げ、慌てて中に向かって頭を下げた。なんだろうと思って、陽子が目を凝らすと、中から二人の人影が出てくるのが見えた。白日にさらされたその人たちの相貌に、その時陽子は思わず見入る。 出てきたのは、豊かな髭を蓄えた細身の老人と、三十前後のすっきりと整った顔立ちの男だった。 その二人に、陽子は視線を奪われていた。老人は穏やかな表情で、何かを達観したような雰囲気を纏っている。そしてもうひとりの男は、彼もまた穏やかな表情をしているが、隙のない聡明な何かを感じさせた。陽子が怜悧な雰囲気のその男を、その時素直に、かっこいいなと思ったのはここだけの秘密だ。 落ちた影から、一歩外に踏み出した瞬間、日差しが目に染みたらしく、老人は目上に手で笠をつくる。三十前後の男は何やら丁寧な仕草で老人に一言、ふた言声をかけた。老人は表情を緩めて頷く。二人共、どこか世俗とは浮世離れした貴人の佇まいをしていた。 その人たちは料亭の前に停めてあった、不思議な獣が引く高貴な乗り物に乗り込んでいく。気がつけば、陽子は物陰から身を乗り出すようにしてその人たちの後ろ姿を目で追っていた。つま先立って、背伸びして様子を伺おうと陽子は跳ねる。車はあっという間にその場から駆け去っていった。 (行っちゃった‥) 陽子は何だか穴の空いたような気持ちになって、小さく息をついた。だが、その時ふと嫌な悪寒が陽子を撫で、陽子は眉根を寄せる。 (‥?) そろりと陽子は瞳だけを動かす。しかし… 視線を料亭の方に戻した時、陽子の息が止まった。 陽子の目にとまったのは、先ほどの狐の漆の置物だった。黒光りして艶を弾く狐の細い目が、陽子を無表情にじっと見つめている。 だが、陽子の息を止めたのはただ狐の置物を見たからではなかった。 緩やかな曲線を持ち、豊満に光を弾く狐の腹には、目を見開いた陽子自身の姿が映し出されている。そしてさらにその背後に、少女は二人の男が佇んでいる光景が映っているのを、その時見た。 音を失くした世界の中で、ゆっくりと振り向く陽子。 そこには狐と同じように無表情に陽子を見下ろす‥逃げてきた二人の男が、立っていた。 ::: (…!!!) 全身の毛が逆立つ。 咄嗟に陽子は駆け出そうとするが、それより一瞬先に、細い腕を大きな手が掴む。 陽子は必死に身を捩って、掴まれた腕を振り払おうともがいた。踵を地面に突き立てながら、引きずられていく先を見れば、開かれた馬車の荷台がぽっかりと空虚な闇を広げている。 それに気がついた瞬間、ゾッと冷たいものが、陽子の心臓を掴んだ。 「いや!やめて!離して!!」 恐怖が、陽子を飲み込んでいく。 「いやぁ―っ!!!」 声を張り上げて叫ぶが、出てくる言葉は、どこかで聞いたようなありきたりな言葉ばかりだった。でも、それしか出てこない。 引きずられて、陽子は思わずたたらを踏んだ。 強く掴まれ、肩から引き抜かれるほど強い力で引かれる腕からは、痛みしか感じない。思い切り口を開けて、陽子は男の腕に向かって噛み付く。白い歯が、褐色の肌に立ち、強く食い込む。 男が叫んで、思い切り陽子を振り払う。小さな体は、一気に、無理やり乗せられかけていた馬車の壁際に吹き飛ばされた。したたかに背を打ち、視界がくらむ陽子は咳を零す。馬車の中で、陽子は朦朧とする意識の中、日の光を背にこちらに向かって歩んでくる男を見た。鬼のような形相をしたその表情を見た瞬間、陽子の背筋が凍った。 影が陽子の顔に、落ちる。 (…!!) 瞬間―― 鋭い衝撃が、陽子の頬を襲った。 平手を食らったと理解する前に、悲鳴を上げて、陽子は頬を押さえて蹲る。ジンジンと熱い感触が頬に広がり、陽子はすすり泣いた。 悪魔のような形相で、冷たい視線を落とす男に、陽子は声も出せずに震える。見開いた瞳から、涙が幾筋も、静かに滑り落ちていく。 「――――!」 吐き捨てるように罵倒を浴びせられても、それが何を言っているのかも分からない。自分が今どこにいるのかも、何故ここには自分の知る風景が何一つ無いのかも、分からない。 突き飛ばされて痛む体を引きずりながら、陽子は小さく丸くなった。 (おかあさん…) 嗚咽をこらえても、震える声は喉の奥から漏れてくる。 閉ざされた暗闇が、揺れ、軋むもの音と共に、少女はどことも知れぬ場所へと連れられていく。 それは陽子にとっての悪夢の始まりだった。 ::::: 微かに日が傾き始めた昼下がり。 昼の時刻をとうに超え、黄金色に染まり始めた麦州府城。そこでは零れる光の中、二人の人影が、濃い影をその場に落としていた。 桓魋は卓子に座る州宰に向かい合い、拱手の姿勢をしたまま、ひたと彼を見つめる。州の軍事、警備や警邏、土木事業の債を負う男は、書状に筆を走らせていた。柔らかな紙擦れの音が響く中、州宰は目も上げずに礼を取る桓魋に向かって口を開く。 「で?そなたはここに何をしに来たんだ」 礼を崩さず、青年はしなやかに下げていた顔を上げる。 「今期の検閲官の人事異動に対し、お願い申し上げたいことがあり、参上しました」 「検閲官の人事異動…?」 はい と桓魋は州宰を見つめ、頷く。 「拙の任期と赴任先を、五日後から、最西端の州境の勤務に検めて頂きたいのです」 ぴたり、となめらかに動いていた州宰の筆が止まった。上げた彼の穏やかな顔つきに最初に浮かんでいたのは驚きだ。そして徐々に州宰の顔に困惑の色が流れ込んでいく様を桓魋は見る。自ら検閲官の任期交代と異動を求めてきた青年を渋い顔で見やり、州宰は重たい息を零した。 「確か、そなたの検閲官としての責務は、三月後から、ひと月の間だったな。しかも、管轄地は東の地。待遇も、環境も遥かにそちらの方がよいはずなのだが…。逆ならまだしも、東の管轄の者が西へ行きたいとは初めて聞いた」 「…何か、不都合なことが…?」 桓魋の表情が曇る。州宰は唸りながら、額に皺の混ざり始めた手をあてた。 「いや…そんなことは無い。ただ…」 じっと、珍しそうに桓魋の佇まいを州宰は見つめる。静かに彼は瞬いた。 「 「稀有…ですか」 頷く州宰は、筆壺に筆を浸す。一瞬の沈黙の後、州宰は言葉を続けた。 「…本当に、行きたいんだな?元に戻してくれと後から泣きつかれても、もう 「構いません。不備がなければ、今すぐにでも向かいたいところ」 そうか と州宰は筆を置き、小さく息をついた。州の夏官長の役目を果たす男は、少し何かを思案したように見えた。 僅かな時間の後、彼は汚れた指先を見つめ、口を開く。 「…ならば、良いだろう。そなたの希望通りに。州侯には私から報告しておこう」 「!…ありがとうございます」 視線を上げれば、固く緊張した青年の初々しい表情が、ぱっと綻ぶように破顔した。その様子に州宰は微かに笑む。何か眩しいものを見るように、州宰は目を細めた。 「だが、任期は三週で良い。せっかくの祭りの時。特に催しが華美なことで著名な西方へゆくのだから、最後の週は普段見られぬ光景を楽しむがよい。その時期には人手も戻る」 桓魋は上官に対し、深く礼を取る。州宰は穏やかに微笑んだが、次の瞬間にはすっと表情を静めて、桓魋に言葉を続けた。 「気をつけるように。玉座に王がおられない今、妖魔の徘徊は続き、西は荒れが激しい。特にこの時期、菖蒲の祭りと重なる今の時期は忌み嫌うものが殆どだ…。稀有な輩だよ、そなたは」 生まれにしても、佇まいにしても、と州宰は呟く。その目は興味津々で、桓魋の姿を映していた。桓魋はどこか居心地悪くなり、視線を逸した。 「‥申し訳ありません…」 「褒めているのだ」 温みのある声で州宰は笑った。桓魋はもう一度礼を取り、上官から踵を返し、部屋をあとにする。その後ろ姿を見送りながら、州宰は再び書状に筆を走らせ始めた。 だがふと、思いついたように、州宰は微かに首を傾け桓魋の背に――声をかけた。 「それにしても…何故、今回そなたはそのようなことを願い出たのだ?」 その言葉に、風が微かに揺れて、桓魋の足が止まる。ゆるりと振り返る桓魋。 州宰が見たものは振り返る青年の真摯な相貌だった。部屋には薄く光が差し込んで、緩やかに踊る。桓魋は上官の言葉に凛と顔を上げ、しっかりと上官を直視したまま彼は唇を割る。 柔らかな光が桓魋の出で立ちを照らし出した。 「ある馬鹿に‥馬鹿なことをさせたくないんです」 ::::: 風を切りながら、州宰と話を終えた桓魋は、演習場への道を、足に任せてなぞっていた。立てかけておいた長槍を悠々と担ぎ、青い空を振り仰ぐ。 その時、晴れ渡る青空に似合う、明るい声が彼の耳元に届いた。 「桓魋―!話は終わったか?」 見れば、先ほどの兵卒仲間が、桓魋の姿をみとめて駆けてくるところだった。名を青葉という彼は、初めて会った時、俺と名前が一文字同じだ!と屈託なく桓魋に声をかけてきた青年だ。低い団子っ鼻に丸い目。顔の輪郭だけがほんのり丸みを帯びていて、美男子とは程遠いが憎めないものがあった。顔立ちと雰囲気からは兵士とは思えない穏やかな印象を受ける。明るい表情から、彼が桓魋を好いているのが見て取れた。 無邪気な仲間の表情に、桓魋は思わず硬かった表情を解いて、口元に笑みを浮かべた。 「あぁ。無事終わった。悪かったな、留守を任せて」 「気にすんなって!よかったな、話、済んで!で、結局どうなったんだよ?桓魋お前、どっか行くのか?」 「あぁ。 もう今日の夜にでもここを出るつもりだ。その前に少し訓練をしてこうと思ってな」 「本当か?じゃあ、俺と稽古しようぜ!お前、ほんっと強ぇよ。ここだけの話、中将軍より強いんじゃないか?」 「またお前はふざけて…」 「ふざけてねぇよ!俺はいつでも大真面目だ!そんなこと言って、お前だって本当は手合わせしたいんじゃないのかよ?」 「バーカ。俺はそんなこと…」 「そんなこと…?」 ごくりと青葉の生唾を飲む音が響く。 桓魋はまじまじと見つめる仲間の顔を真剣に見据え、そしてにやりと笑みを浮かべた。 「思っているに決まってるだろう」 拍子抜けしたように青葉は足を滑らせ、盛大に吹き出す。 「おい!何だそりゃ、反則か!お前ふざけんなよ!」 「なんだよ。男だったら強い者と手合わせしたいなんて当たり前だろう?」 「将軍と戦いたいなんて思う奴いるか!お前ぐらいだ、そんなもん!前言撤回だ、一回コテンパンにやられちまえばいいんだ!」 「ははっ それは勘弁だ」 青年たちの屈託ない明るい笑い声が響く。笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭いながら、二人は演習場へと歩いていく。足音とともに、それにしても、という声を桓魋は聞いた。 「お前、警備の仕事は 「俺が行くのは東の州境じゃない。任期と赴任先を検めてもらったんだ。五日後からだ。もう今日発たないと間に合わない」 「ホントかよ!結構いい条件だったじゃねぇか。なんでまた…。しかも五日後とか、急にも程があるぞ、お前…。よく許可が下りたな。東より良い地域なんて他にあるのか?どこに行くんだよ」 驚く友に、さらりと桓魋は言葉をくべた。 「麦州最西端の州境だ」 一瞬の間が二人の間に落ちる。たっぷり五秒かかった後、兵卒仲間、青葉は目を瞬いた。 「…今、何て?」 首を傾げる友に、桓魋は再三繰り返す。 「麦州最西端の州境」 「いや、それは一回言われたらわかる!そうじゃなくて…」 「訊いたじゃないか」 「い、いや訊いたけどよ、俺が訊きたいのは何でそんなところにわざわざ行くのかってことだよ、バカんたい!馬鹿かお前!お前馬鹿か!」 「やっかましい奴だな、お前も…」 「お前がやかましくさせたんだよ!」 桓魋は耳を塞ぎながら、片眉を跳ね上げる。大体…とため息混じりに青葉は嘆きの声を漏らす。 「自分から良い待遇の仕事蹴ってく奴がいるかよ…。お前、そんな風に貧乏くじばっか引いてっと出世できねぇぞ?」 桓魋は大きく息をついて、友人の顔を咎めるように見た。その声に、もう冗談の色は見ることは出来なかった。 「今回はそんなこと関係ないんだ。やらなくてはならないことが、一つ増えたと言ったろう」 「‥言ってたな。それは一体どういうことなんだよ‥」 桓魋の視線がやや鋭さを帯びる。どこともしれぬ方向を薄く見つめながら、桓魋は口を開いた。 「今日、ある男に検閲が薄くなる時期、場所をしつこく問われた。商売をする、売買物が校閲に引っかかるから抜け穴を教えろと。何を扱っているのかは知らんが、違法物であることだけは確かだ」 「そうだな‥」 「麦州最西端の州境は、この時期最も警備が薄くなる。検閲官の数合わせが追いつかず、完全に無法状態だ」 「それを教えろっつぅのは確かにコリャ穏やかな話じゃねぇな‥」 「だろう。それを証拠にあそこだけは無法者しか狙って通ってこないからな‥。あいつが何をしているのか知らんが‥」 桓魋の足が止まり、瞳が静かに光る。穏やかだが、芯の通った声がその場に落ちる。 「俺が、それを確かめる」 「桓魋‥」 静かだが、その表情の奥に何かを湛える友人を、青葉は言葉なく見つめる。 「断る手もあった…。だが、ここで逃がしたら終わりだ。結局奴らは遅かれ早かれ、俺の情報無しでも検問の穴には辿り着くだろう。ならば先に魚に餌をやって泳がせたほうがこちらも動きやすいし、捕らえやすい」 桓魋は凝った筋肉を解すように、肩に手のひらを当てて腕を回した。小さくため息をつく。 「ま、だが何にせよ行ってみなけりゃ何も分からないな。阿呆な奴だが、そこまで悪くはなってないかもしれん。そうであってほしいっていう俺の勝手な願いだが‥。まぁ、そもそもが、ひょっとしたら俺の思い違いかもしれないしな」 気持ちのよい笑い声を響かせる桓魋に、反対に青葉の顔は曇る。 「‥大丈夫なのか。本当に」 その心配気に眉根を寄せる顔に、桓魋は目を瞬く。ふっと口元を緩めて、友人に笑った。 「‥大丈夫だよ」 ぽんと自分より低い位置の肩に桓魋は手を置く。稽古に行くんじゃなかったのか?と笑って青葉の肩を押して、桓魋たちは歩き始めた。 顔が曇っていた青葉も、歩きながらとりとめもない話をするうちに、表情にいつもの明るさが差し込んでいく。 (こいつは笑っている方が良い‥) 憎めない笑顔で笑う青葉に、桓魋は目元をゆるめた。胸騒ぎが、ただの自分の勘違いだと願う桓魋は空に視線を送る。桓魋に腐った頼みをしてきた、曹真は一体何を目的としているのか、その時の桓魋は知る由も無い。桓魋は、演習場が見えてきて、青葉が駆け足で駆け込んでいくのを穏やかに見送る。 だが――その時、だった。 『たすけて…』 唐突に、誰かの声が、桓魋の耳元で響いた。 「‥?!」 桓魋の瞳が…大きく開け放たれた。それはあまりにも一瞬で、誰かに必死で助けを求める――声、だった。微かに流れて消えていく潮騒のような、声。引き絞るような、咽ぶような心に刺さる幼い声が微かに響いて、消えていく。声はあっという間に蒸発していき、思わず足を止めた桓魋を、前を歩いていた青葉は不思議そうに振り返った。 「桓魋?」 息が止まったまま、暫く桓魋は言葉を発することが出来なかった。声は一瞬で、もう何もそこには残っていない。 桓魋は掠れるような声で囁く。 「‥今、何か声がしなかったか‥?」 「声?いや、そんなもん聞こえてないが‥」 「そう…か」 周りを見渡しても、誰もいない。ただ一瞬の声だけが、桓魋の頭に残って離れずにその場から消えていった。 (何…だったんだ) 不思議そうに見上げる友人に片手を上げて大丈夫だと示しながら、桓魋は歩き始める。青葉は桓魋に声を上げる。 「どうした?いいのか、桓魋?」 「あぁ…ただの空耳だ‥」 そう零したっきり、桓魋は口を噤む。だが、その時そう言いながら、何故かそうとは思えなかったことに、桓魋は後になって気がつくことになる。 歩きながら、桓魋は声のした方向を振り向く。 風に流されるまま、桓魋はいつまでも声の消えた方角を見つめ続けていた。 |
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