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 永遠だと信じていたものは、変わりゆく刹那だった。


 風が静かに吹き抜ける。日が傾いた残照の中、金波宮の外廊が黄金色に浮かび上がっていた。向かい合う二人の男の人影の足元に落ちた影が、違う長さでその場に伸びる。話している内容は聞こえない。会話を切り、去ろうとする男の背中にもう一人が声を張った。
「待てよ、桓魋」
 歩きだそうとしていた男の足が止まる。振り向けば旧友がこちらを静かに睨んでいた。
「…何だ、青葉。話はもう終わりだ」
「終わってねぇ」
 旧友の表情は硬い。
「一番大事な話をしてんだ」
「何のことだよ」
とぼけるな、と青葉は声を尖らせる。
「桓魋、お前のことだ。そんで――」
 足元が嫌な音を立てる。
「陽子のことだ」
 青葉の声が沈んだ。
「俺がここに来る機会は少なくなったが、それでもあいつが王になってからのお前がおかしいことくらいは分かるぞ」
 桓魋は表情を変えない。斜光が彼の顔の半面を照らし、半面を影に沈ませる。本当は分かってるんだろうと青葉は目の前の桓魋に言葉を重ねる。
「お前は冗談が好きな余裕のある奴だが、それでも結局お前だって軍人だ。軍人である以上、軍に…国によってしかれる上下関係は絶対だと思う…」
 だけど。
「いくらあの子が王になったからといって、今までの関係事態を冗談にしていい訳じゃねぇだろう」
 桓魋の態度は、見事に陽子に対して改まっていた。まるで陽子との関わりなど最初からなかったように。
 見れば見るたびに二人の距離は離れていく。
 それでいいのか。桓魋。
「何でだよ!?いくら立場があっても、切っていいものといけないものがあることくらい、お前にもわかるだろう?!何で自ら自分の幸せをぶち壊すようなことするんだ!!」
 桓魋の表情は動かない。沈黙の後、ただ青葉を見据え口を開く。

「俺が――――半獣だからだ」

 愕然と、青葉の瞳が見開いた。そんなこと、わざわざ言わなくても分かることだろう。
「冗談にしてしまっていいこと、か…。耳が痛いな。だが冗談じゃなく、主上にとって消せるものなら消した方が良いんだ、俺との関係は…今の慶ではな…。俺との関係があきらかになれば、主上にどんな風が吹くか分かったものじゃない」
 友人の顔が苦しげに歪む。なぜ彼が殴られたような顔をするのか桓魋にはわからなかった。ただでさえ童顔で桓魋と並ぶと大分年下に見えていた彼は、もう見た目は自分と変わらないくらい年を重ねている。これから彼と益々開いていくだろう年の差が、唐突に桓魋の胸を鈍く締めた。
 青葉は桓魋の誘いを断って仙になることを拒んだ。今でも変わらず、麦州で兵士をつとめている。
 仙になることを拒まれた時は少しがっかりしたが、だけどそれを聞いた時彼らしいなと桓魋は思ったのだ。青い葉っぱのままで終わりたくないと言っていた彼の言葉が、唐突に脳裏にひらめいたのだ。これでいいんだ。
「俺たちは違う道を選んだ。お前は人として当たり前の幸せを掴む人生を。年を重ねて生きていく人生を。麦州に仕えて嫁をもらって、家庭を築いて…当たり前のそんな幸せな人生をお前なら送れるって思っている。お前は幸せになれる」
 それだけ長い時間を、お互いを深く知り合う時間を、訓練兵時代からともに過ごしてきたのだ。俺はお前がどんな奴か分かっているつもりだ。だから――半面桓魋は思う。お前だって俺がどんな奴か分かっている筈だ。初めからわかっていた。俺には、無理だ。
「俺とお前は違う」
温かい光から顔を背けた鋭い男の瞳が、沈みかけた薄闇の中で光る。

「俺は…必要に駆られれば鬼にだってなる」

 青葉は桓魋の横顔に声を失くす。風が緩やかに桓魋のこぼれた前髪を嬲った。静謐な横顔は一瞬で、その後ふっといつもの桓魋の表情を湛えた。
「…そういうことだ。これが俺の選んだ道だ。今更…主上をこの道に引きずり戻すつもりはない。主上の身を守るためにも、今まで通りじゃ許されない。明日の早朝、新入文官と武官の入官式もあることだしな」
「新入文官…?武官?」
 あぁと彼は頷く。上官である浩瀚の面影が脳裏をかすめ、一通り聞かされた彼らのことが反芻される。
「久しぶりに、手のかかる輩たちが来そうなんだ」
何も言葉が出ない青葉に、桓魋は穏やかに微笑んだ。彼がそう微笑んだことが、会話の終止符であることが青葉にも分かった。今度こそ、桓魋は彼に背を向けて去っていく。止めることもできないまま唇を噛んだ青葉に、桓魋は最後に振り返る。
「そうだ、青葉」
 振り向いた桓魋の姿を一際強い残照が打った。

「結婚おめでとう」

 青葉の目が見開く。もう一度微笑んだ桓魋は、踵を返し闇の中へ消えていく。
言葉にできない表情を浮かべた彼は、片手で顔を覆った。
「何でだよ…桓魋」
幼い陽子と桓魋の姿が脳裏に浮かぶ。彼女を抱え上げ、幸せそうに光の中へ消えていったかつてが浮かぶ。苦しさのような切なさが胸を締めた。
 去っていく友の背に、ばかやろう、と彼は呟いた。それだけしか言えなかった。

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 金波宮外殿の早朝の空気は身を切るように冷たく鋭い。
 底冷えする空気に、訪れた者たちは耐え切れず腕をさする。その場に立ち会った鈴も例外ではなかった。
だがそこに集まった五十を越える新しい慶国官吏として迎えられる者たちは、そんなことなど気にもとめずに視線を一点に集めていた。
 早朝、集まった武官、文官の面々が放つ異様な雰囲気に、顔を出した鈴は思わず肩をすぼませた。先にその場にいた祥瓊を見つけ、足早に彼女のもとに駆け寄る。
「おはよう、祥瓊」
「遅いわよ、もう入官式が始まっちゃうわ」
 ごめん、と鈴は笑って祥瓊の隣に落ち着く。
 陽子が登極してから、もうすぐ二ヶ月が経とうとしている。鈴や祥瓊たち慶国の偽王軍と戦った面々は、陽子と共に朝廷に召し上げられた。浩瀚は靖共との抗争の末太傅の位置に、鈴は女御、祥瓊は女史の任につくも、朝廷整備に追われる中娘二人は激務の中にいる陽子にはとても接触できない状況だ。本来ならば冢宰が執り行う筈の新入官吏の入官式も、新王登極の式典に追われる多忙と、今回の選抜方法の提案者が太傅だという理由から浩瀚に押し付けられる形となった。
何もかもが異例づくしの中始まろうとしている入官式を鈴は固唾を呑んで見守る。 
だが逆に、こんな時でもなければ、新入官吏として彼らがこの王宮に召し上げられることもないだろうと鈴は思った。

 慶国は先の女人追放令により全官吏の半数以上を、舒栄内戦問題が重なり武官に関しても多くの精鋭を失っていた。現在の内乱直後の慶国の戦力がまさに歯抜けの状態を危惧し、新王登極の際、国は慶国全土から官吏、武官を募った。史上初の試みである地方からの国官招集は主に高級官吏からの激しい反発を招いたが、それを浩瀚は押し通した。
 鈴はもう一度文官、武官たちをちらりと見て息を呑む。
(でも…反発される理由っていうのは、民間人だって理由だけじゃないのよね…)
 それを思った時、改めてその場に満ちる異様な空気が肌に刺さった。武官たちからは場を圧倒するような威圧感と殺気、佇む文官たちに至っては個人の気配というものが感じられないくせに目だけは鈍く底光りしている。
 
武官は慶国として史上初の半獣たちの参加を解禁した上で、武の力を持つ者としての強者が選考された。そして、暗黙の了承として、実は慶国の裏側の世界からも多数の参加者が流れている。今まで慶では下賤な者として汚れ仕事ばかりに回されていた半獣たちや、表の世界では存在も知りえない裏世界の住人たちの枠をかけた勝ち残り戦が行われた。垣根を取り払って勝ち上がった豪傑たちが、今この場に立っていた。
 文官の方は、今までの筆記試験とは全く趣向を変えた試験が行われた。
 老若男女問われない参加者たちは皆その場で違った問題を出された。ある者は待合室から試験場までの窓の枚数を訊かれ、またある者は突然地図を開かれ州城の位置を示すよう指示され、指摘したらその後すぐに隣の机の上に置かれていた品物を訊かれた。ある者は試験官が面接の合間にとりとめのない雑談として語った内容を、突然試験の終わりに逆から暗唱するよう言われた。
 鈴や祥瓊はこの試験の意味さえも分からなかった。正直に言って、聞いた当初はこんな訳のわからない試験に受かる者などないと思ったが、それを簡単に通過する者たちがいたそうだ。しかもそれどころか、聞かれてもいないのに試験会場の花瓶の花の本数が試験の開始前と変わっていることを加えて指摘したり、試験官が話していた内容に含まれていた数字だけをすべて逆から完璧に暗証した輩もいたらしい。

 高級官吏が猛反対するのは体裁が崩れるという理由だけではなく、今回の招集は文官、武官ともに選抜方法の何もかもが異色なのだ。半獣や日陰の世界の住人、頭の使いどころが違う奇人変人。彼らのことを簡単に言えば、忌み嫌われている「普通とは違う人々」。それが朝廷に何をもたらすのか、それは誰にも予測できない。

「はじめよう」
 壇上に現れた浩瀚の口が開かれた。
「諸君、ようこそ金波宮へ。私は太傅、浩瀚だ。君たちのような優秀な人材を迎え入れられることを嬉しく思う」
 武官、文官たちの表情は一切動かない。浩瀚は気にした素振りもなく、穏やかな表情をしたまま淡々と続ける。
「本来なら入官式は冢宰が執り行うものだが…今回君たちに関する責任者は私だ。君たちは選抜方法からして何もかもが異例づくしだということを覚えておいて欲しい。よって今回の入官式も、従来のような長々と辟易するような式典の祝辞もなければ、訳のわからん宮廷へ仕えるために必要な新入官吏の心構え等の言葉もない」
 その時鈴は、ふいにまざまざと早朝の空気を感じた。まだ日も登りきらない、下女たちも働いていない時間帯に行われる入官式。従来なら入官式は冢宰をはじめとし、禁軍三将軍、春官長、夏官長、秋官長、冬官長をはじめとした重役が呼ばれ、壮大かつ荘厳に執り行われるものだ。王や台輔も出席し、新入官吏たちは気持ちを鼓舞し執務に邁進するのが常時のあり方だ。

 だがこの入官式には、その誰もいなかった。

 パラパラと顔を見せている既に在籍している官吏たちは、皆武官だけだ。文官の高級官吏に至っては誰もいない。
 遥かに少ない新入官たち。僅かに漏れ出る朝の光。白く浮かび上がる人々の顔。
「文官の諸君に至っては祝辞として贈る言葉は一言だ」
 浩瀚の瞳が、文官たちに向けられる。少ないが女も中には混ざっている。その中でも、先頭に立つ表情のない男に、彼の視線がふととまる。
冷たい朝日が男の白に近い麦色の長髪と薄荷色の瞳を透かしていた。
男の方も視線は浩瀚に向けていたが、彼の目は表情がなく、まるきり浩瀚に興味のないことを隠そうともしていなかった。ふっと面白そうに浩瀚の口元が動く。

「おめでとう、各々好きなように動け。以上解散だ」

するり、と水が流れ出すように、彼らはその場を離れ始めた。
「え…?!」
鈴の大きな瞳が丸くなる。隣の祥瓊も呆気にとられてポカンと口をあけている。だがどういうことか、と浩瀚を見ようにも、彼の意識は既に武官の方に向いていた。

「武官の諸君も、おめでとう。諸君らは、これから配属される部隊を決定したいと思う。だが諸君らが素直に話を聞く者たちではないことは十分承知している。おそらく全員が一堂に会すということは今後いくら招集しても起りえないだろう」
 浩瀚の目が光る。
「よって、入官式はここまでで、今から武官全員の能力をこの場で測る」
 浩瀚によってさらりと述べられた言葉に、武官を除く者の顔が跳ね上がった。
「え…?」
嫌な予感が、背筋をかける。まさか、と浩瀚を見たが、彼は涼しい顔で続けた。
「諸君らはいつでもどこでもその自慢の腕を披露できる輩だと聞いている。後で配属先が納得のできないとごねられるのも、軍である以上、上官の命令を受け付けないという状況も面倒だ。ここにいる師師の者たち―――諸君の上官になる者の力量を自身の手で見極めるがいい。どこの部隊が適任か上官と諸君らで決めるように。以上解散」
「はっ…?!なに、それ…こ、こんなめちゃくちゃなことって…」
 金属音がして鈴と祥瓊が振り向けば、そこには荷台に積まれた数々の武器が並べられていくところだった。もうすでに浩瀚の言葉が終わる前から衣をはだけて筋肉をむき出しにして、闘争本能を晒している者もいる。ゴキゴキと誰かが首をならす音がした。恐らく史上最速で終わった入官式を振り返る間もなく、慶国軍が新たな戦力を迎え入れる儀礼が始まろうとしていた。
すっと武官と新入官吏を除く者たち全員の血の気が引いた。
武官たちの殺気が色濃くとがる。誰が最初か、一人が地面を蹴った時、いつの間にか武器を手にした武官たちが弾丸のように飛び出した。突進していく武官たちの間を、文官たちが何事もないようにすり抜けて出ていく。
 鈴と祥瓊は大きく悲鳴をあげた。
 武官たちの中でも、一際体躯の大きい男が先頭に抜きん出る。恐らく背丈は虎嘯よりも大きいだろう。男の怒髪天のような短く逆だった黒髪、鋭く太い眉、獰猛な夕焼け色の瞳、強面には野生性がやどり牙を剥く。誰かが豪槍、と男を呼んだ。
 向かってきた上官をいとも簡単に男は吹き飛ばした。上官を嬲りながら、男は本能的に強者を嗅ぎ分ける。豪槍と呼ばれる男の目に映るのはひとりの男だ。迎え撃つその上官はにやりとにひるな笑みを浮かべる。

 男を見たとき、ぞくりと桓魋の血が久々に沸いた。

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 様々なところで歯車が回り、知らぬうちに物事は流れていく。だけど多くの者が自分の回す歯車以外見えていない。見えないところで噛み合うたくさんの歯車が、思いもかけない現実を創っていくことに気がついていない。波乱の臭いは漣のように打ち寄せる。

一日が始まる。

 陽子の王としての一日が明ける。
 光が眩しい。
 まぶたを閉じているのにすかして目にしみる明るさに、陽子はより強く目を閉ざす。
 自分の名を呼ぶ声がする。

 主上、と名を呼ぶ声がする。

 とろとろと陽子は涙で濡れた目を開けた。



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