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ふわりと港の潮風が吹き抜ける。艶めいた、複雑な形に結い上げた御髪を掻き上げながら、ことりと彼――呉藍滌は、優美に首を傾げる。
「梨雪、あの子は本当に知り合いではないのかぇ?」
梨雪と呼ばれた少女――氾麟は甘く微笑む。
「えぇ。先程初めてお会いしましたの。卓郎君に蠱蛻衫をお貸ししていたため私が被っていたのは蠱蛻衫を模して作られたまがい物でしたけどね」
 氾麟は見えぬ袈裟を揺らす。自らの正体を隠すために使用している、氾国の宝重の模造品を。
「ほとんどの者は私の姿を認識できないか、人ではないものに見えていたはず。やはり蠱蛻衫を創りだすことは不可能ですわ。蠱蛻衫はお貸ししているから、このような模造品でも無いよりましかと思いこれを羽織ってきましたが…それでも想う人の像を結んでしまうということは、あの方にとってその人はよほど強い思い入れがあった人なのでしょうね」
 呉藍滌が目を細めたその時、軽い足音が彼らの耳朶を打った。振り返れば、先程まで鐘楼に腰掛けていた、髪を布で覆った延麒、六太がいた。うんざりとした表情を顔に張り付かせている。呉藍滌は顔の前に広げていた扇を、音を立てて閉めた。
「よう来たな小猿。出迎えご苦労であった」
「あら、六太貴方ブスっとした顔しちゃって!」
 六太は盛大な溜息をつく。頭を掻きながら、片眉を跳ね上げて見せた。
「なぁーにが出迎えご苦労だよ、全く!なんで俺がわざわざお前らを捕まえに来なきゃいけないんだよ。まっすぐ雁に来いよな釜主従!」
「まぁ!下品な言葉遣い!だから雁は嫌なのよ。ねぇ主上?」
「梨雪、許してやりゃ。猿は猿なりの作法しか知らぬゆえ。山猿からしか学べぬ小猿に礼儀を求めてもしようのないこと。貴人らしい優美な心構えを忘れてはいけないよ」
「〝奇人〟の間違いだろうが!」
「まぁ!主上に向かって奇人、だなんて!」
「おめぇにも言ったんだ!!」
 がっくりと肩を落とす延麒。どうも調子が狂わされる。ふぅと彼は長い息を吐いた。だが、一瞬後、するりとその表情が引き締まる。
「…で、実際に今の慶を見た感想は何かあるか?」
「酷い死臭がするわね。それも、あちこちから。か弱い私はもう戻らなきゃいけないくらい」
「…他に、何か気がついたことは?」
 そうねぇ、と氾麟は白い華奢な顎に指を当てる。
「確かに大変な状況みたいだけれど…」
視線が、先ほど紅の髪の少女が消えた方向へ滑る。一度呉藍滌と微笑み合って、彼女は再びその方角を見つめた。
「素敵な芽も育っているみたいね」
 静かな風が吹き抜ける。
 延麒はじっと彼女たちと同じ方向を見つめる。やがて何も言わず、彼は踵を返した。氾麟が声を上げる。
「あら、六太。人に聞いておいて…。貴方も何か言いたいことがあったんじゃないの?」
「いや。お前らの意見が聞いてみたかっただけだよ。お前らはこっちの予定を大幅に狂わしてでも慶を見に来た。そんなはちゃめちゃなくせに、国を栄えさせる奴らがそういうなら、きっとこの国はまだなんとかなるだろうさ。激動の全てが変わりゆく世の中でも」
 延麒は疲れたように肩を竦める。じっと目を凝らして、紅の髪の少女が消えた方向を見つめ続ける彼に、慶国の一つの終着点を見届けた呉藍滌は穏やかに――微笑んだ。
 小猿にも隣国を憂う心があったか。

「予定がおしているのではないのかぇ?慶の動向や雁との輸入品についての話もしたい…そろそろ山猿の元へ参ろうかのぅ」

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慶国にとってその出来事はひとつの終着点だった。

 細い風がたなびいた。
 一人の男の前髪を揺らした。
 彼の目に映るのは、戦火の消えた静かな焼け跡ただひとつ。ほかにめぼしいものなど何もない。
 それでも男は戦場跡地を見つめ続ける。でたらめに荒れた景色を見つめ続ける。

 男は瞬き一つした。

 戦火が収まり、何日が経つのか。
偽王軍舒栄により王手を決められる瞬間、慶国により放たれた麒麟という駒によってすべての戦局が反転した。
景麒があらわれ選定が行われた後、乱はそれ以上の死人を出すことなく、無事収束した。元より、叙栄が真の王という裏打ちのない状況がまかり通っていたからこそ、この衝突は起きた。真の景王が、共通する主君が立った今、両者の間にそれ以上争いあう理由はもはやなかった。彼は心のどこかで、彼女に素質があることに気がついていたのかもしれない。

 風かけて、砂塵が舞う。

 桓魋は瞬き一つした。

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 戦火の去った戦場では、血なまぐさい匂いが残っていた。戦局が落ち着いたばかりの今、流れていく声も、時折意味と結びつかず陽子の耳を通り抜けていった。
目の前で話をしていた男の片眉が、陽子の様子を見て跳ね上がった。
「どうしたの?陽子」
「どうしたもこうしたもない…」
卓郎君、と陽子は目の前の美丈夫を睨む。彼はにこりと彼女の怒りを笑みでかわす。
「立場を黙っていたのは悪かったよ」
まったく悪いと思っていなような爽やかな口調に、陽子はため息をつく。
「完全に騙された」
「そんな、騙すなんて酷い言葉じゃないか」
陽子は不服げな眼差しを向ける。何かを言いかけたが、ぐっと言葉を飲み込んだようだった。思い出したように、陽子は頭を抱える。
「延王も延台輔も人が悪い。二人揃って祝辞のお言葉を先日直接くださったよ」
本当に世界は陽子の目の前で簡単に形を変えてしまう。人の温度に近いと思っていた二人は、最も天空に近いバケモノだった。利広はまあまあと、にこにことしながら肩をすくめる。
それにしても。
「慶に王が立ったっていう祝日から、陽子はずっとさえない顔をしているね」
陽子は複雑そうな表情を浮かべる。正直、実感が沸かない、と陽子は言った。
「それなのに、周りの対応だけがいやに変わって気持ち悪いんだ。変わらなかったのは虎嘯たちくらいで…」
虎嘯たちの存在がどれほど励みになっているか。変わらない、ということがどれほど居心地がいいことか陽子は肌で実感していた。
不謹慎かもしれない。浩瀚も救い出せ、戦局もひっくり返せた。普通ならありえない、奇跡だった。―――それでも。
「私は、こんなふうに皆に変わってなんか欲しくなかった…」
何もかもが今までと変わらない日常だったらどれほど良いか。蘭玉の顔が脳裏に浮かんだが、陽子は振り払う。慶を救うと誓ったが、こんな形になるなんて考えてもいなかった。
利広は穏やかな顔のまま、何も言わなかった。その笑みの奥にどんな感情を湛えているのか、陽子にはわからない。自分のことで、今の彼女は手一杯だった。
 陽子は手を握り締める。何かにすがるような感情が湧いたのに、陽子は気がつかなかった。
「私が王だなんて、ありえない」
半ば吐き捨てるように彼女は言った。なぁ、そうだろう桓魋?と陽子は記憶の中の彼に問う。記憶の中の彼は当前だろ、と笑い飛ばした。
「そういえば桓魋はまだ戻らないんだっけ?」
 利広の問いに、笑う記憶の中の桓魋の顔を見つめながら、苦虫を噛み潰したように陽子は呟いた。
「…まだだ」
彼とは、王になってから顔を合わせる機会がなかった。利広は首を傾げる。
「確か桓魋は、舒栄軍の残党狩りに数週間前からここを空けているんだったけ」
 陽子は頷いた。
桓魋は選定の日からこの州城を空けていた。陽子と言葉を交わすまもなく、怒涛の勢いで日々は流れていった。
「予定としては、今日戻ってくる筈だ」
「そっか」
桓魋だったら、と陽子は言った。
「私が王じゃないなんてこと、一番分かっていると思うんだ」
利広の片眉が跳ね上がる。だけど彼女は、気づかない。
「ずっと一緒にいた。私がそんな器じゃないことくらい、彼が一番わかってるはずなんだ。それくらい、一緒にいるだ」
 瞬間、陽子の眼差しに真摯な光が走る。記憶の中の桓魋は笑い飛ばしている。
「桓魋なら、ありえないって言うはずなんだ」
 すがるような、表情だった。陽子の姿は、目の前にいるはずがない桓魋にすがっている姿だった。
「言うはずなんだ」
 二度重ねられた、確信に満ちた陽子の声に、利広の表情は変わらない。彼が何かを言おうとしたその時、扉の叩かれる音がした。陽子の顔が跳ね上がる。利広もゆるりとそちらを向いた。
失礼します、という声とともに足を踏み入れたのは浩瀚だった。拱手する浩瀚に陽子は声を上げる。
「浩瀚様!」
「浩瀚、とお呼びください」
 柔らかくも強い口調に、陽子は思わず詰まる。
「主上、只今、桓魋が戻りました」
 浩瀚が言葉を発した直後に、彼の背後からこちらに向かってくる足音がした。
「桓魋が?!」
陽子の表情が一気に明るくなった。衣擦れの音がして噂の本人が堂室に姿を現した。いつもとまったく変わらないまま、陽子は駆け寄る。
「桓魋!!」
 陽子は気づかない。
 だが―――。
 その瞬間、利広はなにか猛烈に嫌な予感を感じた。

 桓魋は、いつものように笑ってはいなかった。

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 州城を出た瞬間、ひゅるり、と音を含んだ風が流れる。髪が巻き上げられるのを感じながら、利広は目を眇める。背後から視線と人の気配を感じた瞬間、声が投げかけられた。
よぉ。
「こんな所でまた会うなんてな」
 振り向けば、黒髪を結わえた偉丈夫が城壁にもたれかかりながら利広を見ていた。利広は穏やかな笑みを見せる。
「こんな所だからこそ、会うんだろう」
 少しも驚いた風情を見せない笑みに、偉丈夫――尚隆は肩を竦める。
「慶に景王が立った。それも新しい慶には大国の奏、雁、そして恭が後ろ盾につくらしい」
 へえ、と全く先程と変わらない笑顔のまま、利広は声を上げる。尚隆は何百年と続く茶番を楽しむかのように、利広を見ながら口角を上げる。
「雁は隣国だから、仲良くやりたい気は分からんでもないが、なぜ奏と恭がこの王朝に限って後ろにつくのだろうな?聞けば、この乱の中に奏の皇太子が紛れ込んでいたという噂だ。なぜ奏の太子がこのような戦乱の慶までおもむいたのか、お前には想像がつくか?」
 さあ、と利広は微笑んだ。
「まぁ大方…慶に新しい友人でも出来たからじゃない?」
尚隆の目の前の男は笑う。
「六百年生きている化け物にも、新鮮なことってあるものなんじゃないかな?」
 その言葉に、ほう、と風漢はおもしろがるように片眉を上げた。
「長く生きるだけで世に飽いてしまうことなどいくらでもある」
 そうだね、と利広は笑う。だが、ふと、何かを考え込むように目を伏せる。
「でも、長生きしても一向に掴めないものもあるってことも、感じているよ。分かったことなんて、世界はとても気まぐれだということくらいだ。今まで信じていたものが、唐突に翻る時だってざらにある」
利広の猫のように気まぐれな瞳が細まる。何かを思い描くように、利広は視線を遠くに飛ばす。尚隆もその視線を目で追う。
「そうかもな」
「うん」
 低く、そしてその後高く風が舞い上がる。利広の髪がゆるくなびく。当たり前のように、彼は続けた。

「私たちが信じているものなんて、大抵は刹那と呼ばれる瞬間だよ」

そう思わない?と言って彼は眉を上げた。永遠を信じながら、どれだけのものが離れていくのだろうか、そう利広は思う。
人が感情を寄せるものは、思いを馳せる永遠はいつだって刹那だ。
だからこそ、人の世は切ない。尚隆は目を細める。
「お前…何か見たな」
え?と白々しい声をあげる利広。尚隆が何を言わんとしているか分かっている利広に、尚隆は無言で畳み掛ける。
 利広の視線に温度は感じられない。ただ尚隆から視線をそらして、彼は遠くを見つめた。
先ほどのふたりも、刹那を生きている人々なんだな、とどこかさめた寂しい気持ちで思った。先の光景が、脳裏をよぎる。
ひょっとしたら、自分は彼らに何か期待をしていたのかもしれない。

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それは、彼と彼女にとっても一つの終着点だった。

 駆け寄ろうとしていた陽子の動きが凍りつく。まるでおかしな芝居を見ているように、妙にゆっくりと桓魋の頭が下がっていく。
 陽子の瞳が、浩瀚の瞳が見開いて、利広の表情だけが動かなかった。

 桓魋は陽子に向かって深く深く、叩頭した。

足を折って、今まで見上げていた顔が見えなくなっていく光景だけが、脳裏に焼き付いた。

明るく陽子が王であることを否定してくれると信じていた、声がした。
 一線を引いた、聞きなれた、声がした。


「只今戻りました、主上」


今までの関係がすべて消え、主従関係が出来上がった瞬間だった。
日だけが暮れて、溶ける薄闇に影が伸びゆく。
言葉にならない感情が、二人のあいだを駆け抜けた。
見えない線を引くように駆け抜けた。想いを馳せる永遠は、いつだって刹那的だ。


世界はこんなにもたやすく、反転する。




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