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 外が光で塗れている。
浩瀚を庇いながら、陽子が出口から足を踏み出した瞬間のことだった。
「?!」
 風を切る音がした。とっさのことに、陽子は素早く刃で衝撃をかわす。
 蛮声と共に太く重い太刀音が、勢いよく陽子めがけて振りおろされた。
「…!!」
 鋭い金属音がかみ合う音が響きわたる。
 受け止めたが太刀を振り下ろしたのは大の男。衝撃に耐えきれず、陽子はその場から弾き飛ばされた。
「陽子!!」
 浩瀚が叫ぶ。駆け寄ろうとしたその時、背後から鋭い風圧が彼を襲った。
「?!」
 浩瀚の体が吹き飛ばされる。
 地面に手をついて振り向けば、ちょうど屋上の階段に通ずる壁が叩き壊された所だった。瞠目する浩瀚の目の前に、娘二人と少年を抱えた大男が躍り出る。
「だあぁ―!!着いたぁあ!!」
「兄さん!滅茶苦茶だよ!!」
 鼻から荒い息を吐く男に、少年が悲鳴じみた声を上げる。驚いて固まっている浩瀚の前で、黒髪の少女が叫ぶ。
「!見て!陽子がいるわ!!」
「本当?!陽子、ここにいたのね!」
 陽子の仲間だ、そう浩瀚は息をつく。だがそれも一瞬のことだ。次の瞬間、表情を青く染めた少女たちの悲鳴に振り返った時浩瀚が見たものはぐったりと横たわる陽子の姿だった。恐らく先ほどの衝撃で頭を打ったのだろう。そして――。
「!!」
 浩瀚は駆け出す。後ろから少女と男達の悲鳴じみた声がする。
 彼が見たものは、ぐったりと横たわる少女に向かって振り下ろされる白刃の刃のきらめきだった。
 背後から少年が矢をつがえる音と、大男が叫び突進してくる音、少女達の悲鳴と駆け寄る足音がする。それでも、恐らく間に合わない。
 その時、その中でただ一人間に合う可能性を持ったのは、体を投げ出した浩瀚だけだった。
(間に合え…!!)
手が伸びる。指先が伸びる。振り下ろされる刃と陽子との間に、浩瀚の体が滑り込む。死なせるか。
(――死なせるものか!!)
意識のない陽子を、浩瀚は自らの体で庇った。目を閉じる浩瀚。迫る白銀に背筋に走る、寒気。

叫び声がした。
同時に――金属音が響き渡った。

「?!」
 強く瞑目していた浩瀚は違和感を覚える。覚悟していた衝撃は、いつまでたっても降ってはこなかった。周囲の叫び声も止んでいる。
(…何だ?)
 そろそろと薄目を開けたとき、浩瀚は自分の見たものに驚愕した。
「な…!」

 白銀の刃は、浩瀚に降り下ろされる直前の形のまま、動きを止めていた。
 刃は瞠目する浩瀚の表情を歪んで映し出している。
だが、驚くべきはそこではなかった。驚くべきなのはその刃の下に滑り込み、動きを止めさせているもう一本の刃、その――持ち主だ。
 白日の下、浩瀚に向けその人は笑った。
「こんにちは。なかなか良い場面に立ち会えたかな」

それは桓魋であり――桓魋でない、あの人物だった。

 桓魋の容姿を持ち、彼のものではない笑みを彼の顔立ちに馴染ませたその人は悠々と刃を弾く。
その人は、そのまま体をひらりと回転させ、鋭い太刀筋で兵卒を斬り伏せた。
「なんとか間に合って、良かった」
 浩瀚は呆然と刃の血糊を振って落とす青年を見つめる。掠れた声で、浩瀚は礼を言った。そして、鋭い視線で別の言葉を続けた。
「何故…」
「んー?」
 どこかのんびりと、間延びした声で彼は笑む。
 掠れた声のまま、浩瀚はずっと疑問に思っていたことを、言葉として押し出した。
「何故、お前は桓魋の姿をしている…。どんな呪術か知らないが一体何のつもりだ。一体、何者だ」
 その人はきょとんとした表情をした。そして、二、三度瞬きすると、その後何かを心得たように、心底嬉しそうな笑みをこぼした。
「そうなんだ!貴方には私が桓魋に見えるんだね。やあ、なんだか嬉しいなぁ」
私も桓魋が好きだよ、とにっこりと彼は微笑んで、振り向きざまに向かいくる兵卒をのした。浩瀚は訳が分からず困惑する。その時、紺青の髪の少女が偽桓魋の方を指差し声を上げた。
「ど、どうして陽子が二人いるの?!」
「そうよ、どうして…?!」
少女たちに向かって、声を失っていた利発そうな少年が驚いて振り返った。
「え…?!僕には兄さんが二人いるようにしか見えないよ!」
大男が耳を掻きながら眉根を寄せる。
「なーに言ってんだお前ら!目の前のありゃ夕暉だろうが!…ん?な、何で夕暉が二人もいるんだ?!」
 浩瀚は驚いて彼らを見る。被っている場合もあるが、皆、見えている人物が違う。
目を見開いている浩瀚に、目の前の桓魋は楽しそうに笑う。びっくりした?と楽しそうに笑う彼は、自身の周囲の空気を掴むような仕草をした。
「じゃ、正解発表といこうか」
 ゆらりと桓魋の姿が溶け消える。代わりに、別の人物の姿がそこに現れた。浩瀚は言葉を失う。
「…!!」
 その時、目の前にそびえる壁に、鋭く細い亀裂が走った。
 次の瞬間、壁が粉々に弾け飛び、弾丸のように本物の桓魋が飛び出す。馬鹿力で長槍を振るい、半径五間の敵を一掃する。
「桓魋!!」
 虎嘯が叫ぶ。だが、桓魋は振り向いたとき、浩瀚の前に佇むその人物に動きを止めた。
「なぜお前がここに…」
「やあ。久しぶり、桓魋」
ひとつに緩く結わえられた黒髪が靡く。女とも見間違う美しい顔立ちに引き締まった体躯が晒される。そこにいたのは、まさに美丈夫と呼ぶにふさわしい男だった。
浩瀚が唖然とする中、彼の腕の中で陽子が身動きする。
意識を取り戻した彼女は、目の前にいる人物を見るなり目を見開いた。

「利広…?」

 その人、利広は美しく微笑む。無事で良かった、とつぶやくと、浩瀚に向き直りことりと首を傾げて見せた。
「私の名は、利広。そしてまたの名を、卓郎君」
訳の分からない呼び名に、陽子はきょとんとするが、相反して浩瀚の顔に衝撃が広がる。利広はそのままゆるりと目の前に薄く美しい袈裟を見せる。
「これは範国の宝重『蠱蛻衫』。無理を言って範国の姫君にお借りしてきたんだ。見る者の好ましい姿に、着た者の姿を歪められる」
 黒い瞳が鋭く聡明な光を湛える。穏やかなのに、有無を言わせない何かがあった。桓魋、虎嘯たちが駆け寄ってくる。それでも浩瀚はその男、利広から目をそらすことが出来なかった。

「お久しぶり、そして――はじめまして。麦州候浩瀚」

:::::


 絶体絶命とは、こういう状況のことを指すのだろうか。
 眼下は人で埋め尽くされている。
舒栄軍の群色に染まり始めた景色に、虎嘯は頭を掻き毟った。
「だああぁーっ!!ちっくしょう!!」
桓魋も厳しい顔で軍の攻防を睨んでいる。唇を噛んで、彼はその場から身を翻そうとした。
「どこに行くんだい?桓魋」
 利広は微かに微笑んで桓魋を見やる。彼は、なぜ自分がここに来たのか、細かい経緯はまったく説明しようとしなかった。達観したような笑顔で穏やかに首を振る利広は扱いづらいことこの上ない。それでも、助けに来たんだから良いじゃないかと返されてしまえば、こちらもこれ以上何も言い返す言葉がなかった。相変わらずの風来坊に、桓魋は息をつく。 
横では浩瀚が、何やら思案するかのように、顎に手を当てていた。屋上の兵は一掃され、今のところまだこの場所は安全だった。
 そしてゆったりと問う利広に、桓魋は視線だけをやる。一瞬陽子と浩瀚を見た彼は、目を閉じ短く答えた。
「…おれがここに残る」
 利広は何も答えない。仲間たちの抗議の声がその場で上がった。
「は?!何言ってんだよ、桓魋?!」
「そうよ!今この時に戦線に戻るなんて狂気の沙汰だわ!」
「桓魋さん!!」
「敵兵もうすぐなだれ込んで来る。誰か一人が残って足止めをしない限り、全滅だ」
舒栄の軍の色に染められていく眼下を静かに睨み据えながら桓魋は言った。無表情な横顔が何を思っているのか、そんなことは読み取れなかった。
仲間たちの抗議の声の中でただ一つ、別の声がした。静かな声、だった。
「なら、私も残る」
 陽子が鋭い眼差しで桓魋を見ていた。
桓魋も負けず劣らずの鋭い眼差しで彼女を見据える。そして短く首を振った。
「駄目だ」
「…どうして?」
 桓魋は何も答えない。理由は述べないまま、桓魋はもう一度だけ、駄目だ、と繰り返した。陽子の瞳に怒りが灯る。
「何故だ?私も軍兵だ。戦場に来た時点で、とうに命など捨てている!」
 桓魋は目を閉じた。伏し目がちに、彼は陽子に一言呟く。
「そんなこと、言われるまでもなく、俺が一番よく分かっているつもりだ」
「じゃあ…!」
 陽子が噛み付こうとしたその時、桓魋は鋭い視線で陽子を見据えた。彼女が言葉を次ぐ前に、彼の声がその場を割る。
「だからこそ、その覚悟を浩瀚様を無事に逃がす方へ向けろと俺は言っているんだ。お前は元空師だろう。浩瀚様を守護する適任はお前だ。間もなく空軍がこの場所に到着する。彼らとともに、舒栄の手が届かない場所まで浩瀚様をお連れしろ」
「桓魋!!」
陽子の声がする。仲間たちの声がするが彼は振り向かずに駆けていく。進む先に、誰も桓魋を止めるものなどいるはずがなかった。だが屋上の階段を駆け下りようとした際、彼の目の前をひとふりの剣身が塞いだ。
「すとーっぷ、桓魋」
 利広だった。
「利広!」
 陽子の叫ぶ声がした。柔和な笑みを顔にのせたまま、彼は光る刀身で道を塞いでいた。桓魋の表情に険しさが増した。
「何のつもりだ」
「え?勿論見ての通り、君を止めてるんだけど?」
 そこは分からなきゃ、としゃくしゃくと応える利広は、感情が読み取れない笑みで微笑んだ。桓魋は静かに囁いた。
「…どけ」
「無理」
「どけ」
「ダメ」
「どけ!」
「嫌」
 桓魋の表情が益々険しくなるのも気にせず、利広は口元に弧を描く。
 桓魋の顔に怒りが浮かぶ。それを笑みでかわしながら、利広は涼しげな顔で抜刀した。鞘走りの音が走り、桓魋は唸るような低い声を発した。
「俺と戦るつもりか」
「まっさかぁ!『どうしても行くつもりなら私を倒していけ!!(決め顔)』とでも言って欲しいのかい?こんな時にそんな使い古された定型句使って結果どうしたいわけ?味方同士で貴重な戦力削り合ってどうするの?」
 利広のどこか抜けた声を聞きながら、桓魋はぴくりと自分の耳が別の音を拾うのを感じた。叩くような音。掠れた声。彼が何を言いたいのか、桓魋は悟った。利広は軽口を叩きながら既に臨戦態勢をとり、黒い涼しげな瞳が真摯に気配を探っている。その時はっきりと響いた足音に桓魋の背筋がざわりと粟立った。利広の声がした。
「ほら、来た」

 階段から、兵士たちの雪崩が溢れ出した。

「残念だけど現状の戦局は君が見積もったものよりも遥かに厳しいみたい」
 桓魋の瞳が見開き、言いながら利広は刃を振りかぶる。三人を、利広が瞬時に叩き斬った。まさか、と利広の言葉から、桓魋はこちらに舞い降りようとしている空軍に目を走らす。こちらに舞い降りるそれは来るはずだった桓魋たちの味方ではなく――
(クソッ…!!!)
 桓魋は恐ろしい速度で陽子たちの方角へ駆け出す。
空からこちらに舞い降りて翻るのは、舒栄軍空師の紋章だった。来るはずだった味方の空師軍は舒栄軍に一掃されていた。もう陽子たちを逃がす手段も余裕もなかった絶望的な状況に、桓魋は一瞬目の前が暗くなる。今命をつなぐだけで精一杯な状況に、歯を噛み締める。
 桓魋は階段前に立つ利広に向かって叫んだ。
「抑えてろ!!」
「はいよ―」
 優雅な声を耳に入れることもなく、桓魋は疾走する。異変に気がついた陽子は浩瀚を背に庇い、抜刀していた。蛮声を上げながら降りてくる舒栄軍の空師を陽子は斬り捨てる。だが、次の一手が遅れた。別の刃が彼女に向けて疾走する。 
「…!!」
彼女の刃が間に合わない。
代わりに滑り込んだ桓魋の体が、斬撃を受けた。赤い血しぶきが飛ぶ。
「ぐ…!!」
「桓魋?!!」
悲鳴じみた陽子の叫びの中、桓魋の長槍が唸りを上げて兵卒を鎧ごと粉砕した。傷は浅い。まだ動ける。
続けざまに降り立とうとする舒栄軍の空師を薙ぎ払い、陽子に向かって叫んだ。
「陽子!浩瀚様を連れて中央にまで下がれ!虎嘯、祥瓊と鈴を連れてお前たちも行け!!」
 陽子は頷くと浩瀚を連れて走り出した。虎嘯の野太い声が響き、夕暉の矢が音を立てて飛ぶ。桓魋は斬撃を放ち、一気に後ろまで飛び退った。
(く‥!)
 もう陽子たちだけでも逃がす手立てすらなかった。一筋の細い光が消えた。
歯噛みをした時、桓魋の横に飛び退って敵の斬撃を避けた利広が並ぶ。桓魋は何も言わず、長槍を振るう。桓魋の少し沈んだ表情を見て、利広は静かに口を開く。
「まだ諦めちゃ駄目だよ、桓魋」
 じろりと見れば、利広は柔らかく笑む。そのまま刃を振るいながら、彼は言葉を続けた。尻目に、浩瀚を守りながら陽子たちが戦っている光景が見える。今を絶体絶命と言わないのなら、なんと言えばいいのだろう。利広は戦いながら飄々と続ける。
「そもそもさ、舒栄はどうして堕ちかけている麦州から手を引いて、こんな吹けば消えるような、用済みの麦州侯浩瀚を救うために集まった少人数の反乱軍しかいない州城に多大な兵を向かわせたんだろうね?」
「さあな、俺の頭じゃわからんな」
 ぶっきらぼうに応える桓魋に、利広はゆったりと続ける。
「それはね。自分が最も恐れていることが、ここで起ころうとしているからだよ」
 眉根を寄せる桓魋。どういうことだ、と口に出した瞬間、桓魋に斬りかかってきた敵を利広が斬り捨てた。利広は何も答えない。にっこりとただ一言彼は言った。
「それはこれからのお楽しみだよ。確かに現状戦局は厳しいけど、勝機のない戦に私は参加しないよ。やすやすと捨てられるほど、私の命は軽くないんだ」
 桓魋は益々眉間に皺を寄せた。まったく意味が分からない。刃と刃がぶつかり合う音が四方から響き渡る。利広は穏やかに声を続ける。
「舒栄が、彼女がもう後一歩で堕ちそうだった麦州を諦めてまで、この地に兵を向かわせた理由。あまり舒栄にとって得策とは言えないのに彼女が軍を送り込んだのは、他に良策が仕込まれているんじゃなくて、そうするしか手がなかったからだよ。自分が恐れていることを止めるために」
「恐れていること…?」
利広の微笑んだ瞳が鋭く光った。
「舒栄は〝御璽〟を失ったんだ」
「…?」
 利広の言っている意味がわからず、桓魋は戦いながら眉根をひそめる。どういうことだと言葉を重ねようとした時、利広が空を振り仰いだ。ある一点を、彼は見つめた。彼の視線に釣られ、桓魋も空を見上げる。周囲がその時、どよめき始めた。皆戦う手を止める。
「…!!!」
青い青い空の中で、小さな白い点を、桓魋は見た。点はどんどん大きさを増してくる。その瞬間、桓魋は驚愕に目を見開く。
膨らむ点が曲線以外の輪郭線を持ち始め、白以外の眩しい輝きが翻った。金の光が翻った。
「どうやら、間に合ったようだ」
 利広の声が遠く聞こえる。そうしている間にも、慶国にたった一匹の麒麟は優雅に桓魋たちのいる場所めがけて舞い降りてくる。
 あれほど喧騒にまみれていた戦場が、たった一つの存在で水を打ったように静かになっていた。

「舒栄が最も恐れていること‥それは、真の景王の出現」

呆然とする桓魋の横で、利広は穏やかに声をつなぐ。舒栄が失ったという「御璽」の意味を桓魋は理解した。目の前に伝説の生きた王たるものを示す御璽が現れる。
舞い降りたのは一匹の優美な麒麟だった。

:::::


 陽子は慶の麒麟が訪れた瞬間を、敵の刃を弾いた瞬間に立ち会った。

金属音が響き渡り、血の匂いが当たりに満ちる。この場に現れるはずがない獣はゆっくりと濃紫の瞳をまたたかせ、群衆の中の一点を見つめる。
そして次の瞬間、迷わず獣は歩き始めた。
皆どよめきながらも歩む神獣のために道を譲った。その光景を息を止めたまま、群衆に埋もれる陽子は美しい麒麟に見入っていた。

(…麒麟)

遠い昔からおとぎ話でしかなかった、海客の自分とは関係のない絵巻物の世界の住人。
 自分の目の前の群衆が割れていく。
気がつけば、陽子の目の前で、金の鬣をきらめかせる神獣は歩みを止めていた。
「え…」
陽子は目を瞬く。
見れば見るほど美しい、馬のような体躯に鹿のような細い脚を持っている。麒麟は静かに陽子の目の前で膝を折った。
頭がついていかない。彼は何をしているのだろう、陽子がそう思う間もなく頭を垂れて角を陽子の足の甲にあてがう。
 その瞬間、陽子は今目の前で何が起こっているのかわからずに、目を見開いた。周囲がいっせいに、どよめく。
深みのある青年の声が響きわたった。

「天命を持って主上にお迎えする。御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げる」
 
声が遠い。景色が遠い。何もかもが、遠い。
青年の声だけが、流れていく。獣の深い紫色の瞳が、持ち上がる。陽子の姿が美しい紫の瞳にはじかれた。陽子が誰かから人づてに聞くことを望んでいた王の誕生の瞬間が、今、目の前で――――執り行われている。
「許す、と」
 
「許す、と仰いなさい」

 嘘だろう。
 世界は――世界は、こんなにもたやすく、反転する。

陽子は呆然と周囲を見渡す。その瞬間、再び陽子は驚愕する。すぐそばにいた浩瀚が陽子に向かって深く深く頭を下げていた。
視界は先ほどよりも開け、州城屋上の全体が見渡せるものになっている。その場にいるもの皆が浩瀚と同様、陽子に向かって、伏礼していた。
「…!」
 みんなみんな、深く頭を下げている。ただひとり、呆然とその場に立ち尽くす人影があった。ゆるりと陽子の視線がその人に辿り着く。風が吹く。誰も何も言わない。


 伏礼をする群衆の中ただひとり、雷に打たれたように立ちすくむ桓魋の姿だけが場違いに浮いていた。



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