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真っ黒な点が蟻の軍団のように押し寄せてくる。 その一点一点が血の通う人間だと言うことに桓魋は背筋に寒気を覚える。みな修羅のような顔をして攻めいるのは、取るに足らない小さな州の州城だ。 桓魋は臍を噛む。 唇をかみしめ、その場から身を翻した。 「桓魋?!」 虎嘯の焦った声がする。駆けながら、桓魋は顔だけ振り向いた。 「俺たちがここに来た目的は浩瀚様救出だ!時間がない、急ぐぞ、虎嘯!」 「!わ、わかった!」 虎嘯が慌てて続く音を聞きながら、桓魋は体勢を低くし回廊を駆け抜ける。いくら戦況が不利になろうと自分たちの最優先達成事項は浩瀚の救出だ。それさえ達成することができれば、それでいい。 最悪なのは多数の犠牲を払った上で、浩瀚を死なせてしまうことだ。舒栄が麦州を墜すより、慶国に僅かに散った浩瀚派の派閥を潰すことに力を入れてくるとは思わなかった。舒栄にとってはたとえ浩瀚を逃がしても、麦州を墜として慶国全土を掌握した方がずいぶん利潤が大きいはずなのだ。使い捨ての用も終わった筈の浩瀚を何故、との思いが駆けるが、今はそのことについて考えている時間はない。 (くそ…!) 牢へとめがけて桓魋は走る。だが角を曲がったその時、鋭い殺気が向けられるのを感じた。 「…!!」 一瞬、ほんの一瞬桓魋の反応が遅れた。 虎嘯の叫び声が響きわたり、桓魋の瞳に、潜んでいた兵卒が雄叫びをあげながら切り込んでくる光景が映る。桓魋が長槍を振るい始めるが、それでも向こうの刃が振りおろされる方が僅かに速い。 「桓魋!!」 虎嘯が瞠目する。 だが次の瞬間、桓魋に刃が届く前に、維竜の兵卒の方が胸を押さえてくずおれた。 「?!」 桓魋が驚いて見た兵卒の胸からは一本の矢が伸びていた。遠くから聞きなれた聡明な声が響く。 「兄さん!桓魋さん!」 「夕暉!!」 黒髪の少年が、矢をつがえたまま駆けてくる。 その後ろから、紺青と黒の髪色を持つ少女達が向かってくるのが見えた。 「桓魋、無事?!」 額に汗を浮かせた祥瓊が、肩で息をする。桓魋は苦笑いを浮かべひょいと肩を竦めて見せた。 「おかげさまでなんとか、な」 夕暉に向き直り、助かったと礼を言う桓魋。そっちはどうだ、という問いに、祥瓊はすぐに表情を引き締めた。 「戦況はまずいわ…。叙栄の大軍がこちらに到達するまで、時間がない。それまでに浩瀚様を見つけ、脱出しなくちゃ本末転倒だわ」 鋭く短く、桓魋は頷く。夕暉が悔しそうに顔をゆがめる。 「僕たちは今し方、浩瀚様が捕らわれてそうなすべての場所を巡ったところなんだ。とりわけ牢獄はとくに入念に調べた。でも、牢におさめられているのは軽犯罪者だけだ。浩瀚様はあそこにはいない」 「何だと?!くそっ…じゃあ浩瀚は一体どこにいるんだよ?!」 虎嘯が頭を掻きむしる中で、鈴の声が続く。 「おそらく彼が捕らわれているのは地図に明記されていない場所よ」 「あぁ?!地図にない場所ぉ?!そりゃ一体…」 はた、と桓魋が顔をあげる。何かを閃いたように小さくつぶやいた。 「隠し部屋か…!」 夕暉が頷く。 「この維竜州城は麦州城と構造は変わらない筈です。見て回れる場所どこにもいないのなら、彼が隠されているのは地図にない場所だ。桓魋さんなら、その地図に記されない場所が分かるんじゃないかと思ったんです」 桓魋は厳しい表情を浮かべる。 「確かに、ここの構造は麦州城と変わらん。だが隠し部屋の所有個数、位置はどこの州城も恣意的に変えられている」 「じゃあ桓魋、ここの隠し部屋の位置はお前でもわかんねぇのか?」 「確かな場所まではな…」 桓魋は虎嘯に向かって厳しい視線を向けた。 「虎嘯、計画を変更する。お前は夕暉、祥瓊、鈴を連れて、屋上へと移動しろ。それまでにもし可能ならば、東の回廊にいるはずの陽子と合流してくれ」 「?!な、何でだ?俺もお前と一緒に…」 駄目だ、と桓魋は厳しく一蹴する。 「隠し部屋への侵入を試みるのなら、ここで人数を重ねたところで足手まといになるだけだ。必要な犠牲はやむをえんが俺は必要のない犠牲を払わせる気はない。後に、俺たちの味方、麦州空師の一部がこの州城の屋上に来る。もし待っても俺たちが来なければ、待つ必要はない。最悪の状況に陥った時は、お前達だけでもここを脱出しろ」 「そんな、桓魋!」 「桓魋さん!」 「いやよ!ここまで来て私たちだけ逃げるだなんて!」 祥瓊と鈴、夕暉が険しい表情で叫ぶ。 だが桓魋は鋭い視線をゆるめないまま、虎嘯だけに揺るがない表情を向けていた。 「虎嘯。お前だからこそ俺は頼んでいる。最悪の状況下、こいつらだけは生き延びなきゃならん人材だ。この三人を、そして陽子を守ってくれ」 あいつは納得しないかもしれんが、とつぶやく桓魋に、虎嘯は何も答えない。ただじっと桓魋の視線を受けていた。なおも叫ぶ三人の声を聞きながら、虎嘯は静かに目を閉じる。 「ちょっと待ってよ、桓魋!私たちだって…」 鈴が声を上げる。だがその瞬間、彼女のつま先が地面から浮いた。驚いて目を見開く鈴の耳に、同じように夕暉と祥瓊の驚いた声が聞こえた。 「きゃ?!」 「うわっ?!」 虎嘯によって自分と夕暉、祥瓊の体が持ち上げられていることにその時鈴は気がつく。 「こ、虎嘯?!」 虎嘯はただじっと桓魋を見据えていた。その顔は桓魋に勝るとも劣らないほど厳しい表情を湛えている。 「兄さん!」 「虎嘯!」 飛ぶ非難の色を含む声に、虎嘯は一声吠えた。 「やかましい!ぐだぐだ言うんじゃねぇ!」 彼のその名の通り、まさに虎が吠えたような迫力に、しんとあたりが静まり返る。 桓魋の決意を読みとった虎嘯はただ静かに彼に一言告げた。 「…分かった、行け」 「恩に着る」 桓魋の言葉に、虎嘯は鼻から大きく息を吐き出した。 「だがな!それは絶対お前が生きて帰ってくることが前提だ!浩瀚を助けだし、必ず俺たちの元に帰ってこい!!約束も守れん腑抜けになったら承知しねぇぞ、桓魋!!」 踵を返しかけていた桓魋はその声に驚いて振り向く。ばたばたと今の虎嘯の吠え声を聞きつけたのか、こちらに向かってくる足音がした。 鬼のような顔でこちらを見る虎嘯に、思わず桓魋の口元が綻ぶ。 「勝手に人を腑抜けにせんでもらいたいな」 浮かべられたのは、もっとも桓魋らしいにひるな笑みだ。 角から溢れるように兵士達が現れる。長槍を構え直し、桓魋は風のように駆けだした。目指す先は目星をつけた隠し部屋への場所だ。この戦乱を無事に切り抜けた時、陽子に伝えたいことがある。それができるまで、死ねない。回廊が怒号で溢れる。長槍の刃が美しい光を帯びた。 「どけええええぇえ!!」 桓魋の声が響きわたる。 背後で駆け去っていく足音を感じながら、桓魋はまっすぐに長槍を振りかぶった。 ::::: 桓魋が兵の軍勢を散らしていく光景を尻目に、虎嘯は右腕に夕暉、左腕に祥瓊と鈴を抱えたまま反対方向に走り始めた。 祥瓊の桓魋の名を呼ぶ声がするが、このときばかりはどうしようもない。虎嘯は兵卒達がなだれ込んでくる前に四階への階段へと駆け込んだ。 (無事でいろよ、陽子…!) 半ば祈るように、虎嘯は陽子がいるはずの五階の東回廊を目指す。下階からいくつもの足音が追ってくるのが聞こえた。最後の一段を駆け上り、虎嘯は東回廊に飛び出した。周囲を見渡すなり彼は吠える。 「陽子――!!どこだ?!どこにいる?!」 虎嘯は陽子の姿を探すよう目を眇める。だが、回廊はしんと人気がなかった。 右肩に抱え上げた夕暉が焦ったように声を上げる。 「兄さん!声が大きいよ!」 だが弟の言葉に、虎嘯は吐き捨てるようにこぼす。 「今更だ、夕暉。どっちにしろこっちの居場所は割れてんだ。今の最優先事項は陽子との合流、急いであいつを捕まえる方が大事だ」 夕暉は押し黙る。虎嘯は鋭くあたりを見渡した。 (陽子、どこだ…?) 視界の隅で何かが揺れ、はっと振り向く。 「陽子?!」 だが、それは陽子ではなかった。その瞬間、左手から鈴と祥瓊が息を飲み込む音が聞こえた。 「!!」 虎嘯は目を見開く。 次の瞬間、目の前に怒号とともに駆けあがってくる兵士達が溢れ出した。鈴が悲鳴じみた声を上げる。 「虎嘯!!」 もはや陽子を待つだけの時間はないことは明白だった。ぐっと唇を噛む兄を、夕暉は苦しそうに振り返る。 「兄さん、ここはもう駄目だ!」 虎嘯は苦悶の表情を浮かべ、顔が真っ赤になるほどに歯を噛みしめている。歯ぎしりの音が聞こえてきそうな兄の憤怒の表情に、夕暉は言葉を失った。 「畜生!!!」 一声だけ、虎嘯は吠えた。それから踵を返して屋上に向けて一直線に走り出す。兄が痛いほど唇を噛みしめている光景を夕暉は間近で見た。虎嘯の足は東の回廊を離れ、ぐんぐん兵士達を引き離していく。 陽子の安否は分からない。 それでも彼女が無事であることを、夕暉は兄を見ながら願った。 ::::: しんしんと周囲の石壁から熱が吸い取られていく。 隠し回廊を進みながら、陽子は目を細める。 漏れ出る蝋が溶ける匂いが、ゆらゆらと漂ってくる。人が近い、と陽子ははやる呼吸を抑え、足音を消すことに尽力した。 視線の先では、鈍い光が暗闇に馴染んで、静かに揺らいでいた。 (浩瀚様…) 光はどんどん強くなっていく。鋭さを増した光は突き当りの左手の角から漏れていることに陽子は気がついた。この先の左手に、兵がいる。そのことを肝に命じ、陽子は更に歩む速度を緩めた。 近づいていけばいくほど、かすかな声が聞こえてくる。ついに曲がり角まで足を進めた陽子は、息を潜めて壁に張り付いた。 はっきりと、兵卒達の、声がした。 「おい、麦州侯浩瀚の様子はどうだ」 「どうもこうも…なんにも食いやしないんだから困ったもんだよ」 ふぅと息を付く音が聞こえる。首を振るような気配がした。 「やはり強硬な態度は変わらんか…。だがたとえ仙であっても食わんのは身体に毒だ。なんとかならんか」 「なんとかなったら苦労しないさ…」 仲間の受け答えを聞いて、俺は麦州侯を死なせたくない、とその兵卒は言った。陽子はその言葉に驚いて目を見張る。声は陽子の意思関係なしにそのまま流れていく。 「浩瀚は麦州では良い君主として著名な人物だ。この混沌の状況に呑まれている慶の再建に浩瀚は必ず力になる。中央の官吏どもは浩瀚に自らの悪事を暴かれるのを恐れているからこそ、この状況に紛れ、浩瀚を殺そうとしているんだ。見え見えさ」 「そうだと思うけどよ…でもここで官吏どもを裏切ったら俺たちの首が飛ぶぜ。本音をいや俺だって名君の監禁なんざしたくねぇよ」 声を聞きながら、陽子は静かに目を閉じた。 兵士達だって好き好んでこんな残酷なことをしたくないのだ。ただ、絶対的な権力の下、そうせざるを得ない状況下におかれている。麒麟を手元に置いている、それだけで舒栄が王だという定義が成り立ってしまっている。本来の天啓などまるで無視して、国が進んでいく。 ぐっと心の中で沸き上がった怒りを必死になだめながら陽子は静かに息を殺す。 呼気を沈めて、襲撃の機会を待つ。兵士達には気の毒だが、浩瀚を救うため、こちらも譲れないだけの仁義があった。 (…行くぞ!) 驚いて振り向いた兵士達の数は会話をしていた二人だけだった。背後から走った音に彼らは振り向く。 「?!」 「何だ…!!」 叫び声を上げさせる間もなく、すぐさま首の後ろを叩く早業で昏倒させる。 兵士たちが守っていたその先には、古びた扉が佇んでいた。 扉のその先に、薄暗い部屋が見えた。剣を構えたまま、警戒しながら扉を蹴破れば、暗闇に目がくらんだ。 「…!」 自分の見た光景に、陽子は声を失った。光が消える。音が霞む。 目的としていたその人が、そこにいた。 「‥!」 薄暗い牢の中、その人は鎖に繋がれていた。 「陽…子…?」 泣き笑いのような表情を陽子は浮かべる。 「…お久しぶりです」 以前より痩せていた。それでも目に湛えた理知的な光はさらに鋭さを増している。恩人の姿に陽子は込みあがってくるものを感じながら、彼の前で膝を折った。 「助けにきました。…浩瀚様」 麦州候――浩瀚の顔が歪む。 陽子が入ってきた扉から、暖かい燭光が差し込んでいた。暗闇の中、押し殺したような彼の表情は読みとれない。 それでも一筋の光に顔を濡らしながら、浩瀚は一言――すまない、と囁いた。 ::::: 浩瀚を拘束する鎖を、陽子は音を立てて断ち切った。 自由になった手首をさすりながら、浩瀚は立ち上がる。ふらりとよろめきそうになった体を、陽子が支えた。 「大丈夫ですか」 「あぁ、体がなまっているようだ」 彼を後ろ手にしたまま、陽子は前方に注意を払った。 「気をつけてください。私がここに忍び込んだことが知れたら、もう逃れる術がありません。身動きができる場所へ移動を」 浩瀚は頷く。顎に手を当て、彼は思案するそぶりを見せた。 「確かこの隠し部屋は屋上へと続く道があった筈だ。回廊の突き当たりを右、二つ目の角を右、そして三つ目も右に行けば出られる筈だ」 目を丸くし、どうやってそんな情報を、とでも言いたげな陽子に浩瀚は不敵に笑ってみせる。 「たとえ捕らわれていても、出来ることはあるものだ」 すっと表情を引き締め、あそこだ、と浩瀚はある壁を指さす。壁の奥にはひっそりとした細い通路が見えた。昏倒している兵卒達をまたぎ、陽子と浩瀚は二人で細い道に足を踏み出す。 回廊は冷たく暗く、かびた匂いがした。 上下感覚もなくなるようなその道を進んでいるうち、視覚情報から本当に自分達は上に向かって進んでいるのか確証がもてなくなる不安に襲われる。 陽子はたびたび浩瀚を振り返るが、そのたびに彼は涼しい顔で先に進むよう促す。 陽子が迷うくらい、進むほど回廊は薄暗くなっていくのだ。歩けば歩くほど、まるで地下へと潜っていくような感覚にさせられる。それこそがこの隠し回廊に組み込まれた構造だと浩瀚が教えてくれた。 「陽子」 はい、と陽子は目を丸くして振り向く。浩瀚は静かな表情のまま、言葉を続けた。 「おまえ達は、いつ慶に戻った」 「一月前です」 浩瀚は顔を歪める。彼はただ、そうか、とだけ答えた。何故戻ってきたのか、聡い彼は訊かなかった。 「すまない」 このただ一言の謝罪の意味が分からないほど、陽子も愚鈍ではない。かすかに微笑んで、彼女は首を振った。 「仲間が手助けしてくれました。それに元はと言えば、浩瀚様に庇っていただけたからこそ、私たちは国を出ることが出来たんです」 沢山のものを見ました。そう彼女は続ける。 「楽しかったです。苦しかったです。でも…やっぱり幸せでした。国で過ごしたことも。国外で過ごしたことも。私にはそれぞれに大切な出会いが、経験がありました」 浩瀚は微かに目を見開く。 そしてやっと微笑を浮かべた。 「何か、掴んだようだな」 陽子は微かに苦笑した。 「乗り越えられていないことの方が多いです」 陽子、と彼は言った。 陽子は驚いて浩瀚を振り返る。浩瀚は真摯な眼差しのまま、眩しいものを見るように陽子を見ていた。 「変わったな、陽子」 目の前に、うっすらと外の光が見え始めていた。出口が近い、そんな感慨すら遠い。ただ陽子は浩瀚を守るため、反射的に剣を握る腕に力を込めた。 彼にとって、少女は以前よりも更に輝きを増したように見えた。 光が、近づく。濃く強く。 その時、お前はきっと慶を変える人物になるかもしれないなという微かな浩瀚のつぶやきは、陽子の耳には届かなかった。 |