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話は偽物だが、証拠は本物。その矛盾に気づくことなく、供王御璽の権威に押され、門闕を閉ざすよう固く十字に噛み合っていた槍が解けていく。兵士たちは未だ困惑しながらも、それでも陽子の目の前に一本の道が拓かれる。賭けに勝った、そのことに安堵も覚えず、陽子は兵卒たちの指示のもと視線を鋭く研いだまま州城内部に足を踏み入れた。
(浩瀚様は‥どこにいる)
州宰の元へ案内する兵卒の後に続きながら、陽子は鋭く辺りを見渡し気配を探る。今はこの兵卒以外、周囲に人の気配はない。石畳を吹き抜けてくるゆるい風が、門闕を閉ざし、密閉されゆく空間を満たしていた。
陽子は目を眇めて、ある一点に気を集中させる。遠くから足音が響いて聞こえてくる。自由に動けるために用意されたチャンスは一瞬だった。背後から、予期したとおり低い地鳴りが聞こえてくる。開いた門闕が再び閉ざされていく音だった。
(‥今だ!)
 門闕が閉まりきる――細い光の筋が掻き消えたその瞬間、陽子は目の前を案内のために歩く兵卒の首筋を叩いて昏倒させる。くずおれた兵卒を抱え、陽子は柱で兵卒が纏っていた甲冑を脱がせた。奥からこちらに向かってくる足音を聞きながら、陽子は素早く兵卒の甲冑を纏い、鎧を剥ぎ取った兵卒を縛り、回廊奥に面する物置部屋に隠す。予想したとおり、維竜州城もまた、麦州州城と同じ構造をしているようだった。
 それが陽子にとって大きな、強みとなる。
 響く足音が大きくなってきた。門闕の開閉音を聞いたのだろう。陽子は甲冑を目深にかぶり、視線を落として背筋を伸ばす。角を曲がり姿を見せた兵が、陽子の姿をみとめ近づいてきた。
「なぁ小建。今、門闕が開かなかったか?」
 小建というのは今陽子が昏倒させたこの持ち場の兵の名か。陽子は顔が見えないよう目深に深い甲を被り、はっきりと男性に近い低い声を発する。
「いや」
「?そうか‥」
 訝しげに目を細め、首を傾げる兵卒を尻目に、陽子は背筋を伸ばしたまま足早に立ち去る。先ほどの兵卒が自分の違和感に気がついて追いかけてくる前に、人目につかない奥まった回廊に陽子は姿を消した。幸運なことに、兵卒は追っては来なかった。
軍人時代、生活の拠点となっていた麦州州城の見取り図は陽子の頭の中に叩き込まれている。脳裏の地図に従い、陽子が目指すのは州城内の門闕の開錠間だ。東西南北のうち、桓魋は北と西、虎嘯が南、そして陽子は東の門闕の開錠を担当する。陽子が今入ってきたのは丁度東南に位置する関係者のみが知る裏口だ。ここが、一番手薄で、東の城門へと入り込むのに最適なのだ。
陽子は周囲を伺いながら、そっと唇を噛んだ。
(さて‥どこまでいけるか)
行動はより迅速に、無駄なく執り行わればならない。供王御名の名前により一時的に門闕を開けさせたが、少し頭を冷やして考えれば、供王直々の使者が裏口から門を叩いた不自然さにすぐ違和感を覚えるだろう。そして異変を察知したあの門兵たちが内部の人間に接触するまでの時間をいかに長く取れるかが、今回勝負の命運を分けることになる、と彼女は感じ取っていた。どちらにせよ、供王からの使者が訪れたという報告だけは、すぐにでも伝わる可能性が高かった。頭に合わない甲がずれ、陽子は慌てて被りなおす。ほんの一瞬甲が脱げ、陽子の素顔と髪が光に晒される。
(まずい…!)
だがその時だった。
「やはり…おまえは曲者…!!!」
 運悪く先程の兵卒が、やはりもう一度確かめようと陽子のところに戻ってきた所だった。声が響き渡り、白銀の刃が陽子の上空に振り上げられた。
(しまった!!)
 思わず陽子は腕で顔を庇う。だけど、次の瞬間。

風が、吹き付けた。

「…?!」
 目を見開いた次の瞬間陽子が見たものは、ひとりの男が、襲いかかろうとしていた兵卒を剣舞で昏倒させていた光景だった。
 刀を振り上げたまま目の前で征州師の兵卒は崩れ落ちた。同じ征州師の上等な甲冑が陽子の目の前で色を残す。風のような舞いに峰打ちをされた兵卒は気絶しているようだった。
「…!!」
 陽子は今まで見たこともない剣舞に息を呑む。逆光で剣をふるった男の顔は見えない。甲冑を着た背の高い男だった。虎嘯程隆々としているわけではないが、広い肩幅にくびれた腰を持ち均整の取れたがっちりとした体躯をしている。影の中微かに男は笑う。
「私の目をかいくぐって侵入するとは中々やるじゃないですかぁ…お嬢さん。討伐してやろうと思いましたが…気が変わりました。功労賞として一度だけ見逃してあげます」
ですが。
「見逃すのは…一度だけですよぉ。お嬢さん」
 そう言った次の瞬間。跳躍した男の姿は消えていた。
 呆然と、陽子は消えた男の方を見続ける。陽子は背中に伝う汗を感じた。

 あの男は、何者だ。

 ひとつだけ確かなことは、自分の存在が知られてしまったということ。こうなったら一刻も早く敵の手が回る前に浩瀚を救出しなくてはならない。頭を振り払い、素早く回廊を横切り、目的の東門の開錠間の手前に滑り込む。脳裏を桓魋の言葉が木霊した。
『奇襲は危険な博打だ。敵陣営の地理、人数を把握しない状態では決してやるな。一秒経つごとに、累乗して死の危険性が増す。泣き所は敵と比べた時の圧倒的な装備不足、人数比の不利、軍事において致命的なものばかりだ。だがたった一つの最大の利点を生かせればこれほどの戦術はない。不意をつくことにより相手をよりたやすく淘汰出来る』
声が途切れる。間を置いたその時、桓魋の瞳が静かに光を帯びたのを、陽子は今でも覚えている。叩き込まれたその言葉が陽子の脳裏で反芻される。

『いいか六秒だ。それを超えたら死ぬ。それまでにケリをつけろ』

一度だけ目を閉じ、陽子は深く深呼吸した。そして――。
次の瞬間、陽子は思い切り木の扉を蹴破った。
「?!!」
「何者だ!!」 
門闕の開閉を担当していた兵卒達が、一斉に振り向く。だが、彼らが動き出す時には、陽子はすでに体勢を低くして部屋の内部に駆け込んでいた。そしてその瞬間から、陽子は脳裏で数字を数え始める。
(1‥)
自身の腰から白刃を抜き放つ音が響き渡った。手前にいた兵士の首筋に手刀をきめ昏倒させ、次の瞬間にはすぐそばの柱を蹴って、空中高く躍り上がった。数字が脳内で刻まれ続ける。
(3‥4‥)
投げられた短刀が陽子の甲に弾かれる。衝撃で甲が脱げ、一つに括り上げられて甲に収まっていた陽子の髪が、水底にいるように空中に広がった。
「?!」
「こ、こいつ、女‥!」
だが陽子は怯まない。白刃がきらめき、幾筋もの光の筋がその場に舞う。すべてが一瞬の間のことだった。
 ある者は腰の剣の柄に手をかけたまま、ある者は抜きかけた白刃を晒したまま、刃を交える間もなく兵卒の男たちはその場に倒れ伏した。
 キンッと柄と鞘の噛み合う金属音が響き渡る中、陽子の布の靴底が石畳の地面に着地する音が続く。脳内で数字を数えるのを止め、静かになった空間で、陽子は一つ瞬きした。
今回脳内で数えた数は‥6秒と少し。倒れる兵士の抜きかけられた白刃が床で静かに光を帯びている。先端が鞘から滑りでるまでギリギリだった。なるほど、確かに相手が戦闘態勢を整えてしまえば、こちらは圧倒的に不利。地形を知らねば、奇襲のための戦闘に支障が生じる。
逆に言えば陽子は麦州州城の見取り図を知っていて戦闘に活かせるからこそ、そしてこの開錠間に割り振られていた警備人数を知っていたからこそ、奇襲に出た。今回は甲が弾かれ、陽子が女だと晒されたことが、相手を怯ませて結果的に役に立った。そうでなければ、危なかった。
陽子は城門の鍵を開け、仲間たちに分かるよう窓に赤い布を巻きつける。敵方には気づかれていない。陽子は鋭く周囲を見渡す。
(浩瀚様は‥どこにいる)
 任務を達成した今、目指す先は浩瀚が囚えられているだろう牢獄だ。陽子は低く視線を這わせ、周囲を警戒しながら開錠間を出ようと足を踏み出す。だが、その時陽子は今いる部屋の西側の石壁に、ふと違和感を感じた。
「‥?」
 そっと石壁に近づき、指を這わせる。微かに欠けた石壁のある一つの石が、ほかの部分と違うはめ込まれ方をしていた。
(まさか‥)
 自分の中で湧いた確信に近い考えに、陽子は息を呑む。そして慎重にその石に指を置き少しずつ力を込めた。そしてある瞬間――。
 唐突に重たい音を響かせてその部分が落ち窪んだ。石壁に人一人が通れる程の亀裂が走り、ぬるい風が吹き抜けてくる。更に力を込めて壁全体を押せば、なめらかに壁が回転した。
「うわっ‥!」

 隠し部屋か。

 壁の内部に転がり込んだ瞬間、ゆっくりと音を立てて壁が元に戻る。光の筋が消え、完全に蓋をされてしまえば、そこにあるのはただただぬるい闇だけだった。陽子は深呼吸し、壁づたいにゆっくりと歩き出す。
陽子の中のある予感は、徐々に確信に変わっていく。額から落ちた汗が目にしみる。
(ひょっとしたら‥浩瀚様は‥)
陽子は浩瀚を救出するために、最初牢獄へ向かおうとしていた。だが今思えば、浩瀚が牢獄に閉じ込められているというのは陽子たちの勝手な先入観でしかないのではないか。恐らく彼が本当に囚われている場所は、もっと違う場所なのではないか。それは例えば、見取り図に記されない場所、敵にもっとも知られにくい場所。
(浩瀚様‥)

 暗闇に目が慣れたとき、遠方からぼんやりと鈍い光が滲んでいるのを、陽子は見た。

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 戦場はいつでも激しい喧噪にまみれている。その時一際血の匂いを含んだ強い風に吹かれ、桓魋は目を眇めた。
「無事か、桓魋!」
 遠方からこちらに駆けてくる野太い声に、桓魋は手をひらりと振ってみせる。桓魋は声を張った。
「お前も無事か、虎嘯!気を抜くなよ!」
「任せろってんだ!」
 豪快な声を上げ、虎嘯は手前の兵卒を殴り飛ばす。回廊を駆け抜けながら、桓魋の前でまたひとりをのした。
「お前の方はうまくいったか?!城門はどうなった?!」
「上々だ。こちらは北方西方ともに開錠。南はどうなった?」
桓魋の問いかけに、虎嘯はにっと歯を見せ、浮かべて親指を立ててみせる。桓魋の顔に不敵な笑みが滲んだ。視線が東門闕の方へ滑る。その視界の隅に、赤い布がはためいているのが見えた。桓魋は侵入した州城内部で長槍を握り締めた。
「陽子もうまくやった。ここからは軍が州城になだれ込んで、攻め落とす。あいつと合流して、浩瀚様を救出するぞ!」
「よし来た!!」
 虎嘯は鼻の穴を膨らませ、腰にはいた分厚い刀剣を抜き放つ。桓魋は踵を返し、こちらになだれ込もうと押し寄せてくる。桓魋は少しだけ口元をゆるめた。
戦況も佳境へと入りつつある。
今のところ桓魋たちが目論んだとおりに事は進んでいるように見えた。桓魋たちが今いる場所は維竜州城内部の三階南西の回廊だ。戦況がよく確認できる位置でもあった。眼下では手の薄くなった城壁を乗り越え、維竜軍と奮闘する麦州軍と反乱軍の一部が見える。偽王軍の手が薄い今だからこそ出来る戦法だ。
残るは浩瀚を見つけ出し、この敵陣から撤退する――それが全てだった。城門開放をやってのけた陽子に桓魋は内心で声をかける。
(いいか、陽子‥無理はするな。俺が行くまで無事でいろよ)
 唇を噛めば、かすかな痛みと共に鉄の味がしみた。記憶の中の陽子は紅の髪を翻して笑う。振り切るように、桓魋は視線を研いだ。
 だが長槍を握る手に力を込めたその時、隣の虎嘯が息を呑む音が響く。振り向いた時、先ほどと打って変わって虎嘯が横面に冷や汗を流している光景を桓魋は見た。
「?!どうした?」
「おいおい、桓魋‥!ありゃなんだ?!」
眼下からは怒号と血の匂いが立ち込める。遠方に目を凝らした桓魋は自身の視力が捉えたものに瞠目した。
「な‥?!」
ひょう、と吹き上げた風が髪をなぶった。ばたばたと髪が揉まれる中、桓魋は自分の瞳が乾いていくのを感じた。
背筋を走るのは、戦慄。

絶望的な光景だった。

「これは‥」
 舒栄の動きは驚く程速かった。
 捕らえた浩瀚を餌に、彼女は即座に陣営を組み直し、麦州軍を攻め落とすよりも先にこちらに燻る反乱分子の駆除に力を入れてきた。浩瀚よりも、あと一息で落とせる麦州を諦めてまでここに来る舒栄に得など一つとしてないはずなのに。桓魋と夕暉の読みが外れたか。
謀られた、とその瞬間軍事に通ずる桓魋は直感的に悟る。桓魋が唇を噛み締める中、虎嘯の歯ぎしりの音が響く。
「まずいな‥」

 戦乱の中、桓魋たちの軍の後方から、舒栄の偽王軍が押し寄せてきていた。

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時は少し、遡る。
 ここは慶国、余州のうちのあるひとつ。麦州でも、維竜でもない寂れた場所だ。だが、寂れた場所でありながら、〝そこ〟だけは厳重に警備の網が張り巡らされていた。――鳥籠のように。
その場に佇む浩瀚が桓魋と見間違えた一人の人影と、地に伏せる一頭の獣の視線が交錯する。
身じろぎ一つしないその獣は、ただじっと深い深い紫陽花色の瞳に、感情の読みとれない表情を浮かべていた。
消えていく残照の微かな光が、鈍い金と橙を織り交ぜて浮いている。獣に視線を送る、浩瀚に桓魋を見せた人影はその顔立ちのほとんどを影に浸からせていた。
ことりと微かに首を傾げ、獣に向かって口を開いた。
「お初にお目にかかります」
 部屋の中の、暗さが増した。
「貴方は今、一体何を憂いてらっしゃる。ご自身の処遇ですか。慶の行く末ですか。麦州候の身の保全のことですか」

 それとも。

「すべてに、ですか」
獣は--慶国のたった一頭の麒麟は、何も答えずただ静かにうなだれる。
静謐な空間の中で、人影は瞬きした。
「麦州候は維竜に移送されていきました…。彼を助け出すために、慶国では内乱が起こっています。恐らく彼はまだ殺されない。慶の行く先を案じるのなら、これから先も決して彼を殺させては、いけない…」
暗く冷たい牢獄は風さえも通さないのに、冷えだけはその場を蝕んでいく。そんなこと、貴方は十分にご存じの筈だ そう人影は呟く。
隣にいた浩瀚の視線を思い出すように、人影は斜めに差し込んだ光の中、降り仰いだ。自分を見る驚愕したあの眼差し、彼は、浩瀚は自分に誰の幻影を重ね合わせたのだろう。今となってはもう、知る術もない。
唇から、言葉がこぼれた。
「貴方は今、目の前に誰が見えますか」
神獣は苦しげに目を細める。複雑な感情を湛えた瞳と見合わせるように、人影は--浩瀚が、桓魋を重ねた人物は腰を落とした。その人は知っていた。
浩瀚が見た人物と、今、目の前の神獣は見えている人物が違っているということを。質問内容の角度を変え、その人はもう一度同じことを問う。
「貴方には、私が誰に、見えますか」
神獣がその人に注ぐ視線は、屈折している。愛惜、後悔、諦念、憎悪。その人から返される、彼の視線とは相反したただただ静かな視線に、たまらず神獣の方が目を逸らす。
その人は神獣を見つめながら伏し目がちに、腰に帯びた短剣から、身を引き抜いた。
麒麟…景麒の瞳が見開く。
「もう自由になられたら、いかがですか」
人影は顔立ちに哀愁を溶かしたまま、手にした刃を閃かせる。ちかり、ちかりと青めいた刃が光を弾く。
「後悔が消えないのなら、立ち止まるのは、終わりにしましょう」
何を、とでも言いたげに景麒は困惑してその人を見上げる。だが相反して、その人が見据えるのは慶の麒麟を厳重につなぐ鎖だけだ。鈍い色をはなつ鎖に、刃の先端を突き立てる。鎖が砕ける、音がした。景麒は瞠目する。
「これで‥貴方は、自由です」
 次こそは――今見える人物が、変わっているといいですね。笑んだ形に唇を固めたまま、その人は心の中で呟く。

「慶国に…新しい〝朝〟を」

 何かが揺れる音がする。
景麒が見上げた――浩瀚が桓魋を重ね合わせたその人の笑みは、穏やかで優しいものだった。


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