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 蘭玉の死。
 そのことは、一体陽子に何をもたらしたのか。

 陽子たちはその後、蘭玉の亡骸を出来る限り丁重に葬った。
 彼女を葬る、その刹那の短い時間。陽子の横顔が何を湛えていたのか、それは彼女と長い時間を共に過ごしてきた桓魋にも、読み取ることは出来なかった。
 親友の死を悼む気持ちを、陽子は一体何で蓋をしたのだろう。
 日が静かに、陰る。
そしてその時、その場にいる誰の顔にも穏やかで温かい感情は欠片も見ることができなかった。沈んだ顔、厳しい顔、怒りを露わにした顔、どれもこれもが渋い。桓魋の声だけが浮いた。
「ついに犠牲が出た…。既知の者もいると思うが、もう一度言っておく。罪もない一人の少女が命を落としたことは、ここにいる全員に知っておいてもらいたい」
 桓魋の声が、無言のまま輪を描くように集まった面々に向かって響く。
「ここにいる内の戦力として筆頭となる三名に、維竜州城に内部潜入し、維竜州城城門を開ける役を担ってもらう。既に舒栄はこちらの勢力の存在に気がついているだろう。平常役回りより、より危険な役柄だ。一人は俺、もう一人は虎嘯。そして…」
 ゆるりと桓魋の視線が滑る。
 桓魋たちの中に潜んでいた裏切り者たちは、今は縄を打たれている。声に出すより先に、一人の手が静かに上がった。微かに場がどよめく。その一人を見、桓魋の表情に険しさが増す。手を挙げたのは通常ならその役回りが回るはずだった人物だった。厳しい声が飛ぶ。
「…出来るのか、陽子」
 表情を変えないまま、陽子はただじっと桓魋を凝視していた。桓魋の声は厳しい。普段の剽軽さは微塵も感じられない、軍人の上官としての声だった。
「精神状態が乱れてる奴は使えん。麦州師からの応援により兵力も増えた今、他の衛兵の命運も握る采配だ。任務をまっとうできない奴には任せられん」
 陽子は何も答えない。ただ静かに瞬きして、桓魋を見つめる。やがて、まったく温度を感じられない声で、はっきりと言った。
「出来る」
 桓魋と陽子の視線がぶつかる。
 鈴は思わず息を飲んだ。
 陽子の瞳は静謐さを湛えながら、どこまでも激しく燃え盛っているように見えた。

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 寂れた雑木林の中を、風が静かに吹きすさぶ。
 妙に風が目に染みて、陽子は俯く。
「―――よう、陽子」
背後から聞こえた声に、陽子は振り向く。久しぶりに目にしたその人物に、陽子の目が少し大きくなった。
「…青葉…」
ぎこちなく、青葉は微笑む。陽子も微笑んだつもりだったが、口元を固く歪めることしか出来なかった。
「久しぶりだな。少し…痩せたか?」
青年は肩を竦める。青葉のかつてあった頬の丸みは落ち、痩せたと言うよりもやつれたという印象を受ける輪郭線になっていた。彼も苦労をしていたことが一目で分かる風貌だ。
青葉は陽子達が荘祉へと逃げ込んだ際、浩瀚救出の件を知った麦州師より応援として派遣され、つい昨日合流したばかりの兵卒達の一人だ。
あれほど待ち望んでいた青年との再会は、こんな時でなければもっと嬉しくて気持ちが弾んだはずだった。

 あの後、蘭玉の亡骸を抱えたまま陽子達は早急に維竜から退き、三日が経とうとしていた。一時的に維竜から三里離れた場所にある荘祉という里に身を隠し、もう一度浩瀚救出への案を練り直した。戦案としては、夕刻前のこの時に、再び維竜に攻め込み州城を攻め落とす計画に落ち着いた。日が落ちる前に、桓魋、陽子、虎嘯の三人がそれぞれが維竜州城に忍び込み反乱軍が城内に闖入出来るよう城門闕を開け放ち、そこから攻め込む。夕暉の戦略の元、朝一番に桓魋が出発し、そしてつい先ほど虎嘯が発ったところだった。

「時期が悪かったな…。もっと早く合流できてりゃ…」
陽子はゆるやかに首を振る。青葉はやりきれない気持ちで唇を噛んだ。
亡くなった少女と彼は面識はなかったが、陽子が親友ともいえる人物を亡くしたということは、彼にとってもやりきれなかった。
「!とにかく…こんな所で風に当たってても体に障るだけだ。お前も予定じゃ、浩瀚様救出に向けての出陣ももうすぐなんだろ?な、戻ろうぜ、陽子」
うん、という頷きを確認した青葉は、半ば無理矢理陽子の腕をとって歩き出す。
 陽子の顔から拭えない寂寥間に、青葉は何も言葉を返すことが出来なかった。
青葉は唇を強く噛む。
みんな陽子は強いと言う。友の死の悲しみからもすぐに立ち直り、すぐに浩瀚救出に気を持ち直した強い女性だ、と人は彼女を称する。確かに陽子強い。でも、陽子をよく知る青葉は囁かれていることは違うと断言できた。そんな馬鹿な。そんな器用な奴だったら、陽子と時間をともに過ごしてきたあいつもここまで苦労しない。
割り切れるもんか。――割り切れるはずが、ないじゃないか。
思わず彼は陽子の腕を強く握った。
「…陽子、それでも…その子の死の上で立ち止まるなよ」
 桓魋のことを思い出す。桓魋と再会したとき、彼はただ力強く青葉を抱擁してくれた。生きていてくれてありがとう、そう呟いた青葉にとって生涯の友の声が震えていたことに彼は気がついた。
その時、亡くなった少女はひょっとしたらある意味、幸せだとふと彼は思ってしまった。同じ友をかばって死にかけた立場として。
 だってもしあの時――陽子と桓魋を逃がした時、自分ももし死んでいたら。桓魋も今の陽子のようなこんな顔をしてくれていたら、自分は心から生まれてきて良かったと思えるだろうと思ってしまった。

 その感情が桓魋の悲しみと矛盾しているものだとしても。

「その子はきっと、後悔してない。その子はきっとお前が前に進むことを望むだろう。お前なら…前向いて歩けるよ。その子の死から、悔いのない選択が出来るよ」
心配そうに顔を曇らせる青葉に、陽子は表情から無理矢理憂いをぬぐってみせた。
心配かけて、すまない。それだけ言い残し、陽子は足早に自陣に向かって駆けていく。
青葉も未だ顔を曇らせたままだったが、陽子の後を追った。陽子の後ろ姿は小さくなっていく。だが、その時目先を駆けていた陽子が突然ビクリと足を止めた。
「?」
陽子は動かない。
不審に思った青葉はもう一度、陽子の名を呼んだ。
「?陽子?」
雷に打たれたように立ちすくんでいる陽子に、どうした、そう叫びかけた時だった。青葉の目線が雑木林を抜けた先の、陽子の視線の延長線上にとまる。
その瞬間、そこにあったものに青葉の瞳が開け放たれた。
日の光を背に濃い影を地面に落とすシルエット、振り向く相貌に陽子に追いついた青葉の足が止まる。
「え…?」

 それは決してこの場にいるはずがないものだったのだ。

 青葉が口を開いたその瞬間、陽子の声だけが大きく響きわたった。

「蘭玉!!!」

え、と青葉のただでさえ丸みを帯びた瞳が円になる。彼が何かを言う前に、陽子は視線の先に佇んでこちらを見つめる少女に向かって駆けだしていた。
「おい!陽子!!」
青葉の手が伸びる。だけどその手は陽子を掴み損ねて空を切る。陽子は風のように走り抜けていく。
「蘭玉!!」
青葉が何かを叫んだ気がしたが、陽子には聞き取れなかった。雑木林を抜けた、広途に立つ少女めがけて陽子は ただがむしゃらに、駆ける。蘭玉は陽子に背を向け歩きだした。
「待ってくれ、蘭玉!!」
そんな馬鹿な。死者が蘇るはずがない。脳裏に蘭玉を葬った光景が過ぎるが、それでも胸の鼓動は痛いぐらいに高鳴っている。目の前にいるのは紛れもない蘭玉その人だった。
目の奥にこみ上げた熱い固まりを、陽子はなんとか飲み込む。蘭玉の歩みは止まらない。ただゆったりと散歩をしているように歩いているだけなのに、訓練で鍛えられた足を持つ陽子が追いつきそうになかった。
蘭玉の背はますます小さくなっていく。
「蘭玉!!」
なぜ、止まってくれないんだ。そう思いながら息を切らして追いかけて、角を曲がった瞬間、陽子は驚いて足を止める。
 視線の先で蘭玉が足を止め、こちらを振り返っていた。
「蘭…」

 名を呼びかけたその時だった。

「え…?!」
 蘭玉の姿が目の前で崩れた。蘭玉の纏う空気が歪み、陽子は自分の見ている光景に愕然とする。蘭玉の後ろ姿を持つ少女は――蘭玉ではなかった。
 いや、違う。正確には、蘭玉と思った少女の中に別人がいた。
ふわりと空気が溶けて裂け目ができる。少女はまるで、透明な袈裟でもかぶっているようだった。空気の切れ込みから、興味深そうな濃紫の瞳が覗いている。
陽子の息が止まる。
白磁の肌。ふっくりと艶を帯びた桃の唇。そして‥そして、顔周りを彩る髪は、柔らかな光沢を纏った、ふわふわとうねる――金。麒麟。

一気に様々なことが起こりすぎて、何が起こっているのか分からない。陽子は呆然と佇む。ふと目線を上げたとき、さらに言葉を失った。
鐘楼の上、とても人なんか登れるはずのない天空に突き出たその屋根に、ひとりの少年が腰を下ろしてこちらを見ていた。かつて出会った少年、六太が。濃いなめらかな金の髪を風に靡かせて。
言葉もない陽子の目の前で、金の髪の少女の傍に女性のように美しい紫紺の髪の男性が歩み寄る。少女に何かを囁き、彼女は微笑んで小さく首を振る。少女は陽子に向かって、微笑みを浮かべたまま、小さく指に人差し指を当ててみせた。
空気の裂け目が溶け消えて――再びそこに蘭玉が現れる。
蘭玉は、陽子に向かって手を振った。まるで友愛のしるしのように。でも気がつけば陽子は――踵を返してその場から駆け出していた。逃げるように。振り切るように。駆け抜けた先に、陽子を追っていた青葉と鉢合わせた。
「青葉!」
「陽子!」
 良かった無事で、と息を切らす彼に、陽子は一気にまくし立てる。
「今、今青葉も見たよね?!黒髪の女の子がいたの…!」
 だが、彼は一際難しい顔をしていた。
「…いや。そんな子は見ていない。俺はお前が取り憑かれちまったのかと思って慌てて追いかけてきたんだ」
「え…?」
 あそこの木陰にいた影だろう?と青葉は首を捻る。
「だって俺が見たものは…人ですらなかったから」
 混乱する。何もかもがごちゃごちゃだ。あれは蘭玉じゃない。麒麟の少女が重なって、本当は自分でも分かっていることに気がついている。強く強く唇を噛み締める。舌に血の味が這う。

蘭玉から最後に贈られた言葉が耳元で響いた。
『大好きよ、陽子』

ただただ、泣きたい気持ちがした。

:::::


 地表の砂粒が風で洗われていく。駆ける少女が巻き起こす風がさらに砂を舞い上がらせる。
たったひとり、内部侵入を試みるため維竜州城の前に駆けてくる陽子の目の前に、門兵たちが立ちはだかった。
「貴様、何者だ!!」
 鈍い光を放つ長槍が一斉に動く。ほとんどが陽子に突きつけられる中、その内の二本が門闕の前で十字に重ね合わされ、来訪者を通す意が無いことを示す。
 だが槍の切っ先を突きつけられても、少女は何も言わずただ俯いているだけだった。門兵のひとりが声を張る。
「名を名乗れ!怪しい奴め‥。貴様反乱軍の者だな?!」
 陽子は何も答えない。いらいらと先ほどの兵士が声を上げた。
「そうか。いい度胸じゃないか。名乗る気がないのなら、引っ立てるまでだ!おい、こいつを連れて‥」
 その瞬間、低い声がその場を這った。
「口を閉じろ」
 空気が凍る。
 一瞬誰が声を発したのか理解できなかったのか、兵卒が目を瞬く。それが目の前の少年に似た少女が発した声だと気がつくのに、数秒かかった。
 少女の瞳がゆるりと鋭さを帯びて持ち上がる。
「私を誰だと心得ている。そのような振る舞いをするとは慶国の品位は地に落ちたか」
 兵士たちの顔に怒りと困惑が同時に描き出される。
「‥どう言う意味だ」
「出会い頭に客人にいきなり槍を突きつけるとは、慶は話も通じぬ大層野蛮な国と成り下がったかと訊いている」
 怒りと困惑、兵士たちの表情に描き出される感情の比率が、怒りの方に大きく傾く。
「ええい、どういうことだ!虚勢など張って何が目的だ!お前は一体、何者なんだ!!」
陽子の瞳が鋭く輝く。
胡散臭そうに眸を細める兵士の目前に、陽子は懐から取り出したあるものを突きつけた。ずいと突き出されたそれに目を走らせた兵士の表情が、胡散臭さを滲ませたものから徐々に強張り、青ざめる。
「これは‥!」
周囲から悲鳴に似た声が上がった。陽子の瞳が薄く細まる。陽子の手の中で、それは高らかにその価値を叫んでいた。一見してただの旌券だ。だがその裏書として押されているのは――。

供王御璽

兵士たちの顔が青ざめ、周囲の感情が困惑の方に大きく揺れる。そしてそれを感じ取った陽子は畳み掛けるよう、声高に叫ぶ。
「私は恭州国国主、供より慶を見聞するよう派遣された使者だ!内乱が落ち着いた日には、供王祭晶様は現在の仮主である舒栄殿を王と認め、慶国と交易を結ぶことをお望みだ!!供王直々の使者に対しこのような無礼を働きつづけるならば、慶は恭に対し含むところがあると見るが、よいか!!!」

 どうだ。この揺さぶりが、果たして効くか。
 だがお前たちは今少しでも後ろ盾が欲しいはずだ。それが他国の王ならば、願ってもないことだろう。安定した治世を行う、史上最年少の有能な王として名高い少女王の庇護とくれば、舒栄は喉から手が出るほど欲しいはずだ。そしてそれはお前たちだって痛いぐらいに感じているはずだ。
 脳裏を自分に手を貸してくれた珠晶の顔が過る。陽子は心の中で彼女に向かって静かに頭を下げた。兵士たちがどよめくが、陽子は視線を鋭くしたまま崩さない。

さぁ、私を維竜州城内部へ通せ。浩瀚様救出への道を拓け。

陽子は門闕の前で絡み合った長槍を睨む。
兵士たちの困惑が増す中、陽子は旌券を握り締めたまま、痛いほどに彼らを睨みつける。
先ほどのことは未だ陽子には整理がつかない。蘭玉の外観を持っていた、うねる金の髪の下でこちらを見つめる少女の瞳、そして金の髪をなびかせる六太の輝きはきっと忘れられないだろう。
なぜ、青葉と陽子が見たものが違ったのか。なぜ、六太が、彼があんな所にいたのか。その理由など陽子は知らない。推測できるわけもなかった。知ってしまった彼の正体について言及する気も今はない。
だけど‥先ほどの出来事は、沈みかけていたある決意を陽子に固めさせた。視線を研いだまま、陽子は死んでしまったひとりの少女に向かって心の中で誓う。

 ねぇ、蘭玉。私が今からしようとしていることが、これからどうこの国の未来に繋がっていくのか、そんなことわからない。
 でも、やれるだけやってみる。青葉が言うように、立ち止まりたくない。やる前に諦めることはしたくないんだ。浩瀚様を救うために、蘭玉との約束のために自分の出来るすべての方法を使って足掻いてみる。私は…私たちの運命を狂わせたこの国を。貴方を死なせたこの国を。憎しみしか感じないこの国を。

この国を、守るよ。 



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