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「蘭玉!!」
 陽子の声だけが、虚しく木霊する。駆けつけた桓魋は蘭玉の容態に、唇を噛んだ。仲間の死を幾度となく見てきた軍人的直感が彼に告げる。
 助からない。
その直感は、彼と同じようにその感覚が研ぎ澄まされた陽子も感じているはずだ。ひどい傷、そしてその傷口からにじむのは、既に致死量であっておかしくない血だった。それでも蘭玉は微笑んでいた。
「間に…合った」
そっと蘭玉は、陽子の頬に手を当てた。
「蘭‥玉…」
 声が凍り付いている陽子に、蘭玉はほのかに苦笑を漏らす。
「なぁに?幽霊でも見てるみたいよ、陽子。私はまだ生きているわ…」
 まだ生きている。「まだ」。
蘭玉の状況は、限定をつけたその表現が悲しいくらい馴染んでいた。
それでも、陽子は諦めなかった。
「何だよ、その言い方…!」
 陽子はその手を強く握る。力を失くしかけている蘭玉の指が、不揃いに陽子の手のひらの中で重なる。蘭玉は静かに首を横に振る。力の抜けた穏やかなその笑みを、自分はつい最近見た。彼女の笑顔は好きだ。でもこんな形でこの笑顔との再会なんて望んでない。 
微笑んだまま、蘭玉は囁いた。彼女の白い指先が、温かい雫をすくう。
「泣かないで。陽子」
 自分が泣いていることに、陽子はその時になって気がついた。蘭玉の笑顔と共に「あの時」の記憶が浮かび上がる。こんな時に、どうして。

 思い出すのは、ありきたりの日常なんだろう。


『‥綺麗ね』
 柔らかい声がふりかけられる。その夜、青い月明かりを浴びる壁にもたれていた陽子は、ゆっくりと視線を上げる。振り返れば、そこで蘭玉が微笑んでいた。
『‥そうだな』
 空に雫のように浮かぶ月に、陽子は目を細める。隣に並んだ蘭玉も、揃って月を見上げた。月を瞳に映しながら、何かを考えていたように遠くを見つめていた蘭玉が、静かに言葉を紡ぐ。浩瀚救出に向けてここを発つまで、あと二日という日だった。
『ねぇ、陽子。知ってる?』
『?何をだ?』
 蘭玉はくすりと笑う。白くて柔らかい指が、まっすぐにある一点を指した。目を凝らせば、月明かりに溶けいるように、静かに佇む大きな木のようなものが見えた。柔らかそうな花を空に向かって開く、不思議な木だった。陽子はその大きな木に向かって歩んだ。
『‥これは‥』
幹はつるりとなめらかで、陽子は表面に指を滑らせる。蘭玉を振り返れば、彼女は陽子のとなりまで歩んでゆっくりと口を開いた。
『純恋花、って言うんですって。想い人がいる男女が、ここに願えば幸福が訪れるっていう話よ。催上玄君が各国に与えたと言われている不思議な花の木。まさかもうおとぎ話と言われているこの木がこんなところにあるなんて、思ってもみなかったけれど‥』
 え、と陽子は木を振り仰ぐ。見た目は本当に普通の大木にしかみえない。ただ夜に柔らかな花びらを揺らしているのだけは確かにあまり見ないものだったが。
『そう‥なのか』
 呟くように零した陽子は、じっと擦れた男女の名を見つめる。想い人、脳裏を過るその人の顔に、陽子は軽く苦笑する。ぽつりと、陽子は蘭玉に呟いた。
『蘭玉は…誰か、想う人はいるのか』
 蘭玉はきょとんとする。その反応になんとなく気恥ずかしくなって、悪いことを訊いたわけでもないのに、陽子はつい早口に付け加えた。
『い、いや。蘭玉の恋の話なんて、昔から一緒にいるけれど、あんまり聞いたこともなかったし…。ちょっと気になったんだ』
自分も、恋の話なんてしたこともないが。そもそも、自分は恋をしたことがないから言い出せるはずもなかった。目を泳がせる陽子はちらりと蘭玉を見る。そんな陽子を目を瞬いて見ていた蘭玉は――思わずクスッと笑った。
『そういう自分がどうなのよ、陽子?』
『え!わ、私はまだそんな恋なんて…』
『ふふっ…冗談よ。』
そうねぇと少し含んだように蘭玉は悪戯っぽく陽子を見つめた。
『大切な人…まずは桂桂でしょ。そして…やっぱり、忘れられないのは初恋の人かしら?人は生涯でただ一つ、真剣な恋をするというと誰かから聞いたの。そして…それは初恋、なんですって』
 陽子は身を乗り出した。
『え?!蘭玉の初恋なんて初めて聞くぞ。一体どんな人なんだ?想いは伝えたのか?』
その時の蘭玉は遠くを、思い出を見つめるように目を細めた。
『こんな格好良い人いないって当時、思ったわ。それは今でも間違っていないと思う。私が知る中で最高に優しくて、男前な人よ。でも…伝えてないわねぇ。だって…』
『…だって?』
 蘭玉はおかしそうに笑った。
『その子、私が男の子って勘違いしてた…女の子だったんだもの』
え?と今度は、陽子が目を瞬いた。
『残念だわ。それを知った時は、正直ちょっと落胆しちゃったもの。でも、今になって思えば、彼女は女の子としてもとっても魅力のある人だった。猛烈にね。本当に、どうしてみんな気がつかなかったんだろうってくらいに。でも、ずっと彼女の傍にいた彼だけが――それに気がついていた』
悪戯っぽく蘭玉は瞳をきらめかせる。陽子は頭上に?を浮かべたまま、目を白黒させていた。
そんな陽子を見た蘭玉は、ふわりと微笑む。衣を靡かせて、臥室へと戻っていく。陽子は慌てて声を上げる。
『ら、蘭玉?』
『ふふっ 私はもう寝るわ。風邪ひいちゃダメよ?』
 目を丸くする陽子。姿を闇に溶かしていきながら、そうそう、と最後に蘭玉は声を上げた。

『私の初恋は‥貴方よ。陽子。好きな人と幸せになってね』

 月明かりの中、目の前の少女は――笑った。


 記憶の中の笑顔が掠れていく。同時にゆっくりと目の前の現実が押し寄せてきて、陽子は目を見開く。唇がわなないてしかたない。
 陽子の目の前の、血の気の失せた蘭玉と記憶の中の蘭玉が重なって消えていく。白くなった口端を引いて、蘭玉は薄くわらった。
「ごめんね、陽子‥」
陽子が握り締める蘭玉の手の温度は、緩やかに落ちていく。反射的に、陽子は言葉を吐いていた。
「何言ってるんだ‥!謝るな、蘭玉」
 言葉がふるえる。海は遠いのに、風が塩辛い。目にしみて仕方ない。刺されるように、肌全体が痛む。その時、遠くから車の駆けつける音が響いてきた。虎嘯たちが、陽子たちの元まで駆けてくる。陽子の新しい友人となった人々が蘭玉の頭をよぎり、彼女は目を閉じる。
「いいえ‥謝らせて。だって‥私は、最後に貴方に‥酷いお願いを‥しようと…している」
力が抜けていく中、蘭玉は陽子に声を絞る。掠れた声で、陽子は頷いた。
「…何を、して欲しい…?」
閉じかけられた蘭玉の目尻から透明な筋が滑り落ちていく。
真っ直ぐに。一線。
陽子。…陽子。

「慶を…慶を…救って…」

声が、涙で、濁った。陽子の瞳が開け放たれる。蘭玉は祈るように思った。
どうか。‥どうか。大嫌いなこの国を。腐りかけたこの国を。私にとって、桂桂にとって、ただ一つの故郷である――この国を。
この国は、私たちに酷な運命しか与えなかった。でもきっと、こんなことを貴方に頼む私はもっと酷い。
貴方にさらに酷な道を歩むことを頼む私を――どうか許して。それでもただひとりの弟を与えてくれたこの国を、貴方と引き合わせてくれたこの国を憎めない私を――どうか許して。
そして最後に一言だけ、言葉を言わせて。

蘭玉は、微笑んだ。

「大好きよ。陽子‥」

 陽子の眼が開け放たれる。唇から、あ、とか、う、とか意味もない言葉だけが漏れて、ぶるぶる震えた。涙の水面で翡翠の瞳が歪む。
思考も、意識も、視界も、何もかもが白く淡く消えていく。頬に振り落ちる陽子の涙の温かさに、蘭玉はほっと瞼を下ろす。
目の前で咆哮を上げるように泣く親友。辿り着いた虎嘯たちがこちらに向かって駆けてくる光景さえもゆるやかに消えていく。
想いの先には何があるのだろう。それでもきっと、自分がそれを見ることは出来ないだろう。
だけど。それでも。彼女は――願う。

 そしてどうか、幸せになって。

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 時は少し遡る。
 砂が舞い、風に煽られ空中に散っては消えていく。
 不意に胸にこみ上げた吐き気に、浩瀚は苦しげに眉を寄せた。

「‥ぅ」
 ガタガタと身体に伝わる振動を感じながら、浩瀚はぼんやりと空を見る。
 途切れていた意識がゆっくりと戻って、頭の角度を変えれば、差し込んでいた光が目を打った。時折、風に煽られた乾いた砂が舞い込んでくる。
(ここは‥)
 鈍い頭痛が疼く。
変化のない暗闇に閉じ込められ〝今〟がいつなのか、それさえも推察からしか測り取れない。あれから十年が経っていると言われても、今の彼ならば納得したかもしれない。麦州から攫われてから、どれだけ経ったのだろう――。
(‥皆、無事なのか‥?)
 現在、浩瀚はどことも知れぬ場所へ身柄を移されている途中のようだ。攫われた当初は死を覚悟していたが、これまでのところ、一向に殺される気配はなかった。だがこれからのことは、浩瀚自身にも予測がつかない。
 偽王軍は、中央の官吏――靖共派の人間たちの寄せ集めだ。
うめき声を上げながら、浩瀚は眉間に指を滑らせた。
 麦州は、麦州は一体どうなったというのだろう。桓魋は、陽子は?彼らは今もなお旅を続けているのだろうか?台輔は、まだ囚われたままなのだろうか?自分は今、「情報」を削ぎ落とされた場所にいる。唐突に、鋭い揺れが浩瀚をなぶった。
「‥?!」
 乗せられていた車が止まり、車輪がきしんだ音を立てた。偽王軍の兵卒に引っ立てられ、浩瀚は車から下ろされる。また、暗い閉塞した空間だ。頑丈に石壁に覆われ、自分の目先には、この空間よりもさらに深い闇が滲むように見える。無機質な、捕虜の受け渡しについての事務事項が述べられるのが聞こえた。
「麦州侯浩瀚、只今到着いたしました」
「了承した。ここからは私が請け負う。ご苦労だった」
 どこかで聞いたことのある声音だった。声音を聞いたその瞬間、浩瀚の顔が弾かれるように跳ねる。踵を返して消えていく、自分を下ろした偽王軍の兵卒の足音と、車の車輪の回る音。
目の前にいる人物が視界に入った瞬間、浩瀚の目が見開く。
浩瀚にとっては自分を見張る兵卒の首がすげ変わるだけのはずだった。でも、そこにいたのは――。

桓魋だった。

「桓‥魋…?」
体が動かない。目の前の青年が、桓魋が微笑む。桓魋と同じ声色が、流れる。
「貴方が…麦州侯 浩瀚?」
その瞬間戦慄が走るように、違う、と浩瀚は思った。
記憶の中の桓魋の笑顔と、この男の笑顔は同義では結べない。顔の造作は、桓魋と同一のものなのに。浮かべられる表情の種類が違う。
浩瀚の背筋を冷えが這った。

じゃあ…誰だ。
桓魋の顔をして、桓魋の声を放ち、桓魋の体を持つこの男は、誰だ。
 敵なのか。味方なのか。どちらでもないのか。

「こっちへ。貴方に会わせたい人がいるんだ」
 桓魋が、浩瀚を案内する。彼の屈強な後ろ姿を困惑して見つめる浩瀚は、招かれるまま、鉄の臭いが立ち込めた牢獄に足を踏みいれた。暗闇に視界が呑まれる。やがて目が慣れ、静かに牢獄の輪郭が浮かび上がる。薄い光が差し込んだ、瞬間だった。
浩瀚は目を見開いて絶句した。

 そこにいたのは、静かに頤を前脚に埋めた、一頭の美しい獣だった。

 折れそうなくらいほっそりとした白い脚。逃げられぬよう嵌められた重たく冷たい鉄枷が、そこに組み合わさることで悪質な矛盾を表現しているようだった。
 それがこの国の台輔だということを理解するまで、数秒かかった。
 目の前の偽の桓魋といい、この短時間のあいだに次々と趣味の悪い冗談が交錯していく。自分は夢でも見ているのかと、現実主義者の浩瀚はらしくもなく思った。
 浩瀚は血の気の失せた紙のように白い顔で、青年を見つめる。青年も、まっすぐに浩瀚を見つめた。その双眸に灯る光が、彼の瞳に映し出された浩瀚と重なる。
 桓魋の容姿を持つ青年は、浩瀚を見つめたまま囁いた。
「いきなり申し訳なかった。突然こんなことになって、すぐには飲み込めないと思う。だけど台輔とお会いできるのは僅かしかないんだ。偽王舒栄が隠しておきたい者はあなたと台輔。隠し場所が限られている今、同じ場所に幽閉されているだけだ。もう一つの場所が整い次第、貴方はここからすぐに移される。〝外〟も騒がしくなってきたみたいだしね」
浩瀚はただただ呆然と、男の顔を見つめる。彼が知る桓魋と随分と口調が違う彼を。〝今〟が一体いつなのか、目の前にいるのが本当に台輔なのか、桓魋としての要素を持つこの男は何者なのか、何もかもが定かでない。でも、ただ一つだけ言えることがあった。

今、浩瀚を見つめるのは彼よりもずっと年かさを重ね、戯れという遊びを知った瞳だ。
時間という概念を達観した、生に飽いたふうにも見える瞳。

 自分は一人だけ、目の前の彼の他にこの種類の笑みを浮かべる人間を知っている。

「おま…え‥は…」

 誰だ。

〝桓魋〟が微笑む。
その顔に馴染むのは、貴人である浩瀚にさえ浮かべることが出来ない、達観した穏やかな笑みだった。 


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