back index next


 突然迷い込んでしまった馴染みのない異世界。
 少女はそこで――怯えと懐疑(かいぎ)を知った。

 人の行き交う音が、ゆっくりと陽子の耳元に戻ってくる。陽子は恐る恐る震える指先を、上空に向かって掲げてみた。
(どうして…色が違うのかな…?)
 幼い少女の目の前にあるのは自分の手のはず、だった。だけどそれは見慣れた白い指先ではなくて、太陽でこんがりと焼かれた褐色に染まる指先だった。自分の顔まわりを彩る赤の髪に、陽子はぺたぺたと指を這わせる。なんだか、触り心地も今までと違う気がした。
 様々な変化に、しばらくぽかんとしていた陽子だが、徐々に陽炎を追った本来の目的を思い出す。
(おかあさん…探さなきゃ…)
 陽子は髪から手を離し、地面に手のひらをついて立ち上がる。自分が今いる場所は建物と建物の隙間のようで、道には深い影が落ちていた。後ろを振り返ってみるが、陽子が走ってきた馴染んだアスファルトの道は見えなかった。そっと陽子は建物の影から人が行き交う大通りに向かって顔を覗かせる。
(おかあさん…どこ…?)
 表情に怯えを含ませながら、陽子はそろそろと足を路地に向かって踏み出す。そっと人ごみに交ざった陽子の耳に聞こえてくる言葉は、少しも馴染みのない音の羅列にすぎなかった。不安げに眉根を寄せる少女は辺りを見渡す。誰かに話しかけようかとも思ったが、それを実行するだけの勇気は今の陽子には無かった。自分よりも背の高い大人たちが足早に歩き去っていく中、陽子は懸命に母の姿だけを視界の中に探す。

 だけど、歩けども歩けども母の姿を見つけることは、陽子には出来なかった。

 震えながら、陽子は歩みを止めて途方に暮れる。人ごみからそっと離れ、それでも諦めきれずに、陽子は目を凝らして見慣れない景色の中に、見慣れた姿を見つけ出そうとした。
 呆然と佇む陽子。その時――誰かの腕がぽんと小さな少女の肩を叩いた。
「!」
(おかあさん?!)
 ぱっと期待に満ちた目で振り返る陽子。だが次の瞬間、失望がありありと少女の表情に描き出される。振り返ったそこにいたのは…母ではなかった。

 陽子の肩に手を置いていたのは、年の頃三十程のひとりの男だった。

 陽子が今まで見たこともない不思議な灰がかった群青色の髪をしており、肌は今の陽子と同じように褐色に染まっている。外国人のような鮮やかな鳶色の目をしているのに、顔立ちは陽子が日本で見ていた人々と似ていた。
 陽子の肩に手を置いた男は何か陽子に語りかける。だけど、それがなんと言っているのか、陽子にはまるで分からなかった。不思議な音の羅列に陽子は眉根を寄せる。
「え…?」
 男は一瞬不思議そうな顔をする。陽子も小首を傾げて不思議そうな顔をするが、その時、今まで勇気が出なくて訊けなかった母のことを訊ける機会だ、ということに気がつく。  
 はっと顔を上げた陽子は目の前の男に向かって弾けるように語りかけた。
「おじさん!」
 男の顔に何かが走る。その瞬間、男はギョッと陽子の肩から手を離したが、陽子はそれには気がつかず、ただ必死に母のことを知りたい一心で声を上げた。
「おじさん、おかあさん知らない?あのね、あのね!わたしがお昼寝してたら、おかあさんがおへやからいなくなってたの!だからね、わたしおかあさんを探しておそとに出たんだけどね、そうしたら、おそとでおかあさんみたいな人見つけたの。それでね、それでね!追いかけたんだけど、おかあさん待ってくれなくて、それでも一生懸命追いかけたら、そうしたらわたしここにいたの!ここはどこなの?おかあさんはどこ?おじさん知ってる?」
 陽子は一気に言葉をまくし立て、言い終えた瞬間、大きく肩で息を吸った。乾いた唇を舐め、期待を込めた目で目の前の男を見上げる。だが――。
「え…?」
 ぽかんと陽子は口を開ける。目の前の男は何も言わず、ただ気味悪そうな目で陽子のことを見つめ、後ずさった。応えがなかったことよりも何よりも、その異物を見るような視線が、何より陽子の心を突き刺した。男は一言、口の中で何か呟くと、足早に陽子から踵を返して人ごみの中に消えていこうとする。陽子は慌てて男の後を追いかけた。
「??お、おじさん!待って!」
 たたらを踏みながら、人波に揉まれながら、陽子は必死に男を追う。だけど、小さな子どもが大の大人の歩幅に追いつける筈もなく、男の姿はあっという間に陽子の目の前から消えていった。陽子が男の服を掴もうと、伸ばした腕は空を掻く。瞬間、陽子は地表の砂粒に足を取られ、盛大な音を立てて転んだ。
「う…い、いたい…」
 痛みに呻きながら陽子が視線を上げた時には、先程まで見えていた背中はもうどこにも見ることは出来なかった。恐る恐る見た膝小僧はすりむいて細かい赤い線がいくつも刻まれている。
 大きな路地の真ん中で、その時陽子は一人、へたりこんで男の消えた方角を見つめる。周囲の人々は陽子のことなど見向きもせず、人波は円滑に流れていく。

 小さな子どもの影が、その場にぽつんと濃く落ちていた。

:::::


「よお!桓魋、最近どおよ?お偉方とは上手くやってるか」
 ぴたりと桓魋の広途を歩く足が止まる。背後から響いた久々に聞く旧友の声に、桓魋は振り返る。そこでニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる男に桓魋は盛大なため息をつく。桓魋は笑う男に一瞥をくれ、苦い表情を浮かべる。
「なーにが『よお!』だよ。連絡もよこさなかったくせに、いっつも藪から棒に現れるんだな、お前は…」
 男は口元の傾斜を深くして、桓魋の肩に腕を回し、遠慮ない力加減で叩いた。にやにやと応えを待つ旧友に桓魋は苦虫を噛み潰した顔のまま、呟く。
「残念だったな、あいにく俺はお前が思うようなお偉方と接触出来るような身分じゃない。一端の兵の一人に過ぎないんだよ、俺は」
「へえぇ?俺は半獣の青辛 桓魋がここの州侯に気に入られたって聞いていたんだが?」
「浩瀚様が?まさか。俺は一度お会いしただけだ。隊から弾かれなかったことの方が俺にとっては奇跡だ」
「これでも心配してたんだぞ?お前のことだから上手くやってるとは思ったけどな…」
「調子がいいんだよ、お前は」
「まぁ、そう言うなって!せっかくこんな場所で会えたんだ。少し飯でも食いながら話していこうじゃないか」
 バシバシと背を叩く旧友に桓魋はがっくりと肩を落とす。時刻は丁度一日の中でも熱を一番に(はら)む昼下がり。この男がこの時間帯を狙って現れたことは疑う余地もないことだった。軽く頭痛がし始めた頭を抑えるように、桓魋は(てのひら)を額に当てる。当の旧友は既に桓魋の袖を引っ張りながら、甘味処へと足を伸ばしていた。一度こうすると決めたら曲げないこの男の生態を思いだし、桓魋は大きく息をつく。
「…食ったら帰れよ」
「おっとつれないねぇ。半獣であるお前が州師になったことを心から喜んでいる友人との再会を喜ぶ気はないのかい」
「あいにくお前限定で、そんな気は持ち合わせていないんでね。本当にすまないがお前限定で」
「うわ、酷ぇ!」
 それでも、からからと笑いながら、男は楽しそうに甘味処の暖簾を潜った。光になれた目が薄い暗がりに眩むのを感じながら、桓魋も続いて暖簾(のれん)を潜る。(いす)を引いてくれた店の娘に礼を言ってそこに腰掛ける。店娘に じゃあ団茶を二つ~ と間の抜けた声で注文を取る男を桓魋はため息をついて見やった。娘にちょっかいをかけて叩かれる旧友に、桓魋は一文字に結んでいた唇を開く。
「で?今回は何が目的だ」
 ん?と顔を上げた男に桓魋は言葉を畳み掛ける。
「何が目的だって訊いているんだ。お前がおれを探し出して接触してくる時は大概ロクなことが無い。いや、あった試しがない」
「悲しいねえ~。そんなに信用ないのかい、俺ァ」
「悪いがお前を信用したことは無い」
「ひっでぇなあ。何をそんなにピリピリしてるんだよ?あ、そうだ、女か!女に振られたんだろ?そうだろ?」
 そうかそうかとおどけて肩を竦めて見せる旧友に、桓魋は視線をゆるめないまま、彼を見据える。なあ、どんな女に振られたんだよ?と茶化す久しぶりに会った旧友との思い出が桓魋の中で流れていく。目の前で笑う男は名を曹真(そうしん)といった。手間のかかる男で、これまでで良い思い出は悪いが無かった。

 振り返ってみれば、仕えの家公のお気に入りの皿を割ってしまったからなんとか工面してくれないかとか、盗んだ金の隠し場所がバレて根こそぎ盗られてしまったから取り返すのを手伝ってくれ、だとか吐き捨てるくらいに下らないことばかりだった。

 ふざけ続ける旧友に、桓魋は視線を鋭く研ぎ、ひたと見据える。
男はへらりと笑ったまま、桓魋を面白そうに見ていたが、今ばかりは冗談の通じなさそうな彼の表情を見て、ふぅと息をついた。
「そう怖い顔すんなって。だぁーから振られるんだっての。今回はお前にとってもオイシイ話なんだから、少しくらい聞けって」
 心外そうに俺は振られてない、と桓魋は鼻を鳴らす。そして視線を鋭くしたまま、それに…と試すように桓魋は片眉を跳ね上げた。
「何を頼みに来たのかは知らんが、おれにはその気がないぞ」
 瞬間、男はふざけるのをやめてぴたりと桓魋を見る。曹真はそれからしばらく桓魋を見ていたが、やがて何か含んだように、地面と平行になっていた口元の線が歪んだ。
 幸か不幸か、その時二人の目の前に団茶が運ばれてきた。柔らかく湯気を燻らせる団茶は、大の男が向かい合う中間の場所にはあまりにも不似合いな代物だった。
 じっと桓魋に視線を寄越したまま、ふいに曹真は嗤う。団茶に口づけ啜る濁った音がやけに大きく響いた。
「聞く前からそう早まるなよ。さっすがは青 辛。確かに俺がここにきたのはお前さんと会いたかったからだよ。ちょぉっと頼まれて欲しいことが有るんだよねぇ」
「頼まれて欲しいこと?」
 すっと不愉快げに目を細めた桓魋に、曹真は団茶に口づけたまま嗤う。友達だろ?と続く声を桓魋は聞こえない振りをした。男は湯呑みを円を描くように揺すりながら、目だけはひたと桓魋を見据え、続ける。
「俺の仕事を手助けして欲しいんだよ。今回の事業はお前なしじゃあ少々辛くてな。手伝ってくれたら御の字、謝礼も弾む。もし無理なら、俺はお前の知っている情報を俺に分けて欲しいんだ」
 目を僅かに見開く桓魋の耳に、お前、州師になったんだろ?という声が響いた。
「俺、運送業を最近始めたんだが、ちっとここいらの校閲にひっかかっちまってな…。中々売買にまで至らずに、商売にならないんだ。だが、お前ならどこが検問なくして州を越えられるか知っているよな。検問を潜れる場所を俺に教えて欲しいんだよ」
 本当はお前が手伝ってくれるのが一番なんだが と曹真は含んだ顔で桓魋を見上げる。桓魋は顎を引き、不信を(あらわ)にした目で目の前の男を見据える。
「お前…一体何を売ろうとしているんだ。一体何に、手を染めている」
 僅かに掠れた桓魋の声には答えず、曹真はひらひらと手を振ってみせた。
「割のい~い仕事だよ。オイシイ仕事だ。元手なしの大儲けの事業とでも言えばいいか?」
 気がつけば、旧友の目は爛々と血走っている。歪んだ笑みを浮かべる目の前の曹真と、一切の表情を動かさない桓魋。曹真は会話の最中も団茶を啜って音を響かせていたが、桓魋は自身のそれには一切口を付けず、ただ目の前の男を見据える。桓魋の目の前の団茶から立ち上る湯気は既に弱くなり始めていた。
「悪い話じゃねぇ。お前にとってもちょっとした儲け話ってところだ。お前が協力してくれりゃあ報酬は倍、しかも確実に手に入る。お前にも礼はたっぷり弾めるぜ」
 なぁ?と曹真は舐めるように桓魋を見上げる。囁くように、彼は続けた。
「おれにとっての一大事業なんだよ、桓魋。今回はその甘い汁を今まで世話になったお前にも吸わせてやろう、と思ってさ。今までみたいにただ泣き付きにきたわけじゃねぇんだよ、俺ァ。俺の話を呑んでくれりゃあ、お前に決して損はさせねぇって約束できる話だ。珍しいだろ?俺が『約束』なんて」
 表情を動かさない桓魋に、男は畳み掛ける。
「なぁ、頼むよ、桓魋。俺たちの仲じゃねぇか」
 曹真はぐっと茶杯を握り締める。囁く声に含まれるのは狂気――だろうか。
 爛々と輝く曹真の双眸には、それぞれに表情の無い桓魋が映し出されている。曹真の瞳に映る桓魋は、ゆっくりと口を開いた。
「その、お前の事業とやらに俺が手を貸せと…?」
 曹真は桓魋を穴があくほど凝視する。同じ言葉を、再び繰り返した。
「頼むよ、桓魋…」
 周囲の時間だけがせわしなく流れていく中、二人の時間だけが、止まる。桓魋が表情なく見つめる、揺らぐ曹真の瞳の表面に映る自身の姿は歪んでいる。桓魋は歪んだ自分の姿から目を逸らし、重々しく息をついた。
 何を企んでいるのか、何故、この男の商売が校閲に引っかかるのか…その根本的なことは本人が何も口を割らない今、こちらは邪推するしかない。思い当たる節はいくつかあるが、そのどれも旧友には手を染めていて欲しいとは言えない類のものだ。この男を、信じるか―否か。桓魋は何かを思案しながら、曹真を見やり、吐き出すように…唇から言葉を押し出した。

「麦州最西端の州境…」

 その瞬間――即座に曹真が桓魋の言葉に耳をそばだてるのが彼には分かった。彼の様子を尻目に、桓魋はトントンと短く切った爪先で、卓子を叩きながら言葉を続ける。
「そこでは半刻置きに通行人に対して、校閲が行われる。本来ならお前の言うように校閲をくぐり抜けようなんざ狂気の沙汰だ…」
 ふっと卓子を規則的に叩いていた指先が止まり、だが…と桓魋は視線を持ち上げる。
「今の時期にはお前も知っての通り、麦州では夏至の祭りが行われる」
 何かを思案しながら、曹真を見ながら、桓魋はゆっくりと言葉を続ける。
「何を商売にしたいのかは知らんが…。検問に穴が出るとしたら丁度検閲官の入れ替え時期の二週間後が目処だ。閉門の一刻半前、警備交代の時間帯が大きな穴になる。俺が知っているのはこれくらいだな」

 夏至の祭り――それは麦秋の夏初めに執り行われる、伝統行事のひとつだ。かつて人々は夏の初めに咲く菖蒲(しょうぶ)を紙でなぞらえた。菖蒲の花言葉「うれしい知らせ」にちなみ、様々な色紙で折られた菖蒲を川に流し、次に訪れる季節に祈りを込めたのがそもそもの起源だったと言われている。だがその風習は現在では廃れ、昨今では人々は普段身に纏うことのない美しい衣装や化粧、厚化粧を施し、稚児(ちご)、巫女、手古舞、踊り子、祭囃子(まつりばやし)、行列等により祭礼を行って新たな季節を祝うことの方がこの行事の主軸となっていた。
 もうそろそろこの時期、祭りが始まる一週間程前から、慶国麦州以外の余州を巡っていた朱旌たちが訪れ、祭りの準備を始める。始まった祭りは連日連夜続けられ、人々は一年の内の僅かな享楽に酔いしれるのだ。

 その時の光景、記憶の中の立ち並ぶ赤の屋台の連なりが、騒ぐ人々の楽しげな声が脳裏に過り、桓魋は虚空(こくう)を睨みつけたまま唇を噛む。

 神事も含まれたこの祭りは厳粛と賑やかさの二つの表情を持っている。この期間人々は日常よりも厳しく、伝統や秩序を守ることを要求される。だが一方では、日常では許されないような常識を超えた行為も、「この祭礼の期間だけは」と暗黙的に許される風潮がある。この祭りのために麦州を訪れる旅人も多く、この間麦州は商人やら朱旌、旅行客でごった返す。可笑しな格好していても、この時期ならば特に目にとめられることもない。同じ麦州といえど、特に西側は催しも華美で、その趣向が強いものだった。

 そしてここだけの話、その盲点を付くように、通常の検問は、甘くなり抜け穴が出来るという実情があった。
 
 これで満足かと睨みをきかせる桓魋に、目を見開いて話を聞いていた曹真はほぅと息をつく。そして、口元の傾斜をより一層深くして、桓魋を見やった。
「…ありがとうよ、桓魋。さすがは俺の友人だな」
 曹真は満足げに笑みを浮かべるが、桓魋は何も(こた)えなかった。直接手を貸してはくれないのか、と本当は曹真は桓魋に畳み掛けたいところだったが、今の桓魋はとてもそんなことを切り出せるような雰囲気ではない。まぁいいかと曹真は言葉を飲み込む。
(なんだかんだ言ってこいつは生真面目な奴だからな…)
 飄々としているが芯の部分では軍人気質のこの男が、今回ばかりはこの件に関して手を貸すかどうかの目論見(もくろみ)は、実のところは限りなく否に近かった。だからこの男がこんなふうに情報を割ることは曹真にとっては意外な収穫だった。曹真が腹の中でほくそ笑んだのを桓魋は知らないだろう。曹真は満足げに懐に手を突っ込んだ。
「ははっ…大収穫だよ、桓魋!お前が言った通りの方法で上手くいけば約束通り、謝礼は弾ませてもらうぜ?ここも今日は俺が奢らせてくれ」
 上機嫌に曹真は財布を出そうとするが、桓魋は曹真には見向きもせず、無言でその場から立ち上がった。タンッと乾いた音を響かせて、立ち上がり際に卓子に何かを置くと、彼はものも言わずに暖簾(のれん)を潜って出て行った。曹真は目を瞬かせながら、旧友の後ろ姿を声もなく見送る。
「は…?なんだ、あいつ…?」

 桓魋の真意は見えない。

 ふと卓子(つくえ)に目を落とせば、そこには手をつけられていない冷め切った団茶と、その分の代金が残されていた。

:::::


 ざわざわと、人の流れていく音が、陽子の耳に残る。
 呆然とへたりこむ少女に不穏な影は――ひたひたと忍び寄る。
 

「収穫、ありだ」
 甘味処の暖簾を潜った男――曹真は、出てくるやいなや、ひさしの薄影で佇む男に言葉をかけた。
 大きな笠を目深に被ったその男は、笠を指で弾いて、曹真にだけ視線を(さら)す。
 笠の影からのぞくのは鮮やかな(とび)色の瞳だ。影で薄暗さを重ねられた褐色の肌が男の顔を覆っていて、僅かに襟足からのぞく髪は群青色をしている。それは先ほど陽子に声をかけた、男、だった。曹真は満足そうな笑みを湛えたまま、男に歩み寄り、そのまま二人並んで人並みに溶け込む。足を進めながら、曹真は隣の男に言葉を投げた。
「すぐにここを発つ用意をしろ。二週間後には麦州最西端の検問所に着けるようにな。祭りの騒ぎに乗っかって校閲を抜けるぞ」
 深い編笠を被った男は、チラリと曹真に視線をやり、了解と囁く。曹真は畳み掛けるように言葉を重ねる。その声量が、なぜか急に抑えられた。
「商品は傷んではないだろうな?多少のキズならいいが、動かなくなると困るぜ。なんせ生きてねぇと値がつかねぇからな」
「一つは駄目だな…。今朝様子を見に行った時にはもう動いていなかった」
「何?それをもっと早く言わねぇか!既に先方とは話はついてんだよ。数が合わねぇのはかなーりまずい。どっかで適当な代わりを見繕わなきゃならねぇじゃねぇか」
 男と男は声を抑えて言葉を交わしながら、人ごみの中を縫うように歩いていく。
 男たちが手を染めている、『元手なし』の儲け話。曹真が桓魋にその全容を明かさなかった、校閲を決して通ることが出来ない、日の目の当たらぬその事業。それは――

――人身売買。

 ふとその時、何かを考えながら歩いていた編笠を目深に被った男が足をとめ、声を漏らした。曹真も立ち止まり、不可解な表情で男を振り返る。
「なんだよ。変な声あげて、急に立ち止まるんじゃねぇよ。気色悪い」
「失礼な奴だな、お前は…。そういえば途中で代わりになりそうなもんを見つけたのを思い出したんだよ」
「…どこでだ」
「ここでだよ。丁度さっき、お前を待つあいだに通ったんだ。だがそれが…」
「だが?」
 編笠の男は指で笠を持ち上げる。意味ありげな視線を曹真に向かって投げた。
「海客のガキだったんだ」
 ぴたり、と曹真の動きが止まる。まじまじと信じられない者を見る目で男を見て、囁く。
「はぁ、海客…?そんなもんがここにいたのか」
「あぁ。合わないかと思って捨ててきたんだが…。どうだ?」
 曹真は暫く何かを考える振りを見せたが、僅かに渋い顔をした。
「どうだろうなぁ…」
「渋る理由でもあるのか?」
「別にねぇがよぉ‥」
 曹真は顎に手を当てる。編笠の男の言葉に、ふと、何かを考え直したような素振りをみせた。
「まぁ海客なんて初めてだが、考えようによっては、元手なしの良い代替品になるかもしれねぇな。怒鳴り込んでくる親類もいねぇ。何を喚いても誰も何を言ってるか分かりゃしねぇ。悲しむ人間も、いねぇ」
 まあ、見てみて判断してみようかと呟く曹真の顔が歪んでいく。
 熱い日差しの中、編笠の男も笠を目深に被ったまま、その影の下で笑みを含ませるのが見て取れた。男たちの間で、何か無言の承諾が行われた瞬間だった。
 歩みを進めていたその時、(はか)ったように緩やかに編笠の男の足が止まる。笠を持ち上げ、素顔を晒す男の見つめる先に、自然と曹真の視線も吸い寄せられる。目先の人垣が割れて流れていく一点に視線が留まった瞬間、曹真の目が糸のように細められる。

 そこには‥呆然と途方にくれたようにへたりこんで遠くを見つめるひとりの少女がいた。

 美しい紅の髪は艶を帯び、不思議な服から伸びる手足は褐色の健康的な肌艶をしている。
 足音を立てて近づいていたのだが、少女はその時気がつかなかった。
「まだ‥いたか。こちらにしたら好都合だが」
 鳶色の瞳の男の、呟いたその声で、呆然としていた少女はぱっと振り向く。佇んでいる編笠の男を見た瞬間、少女の顔が輝き、こちらに向かって駆けてきて何か言った。だが、男の表情の無い顔を見、曹真の姿に気がついた瞬間――少女はゆるやかに歩みを止めた。
 代わる代わる二人の男の顔を見比べ、少女は小首を傾げる。だが、二人のどこか異質な雰囲気を感じ取ったのか、少女は僅かに後じさって、困惑した表情を顔に描き出した。
 曹真は膝を折り、目線を少女に合わせてじっくりと彼女を眺める。まだまだ(いとけな)い柔らかな丸みを帯びた頬、そして形の良い唇は、吐く息で僅かに湿って桃色に色づいている。幼いながらも整った顔立ちをした少女だった。だがその中でも少女の顔立ちに色を添える翡翠の双眸に、曹真は思わず見入る。
 美しい翡翠の瞳が無垢な輝きを帯びて自分の瞳を見つめる。その状況で、曹真は満足げに口元に鋭い傾斜を創った。
「可愛いじゃねぇか」
 それは少女が男の中の何かの基準を満たした瞬間だった。曹真は満面の底の知れない優しげな笑みを浮かべた。掌で頭を撫でてやったら、少女は息をのんで僅かに身を(すく)ませる。

 少女の瞳に映る男の笑顔は――(いびつ)に崩れていた。

:::::


 「桓魋!お前遅かったじゃないか、どこほっつき歩いてたんだ?早く隊に戻れよ」
 明るい声が、慶国麦秋の州師演習場に響き渡る。
 ぴたり、と州師演習場を横切っていた青年は足を止め、背後の声に向かって振り返った。声の主の兵卒は、振り返った桓魋に向かって駆けてきているところだった。
 悪いな と桓魋は兵卒仲間に向かって声を張り上げる。
「まだ、戻れない。今から火急に済ませなきゃならないことがあるんだ」
「どこに行くんだ?」
「州宰の元へ。上に掛け合うことが一つ増えた」
「お前何かやらかしたのかよ」
 空駆ける声が、風に攫われる。仲間の問いにその時、桓魋の表情に僅かに曇りがさした。
「…これからやらかすんだよ」
 兵卒仲間は目を瞬く。不思議そうに首を傾げた友に、桓魋は言葉を続けた。
「やらなくちゃならないことができたんだ。何が起こるかも分からない。確証もないが、これから起こるだろう出来事に備えて、な」 
 風が一層、吹き荒れる。兵卒仲間は桓魋を見つめたまま、訳が分からずその場に立ち尽くしていた。彼は桓魋の言葉に困惑したような表情を浮かべる。
「?どういう意味だよ…?」
 吹きすぎた疾風が、半獣の青年の髪を揺らしていく。表情も仕草も、声音も飄々としているのに、その目だけは何か真剣な光を帯びていることに、その時兵卒の彼は気がついた。有無(うむ)を言わさぬ青年の気迫に、兵卒仲間は思わず口を(つぐ)む。
 桓魋の瞳が持ち上がり、どこともしれぬ一点を見つめる。その目つきが、彼の仲間の若者には、何か見えぬものを睨んでいるように見えた。

 風が舞い踊る中、桓魋の声だけが、その場に響き渡った。

「止めなきゃならない、奴がいるんだ」



back index next