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「させるかああああぁあ!!」 少女の声が響き渡る。 翡翠の瞳を見開いて、猛進する矢に向かって陽子は飛んだ。悲鳴も怒声も一瞬何もかもが消え、自身の動きと睨みつける矢の速度だけがいやに遅い。 ひゅんっと陽子の刃が弧をえがく音が、空気を裂く音がながれ、直進する矢の柄を薙いだ陽子の刃が噛むのが見えた。 次の瞬間、竹が叩き割れるような音ともに、二つに分離された矢が目の前でめまぐるしく回転する。 真っ二つに叩き切られた矢は、暫く空中で何回か円をなぞると、力なく地面に向かって落下していった。 民衆は空から降ってくるのが弓の残骸だと気がついた瞬間、今起ころうとしていたことを理解して悲鳴を上げる。だが、その次には同時に今起こったことも理解して歓声を上げた。当の陽子だけが空中に滞空したまま、直線上にいる弓を放った男を睨みつけている。地面までは遠い。照準が、今度は陽子になった。陽子に向かって、額に青筋を浮かべた男は再び弓を引き絞った。 (来る‥!!) 空中で射られたらもう逃げ場はない。 だが、陽子が汗を浮かべたその瞬間、男の頭だけが不自然に横に動いた。それも、凄まじい速さで。弓を射ようとしていた体勢が崩れ、ぐにゃりと男の体が陽子の視界から消えた。 「え‥?!」 目を瞬く陽子、主桜の窓からふたりの人影が見えた。目に馴染んだ一人は、桓魋。そうしてすらりとした人影は利広だ、と陽子は気がつく。どうやら男を殴り飛ばしたようだ。 (桓魋‥!利広‥!) でも、危機はまだ終わってはいなかった。弓の風を切る音が耳を掠め、陽子は驚いて振り返る。その時、別の方角から、陽子を暗殺犯だと誤認したらしい恭の兵士から、放たれていた矢が迫っていた。 桓魋の声が空を裂く。 「陽子!!!」 その時、すぐそばの御輿から、涼やかな凛とした声が響き渡った。 「供麒!」 瞬間、御輿の影から一匹の妖魔が躍り出た。しなる矢を噛み砕き、落下していく陽子をその背に受け止める。悲鳴が一瞬上がったが、緩やかに旋回して地面に降り立った妖魔は、すぐさま影の中に溶け消えた。 陽子はぺたんと地面に座り込んで、呆然と今起こったことに目を瞬いた。主桜からは、窓から桓魋が飛び降り、続いて利広も飛び降り、陽子の元に駆けてくる。二階から飛び降りてきた男達にどよめきが起こったが、本人たちはまるで気にも止めていないようだった。主楼には、恭の兵士たちが入れ替わりになだれ込んでいく。 「陽子!大丈夫か?!」 「あ、ああ‥」 「無事で良かった」 二人に手を貸してもらい立ち上がりながら、陽子は衣についた土埃を払う。いまだ頭がくらくらする。目線を上げると民衆が声にならない声を上げ、皆口に手を当てたり驚いて固まっていた。大慌てで、民衆は一斉に伏礼をする。 利広が止まった御輿の方を振り仰ぎ、意味ありげな笑みを浮かべて、桓魋は口を開いて固まっている。 「?利広、桓魋。一体どうし‥」 不思議そうに彼らを見た陽子は、次の瞬間、御輿の方に視線を戻してあんぐりとする。 そこには、御輿から降りてきた美しい少女と、二十代後半の朴訥そうな青年が陽子たちを見つめて立っていた。青年の髪は――銅色を帯びた、金。 少女王の青水晶の瞳が、ただまっすぐに陽子の姿を映していた。 (供王‥!) 先ほどの妖魔は、供麒の使令か。慌てて伏礼しようとする桓魋と陽子、そして笑んだままおもしろがるように自分もそうしようとした利広に、恭州国国主 供は小さな手でそれを制した。 「結構よ、貴方たちは伏礼なさらずとも。だって、お礼を言わなくてはならないのは私の方だもの。そして詫びも入れなければいけないわ」 最後苦々しげに、少女王は利広の方を睨む。供王は陽子の方に歩み寄り、勝気な整った顔に、笑みを浮かべた。浮かべた笑みは九十年この国を治めているとは思えないほどの、少女らしい笑みだった。 「まずはお礼を言わせてね。本当にありがとう。貴方のおかげで助かったわ」 「い、いや‥そんな‥」 ふふっと笑った顔に、思わず照れて陽子は口ごもる。なんて可愛らしいんだろう、とまた陽子は思ってしまった。供王は陽子を澄んだ瞳で見つめたまま涼やかな声で名乗る。 「私は恭州国国主 供 蔡晶。字は‥珠晶。うちの国のいらない争いに巻き込んでしまってごめんなさい。お名前を伺ってもよろしいかしら。あなた達は他国の方?」 「!はい‥。わ、私は中陽子です。ですが、本名は中嶋陽子といいます。慶の者で、旅をしています」 な、か、じ、ま、よ、う、こ。と珠晶は目を丸くして口に出す。首を傾げた。 「変わった名前ね。でも嫌な響きじゃないわ。ようこ、が字と思って良いのかしら。文字はなんて書くの?」 「はい。陽気の陽に子供の子で、陽子です」 良い名ね と珠晶は笑う。しばらく興味深げにじっと陽子を見ていた珠晶は、どうしたら良いのか分からない、という顔をした桓魋に向き直り、はきはきと口を開いた。 「貴方もありがとう。お名前を伺ってもよろしくて?」 「はっ‥。青辛 桓魋と申します。供王君」 桓魋は目を伏せ、拱手する。 「あら!将軍みたいね。貴方‥」 利広は華麗に無視しながら、珠晶は美しい笑みのまま、振り返った。 「次は‥お詫びをしなくちゃいけないわね」 弓矢が放たれた方角に、珠晶は微笑みながら視線を向ける。怖いくらいの、甘い笑みだった。 「さっき、陽子に弓を放った者、出てきなさい」 音を立てて、空気が凍った。陽子が驚いて目を瞬いた時、兵の軍勢の中から、ひとりの若年の兵卒が、真っ青な顔をしてふらふらと出てくる。 珠晶は白い指先でちょいちょいと兵卒を呼んだ。もはやどす黒くなるほど青くなった顔の兵卒は、陽子たちの目の前に来たとたん、即座に縮こまるように伏礼する。 「顔を上げなさい」 恐る恐る顔を上げる兵卒。珠晶は先ほどの陽子が思わず見惚れてしまうくらい美しい笑みを湛えていた。やはり、可愛らしいなと同性ながら陽子は思わず見とれ、間近の王君の表情に兵卒が呆気に取られ、そしてさらににっこりと珠晶が微笑んだ、次の瞬間。 左表一閃。 パアァンッと物凄く痛そうな、快闊な音がその場に響き渡った。 「‥え?」 陽子と桓魋が――否、本人と利広を除くすべての人間が何が起こったのか分からず目を見張る。強烈な張り手を食らわされた兵卒が、兵士の山に向かって吹き飛ばされていくのが見えた。 あんぐりと口を開けた陽子と桓魋をよそに、傍にいた朴訥そうな青年、腰を折った供麒がオロオロと口を開く。 「しゅ、主上‥もう少し優しくして‥も?!」 言い終える前に、体を捻った珠晶の右ストレートが素晴らしい角度で供麒の顔面にめり込んでいた。 「お黙り!!この慈悲のお涙一杯水樽男!!」 激しい声が、空気を貫く。 「た、台輔ー!!」 背後に吹き飛ばされる供麒に、両手を頬に当てた兵士たちから盛大な悲鳴が聞こえる。 目が零れ落ちるのではないかという位に瞳を開いて、あんぐりと口を開けたまま声も出せない陽子と桓魋を後ろに、ずんずんと進む供王は倒れる供麒の目の前に仁王立ちした。 「この…!!大馬鹿者!!ほんっと毎度毎度あんたって男は!!一体いつになったらその水樽みたいな頭は慈悲以外の道理を入れることが出来るの?!もう九十年!九・十・年!!不甲斐ないのはあんたたちだわ!!たまたま通りかかったこの方たちに助けていただいた上に、その恩人に矢を射る馬鹿がどこにいるって言うのよ!えぇ分かっているわよ!!ここにいるわよ!!!」 地団駄を踏む可憐な少女王、珠晶。鬼のような形相で、珠晶は先に吹き飛ばされて地面でピクピクと痙攣している兵卒の方へ向き直る。その兵卒の半径二十歩から、人が消えた。 「あんたの目は節穴なの?!逆賊は見つけられない上に、恩人は打ち落とそうとするってどういうこと?!この大馬鹿者!しかもその上、その身内の馬鹿の落とし前付けるのに、同じ身内が優しく型をつけろ、ですって‥?ねぇ、馬鹿なの?!この国には馬鹿しかいないの?!率先して鳥頭っぷりを晒したいの?!恭の恥の上塗りをしたいの?!失道する前に恥で私を殺す気なの、あんたちはぁあ!!」 喚き散らし、火を吹き出してもおかしくない咆哮を上げた国王に、周りはただただ静かに伏礼する。珠晶はため息をつく。 くるりと陽子たちに向き直った珠晶に、陽子と桓魋は思わずまっすぐに背筋を伸ばした。 「本当に悪かったわ。私本人からきつく言っておくわ。あの兵士も混乱して誤射してしまっただけなの。こんな弱々しい拳で殴ったくらいじゃ気は晴れないかもしれないけど、それでももし良かったら、許してはもらえないかしら」 ‥弱々しい?と皆の脳裏に疑問符をつけた同一の単語が浮かぶ。皆一様に首を傾げていたが、利広が笑いを噛み殺しきれずに、不自然な音が漏れるのが聞こえた。 陽子は頷く。 「構いませんよ。私たちは命を狙われることには慣れています。それにこの国は‥」 ふっと陽子の口元が綻ぶ。優しい表情で、陽子は笑った。 「とても良い国のようですね‥」 供王様もお元気な方だし、と陽子は顔に零れた髪を掻き上げる。ポカンと陽子を見た珠晶。ぱちぱちと長い睫毛を瞬かせた珠晶はじっと何かを考えるようにして‥桜色の唇を小さく不満げに突き出した。陽子をじっと見つめ、まるですねたような声を漏らす。 「やっぱり、このままだと私の気分が晴れないわ。貴女方をこのまま帰らせるなんて‥嫌だわ」 この調子だと式典も中止だしね、と珠晶はため息をつく。 その時キラリと、瞳が光を帯びて、珠晶はきゅっと口角を上げて、陽子を見上げた。 「馬鹿による暗殺目的の襲撃なんて王である以上日常茶飯事よ!毎度毎度、命を狙われるのは慣れてるけど、こんな風に颯爽と助けられるのは初めてだわ。ねぇ、もしよろしかったらお礼に霜楓宮にご招待したいのだけれど‥どうかしら。勿論お連れ様も一緒に。ねぇ、いいでしょう?」 陽子は驚いて、傍らの桓魋を見上げる。俺にはもうお手上げだ、という風に肩を竦めた桓魋に、陽子は珠晶に視線を戻す。どうしたら良いのだろう――。期待を含んだ目で見る少女王に、陽子は困ったように笑った。 「じゃあ‥喜んで、お受けいたします」 珠晶の顔が輝く。利広の表情が面白そうな笑みを湛える。 供麒が立ち上がって珠晶の元に駆けてくる中、彼女は嬉しそうに微笑んだ。 ::::: 霜楓宮(そうふうきゅう)は、陳腐な一言で言ってしまえば、それはそれは美しい場所だった。それでも、いざそこに足を踏み入れてしまえば、その一言しか出てこなくなるくらい、壮麗な場所だった。 計算され尽くした王宮の造りが、柔らかにそしてふんだんに差し込む光を浮かび上がらせる。ほの明るい白の光に、陽子は指をくぐらせてみた。そうしたらその部分だけが照らされて、褐色の肌の色味が薄くなる。 霜楓宮に招待された陽子と桓魋、そして利広は着いたとたん、女官たちにより別々の方向へ案内された。お召し変えをさせて頂く、とのことで、陽子と桓魋たちは外宮の框窓の所で別れた。 そして衣装替えを終えた陽子は、今、女官たちに周りを囲まれながら、掌客殿へと続く回廊を歩んでいた。衣の擦れる音が響く。陽子は思わず裾を踏まないように視線を落とした。うかうかしていたら、踏んづけて転んでしまいそうだ。 今回陽子は珍しく、鴇色(ときいろ)の着物に身を包んでいた。染め抜いたようなその裾には金の綸子(りんず)が施されていて、翻るたびに淡い光沢を放つ。垂らされた紅緋の髪は梳(くしけず)られ、一部を後頭部で品良く結わえてあった。着物と合わせた金を帯びた紅真珠の簪が、結えられた髪の中、まるで光の粒を埋め込んだようだ。 目元には色粉をまぶし、唇にも薄く紅をはいて軽い化粧が施されている。 (ここの化粧師は随分と手馴れているんだな‥) 遠くから同じように衣擦れの音と、沓の音が聞こえてきて、陽子は顔を上げる。 そこには、同じように衣装替えをした利広と、桓魋がいた。歩んでくる利広はひらひらと陽子に手を振る。白緑(びゃくろく)の衣装を纏う利広はこういった類の服装が、とても馴染んで見えた。さまになっている。 「陽子!」 「あ、あぁ‥」 陽子は利広に手を振替した。桓魋は陽子の姿を惚けたように見つめ、そしてふいに顔を背けた。頬には鈍い赤みがさす。 見ているだけで目眩がするようだった。 桓魋は自分がどんな風に陽子の目に映っているのだろう。 心にさした疑問から目を逸らす。彼は空色の羅衫の上に浅葱色の背子を重ねていた。銀刺繍が踊る、上等すぎるその着物は自分には勿体無い気がしたが、最終的に、物腰は柔らかいがしぶとい笑顔の女官たちに着飾らされてしまった。正直、身の竦む思いがする。じっと陽子に見つめられて、やはり似合っていなかったか、と桓魋は足早に踵を返した。 (ま、せいぜい俺は鎧がお似合いだよな) 「行こう。供王君がお待ちだ」 「そうだね。‥陽子?」 じっと桓魋を見ていた陽子は利広に名を呼ばれ、初めてはっと我に返った。慌てて陽子は彼らの後を追う。 (かっこいいじゃないか、桓魋‥) 見慣れてるはずの桓魋から目を離せなかった。 精悍な彼に、その衣は驚く程似合っていた。 ::::: 掌客殿の清香殿に足を踏み入れた時、既に床几に座って待っていた珠晶が開口一番に言ったのは、似合うじゃない、の一言だった。傍に控えていた供麒がおぉ、と声を上げる。 陽子を見て、桓魋を見て、白い歯を見せて珠晶は笑う。笑うと屈強な王の側面が消えて、少女の顔が垣間見えた。 「それ、あげるわ。持って帰って」 「え!でもそんな‥」 「そうです!受け取れません」 珠晶は二人に向かって片目を瞑って見せた。 「お礼、って言ったら大したことないかもしれないけど、受け取って頂戴。それとも、一王のお願いは聞きいれてもらえないかしら?」 うっと言葉に詰まったように、陽子と桓魋は押し黙る。ふたりは並んで、供王に拱手して、受け入れる意思を見せた。珠晶は嬉しそうに口角を上げる。 「贈物が気に入って頂けて良かったですねぇ、主上。どのお召し物を差し上げるか、悩んでおいでになったかいがございま‥」 「黙りなさい。供麒」 ぴしゃりと撥ねられて、供麒はがっくりと頭を垂れる。利広がクスクスと口元に手を当てて笑うのをひと睨みで黙らせた珠晶に、陽子は当初から思っていた疑問を口に出した。 「あの‥」 「あら、なぁに?」 控えめに、ずっと思っていたのですが‥と陽子は珠晶と利広、交互に視線を行き交わせる。 「ひょっとしたら、私の勘違いなのかもしれませんが…供王君と、利広は‥お知り合いなのですか?」 きょとん、と青水晶の瞳を、睫毛が何回か上下する。一瞬後に、何が起こっているのか理解した珠晶は、黒髪の美丈夫に胸間で溜息を落とす。 「あら、陽子は知らなかったの?利広は…」 言いかけたその時、視線を滑らせた珠晶は、ふたりの背後で唇に人差し指を当てている利広の視線に気がついた。半弧を描く口元に押し当てられる白くて長い指に、珠晶にだけ向けられた、言わないで、との無言の懇願に、彼女は脱力した。――この青年は。 「…何でもないわ。本人に訊いて頂戴」 肩を竦めた利広は、陽子と桓魋に人あたりの良い笑みを見せる。 「昔ちょっと、畏れ多くも供王様とお知り合いになる機会が会ったんだよ。それだけさ。でもまさか供王君に覚えていて頂けているなんて思わなかったから。光栄だねぇ」 明らかにこの状況を楽しんでいる顔で、利広は珠晶に片目を瞑って見せる。利広の表情に、珠晶に向けられた含みまくりの物言いに、彼女は渋い顔をした。ひくひくと主の口元が痙攣しているのに気がついたのは傍らの半身のみだったが、言うと怒られそうなので彼は口を噤んだ。 「そうなのか…」 「やっぱりお前は益々掴めない奴だな…」 「ふふっ そうかい?」 信用していない渋い顔の桓魋と驚く陽子に、利広は爽やかで甘い笑みを向けている。珠晶は一人静かに深呼吸しながら、息を整えた。 利広は無視して、陽子と桓魋に目を向け、少女王は口を開く。 「陽子と桓魋は、あなた達は慶の出身だ、と言っていたわね?」 「!え、えぇ。そうですが…」 珠晶は二人に対して、小さく首を傾げてみせる。その瞳にはもうふざけた色は浮いてはいなかった。 青水晶の瞳に、緋色の少女が、浮かぶ。 「旅をしている、と言っていたけれど…もし、貴方達が良かったら国が落ち着くまで私に仕えてみる気はない?訊けば桓魋、貴方は慶国麦州師将軍だって言うじゃない」 陽子は目を瞬く。振り仰いだ陽子は桓魋と視線を合わせた。もう心は決まっている彼の目を見て、確認するように陽子は頷く。珠晶の方に向き直って、陽子ははにかむような、温もりのある微笑みを口元に湛えてみせた。 「…ごめんなさい。申し出、本当にありがとうございます。供王様直々にそんなお話を頂けるなんて、すごく嬉しいです。…でも、私たち旅を続けます。彼とふたりで、決めていることなんです」 珠晶は首を傾げたまま、じっと陽子を見つめていた。静かな水面のような、波紋一つ起こらない澄んだ瞳に、緋色の髪の少女が写っている。波紋が生まれなかったのは、少女がその応えを既に予想していたからなのか。緋色と翡翠の少女の中に何を見たのか、青水晶の瞳の少女王は緩やかに瞼を落とした。 「…分かったわ」 貴方たちのこと、気に入ったのに残念だわ と珠晶は呟く。少し何かを思案したような面持ちで俯いた後、ぱちぱちと目を瞬く陽子と桓魋に、気を取り直すように珠晶は声を張った。 「決意は固そうね。でもそれくらい骨がある奴、私は好きよ。貴方達の旅が健やかたらんことを願うわ。だけど…」 「だけど…?」 「その健やかな旅のために、今日くらいはここに客人として泊まって行って欲しいわ。ねぇ、供麒?」 「はい!夕餉は宴を催す予定です。どうぞごゆるりと、なさっていってください」 心の底から嬉しそうな、歓迎の意を示すこの国の穏やかな台輔の笑みに、陽子と桓魋は顔を見合わせる。微笑んだ桓魋に、陽子も口元を綻ばせた。 「じゃあ…お世話になります」 「宜しくお願いします」 利広が穏やかな光を瞳にたたえて、陽子と桓魋に目を細める。 そこでようやく珠晶は、分かったわ、と少女の笑みを浮かべた。 その後、宴に呼ばれた桓魋と陽子は、その席で素晴らしい食事をご馳走になった。桓魋と恭の官吏達とで飲み比べが始まって、桓魋は名乗りを上げる酒豪たちを押さえて全勝するという呆れたザルっぷりを披露する有様だ。その後用意された湯も、陽子が入ったことのないほどの広い浴槽に張られていて、彼女を洗おうとする女官たちから陽子は魚のように泳いで逃げるはめになった。素晴らしいもてなしの末、翌日王宮を後にする時には、あの約束通り、きっちりと綺麗に荷造りされた二人分のあの着物を、珠晶は持たせてくれた。 利広はもう少し王宮に残る、とのことだったので、その場で別れることとなった。 礼を言い、立ち去り際、騎獣の背の上で陽子は思わず珠晶に向かって大きく手を振った。 一瞬不敬だったか、と思ったが、珠晶はあの少女のような笑みを湛えて大きく手を振り返してくれた。 消えていく陽子と桓魋の後ろ姿を見送りながら、何とも言えぬ表情をしている隣の少女に、利広は口を開く。 「行っちゃったねぇ」 くるりと白い顔が利広の方を向く。しらじらと眉を寄せた顔で珠晶はあさっての方を見た。 「あんたはお家に帰らなくていいの?」 卓郎君?と強調された刺を含む単語に、利広は肩を竦めた。 「陽子がいなくなった途端、手厳しいなぁ…」 「当たり前でしょ。バラされなかっただけ感謝なさい」 へいへいと利広はお手上げとばかりに手を上げる。 「でも、僕は彼らに嘘は一つも言っていないよ?」 「そうね。でも嘘も言っていないけれど、本当のことも一つも言っていないじゃない」 ぴしゃりと撥ねられた利広は苦笑いを浮かべる。 「また彼らに会いに行こうと思うんだ。身分っていう柵のない、等身大の彼らが好きなんだよ。それに、僕だけじゃなくて…」 利広はその時になって底知れない微笑みのまま、真摯な光だけを瞳に浮かせた。雲海から潮風がゆるく吹き上げる。 「本当のことを話していないのは君も同じなんじゃないのかい?珠晶?」 急にその場を、静謐さが覆った。少女は何も応えない。何の表情も湛えない、静かな青水晶の水面には、利広ただひとりが映し出されていた。ほんの少し潮風に嬲られた後、静かな声が続く。 息を吐く、音がした。 「…言えるわけ、ないじゃない」 利広は何の感情を表しているのか、分からない微笑みを湛えているだけだった。だが、珠晶には彼が今何を思っているのか、透けて見える。この男との付き合いはそれ程長い。珠晶は容赦なく言葉を続けた。 景麒、失道。 「慶国は…もう駄目だわ。このことも放浪人間の貴方なら知っているわけね。本人たちを前に、言えって言うの?それこそ大きなお世話よ。私たちが立ち入れる領域を超えているの」 「そうだね…。僕も、立ち入れない存在だと思うしね」 「六百年生きている化け物にも、踏み入れない場所はあるのね」 「ひ、酷いな…。でも、まあ本当だから反論できないな」 そう言いながら、利広の珠晶を見る眼差しは優しかった。ふふっと思わず柔らかい笑い声を落とした利広に、珠晶は訝しげに振り返る。 「何よ。気持ち悪いわ」 「ふふ…いや、珠晶は優しいな、と思って。素直じゃないし、誤解を与えやすい君だけど。でも僕がさっき言ったのはそれだけの意味じゃ無いんだよ」 私たちが立ち入れる領域を超えているの。そう線引きしながら、紅の髪の少女と半獣の青年に、これ以上無い加護を与えているのは誰だ。陽子と桓魋に持たせた荷物。あの中には着物の他にも、いくつか違う物が入っていることを利広は知っていた。 その中の何よりも陽子たちに意味を成すのは、彼らの旌券だ。裏書きを見た時、きっと彼らは腰を抜かさんばかりに驚くだろう。その裏書きとして押されているのは… ――供王の御名御璽。 まだ当の本人たちは、気がついていない。荷を解くまでは、彼らは供王が何をしてくれたのか、その真意を知ることは無いだろう。 利広は微笑んで、恭の名君を見る。 「君のそういう所、僕は好きだよ。また、遊びに来るから」 「来なくていいわ。あんたと違って私は忙しいの」 「まぁそう言わずに。陽子たちにもまた会えるといいね」 指笛を吹き鳴らせば、空を掴むようにして、一頭の騶虞が姿を現す。しなやかに手綱を手に取った利広は軽やかに鞍に飛び乗る。 「またね、珠晶」 空を駆けながら、利広の後ろ姿は、陽子たちと同じように小さく雲海の果てに溶けて見えなくなった。珠晶は腰に手を当て、小さく息をつく。 空は麗らかに果てなく伸びる。 予青六年、春の、出来事だった。 |