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 降り注ぐ日差しはもうすっかり春模様だ。動けば、体が熱くなり、滲む汗を衣が吸う。
 芽吹き始めた若葉が落とす薄い斑が、視界に光を瞬かせる。丘陵を駆ける陽子は、桓魋に向かって手を振った。
「桓魋!早く!」
 朱旌の一座と分かれてから、桓魋と陽子は二人旅を続けていた。恭の国境を超え、時折護衛の仕事をする。そんな風に旅をして、今二人は恭州国緯州の乾県の山岳を越えている。
 振り仰ぎながら、先を行く少女に、桓魋は声を張る。
「あんまり先に行き過ぎるなよ!」
 前方で、小指の爪程の大きさの陽子が、大丈夫だと叫んだのがうっすらと聞こえた。こういう時は大概大丈夫では無いので、吉量を連れた桓魋は足を早めて陽子の元まで走る。
 鞍に乗ればあっという間だが、今は吉量に荷を積んでいるので、自らの足を使った。
 でこぼことした地面の感触を感じながら、桓魋は陽子の元まであっという間に追いついた。乱れた息を整えながら、桓魋は陽子にため息をつく。
「本当にお前は…ほっとくと、ふらっとどっかに行っちまう」
「そうか?」
 きょとんと陽子は首を傾げる。陽子は桓魋の衣の端を引っ張った。
「もう少しで森を抜ける。甘味処があったら、そこで少し休もうよ。ほら!麓まで競争!」
「陽子!」
 解き放たれたように、陽子はあっという間に小さく風景に溶けていく。
桓魋はため息をつきながら、小さな粒になっていく紅の髪を追う。

上空では新芽が瑞々しく空に向かってその身を伸ばす。
恭国の首都連檣は、もうすぐそこだった。

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 街並みは、人並みに揉まれて喧噪を生み出す。
 連檣に下りた桓魋と陽子は、首都外れの舎館に宿を取り、吉量を厩舎に預け近くの甘味処へと足を運んだ。
 暖簾をくぐり、薄暗い店内に足を踏み入れたふたりは席に腰を下ろす。それぞれ注文をした後、陽子は賑わう広途に目をやった。
「それにしても、この辺りでは祭りでも行われるのかな。人はみんな浮き足立っているし、あそこに控えてあるのは山車だ。墻壁や門闕も大層な装飾が施されているし、やっぱり何かあるんじゃないか?」
 そう言って、指差す陽子の指先を視線でたどれば、その先にはきらびやかで重厚な飾りつけを施した装飾具が、風に嬲られて微かに揺れていた。相当な重みを持っているのか、揺れ幅はほんの僅かだったが、ずしりとした金の輝きに覆われたその街並みは光を弾いていた。これは相当気合が入っている。
(一体ここで何が行われるんだか…)
 注文していた品が、目の前に置かれていく。桓魋が眉を顰め、口を開こうとしたその時、涼やかでどこかのんびりとした声が、ふたりの会話の中に割って入った。
「知りたい?これから恭で何が行われるか」
 驚いて声の方を振り向けば、ふたりの席のすぐ近くで、卓子に肘をついて顔を凭せ掛けるひとりの男が、彼らに視線をよこしていた。
 黒髪を緩く束ね、どこか面白そうな目で桓魋と陽子を見つめる黒眸が、悪戯っぽく濡れている。年の頃二十始め。

 男の桓魋が見ても見惚れてしまうくらいの、優男だった。

 目を丸くした陽子の方が男に向かって体を開く。
「ここでは、何か大きな行事があるんですか?」
うん と青年は仄かに微笑んで頷く。体つきは偉丈夫という程ではないが、見れば見るほど細身の引き締まった体はすらりとしていて、どこかの皇子のようだ。まさに〝美丈夫〟という単語が馴染む男はよっと勢いづけて立ち上がり、きゅっと口角を上げてみせる。浮かべられたのは柔和で甘く、さっぱりとした笑みだった。
「教えてあげる。ここ連檣ではね、三日後の供王登極九十周年を祝って、記念式典が開催されるんだ。供王御本人が台輔と共に、御輿行列に参加なさるんだよ。勿論供王様は御輿に担がれて、厳重な警備に囲まれて、だけどね。もう主上がおこしになるってそれだけで、ここの人たちは浮き足立っちゃってねぇ」
 そうなんですか…と陽子は解したように頷いた。
「つまり、王様の行進パレードが行われるんですね…」
「?ぱれえど?」
 頭上に?マークを浮かべた優男に、彼女は睫毛を瞬かせる。貴方は…
「ここまで来た、と言っているけれど、恭の人ではないですよね?旅をしている装いをしているし…」
 その言葉に、彼はパンと乾いた音を響かせて手を打った。
「お、鋭いところをついてくるねぇ、お嬢さん」
 ぴくり、と桓魋の耳が〝お嬢さん〟という単語を耳で拾う。陽子が女だと見抜いた優男を桓魋はまじまじと見た。優男は面白そうな表情を目元に貼り付けたまま、軽く桓魋に片目を瞑って見せる。
「僕は奏出身でね。今回ここに足を運んだのもそれが目当てで来たんだよ。こう見えて放浪グセが抜けなくてね…。今回は範に足を運ぶついでに立ち寄ったんだ。旅はやっぱり楽しいしね」
 君たちも旅の途中?と彼は尋ねる。陽子は是を答えた。
「どうして旅を?どこの国の人か訊いてもいいかな?」
「俺たちは慶の者だ」
 その国の名に、その時僅かに、美丈夫の黒眸に何かを理解した光が浮かんだ。
 それ以上は追求せず、そう、とだけ彼は微笑む。桓魋は同じように肩をすくめる。
「まぁ、今はあんたと同じ放浪者としての身分を満喫してる所だ」
 な、と桓魋は陽子ににやりと笑う。釣られて陽子は思わず微笑んで、大きく頷いた。彼の魅力がこもったにひるな飄々とした笑顔に、俯いた陽子は僅かにはにかんだ。
 その様子を見ていた男は破顔する。彼は首を傾けた。
「貴方たちの旅路は、楽しそうだね」
 硝子戸から刺す日差しは緩やかに傾き始めていた。運ばれた茶は既に冷めている。
 しばらく話をした三人。話の終わりがけに彼の方から唐突にこんなことを切り出した。
「もし良かったら、三日後の記念式典、一緒に見ないかい?ずっと一人旅をしてて飽きてきたところだし、君たちと一緒だと、楽しいんだ」
 駄目かな?と彼は首を傾ける。零れた艶やかな黒髪が肩を滑り、それだけで驚くくらい絵になっていた。別に断る理由もなかった。
 陽子は微笑んで首を縦に振った。
「いいですよ。是非ご一緒しましょう」
 やった、と青年は拳を握る。嬉しそうに彼は陽子たちの席の伝票を取ると、軽やかに勘定場に足を進めた。桓魋の方が、体を浮かせる。
「勘定は俺が払う」
「良いんだよ。私に払わせて。また君たちに会いに来るよ」
 彼の口元の弧の美しさは、この男のどこか笑み慣れたところから来るのだろうか、と陽子は思う。それくらい、〝笑み〟という武器を表情に馴染ませた青年。その笑みで様々なことを、軽々とかわせるのだろう。
 でも、それでいて少しも――嫌味がなかった。後ろ手に手を振る青年に、陽子は動きを止める。
 美しい後ろ姿に、陽子は重要なことを聞き忘れていたことに気がついて声を上げた。
「あの…!お名前を…」
 あ、と彼が名乗り忘れていたことに気がついて動きを止める。先に名乗らせておいて、失礼なことしちゃったね、と光の中で、彼は笑った。
「私の名は、利広。奏の風来坊ってみんな私のことをそう呼ぶ。だけど、陽子と桓魋は普通に、利広って呼んでくれたら…」

 私は、嬉しいな。
 

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 舍館に戻り、吉量の縄を確かめながら、桓魋は先程の青年について考えていた。
 彼は何者だったのだろう。
 国を出てから、あの偉丈夫といい不思議な縁がある。
 すり寄せられる面を、真紅の鬣を撫でてやりながら、桓魋が息をついた時、背後でくすくすと柔らかく笑う声が聞こえた。振り返れば、陽子が桓魋と吉量を見て微笑ましそうに笑っている。
「陽子…」
 目を瞬く桓魋に、口角を持ち上げたまま無言で、陽子は腰にはいた剣の柄を指で叩く。
 このふたりの間で意味する、稽古の時間だというその動作に、桓魋は思わず笑った。
「…そうだな。ちょうどいい頃合だ…稽古をしよう」
 吉量を厩舎に戻し、きちんと戸に鍵をかけた桓魋は、奥に置いてあった長槍を手に取った。その時、すぐ隣の厩舎にいた目を見張るほどの騶虞に桓魋は驚いたが、彼は肩を竦めるだけにとどまった。
(余程の身分の者がここで宿を取っているのか…)
 貴族のその中でも更にうわずみの階層の者か。禁軍の将軍職の者か。どこかの国の王族と近しい者か。何にせよ、騶虞などという、売れば一生分の生活に困らない程値が張る騎獣を見たのは初めてだった。
 厩舎から離れ、人気のない丘陵まで歩んできた彼らは、どちらともなく武器を構える。
 ふわりと薫風が舞う中、桓魋は稽古の前に口を開いた。
「利広…掴みどころのない奴だったな。だが」
 悪い奴には見えなかったな、と桓魋は呟く。少々同性としていけ好かない部分も無きにしも非ずだが、まぁそこは目を瞑ってもいいだろう。すらりと伸びた長剣を構えたまま、陽子は嬉しそうな顔をした。
「うん。あの人はいいひとだよ。そんな気がする」
 陽子が桓魋に微笑む。だが目と目が触れ合った瞬間、弾かれたように彼はふいと視線を逸した。
「そ、そうか…」
 自分は何かおかしな顔をしただろうか、と陽子は首を傾げる。

 ふたりの関係は、特に波立ったこともなく、以前と変わっていない。明るく穏やかで、温かい。
 だけど時々――距離を掴み損ねる。そのことに、ひやりとする。
 どこまでが安全で、どこからが危険地帯か。どこまで自分の心と向き合い、どこを境として逃げたらよいのか。彼との関係の曖昧な境界線を、超えてはならぬ一線を、手探りで――探っている。防衛線を見極め。予防線を張って。踏み込み過ぎないように。戻れるように。

 頭を振って邪念を払い、剣を構えなおす。
 光を放つ刃の先にいる桓魋は、真剣な表情のまま、陽子が来る時を待っている。地面を蹴り、刃を振りかぶった刹那、桓魋も構えて駆け出した。
 弾きあって、刃は高い音を響かせる。陽子が接近したその時、桓魋の瞳が激しく揺れた。
「…!」
 刃が、ぶれる。軌道が、ぶれる。桓魋の手から、長槍の柄がもぎ放されていく。陽子の瞳が見開く。ただ、衝撃だけがふたりの間に落ちた。
 桓魋の長槍が、陽子の刃に弾かれた。
「…え…?」
 痛いくらいの間だった。
二人共動きを止め、陽子の瞳が、ゆるりと突き刺さった長槍を追う。声が…詰まった。
「桓魋…?」
 こんなこと――有り得ない。陽子が知る中で、最強の武人が手から武器を弾かれるなんて。
 それは最近微かに感じ始めていた異変のしわ寄せが現れた瞬間だった。視線を地面から斜めに伸びる長槍から外さぬまま、陽子は唇を開く。
「桓魋…やっぱり…やっぱり最近おかしいよ」
 突き刺さる長槍を唖然と見つめたまま、声は止まらない。
「何があったんだ?体の調子が、悪いのか?どうしたんだ…」
 彼の名を呼んで、陽子は長槍から桓魋本人に視線をずらす。何故、彼の様子がおかしいのか、その真意は陽子には分からない。
だがそれでも。視線が絡んだその瞬間――陽子は驚いて口を噤んだ。


 彼は、桓魋は、雷に打たれたようにその場に立ちすくんでいた。


 その顔に、陽子は動きを止める。唇を動かそうとしたけれど、声は乾いて出なかった。何と言って良いのか分からなかった。
 だってその時の桓魋は、途方にくれたような呆然とした表情で、自分自身の掌を見つめていたのだから。


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