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 陽子が惺拓から手を引かれたのは、雁国を抜け、柳の国境線を超えたあたりだった。
「陽子さん!ちょっと…」
 呼ばれた声に振り返れば緊張気味の顔をした惺拓が立っていた。
「?何だ?」
 何をそんなに固くなっているんだろう、と一瞬目を丸くしたが、陽子は微笑んで歩み寄る。だが彼の手が届く範囲に陽子が入った時、突然、陽子の手のひらを惺拓の手が握った。
「え!え?」
「どうか、一緒に来てください!」
 驚く陽子を尻目に、惺拓はぐいっと彼女の手を掴んで朱旌の一座の進行方向とは反対方向に歩き出す。あまりにも唐突なことだったので驚いた陽子の声はひっくり返った。
「ちょ、ちょっと待て。ここでいきなり離れたらみんなとはぐれて…」
 陽子は思わず周囲を見るが、だれも二人の挙動に気がついてはいないようだった。朱旌の方を振り返ろうとする陽子を惺拓は強くひいてこちらに振り向かせる。
「少しだけ!少しだけ陽子さんと二人だけで話したいんです!すぐ戻りますんで!」
 陽子は一瞬止めるべきか悩んだが、惺拓があんまりにも必死そうなので、つい強く言う機会を逃してしまった。
(なんとかして、陽子さんだけは一座に残ってもらわなきゃ)
 口説いてみろと大人の余裕を持った桓魋の声が脳裏で憎たらしく響く。ずっと様子を伺っていたが、この調子ではもう約束の護衛任務終了地点まで辿り着いてしまう。陽子に決心をさせるためにも、もう今日にでも言わなくてはならなかった。焦りだけが、惺拓の行動を急かしていた。
惺拓はちらりと先頭を歩く桓魋の背を見、陽子の手を引く腕に力を込めた。陽子の方は振り返り振り返り進んでいたが、それでも二人の姿はあっという間に朱旌の一座から離れて消えていった。

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 朱旌の一座から離れて、二人はすぐ後ろ手にあった深い密林のような場所を歩いていた。ここには人気もなく、二人で話をできる。惺拓は陽子とふたりっきりという状況に舞い上がりそうになっていた。だが陽子の方は表情を曇らせたまま、まだちらちらと後ろを気にしている。頃合を見計らって、話を切り出したのは陽子の方だった。
「で、何だ?話って」
「え!あ、えーっと…」
 はっと陽子の表情に気がつき、しどろもどろで惺拓は口を開く。
「えっと陽子さんは何で桓魋さんと旅をしてるんですか?」
「え?」
 陽子の疑問符を浮かべた表情にドギマギしながら、だって、と惺拓は口を開く。
「二人とも、ほんとは赤の他人なんですよね?陽子さんは海客で、こっちに生まれたわけじゃないから桓魋さんとは家族ってわけでもないのに。桓魋さんは二人の間には別に何もないって言ってましたけど、何もなかったら何で一緒に旅してるのかなって」
 瞬間、陽子の表情が凍りついた。だが、自分のことで手一杯な惺拓は一気に空気が冷え込んだことにも気がつかず、話を続ける。
「それに桓魋さんは将軍様だって言うのに、慶国が大変な今の状況を放り出しちゃってるじゃないですか?そんな人とどうして陽子さんみたいなステキな人が一緒にいるのかなと思って…」
「話は…それだけか?」
 険を含んだ陽子の声に、はっと惺拓は顔をあげる。そこには普段とは違った冷え冷えとした表情の陽子がいた。桓魋に対するやっかみや嫉妬はあったが、陽子のことは一切悪く言ったつもりのなかった惺拓は、自分の話のどこに落ち度があったのか分からず狼狽える。
「帰ろう。もうみんな私たちがいないことに気がついているはずだ」
「え!ちょ、ちょっと待って!ごめん陽子さん、怒らせちまいました?!」
必死で惺拓は陽子の後を追う。陽子は何も答えず歩みを進める。
「そんなつもりじゃ…ただ、俺は陽子さんにこの朱旌の一座に残って欲しくて…」
 陽子の歩みは止まらない。一生懸命惺拓は叫んだ。
「ごめんなさい、陽子さん!お願いだからもう少し話を…」
 ふわりと、その言葉に陽子の足が止まる。振り返った陽子の顔は、少しだけ惺拓の心情を理解したようで、もう怒ってはいないようだった。
「…そうか。だが、いくら私に残って欲しくても、私と連れを引き離すために私の連れを悪く言うのは筋違いだ。そんなことをすると、本心を伝えたい相手に嫌われてしまうぞ」
 惺拓は僅かにうなだれる。ふぅと息をついた陽子は、穏やかな表情をした。
「大丈夫だよ。惺拓の言いたいことはわかったから。どうしてここで二人きりで話したいかという理由もね」
 優しい陽子の表情に、惺拓の表情に光が指す。やった、分かってくれた。陽子はここに残ってくれる気になったんだ、と彼女の表情を惺拓はそう解釈した。
「でもね」
 だから、次の陽子のその言葉は彼を天国から地獄へ突き落とすには十分だった。
「私は、桓魋と旅を続けなくちゃならないんだ。どうしても、私たちは国に帰らなくちゃいけない。きっとこれは長い話になるから、あまり説明できないけど、私たちは慶国に帰るって約束をしたんだ。だから…って聞いてる、惺拓?」
 でもね、の陽子の一言から、惺拓の世界は暗転して、後の彼女の言葉はもう耳に入ってきていなかった。あぁ、これは――どう見ても断られる流れだった。絶望した次の瞬間、湧き上がってくるのは要求を断った陽子への理不尽な怒りだ。怒りで震える声を搾り出す。
「…そんなに桓魋さんと一緒がいいんですか?」
 え、と陽子の目が丸くなる。その表情さえも一気に腹立たしくなった。
「あの人の何がそんなにいいんですか?!陽子さんだって今まで桓魋さんといたから危険な目にいっぱいあってきたんでしょ?!今だってあの人僕らがいないことにも気がついてないじゃないですか!!」
 連れのことを悪く言うなと言われたばかりなのに、惺拓は自分を止めることが出来なかった。陽子は自分には穏やかで優しい年上らしい表情しか見せない。でも桓魋からしたら、陽子は年下で、彼はきっと自分が知らない陽子の表情をたくさん見ているのだ。このぶっきらぼうな陽子に色々な表情をさせることができるのだ。それが悔しくてしかたなかった。
「俺だったら、そんな目に陽子さんのこと合わせたりしない!危険な旅からも守ってみせる!なんで俺じゃダメなんですか!」
 必死に訴える内容は、いつの間にか、論題がすり替わっていることに当の本人も気がついていない。本人は陽子にここに残って欲しいから、という名目で呼び出したつもりだが、結局はおそらくこれがずっと惺拓が彼女に聞きたかった本心なのだろう。
(この子は…)
 陽子は少し戸惑ったように瞬きして、そして穏やかな表情をする。だが惺拓に向かって口を開きかけたその時、彼女の表情が凍りついた。
「惺拓…」
 鋭い陽子の表情に、また怒らせてしまったかと惺拓は思う。だが、次の瞬間聞いたのは、緊張を孕んだ思いがけない陽子の言葉だった。
「いいか…振り向かず、そのままゆっくり私の後ろへ来るんだ」
「へ…?」
 見れば、陽子が睨んでいるのは自分ではなく、自分の背後だった。その瞬間、後ろから生臭い匂いと瘴気のようなものを感じた。
 何か、いる。
 反射で陽子の言葉を忘れてつい惺拓は振り返ってしまった。獰猛な赤い瞳、むき出しにされたなまじろい牙。惺拓を待ち構えていたのは、こちらに狙いを定めている巨大な獅子型の妖魔だった。
「は…?」
 まるでそれが合図だったように巨大な牙が、巨体がこちらに向かって飛びだした。悲鳴をあげる間もなかった。
 次の瞬間、惺拓が見たものは妖魔の前に躍り出る陽子と、陽子の背後に流れていく自分の体だった。牙が薙がれる寸前に、陽子の鞘走りの音が響き渡った。けたたましい、刃と牙が噛み合う音がした時、ようやく惺拓は大きな悲鳴をあげた。
 陽子の白刃が宙を裂き、彼女の体が舞い上がる。牙の力を跳ね返されて、妖魔の体が反り返った。次の瞬間、両者の目が光り、打ち合う轟音が響き渡る。妖魔との戦いのさなか、陽子が惺拓に向かって叫んだ。
「ひけ、惺拓!!ここから少しでも離れろ!!」
「よ、陽子さ…」
 だが惺拓が応じる前に、注意のそれた陽子の刃が外側に妖魔にはじかれた。大きく体が開かれて、妖魔の牙の前に陽子の肢体がさらされる。陽子の瞳が不覚に見開いた。
「!!」
 もう惺拓は声も出なかった。あと二秒もたたないうちに、陽子の体は食いちぎられる。陽子が、このままでは殺される。真っ白になる頭の中で、誰か、と思った。誰か、助けて。
 その時だった。

 黒い影が、自分の脇を疾走した。

 次の瞬間、どん、と体中に響く衝撃と共に、目の前の画面に大きく筋が入る。妖魔が断末魔の悲鳴をあげながら、真っ二つに叩き切られる。全てが、その一撃で終わった。
膝を畳んで長槍を振り切った体勢の男の背に、しぶいた血の雨が降り注ぐ。体を起こし、安心したような表情の陽子が彼の名を呼ぶ。
「桓魋」
男は、目だけをするりと二人に向ける。短く、一言聞いた。
「怪我は」
 陽子が笑った。
「ない」
 その言葉にゆっくりと立ち上がり、歩んでくる桓魋に、惺拓はひっと肩を竦ませた。
 自分のそばにいる陽子が、手をかして立たせてくれる。張り詰めたように鋭い、こんなに怖い桓魋の顔は見たことがなかった。びくびくと怯えながら、惺拓は二人に頭を下げた。
「ご、ごめんなさい…」
 惺拓は身を縮める。自分勝手な理由でよく考えずに行動し陽子を危機にさらして、桓魋に多大な迷惑をかけた。もう何も言ってもらう資格もないかもしれない。
 泣きべそをかきそうになりながら、桓魋を見上げようとした時、目の前に火花が散った。
「ぎゃっ?!」
 頭にげんこつが落とされたと気がついた時には、もう踵を返して歩き出している桓魋がいた。振り返らずに桓魋は言う。
「帰るぞ。怪我がないんだから自分で歩け」
呆気にとられて、ポカンと惺拓は彼の背を見つめる。そんな現状を飲み込めていない惺拓に、陽子の穏やかな声が投げかけられた。
「良かったな。これでチャラだって」
「へ…?でも俺…」
「もうオシオキくらったよ。いったいよな、桓魋のゲンコツ。私も悪さしたときはくらったなー」
 へへっとなんでもないことのように陽子は笑う。こんな危険な目に合わせてしまった自分を陽子は許してくれている。惺拓にはそれが不思議でしかたなかった。そんな彼の心情を読んだのか、陽子はふっと微笑む。
「惺拓はさ、私を危険な目に合わせないって言ってくれたよな。でも、実は私はな…」
 風が陽子の髪をかきあげる。不敵に笑む陽子の眸に一層強い光が灯る。どこか獰猛で、いたずらをするような悪い笑みを浮かべた陽子に、ぞくりと思わず惺拓は見入った。
「スリルが…大好きなんだ」
 すりる、が何かは分からなかった。だが、その時惺拓は自分が陽子に惚れた原点を思い出した。一座が野党に襲われたあの時、陽子と初めて出会った時、颯爽と現れ助けてくれた姿を。赤の髪を翻しながら、楽しそうに舞う姿を思い出した。
 今更ながら桓魋からもらったゲンコツの痛みが出てきて、なまじりに涙を浮かべた惺拓は陽子にへにゃりと笑った。遠くから、朱旌の一座がこちらに向かってくる音がした。

 安心感が相まって、桓魋が陽子と目を合わせないことに、その時は誰も気がつかなかった。

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 その後、柳国では何度か妖魔に襲われかけたが、陽子と桓魋のめざましい活躍により、こちら側に痛手は無かった。
 朱旌の一座はやんややんやの喝采で、特に座長からは大変に感謝された。その後の生活は、惺拓の桓魋に対する態度以外はいつもと変わらなかった。少しだけ変わったのは惺拓が桓魋に武芸を習い始めたというところくらいだろうか。あとは桓魋が陽子をからかったり、陽子がため息をついて、笑って、ふざけて、変わらないひたすら楽しい日々だった。
 間違っても、桓魋が稽古の時に感じた、陽子に対する激しい動悸は今のところでていない。
 相変わらず陽子は玉葉の遊び相手になったり、稽古に励んだりしている。桓魋も桓魋で、妖魔が出なければ、力仕事に精を出す毎日だった。
 そのまま朱旌の一座の護衛を、柳を抜けるまで彼らは立派にやり遂げた。そして約束通り、柳から恭への国境を超えて別れる時がやってきた。
 護衛の代金を受け取った桓魋は、朱旌の一団と、そして一番世話になった黄鉄と別れの挨拶を交わす。少し離れたところでは、玉葉が陽子から離れたがらずに、陽子は困ったような笑みを浮かべていた。
 その光景に目を細めた黄鉄が、ふと言葉を零した。
「やっぱり似てるな‥あいつは」
 え?と眉根を寄せる桓魋に、黄鉄は振り返る。ふたりの少女に、黄鉄は目に穏やかな色を浮かせる。ポツポツと吐かれる言葉は、眩しいものを見るようなものと同時に、どこか霞んだ哀愁を帯びていた。
「俺はな‥妹を昔に亡くしてるんだ。兄の俺が言うのもなんだが、本当に良い妹だった。優しい…たったひとりの可愛い妹だった。最後まで、守ってやりたかった。あいつを‥陽子を見ていると俺は妹を思い出さざるを得ない」
 桓魋は口を噤んで、黄鉄と同じ方角に視線を合わせる。季節はとうに巡り、冬の乾いて斬るような風から、春めいた濡れた風が、ひとひらの花びらを含んで桓魋の頬を撫でていった。春香の方向で、玉葉の相手をしてはにかんでいる陽子がいる。黄鉄の微かな苦笑が傍らから聞こえた。
「おかしいだろう…?顔立ちも、声も、雰囲気も、何もかも違うのに…。でも、どうしようもないくらいに似てるんだよ。あいつを見ているともういない妹を彷彿させられちまう。何でだろうな…」
 桓魋の横で、黄鉄は不思議そうな、切なさを帯びた顔で陽子を見つめた。黄鉄の妹を知らない桓魋は、黄鉄の感じたことに何も口を出せない。言葉を待っていたら、やがて目を細めて考えこんでいた彼はあぁ、と声を上げた。
「そうか…。分かった…。心が似ているんだな。一番深い根の部分があいつと陽子は似ているんだ。不器用なくせに…人と懸命に関わろうとする所が、堪らなく似てるんだ」
自分の導き出した結論に納得したような、晴れやかな声色だった。どくん、と陽子のことを思った時、またあの動悸がした。
「そう…ですか」
 陽子の紅を見つめたまま、そう零した桓魋に、黄鉄は微かに首を傾げてみせた。
「俺は…あいつのそういうところを一番に知っているのは…お前だと思うんだがな。誰よりも、一番に」
 陽子と玉葉の声が、こちらにまで流れてくる。だけど、その楽しげな声色は一層こちらの空気の静謐さを炙り出す。鼓動が、ゆっくりと、速くなっていく。言葉を失くした桓魋を、緩やかな日差しが刺した。
「…俺は今言っていることは、年齢や容姿なんか関係のないことに思えるんだ。お前が見ているものは。…違うか?幼子でも、老人でも。美しかろうが醜かろうが…関係がない」
 黄鉄は目を細める。陽子たちの近くでは玉葉の母親の微真が、娘をなだめているのが見えた。黄鉄は年層の違うふたりの少女を見つめた。
 ただひとつ、年齢のことに触れるのなら…
「お前はあいつを…陽子を子供だと言う。確かにあいつは俺たちと同じ〝大人〟じゃない…。だが、だからといって陽子は玉葉や惺拓と同じ〝子供〟の部類にはもう入れられないんじゃないかと、俺は思う」
 大人と子供、何故その二元論に――分ける。
自身が触れようとしなかった心の奥底が疼いていることに、当の本人だけが気づかない。春の温度が指先を温めるのに、掌は微かに冷えて汗ばんでいる。黄鉄は視線を動かさない桓魋の精悍な横顔に、言葉を重ねる。
なぁ。
「大人でもない。子供でもない。あいつは…娘だよ。あいつが‥陽子が今いるのは――刹那の時だ。いつ終わるかも分からない瞬間」
 桓魋の動きが止まる。閉じていた一部をこじ開けられるような感覚が胸に走った。
 やめろ。
「確かに未熟なことも多いかもしれない。大人に比べたら無いものも多い。だが…だけどな、大人と子供、そのふたことに分けることが出来ない今の瞬間は‥」
 頼む、やめてくれ。
何故か桓魋は思わず顔を背けた。
だが相反して傍らの無愛想な男の口元は――綻ぶ。花びらが、舞った。日差しが揺らいだ。紡がれたのはひどく穏やかな、声、だった。

「それは一番‥人が美しい時なんじゃないかと、俺は思うんだ」

 刹那だからこそ美しい。儚さを弾くよう生きる対極さが眩しい。

 一層強く、桓魋の心臓が打った。固い表情をした桓魋の横で、黄鉄は微笑んでいた。桓魋の肩を叩いて、先へ行くよう彼は促した。その強さに思わずたたらを踏んで、桓魋は黄鉄を振り返る。
「行け。長い話に突き合わせた。あいつは危険に自分から突っ込んでくから…ちゃんとあいつを守ってやれよ、将軍様」
 黄鉄の強面は光のせいか、はたまたその口元に浮かぶ笑みのせか、いつもよりずっと和らいで見えた。
 前方からは話を終えた陽子が、桓魋に向かって駆けてくる。
 近づいてくる陽子に、再びめまいのようなものを覚え――桓魋は頭を振った。
(疲れているんだ、俺は…)
 恐らく。きっと。
 陽子の笑顔が花開く。
 この春が来た…そのことが呪いのように意味していることに、桓魋はまだ気づかない。惺拓に言ったように、なんでもない関係だと思い込んでいる。二人に向かってひとりの少年がかけてきた。
「桓魋さん、陽子さん!」
「惺拓!」
息を切らした少年は二人それぞれに小さな袋を渡した。
「お世話になりました…!たくさん迷惑かけちまったけど、お二人に会えてほんとに良かったです」
「また惺拓の舞踏見せてくれ」
「も、もちろん!陽子さんの頼みなら喜んで!」
デレデレとする惺拓に、にやりと桓魋は笑む。
「これで悪ガキの世話も終わりか」
「が、ガキって…否定できないけど。でも…いろいろとお世話になりました。桓魋さん」
 しっかりと彼は桓魋に拱手した。不思議なもので、人はときに子どもであることを認めたときに子どもではなくなることがある。惺拓もその一人だった。大人に近づいたからこそ、本人たちが分かっていないことに彼は気がついていた。特に桓魋。彼がまだ――。
 自分の本心に気がついていないことも。
 恋敵なのに歯がゆかった。でもだからこそ逆に――彼が自分の抗えない本心に気がついた時を、二人の行く末を見たい気持ちも今はあった。桓魋は、やっぱり男の自分からみてもかっこいいから。そんなことを考え始めた惺拓は、確実にお子様という分類から抜けつつある。
 にやりと彼は桓魋に似た笑みを浮かべた。
「あ!お前も悪い顔をするようになったな」
「へへっ桓魋さんじこみです」
 苦笑いをした桓魋はふっと穏やかな顔をする。
「今はまだ本格的に触れたことがないからわからんだろうが、恐らく、お前には武の才能があるよ。振りが綺麗だ。お前の舞踏に武芸を組み込めたらきっと見事なものが出来る」
 他でもない桓魋の言葉に、惺拓は目を大きく開いて、嬉しそうな表情をした。もう一度ぺこりと頭を下げて、照れ隠しのように朱旌の一団に駆け戻っていく。陽子は朱旌の一団に大きく手を振る。
「さようなら!ありがとう!」
「元気でなぁ!」
「またね―!」
 恭へと消えていく青年と頭一つ低い少女の背を朱旌の一座は総出で見送る。幼いお団子頭の玉葉が、黄鉄の足元にまとわりつきながら、彼を見上げる。あどけない表情で、彼女は微笑む。
「ねぇねぇ!玉葉ね、今度の新しい小説は、陽子が主人公のお話がいいな!強い用心棒で、将軍様と旅をしているかっこいいお姉ちゃんのお話、面白いと思うんだ!」
「それはいいな…。今度座長に掛け合ってみようか」
「やった!それでね、もしそれをやることになったら、それで玉葉がおっきくなったら、玉葉が陽子の役をやりたい!ねぇ、いいでしょう?」
玉葉の言葉に惺拓が慌てて声をあげる。
「ずりぃぞ玉葉!じゃあ俺が桓魋さんの役だ!」
「ふふ…じゃああの二人の役をやるためには、美しい武芸の型を勉強しなくちゃならないぞ?」
「大丈夫だよ、俺筋が良いって褒められたし!」
「私もがんばるー」
 張り切って、小さな鼻の穴からふーんっと息をする稚い少女と少年に、黄鉄は目尻を緩める。くるりと玉葉が彼を振り返った。
「黄鉄はくまのお兄ちゃんとお話していたの?たくさんお話した?」
「あぁ…」
 男は、ゴツゴツとした大きな掌で少女の頭を撫でた。遠くを見た男に、玉葉は不思議そうに首を傾げる。空が青く、春の色を醸し出す中で、男は目を細めた。

「少し…喋りすぎたくらいだ…」

 桓魋、幸せは自分で気がついて手を伸ばさなきゃ、みんなみんなすり抜けてっちまう。手放すな。守り抜け。

 空高く、鳥の鳴く声がどこまでも響いていく。砂塵が衣を巻き上げる。
 ここは地下に脈々と巨大都市を創る柳北国の地上。世界の終焉まで果てない旅を続ける朱旌の一座は、再び彼らの旅路をなぞる。砂嵐に押されるように、黄鉄は桓魋と陽子が消えた方角を振り返る。

 霞む目の前の光景の中に、刹那の時を交錯した青年と少女の姿は、もう見えなくなっていた。


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