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 桓魋と陽子の朱旌の一団の護衛は、柳を抜けるまで、と話し合いにより決まった。
朱旌との旅は初めてのことばかりで新鮮で、彼ら自身がとても良い人々だったことも相まって、雁国を抜けるまで桓魋と陽子は充実した日々を過ごした。

 あれから、既に二週間が経とうとしていた。

 大国雁では、あの襲撃以来、襲われることもなく平和に時間は流れていった。陽子は朱旌の人々に見世物の剣舞を教えてもらったり、手伝いに走る毎日だった。重い荷物を難なく運べる桓魋は特に彼らから重宝がられていることは言うまでもない。
 そして今日も、彼らの手伝いを終えた陽子は、日課となっている桓魋との稽古のために剣を手に取る。
 汗を拭う陽子の背に、幼い声が投げかけられた。
「陽子、今日もくまのお兄ちゃん‥桓魋とお稽古するの?」
振り向けば、頭に二つのお団子をつくった可愛らしい少女が陽子を見つめていた。お団子には可愛らしい薄桃色の頭巾を被せてあり、それが少女にはとても似合っていた。朱旌と共に行動をするようになってから、仲良くなったこの少女――玉葉に陽子は微笑む。
「あぁ、そうだよ。玉葉も見に来る?」
 きょとんと首を傾げていた少女の顔がみるみるうちに輝く。うん!と玉葉は力いっぱい首を縦に振った。
「お母さんも呼んでいい?」
「勿論構わないけれど、微真さんも忙しいんじゃないか?」
「うーん、行ってみなきゃ分からないけど、でも、お母さんも陽子とくまのお兄ちゃんのお稽古見るの好きって言ってたよ!」
 そうか、と笑う陽子に笑い返し、玉葉は軽やかに母の元へ駆けていく。小鳥のように母親にさえずる玉葉を見ながら、陽子はどこか微笑ましい気持ちになった。
(私も、昔は桓魋にあんな風に話しかけていたな‥)
 幼い頃の陽子はもっとずっと口数が多かったように思う。あれは何?これは何?と言葉を覚えたてながら桓魋にたくさん訊いていたことが、記憶の片隅に残っている。
 ちょっと腰を屈めて、穏やかに微笑みながら桓魋は陽子の声、その全てを聞いてくれていた。時にふざけてからかいながら、そして時に真剣に、いつだって桓魋は陽子の質疑に答えてくれていた。
 不意に記憶の中の彼の笑顔に手を伸ばしかけて、ふわりとそれは溶けて消える。
 どこか燻られるような微かな熱を、陽子は胸の奥底に感じた。
 陽子が目を細めたその時、彼女の姿に気づいたひとりの少年が、陽子の名を呼んだ。
「あ、陽子さん!桓魋さんと剣技の稽古ですか?」
「あぁ。あ、でも今から少し一人で稽古をしてからね。惺拓も仕事は終わったのか?」
 はい!と元気よく頷く少年は、陽子より二つ年下の朱旌の民だ。舞踏担当で、若いながらに見事な仮面の舞を見せてくれる。
「えっと、今から剣技の練習するんなら、俺も見に行っていいですか?お二人の剣舞はなかなか見れないくらいすごいんで…」
 後半はもごもごと口ごもりながら、惺拓はちらりと陽子を見上げる。その顔が赤くなっていることに、陽子は気がついてはいなかった。実はこの青年、雁で襲われた際華麗に彼らの窮地を救った陽子に惚れ込んでしまっていた。陽子と話すのも正直とても緊張するが、それでも声をかけずにはいられない。
(うぅ…やっぱ陽子さん今日もかっこいいなぁ…)
 男の自分にもかっこいいと思わせてしまう陽子は、やっぱり魅力的だ。かっこいいからこそ、彼女の女性らしい守ってあげたくなるような面も見たいと思ってしまう。このあたりは男の性なのかもしれない。頭の中の想像では、よく自分が妖魔から陽子を守ってあげている。陽子が悲鳴をあげて、自分の背にすがりつく光景を、彼はデレデレと考えていた。だが実際にもし妖魔が現れたら、背に庇い雄叫びを上げながら妖魔を駆逐するのは陽子の方だろうという指摘をする者は、恋する彼の頭の中にはいなかった。
 惺拓は陽子が朱旌の旅路に加わってから甘酸っぱい気持ちを味わっている真っ最中だ。陽子はきょとんと目を丸くし、そして笑う。
「あぁ、もちろんだ!惺拓が来てくれたら私も嬉しいよ」
 やった!と内心で拳を握る惺拓。陽子の姿をもう一度じっと見、ふにゃりとデレた顔で笑う。惺拓が来てくれたら私も嬉しいよ、の部分だけ彼の胸の中で永久保存した。
(それにしても、桓魋さんと陽子さんは、どんな関係なんだろう?)
 今のところ惺拓が二人について分かっていることは

・桓魋は半獣。
・陽子は元海客。
・二人は慶国の州師軍に所属している。

 ということだった。彼の中で、実は桓魋は重大な恋のライバル認定を受けている。二人の関係はどういうものなのか、やきもきしていたが、そこは自分にとって都合の良い憶測で埋めるしかなかった。あと彼の頭の中にあるのは、どう陽子を自分に振り向かせ、陽子だけをこの朱旌の旅にとどめるか、だ。
 惺拓と陽子の元に、母と話し終えた玉葉が息を切らして駆けてくる。
「陽子!お母さんも今日の衣装の仕立てが終わったら見に来るって!」
「‥!そうか。じゃあ素敵な客人を前に格好悪いところ見せないようにしないとな」
 玉葉はふふっと甘い笑みを浮かべる。くるくるとした瞳で、少女は陽子を見上げた。
「ねぇ、陽子」
「?何だ?」
「陽子とくまのお兄ちゃんは慶の国の兵隊さんだったんだよね?くまのお兄ちゃんは強い将軍様だったって本当?」
 陽子は驚いて玉葉を見る。惺拓は別の意味で仰天して、その場に固まった。
 陽子がちらりと自分を見るのを感じ、彼女は優しい声で玉葉に問うた。
「そうだけど‥誰に聞いたんだ、そんな話?」
「くまのお兄ちゃんが座長様とお話してるのが聞こえてたの」
惺拓は固まったまま、なんとか声を絞り出した。
「か、桓魋さんは将軍…」
「はは、そうだよな。惺拓ももちろん知らなかったよな」
苦笑いをする陽子に玉葉はほわんとした笑みを浮かべた。
「だから陽子はいつだってカッコイイんだね!玉葉、大きくなったら陽子のお嫁さんになる!」
「ふふっ‥私は女だぞ、玉葉」
二人の会話を耳にしながら、惺拓は未だ固まったままだった。先程口にしたのと全く同じ言葉を胸中で反芻する。
(桓魋さんは将軍…)
 恋のライバルの格が跳ね上がる。軍兵だとは聞いていたが、まさか将軍だとは思わなかった。…いや。思い返せば、納得出来る雰囲気を持っている…かも。普段の飄々とした雰囲気で忘れそうになるが、そもそも普通に考えて、この手練の陽子の上をいくくらいだ。実力は相当ある男なのだ。
(ま、負けるもんか…!)
 そう思うといてもたってもいられなかった。
「よ、陽子さんまたあとで!絶対、稽古見に行きますから!」
「?あ、ああ。またな」
 くるりと陽子との真相を確認すべく、惺拓は桓魋のところに向かって駆け出した。きょとんと目を丸くする陽子の手のひらに、玉葉がくっつく。
「?惺拓、急にどうしたんだろ?(かわや)かな?」
「さあな。またあとから来るって」
「玉葉は後からは嫌だよ!一緒にいるからね!玉葉陽子の一人お稽古見て、陽子みたいに練習する!」
「はは、そうか。じゃあ一緒においで」
 熱い惺拓の心情など知りもせず、陽子はさえずるように話す玉葉に微笑む。小さくて白い、柔らかい手を自分の手でくるみながら、陽子と玉葉は練習場に向かい歩きはじめた。小さな玉葉の方が必然的に歩幅が狭くなるので、一生懸命彼女は足を忙しなく動かす。それを見越した陽子はゆっくりと少女の歩む速さに合わせてやるようにした。恐らく桓魋も陽子が幼い時には同じことをしてくれていたと今更分かった。
 記憶にあるのは、彼と手を繋いで歩む時は、妙に周りが速く通り過ぎて行く光景だった。
 あの時は不思議に思っていたが、あれは周りが速かったのではない、自分たちが遅かったのだ。

 だって、いつだって陽子は桓魋と手を繋いでいるとき、置いていかれないように急いで歩いた記憶なんてなかったのだから。

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「本っ当に馬鹿力だな、お前は‥。今まで数多く国々をまわったが、お前ほどの馬鹿力は見たことないぞ、俺は」
 朱旌の一座の一人、黄鉄が桓魋を振り返る。桓魋は常人では考えられない量の荷を車に積むと、くるりと一度左手を置いた右肩を回した。汗一つかいていないその顔を見て、黄鉄は呆れた顔をする。
「ま、それだけがある意味取り柄なもんで」
 飄々と答える桓魋に、黄鉄は眉を跳ね上げてみせた。にっと口端が上がる。
「護衛の仕事がないと腕の振るいどころがないかと思ったがな」
「そんなこともないみたいですね」
 強面の黄鉄と桓魋は顔を見合わせ思わず笑う。どこか人を寄せ付けようとしないこの不器用な男の隠れた優しさが、桓魋は個人的に気に入っていた。
 黄鉄は縄で荷を括り上げながら、桓魋の方を見ずに軋む車にそれを乗せる。
「熊の半獣か‥。お前の力は皆の役に立つ。天から与えられたものだな」
 寡黙な黄鉄の言葉に桓魋は驚き、そのままその場で硬直する。何も物言わぬその背に桓魋は声が出なかった。慌てて彼は明後日の方向を見て無理に声を上げた。
「いやぁ、でも半獣ってだけで扱いはぞんざいですよ。獣の姿じゃあ女にもモテませんし」
「ふっ…。そんなこと言っておきながら、お前女には人気があるクチだろう。それにお前にはもう十分、いい女が傍にいるじゃないか」
「はい?」
 一瞬何を言われたか分からない桓魋の顔に、黄鉄は興味深そうな色を浮かべる。黄鉄は濃い片眉を跳ねる。釣られるように眉を跳ねた側の口端が、傾斜を描いていた。
「陽子は、お前の女なんじゃないのか?」
 ポカンと目を瞬いた桓魋に、黄鉄は微かに首を傾げる。口を噤んだ桓魋を、黄鉄は不思議そうに覗き込む。何かまずいことを自分は言ってしまったのか、と黄鉄が思った次の瞬間、桓魋は大きく口を開けて笑い声を響かせた。訳がわからない、といった表情を浮かべる黄鉄に、桓魋はひらりと手を振った。
「そんなんじゃないですよ、あいつは。まだまだ子どもだし、それに随分色気なく育ってますからね…。女だなんて見たことは一度もないですよ」
 まだ笑いが収まらないのか、桓魋の息は軽く荒い。大体…
「陽子のどこが女に見えます?あいつ男にしか間違えられませんよ。見事に野育ち状態のままでかくなりましたよ、あいつ」
 黄鉄は苦い笑みをはいた。
「失礼な奴だな、お前も。陽子本人に聞かれたらぶん殴られるぞ」
「ご想像の通りいつも殴られてますよ」
 男二人の笑い声がその場で響く。その時、桓魋の背に若い声が投げかけられた。
「桓魋さん!」
「ん?」
振り向けば少年惺拓が仁王立ちで腕を組んで立っていた。
「おう。どうした惺拓?」
 意を決したように惺拓は口を開く。
「陽子さんを…僕にください!!!!」
たからかに声が響く。
「…はい?」
 一瞬、何を言われたのかわからず、桓魋は笑んだ表情のまま瞬きをした。横目では黄鉄が、必死に笑いをかみながら、席を外していく光景が見えた。突然の来訪者の突然の宣言に、桓魋はゆっくりと手を額に当てながら、口を開く。
「えーっと、すまない、もう一度言ってくれるか?」
 空気を読めない少年は全力で桓魋につっかかる。
「いや…くださいなんてぬるい!陽子さんをもらいます!」
 完全に桓魋を敵対視している少年は、前置きなく胸間に溜まっていた質問を彼にぶつける。今気になることを聞いたんです。
「桓魋さんは慶の将軍様だったんですよね?」
 ぴたりと桓魋の動きが止まる。どこでそれを、と思わずこぼした彼に水を得た魚のように惺拓が突っかかる。
「そもそも桓魋さんは陽子さんとはどんな関係なのか、ずっと気になっていたんです。そもそも陽子さんが海客だから、おふたりは赤の他人ですよね。なんで同じ軍隊に所属していて、どうして一緒に旅をしてるんですか?」
 一気に上げられる質問をすべて聞き終えた桓魋は…一拍置いて、にやりと悪い笑みを浮かべた。
「ご想像にお任せするよ」
 ひらひらと後ろ手に手を振って、じゃあなと桓魋は歩みさろうとする。
(な、なんだよ…)
 惺拓は簡単にかわされてしまったことに、面食らった。その後、すぐにムッとする。
 どうやら桓魋の余裕な大人な態度が、惺拓の自分が子どもであるコンプレックスに逆に火をつけたらしい。その時、カッと沸いた激情のまま彼は言ってはいけないことまで、去っていく桓魋の背につい踏み入ってはいけない所までまくし立ててしまった。
「こ…答えられないんですか?!そんな風に陽子さんの足枷になるような関係なんですか?!」 
それに。
「そんな偉い方だったのに、どうして陽子さんと雁に無一文に近い状態で来ることになったんですか?そんなに近い関係なら、どうして最近まで、女性である陽子さんが慶国にいなきゃいけない状況をなんとかしなかったんですか?!ぼ、僕だったらすぐに慶国から出して危ない目なんかにあわせない!」
 ぴたり、と桓魋の歩みがとまった。その時一瞬、ほんの一瞬だけ、惺拓がひるむ程の気配を桓魋から感じた気がした。青ざめた彼は口をつぐむ。
(あ、やば…)
 だが、振り向いた桓魋はいつもと同じ飄々と余裕のある男だった。
「言うじゃないか。それに何か勘ぐっているようだが、俺と陽子の間には特に変わったことはないよ。俺はただのあいつの保護者だ。そんなに陽子が気になるんなら、口説いてみたらどうなんだ?お子様にお子様が口説けるかわからんが」
「こ、子どもじゃない!」
「悪い悪い。もう立派な大人だったな」
「あ、頭を撫でるなー!」
 その時、彼らの耳を、軽やかな声が撫でた。
「桓魋!」
「くまのお兄ちゃ―ん!」
 少し低い、穏やかな声と、明るく羽のような声が重なる。振り返れば紅の髪の少女と、頭にお団子を作った幼い子供が手を繋いで歩んでくる光景が見えた。元気に跳ねる玉葉は嬉しそうに手を振っている。惺拓はバシっと桓魋の手を頭から振り払い、ぐしゃぐしゃに撫でられた髪を陽子の前で必死に直した。
 手を振る陽子はとんとんと腰にはいた剣を指で叩いてみせる。稽古の時間だ、との示しに、そばに立てかけてあった長槍を手にとって、桓魋は頷いた。

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「おい、みんなぁ!桓魋と陽子が稽古するぞ!手が空いてる奴は見に来なきゃ損だぞ!」
 所々に張られた天幕から、人々が顔を覗かせる。皆一様に顔を輝かせ、わらわらと出てきた。陽子に視線を送った桓魋は、少女と目を合わせ肩を竦める。難度の高いふたりの武芸の手合わせは、出し物としてやればちょっとした人だかりが出来るものだった。
 普段見ることのない武人の美しく鋭い刃の舞に、長年刃を合わせ稽古を積んだこの二人だからこそ出来るその動きの秀美さに、子供たちは口を開けて稽古を見に来ていた。

 砕けた葉の欠片が混ざる微風が低く舞う。

 陽子は目礼をし、すらりと光を弾く刃の先端を、その直線上にいる桓魋に合わせる。
力強く陽子が地面を蹴ったのを合図に、長槍と長剣の刃と刃が噛み合う高い音が響き渡る。
 熱がはじかれ、火花が溶けて、目にも止まらぬ速さで刃は空を裂く。
いつもと同じように始まり、そしていつもと変わらぬように繰り返されるやりとりがしばらくの間続く。そのまま、桓魋と陽子は息もつかぬ速さで打ち合った。
 だが。
 陽子がぐっと桓魋に接近する。十合程打ち合ったところで、真剣に稽古を続ける桓魋と陽子の間に、その瞬間僅かな異変が走る。紅の髪が、いやに美しい。迫った陽子の瞳に、桓魋の瞳が揺れた。
 不意にかつて陽子と風呂場で遭遇してしまった場面が何故か鮮烈に浮かんだ。雁に入る前。茅軒で泊まった時に体を交代で清めようとしていた時に見てしまった光景。思いもしない事故にお互い仰天してしまい、訳のわからないことを口走って慌てて引っ込んだことを思い出す。それはちょうど桓魋が湯浴みしようと訪れた時に、陽子が盥に張った湯から体を引き上げた瞬間だった。濡れた肌。緩やかな曲線を描く乳房に張り付いた髪。すらりと伸びた裸の足。こちらを驚いて見つめる、翡翠。鮮やかすぎて、記憶にこびりついて離れない。
(…?!!)
 自分自身が突然想起したものに、桓魋が動揺する。動揺は、胸から腕へと直接伝わる。

 それは本当に微かな、誰にも、本人たちにも読み取れないほどの極微の刃の迷いだった。

「‥?!」
 桓魋の太刀筋が迷い、陽子の目が見開く。陽子の突き出された刃を受け止め損なった、桓魋の長槍の側面を、噛み合わなかった直刃が滑る。桓魋が振りを迷うなど陽子は見たことがなかった。そのことに驚いて、陽子は唸る刃に体を持っていかれる。
「!」
 桓魋の判断の誤りは、次の瞬間本人に向かって牙を向く。
 周囲から悲鳴が沸き起こったその時、乱れてぶれた刃が、勢いよく桓魋の左肩を薙いだ。
「‥!!」
「桓魋!!」
陽子が悲鳴じみた声で叫んだ。防具が砕けて欠片が飛び散る中、桓魋は勢いよく後ろに飛び退る。
膝をついて、桓魋は衝撃を受け流した。
「くっ‥」
 陽子や、黄鉄、玉葉の自分の名を呼ぶ声がする。砕けた防具の欠片が肩から零れ落ちた。幸いにも――怪我はない。だがそんなことなんかよりも、桓魋の意識を支配していたのは別の事実だった。ただ目を見開く。

――何故、今あんな映像が…?

 耳朶を打つ自身の名が、濃くはっきりと形を持つ。気がついた時には地面に腰を下ろす桓魋のすぐそばに、陽子がいた。未だ息を弾ませたまま、その手が彼に、伸ばされる。
「桓魋!大丈夫か?!怪我は?!」

 翡翠の瞳が、自分が思ったよりもずっと、ずっと近くにあった。

 桓魋の体が無意識に強張り、呼吸が浅く速くなる。何かをこじ開けられるような恐怖にも似た衝動が、その時彼を駆けた。
「よく見せて。傷は無いか?桓魋?」
 温度が、近い。香りが、近い。呼吸が、近い。自身の瞳に映る少女の色彩がいつにも増して――鮮やかさを増す。あの映像が、さらけ出された陽子の伸びた脚の美しさが鮮烈に蘇る。酔いそうな程目眩がする。
 陽子の手が一回り大きな桓魋の手に触れたか触れないか‥その瞬間。
「!!!」

 どくん、と強い音を立てて鼓動が打った。
その時桓魋は突然沸いた鼓動の意味が分からず、反射的に陽子の手を思い切り払っていた。

 陽子は冷水をかけられたように、驚いてその場に固まる。惺拓が口を開けているのが見える。そして同時に、桓魋自身も、自分の行動に驚いて同じように硬直した。はっとした桓魋の口から、音が零れる。
「は‥?」
 陽子は驚いて固まったままだった。今の状況に、そして何より自分自身に驚きながら、乾いた声で、桓魋は囁いた。
「…すまない…。疲れているみたいだ‥」
「そ‥うか。怪我がないなら、良かった‥」
「大丈夫か、桓魋?」
「お兄ちゃん大丈夫?」
 所々から聞こえる声に、桓魋はひらひらと手を振って無事だということを示した。
 わらわらと群れていた人々も、桓魋が無事なのを見て取ると、少しずつその場から自分の仕事に移り始めた。陽子も桓魋に視線を送ったが、地面に落ちた剣を拾いにその場を後にする。
 皆が自分の時間に戻っていく中、取り残されたように桓魋は呆然と自分の掌に視線を落とす。
 陽子が自分に近づいた瞬間、心のどこかがざわついた。何故だ。陽子の翡翠の眸だけが、心の奥底にこびりついて――離れない。
 手が触れただけで‥何故あんなに過剰に少女を振り払ったのか、桓魋には自身の行動が、全く訳が分からなかった。早鐘のようになる鼓動の意味が分からなかった。惺拓と話していた時の余裕満々の自分なんてどこにもいなかった。

 日差しが陰り、雲が流れる。子供の遊ぶ、声がする。

 皆がいなくなったその場。
 唯一人黄鉄だけは、座り込む桓魋を見つめていた。


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