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「お前中々の腕をしているだろう。どうだ?お前がその気なら雁の兵として暫し働いてみないか?」 朗々とした男の声が広途に響く。桓魋はがっちりと肩を掴まれたまま、げんなりとした顔で重い溜息を落とした。 この男は一体どこまで付いてくるつもりなのだろう。 額に手を当てるも、男――風漢は桓魋のことなど気にせずに言葉を続ける。 「この国の主上も、きっとお前と見えたらお前を気にいるだろう。悪い話ではないと思うのだが?」 「その気はない‥と何度言えばわかるんだ」 もはや何度目か分からない同じ言葉を放った桓魋は、じろりと風漢を一瞥する。 「大体、あんたは何者だ‥。素性を語らん怪しい奴にはついて行く気にもならんな」 「まぁそう言うな。こちらにもあまり素性を語れん訳があるんだ」 ひらりと悪びれなく手を振った男に、桓魋はますます脱力する。あきらかにただ人ではないが詳細は分からない。痛みを増した頭を押さえて、桓魋は呻いた。厄介な人種に捕まったものだと胸間でぼやく。仕事は欲しいが兵士というのはこの場合、桓魋の頭では刎ねられていた職種だった。自由のない重い責を追う男の縦社会の縮図。陽子とふたりで旅が出来る貴重な今、就くべき職ではない。 (とは言っても、仕事は陽子の方もあまり期待は出来ないだろうが‥) 風漢が再び口を開こうとするのを横目で見た桓魋。 だが、呆れ顔で前方に視線を戻そうとしたその時、桓魋の背筋を何かが駆けた。 「‥?!」 桓魋の足が止まる。 「‥どうした」 風漢の足も止まり、ゆるりと後方を振り返る。 桓魋の耳に、その時微かな物音と、聞きなれた息遣いと足音が聞こえた。鞘走りの音が聞こえた瞬間、桓魋がはっと身を翻す。 風漢が目を落とした時には――彼の腕の下にあった桓魋の肩は、その場から掻き消えていた。 (何か、あったか‥) 背後に顔を向ける彼が見たのは、ある一点に向かって疾走していく桓魋の後ろ姿。 その一瞬後に、目を細めた風漢の目の前で、轟音と共に人が吹き飛ぶ光景が描かれる。 (‥野党か‥!) 目の前を商店めがけて疾走する一人の青年。風漢は視線を鋭くする。 (俺の国で、殺しはさせんぞ‥!) 風漢は腰の剣に手を滑らせる。だが、剣を抜き去る前に、彼は眉根を寄せる。その時飛び出してきた人影が、野党に襲われている現場の画面を裂いたのだ。 「‥?!」 悲鳴が響き渡り、賊の蛮声が次の瞬間爆発する。 彼が足に力を込めたその時――飛び出した紅の髪の少女が刃を翻した。 ::::: 朱旌を襲う草寇の一団めがけて駆け抜ける陽子。 今にも斬られそうになっていた親子を背に庇い、陽子は振り下ろされる白銀の残像を受け止める。 賊の一人の舌打ちが響いた。 「何だ、てめぇは?!何もんだ?!」 高い悲鳴とともに、翡翠の瞳が静かに光った。 「誰でもいい」 次の瞬間、紅が目の前で翻り、男は一気に打ちのめされた。 振り向きざまに襲ってきた一人を斬り捨て、陽子は体勢を低くし、駆ける。照準を朱旌から陽子に合わせた草寇達は、刃を振りかぶって陽子に襲いかかってきた。 (一気に来るか‥) 六、七人をのしたその時、陽子は視界の端に見慣れた姿を見る。思わず動きが止まり、駆けてくる桓魋の姿に陽子は一瞬集中が途切れた。 「…!桓魋…?!」 陽子の刃がほんの僅か、迷う。それを見逃さなかった草寇の一人の双眸が、ぎらりと鈍い光を放った。刃が手のひらから弾かれ、勢いよく振り下ろされる白刃に、陽子は振り仰ぐ。 (しまった…!) 「陽子!!」 桓魋の叫ぶ声がする。 息を呑む声と疾走する影。見開く瞳と、迫る白刃。だが斬られることを覚悟したその瞬間、陽子は起こった出来事に絶句する。 自分の影から、一頭の犬型の妖魔が飛び出して、刃をふり下ろそうとしていた男の首元を薙いだ。 赤く染まった牙、陽子を見据える金色の双眸が光り、陽子は固まる。だが…それも一瞬のことで、妖魔は瞬きする間もなく陽子の影に溶け消えた。 「…!!」 呆然とする陽子。次の瞬間、迫る刃は駆けてきた桓魋が受け止めた。自身の名を呼ばれる声がして、はっと陽子は取り落とした剣を構えなおす。 「気を抜くな!!」 「…!桓魋…!」 背を預けあい、陽子と桓魋は取り囲む草寇と向き直る。それぞれが刃を、長槍を構え、その後は――一瞬だった。 風漢が追いついたその時には、草寇はあらかた片付けられていた。地面で呻く草寇の一団に、ほうと彼は顎をさする。陽子と桓魋は未だ戦闘の最中だったが、様子からして自分が参戦するまでも無いだろう。 「尚隆!!」 自分の名を呼ぶ少年の声に、彼は緩慢に振り向いた。髪を布で覆った少年六太が、彼に向かって駆けてくるところだった。 「何だ、六太…来ていたのか。ここにいると身体に障る」 「そうだけど…。でも何でお前までここに降りてきてるんだよ!」 風漢は暫し黙る。少し何かを考えたような表情の後、彼は真剣な表情できりりと答えた。 「…視察だ」 「嘘つけぇ!!」 はあぁと長いため息をつく少年に、風漢――小松尚隆は片眉を上げてみせる。 視線の先では、少女と青年が丁度残党を片付けたところだった。雁の兵卒が二人に礼を言い、逃げた草冠に縄を打ち直していた。 振り返った少女の深緑の瞳に、思わず尚隆は見入る。青年とともに、少女は彼らの元に駆けてくる。少女は六太に向かって声を弾ませた。 「大丈夫か?怪我は‥?」 少々ぶっきらぼうな物言いを気にした風もなく、六太は笑った。 「大丈夫だ!」 隣に立つ尚隆の姿に気がついた陽子は、彼に向き直る。常人とは違う雰囲気に、陽子は思わず言葉を飲み込んだ。深々と陽子は彼女を面白そうに見つめる黒髪の偉丈夫に頭を下げる。 「こんにちは。私は中陽子と言います」 「風漢だ。連れの六太が世話になった‥」 この人も、日本語を話している、と陽子は内心で目を見開く。海客なのだろうか。同じ日本語にしてもどこか古びた印象を受ける。何故か聞くことははばかられた。だが‥ただの海客にしては、あまりにもただ人(びと)とは放たれる覇気が違いすぎた。 尚隆は陽子をじっと見つめる。何かを思ったのか、その黒眸が細まったが、彼は何も言わなかった。陽子は微かに首を傾げるが、不意に尚隆は桓魋を見てにやりとした笑みを浮かべた。 「‥陽子は良い目をしている。先が楽しみだ。それにしても、やはり強いな‥お前。雁に欲しい人材だ‥。どうだ?やはり気は変わらんか?禁軍に来る気は無いか?」 桓魋は疲れたようにがっくりと肩を落とす。 「無い。大体あんた、本当に何者なんだ‥。簡単にとんでもないことを言ってのける‥」 「ふっ‥そういう性分なものでな‥。国の力になりそうなやつを見ると取り込みたくなるんだ」 きょとんとした陽子は桓魋を見上げる。 「何だ、桓魋スカウトされてたのか?」 「すかうと?」 うーんと考えていた陽子は、何かを思いついたように口端を上げた。 「口説かれてたってことだよ」 「?!」 そんなものじゃないと全力で否定する桓魋に、尚隆は笑った。 「まぁそう言うな。ぜひ雁に留まって欲しかったが‥」 そう言って、ふと彼は陽子たちの後ろに視線を送る。 驚く陽子たちを尻目に尚隆は首を微かに傾ける。 「俺の見立てでは、お前たちはあまり長くここに滞在はしないだろうからな」 訳がわからない、といった顔をする桓魋に、風漢は片眉を跳ね上げて見せる。隣で、振り向いた陽子が声を落とした。 「あ‥」 つられて振り返れば、一人の老女が朱旌の一座から、桓魋たちに向かって歩いてくる光景が見えた。 桓魋と陽子の目の前で、一人の小柄な老女が立ち止まる。老女は丁寧な礼を取り、桓魋と陽子も慌てて礼をとった。 「先程は窮地を救って頂き、本当にありがとうございました。私はあなたがたがお助けくださった朱旌の座長でございます」 拱手して頭を下げる老女に、陽子は慌てて声を出す。 「そんな‥!大したことなど何もしていません。どうか顔を上げてください」 座長を名乗る老女は緩やかに顔を上げる。その上品そうな顔立ちは、彼女の聡明さを物語っていた。 「救っていただけたことは本当に心から御礼申し上げます。私たちはご覧のとおり国から国を流れ歩く旅芸人。国に縛られることも無ければ、国に守られることもない。自身の身は自身で守らねばならぬ立場のものです」 穏やかに紡がれる言葉から、陽子は学んだ事柄から、朱旌が朱旌と言われる所以を思い出す。芸をしながら諸国を回る彼らは留まるべき場所はない。身分を証明する旌券には、どこの国にも属さないものの印として、朱色の線が入っている。国に縛られぬ朱の旌券を持つもの、それが朱旌の朱旌と呼ばれる所以だ。 陽子を見つめ、老女は言葉を続ける。 「ですが、これから先の柳までの途は近頃妖魔が時折出没し、私ども一朱旌の手では負えぬこの事態、臨時に杖身を雇いたいと考えていた所存でした。ですがそう思っていた矢先‥杖身もまだつけぬ時に、今回の事態が起きました。まさかこのような大国、雁の人通りの多い広途で唐突に襲われるとは、私たちも思ってはいませんでしたもので‥」 悪気無い真摯な声に、後ろで、僅かに尚隆と六太がバツが悪そうな顔をしたことに、その時は誰も気がつかなかった。 陽子と桓魋は顔を見合わせる。ふたりは雲間から日がさしたような表情で互いの目を見て思惑を交錯させる。きらりと瞳が光った。 (ねぇ桓魋、まさか‥) (ひょっとしたら‥) 杖人を雇う前に今回の事件に巻き込まれて、そしてまだ危険有る途を行くのだったらこれからまだ護衛は必要なはずだ。 小柄な老女の目線まで桓魋は腰を落とす。必死に声が高ぶらないように抑えながら口を開いた。 「あの‥」 はい、と老女は視線を上げる。桓魋はごくりと唾を飲み込み、言葉を続ける。もしかしたら‥。 「もし‥まだこれから杖身が必要でしたら、俺達を護衛として雇うというのはどうでしょうか?俺たちも旅をしている身。私どもも、国を流れ歩く旅費を工面するための護衛職を探しているところなのです」 座長はまぁと驚きと喜びが入り混じったような声を上げた。背後で六太と風漢がほう、といらない声を上げたのが聞こえた。これは好感触だ、と陽子が思った時、座長は嬉しそうに口を開く。 「よろしいのですか?」 力いっぱい頷く二人に座長は微笑む。 それでは、是非お願いしますと、交わされた丁寧な挨拶に顔を輝かせる二人の後ろで、尚隆と六太が笑った声が聞こえた。 ::::: その後、尚隆たちは、陽子と桓魋とは朱旌の一団が去るとともに別れた。 陽子と桓魋と別れた後、騎獣、とらとたまに乗る尚隆と六太の二人は、空に髪を靡かせている。少年、六太の髪は今は人目がないため布が取られ、空に光を零していた。その色はなめらかで濃い――金。 傍らの少年の方を見ずに、前方に視線を合わせたまま、尚隆は問うた。 「六太、お前…先ほど使令を使ったな?」 ギクリ、と少年は動きを止める。後ろ頭を掻きながら、彼は舌を出した。 「…やっぱりお前にはバレてたか」 「恐らくあの紅の髪の少女、陽子も見たぞ。あの娘に使令をつけたのか」 知り合いだったのか?と言葉尻を上げた尚隆に、六太は首を振る。 「いんや。さっき初めて会ったばかりだ。ただ…」 「ただ?」 一瞬押し黙った六太は、真摯に尚隆を見上げる。濃紫の瞳が、静かに瞬いた。 「死なせたくなかったし…何より死なせちゃならない奴に‥思えたんだ」 おかしいか?と問い返す少年に、目を閉じた尚隆は口元に軽く笑みをはき、首を振った。 ふぅと息をつく六太は眉を跳ね上げる。ちらりと少年は傍らの男を見た。 「それに、俺には‥お前だって、陽子に何かを感じていたように見えたんだけどな。あの桓魋って奴と、陽子。お前は桓魋の方ばかり声をかけてたけど‥」 金の髪が音を立てて嬲られる。すっと目を細めて少年は言った。 「実際お前が、一番見ていたのは‥陽子だ」 尚隆はその問に対しては何も応えない。ただ、緩やかに空を掴む騎獣の上、じっとその黒眸を静かに光らせていた。男は整った大きな口で、言葉を落とす。 「‥あいつらとはいずれまた会うだろう‥。そんな気がしてならん。桓魋、陽子。どちらも感じるものがあることは確か。その時は‥恐らく今と違った立場で会うかもしれんな‥」 少年六太――延麒は何故、と問うような表情をする。それを見て尚隆は薄く微笑んだ。 「説明できぬ第六感が働く時は‥どんな生き物にもあるものだ」 男の漆黒の髪が巻き上がる。尚隆――雁州国国主、延は、口元の弧を力強く深めた。 ::::: 日差しは冬でものどかで暖かだった。 尚隆と六太に手を振って別れを告げた陽子は、先ほどの不思議な二人を思い返していた。 不思議な出会い、別れるのはどことなく惜しい気がしたが、それでも先ほど尚隆が言った言葉は的中した。彼は先の先まで読んでいるのか、と陽子は内心驚いていた。不思議な男、風漢。そして彼の連れの六太。六太の美しい澄んだ深い紫の瞳は、何故薄く金に縁どられて見えたのだろう。彼の睫毛が金色をしていたことは、果たして陽子の見間違いだったのだろうか。あの時陽子の影から飛び出した妖魔は、一体。風漢の方はついに訊かなかったが、明らかに蓬莱より帰還した風情のあの二人は、はたして何者だったのだろう。 確かこの国の最高施政者は二人共、胎果だったということが不意に陽子の頭の中を過ぎった。 一瞬心の中を薄く這った予感に、まさかなと陽子は思い直す。不思議な威厳こそ持っていたが、彼らの温度は自分たちと随分と近かった。あの人間臭い二人が、雲の上の天上人とは、その時の陽子には結びつかなかった。視線を落として考え込む陽子に、桓魋が不思議そうな顔をした。 「どうした」 「ううん。何でもない。ただ‥さっきの二人が、蓬莱の言葉を話していたのが気になったんだ」 「!蓬莱の言葉を?そうか。俺は気がつかなかったな‥。海客だったか」 「分からない。でも‥そっか。桓魋には全部こちらの言葉に翻訳されて聞こえるのか」 桓魋はにっと笑う。彼は軽く鼻の下を指でこすった。 「まぁな。だから今ならお前が蓬莱語で俺に話しかけても、意味は分かる。言葉には不自由しないからな」 本当に?と日本語で声を出した陽子に、桓魋は口端を上げたまま頷く。 (そうか‥。そういえば桓魋はもう仙だったな‥) その時、ふと陽子の心に悪戯心が湧いた。陽子の唇が三日月を型どる。 「ね、じゃあさ、今から私が蓬莱の言葉‥日本語で言うこと、当ててみて」 「よしきた。何でも来い!」 陽子は桓魋をじっと見つめる。思わずその顔に不意打ちを食らったように、桓魋は見入ってしまった。ふだん無愛想であまり顔に表情を出さない陽子は思いっきりしかめっ面で音を出さずに言葉を紡いだ。 す き だ 声に出さなければ、翻訳はされない。 無言の言葉に、桓魋は面食らって思わず瞬く。 「え?」 らしくない自分の言葉に陽子自身が一番面食らってしまいそうになる。気恥ずかしくなってくるりと桓魋に背を向けた。慌てて桓魋は訳も分からないままその後を追う。 「何だ陽子?もういっかいだ!」 「言葉には不自由しないんじゃ無かったのか?もうおしまい!」 「声に出さないのは反則だ!ていうか絶対悪口だろうが今の!!!」 「違う、大バカんたい!!それこそ直接伝える!!」 「おい?!!!」 陽子は逃げるように先に行った朱旌の一団の後を追う。 目の前の青年に対する自分の感情を、兄妹愛、友人愛の範疇だと信じて疑わない少女は、はやる鼓動についていけずに、ただ走る足だけに力を込める。普段伝えられない兄への想いを口にできた気分で、口元が自然と、綻んだ。 「何て言ったんだ?」 桓魋が後ろから駆けてくる音だけが、少女の耳に響いた。一瞬だけ振り向いて、太陽のように――陽子は笑った。 「内緒だ!」 空が青い。冬の日差しが暖かい。 ふたりの旅路が、始まる。 |