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 桓魋、陽子、無事か?浩瀚だ。
昨夜はとんだ騒動が起こったらしいな。桓魋、その後は無事に慶国を出ることが出来ただろうか?
私はお前たちがこの青鳥を受け取っているのが、他国であることを願う。
 勿論、陽子はともにいるだろうな。なんとしても、陽子はお前が守れ。州師左軍将軍が少女一人守れぬというのなら、私は将軍職につける男をまた新たに選出し直さなければならない。左将軍も少年兵卒も休暇中という名目にしてあるから、存分に休暇を楽しむように。国が落ち着いた時が、休暇の終わりだ。今回の有り得ない休暇の始まりは随分と慌ただしかったらしいが、お前たちならばきっと良い休暇を過ごすことが出来ると思う。この状況を逆手にとって、何かを掴んでくれたら私は嬉しい。

 私たちの方は‥心配するな。

花のない男風景の中では、視野に癒しがないというのが難点だ。がさつな男ばかりではやはり執務にも支障が出てくる。女の力というのは偉大なものだと思い知らされるな。何もかもがままならなくて難儀しているが‥それを弁解としてこの州を傾けさせる気は私には毛頭ないから安心しろ。国の状況が収まるまで、私たちは耐えてみせるつもりだ。女たちが戻ってきた時に、恥じぬような場所を、私たちは作らねばならない。
皆、酷だ。
だが、その言葉に逃げられぬ時はやはり存在する。お前たちも大変だと思うが、耐えろ。耐えて、耐えて、耐えて――生き抜け。
お前たちが喜んで戻ってこられるような場所を、私たちは作る。だから…心配するな。
そしてもう一つ。
私はあることをお前たちに伝えねばならない。

傷を負ったあの旅帥の青年は――助かった。

傷は深いが、本人曰く唾でも付けておけば治る、とのことだ。あぁ、衛生面から断固としてそれはさせぬから安心するがいい。これだけは――お前たち、特に陽子に伝えてやりたかったのだ。
色々話してはいるが、陽子は元気で過ごすように、とそれが一番の彼の願いだ。ふふっ‥彼は陽子に気に病まれるのだけは我慢ならぬらしいな。

再三言うが、お前たちの状況も、決して楽ではないと思う。だけど、どうか…元気で。お前たちが一刻も早く帰ってこられるようになる日を、私たちは‥願っている。


 桓魋は無言のまま、浩瀚からの手紙に視線を落とす。
 朝一番で、周りはまだみな寝静まっている。疲れきった陽子も微かな物音では身じろぎもせず、深く眠りに落ちたままだ。少女に掛けた薄い上衣が緩やかに上下を繰り返す。
 桓魋は微光を横顔に受けながら、指に青鳥を止まらせ、じっとそんな陽子を見つめる。不意に胸がざわめいて、桓魋は彼女から視線を逸した。

窓から流れ込んだ旭光が、光の帯を空中に描き出す。

 それと‥桓魋。これは、お前が一人の時に伝えるように、と青鳥には託けてある。伝えたいことは、お前は‥縛られる必要はないということだ。国に、私に、自身の柵に、縛られるな。戻れと言ったが、戻られぬのなら、戻らずとも良い。全てにおいて、お前の心情に――従え。自分自身にだけは、嘘をつくな。お前の決断はお前だけのものなのだから。これで本当に話は‥終わりだ
 桓魋はポカンと呆けて、ただひたすらに文書を見つめた。青鳥は我関せずといった顔で嘴を片羽に擦り付けている。桓魋は一瞬目を瞬いた後、ふっと口元に伸びやかな弧を描く。
 光の帯はますます強く、透明に輝きを増して空間を染めていく。

陽子が傍らで眠る中、青鳥を横目に彼は上官へ自らの言葉を手紙に綴り始めた。



 その後日が登り、目を覚ました陽子とともに、桓魋は簡単な朝食を済ませた。茅軒から出た二人は、雁国の街並みに降りていく。その途中、陽子に青鳥から聞いた浩瀚の言葉を伝えてやったら、どうして起こしてくれなかったんだと軽くむくれた少女は言った。桓魋はふと考える素振りを見せ、お前が涎を垂らすくらい気持ちよさそうに寝ているもんで起こしそこねたんだ、と返したら膝裏に蹴りを食らった。
 山道を歩く最中、ふと陽子は足を止める。
空を舞う青い鳥に、陽子は目を細めた。釣られて足を止めた桓魋に、陽子は上空の鳥の輪郭から目を逸らさずに唇を開く。
ふわりと舞った冬の風が、垂らした陽子の紅の髪を巻き上げていく。澄んだ深緑と重なり合った空の色は、不思議な色合いを醸し出していた。
それは陽子の瞳に漂うあまりに美しい――海、だった。その海を瞼で覆った陽子は言葉を零す。
「次に青鳥が来たら…私は青葉に礼を言おうと思う。心からの礼を彼に…伝えたい」
「お前からの礼なんて喜ぶだろうな。あいつは舞い上がりやすい性質(タチ)だから」
 指を組んで固めた陽子は、祈るように俯いた額に押し付ける。やがて顔を上げた陽子は、いきなり足に力を込めて走り出す。桓魋は面食らって思わず声が裏返る。
「お、おい?!陽子?!」
駆ける陽子は桓魋と距離を離したところで急に立ち止まって、くるりと彼の方を振り返った。陽子は声の限りに、叫んだ。桓魋が眩しいくらいに、陽子は澄んだ声を張り上げ、かんたーい!と陽子はギュッと強く目を閉じ、力の限りに彼の名を呼ぶ。

「私…私は負けない…!絶対に…!絶対に!!」
 
声は高らかに響き渡る。風が吹き抜け、鳥が飛び立つ音が楽の音のようにその場を彩った。陽子は笑い、そうして身を翻して街の方へ向かって駆けていった。
 桓魋は一瞬目を開いて…そうして嬉しそうに口元に弧を描いた。自分が本当に嬉しそうに笑っていることを恐らく本人は気がついてはいない。ただ、少女の強い意志に触れた自分の心に光が灯るのを感じながら、桓魋は少女が先に駆けていった方へと自分も足を運ぶ。 
声が零れ、自然と足に力が篭るのを感じながら、桓魋は駆けていく少女の背を追った。

「待てよ、陽子!」

故国から離れた遠い異国の地。冬に佇む木々の間から薫風が舞い上がる。

寄り添い合う国々の中のそのひとつ、少女と半獣の将軍の姿はその中に溶けていった。

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 日差しが緩やかに――駆ける。
二人が降りたのは雁国靖州の首都関弓だった。整備された街並みは慶とは似ても似つかなく、陽子も桓魋も思わず言葉を失った。だが何よりも二人が目を奪われたのは、広途を揉む人並みの中に、当たり前のように半獣の姿が混ざっていることだった。
慶国では半獣差別が根強く根付いている。獣の姿で過ごす者の方が少数派だったことを陽子は思い出す。
そのこと自体が、民が自分の思う姿でいる自由さも無い、現在の慶と雁との国としての格の違いを見せつけられているようだった。
 陽子と二人でしばらく散策をした桓魋は、どこか雇ってもらえるような場所を探すため、待ち合わせ場所と時刻を決めた後、官府へと一人足を進めた。陽子は陽子でどこかで求人をしていないか、直接店々にあたってみる、とのことだった。
 歩きながら、桓魋は顎に指を這わせる。眉根を寄せ、微かに桓魋は唸った。
(だが…こんな他国の流れ者に、そううまい話があるか…)
 用心棒をする以上、危険は付き纏う。陽子に負担がかからず、そして国々をわたり歩ける、そんな条件のものが都合よくあるとは思えなかった。自ら提案してみたものの、桓魋はため息を落とす。
(どうするか…)
その時ふと、背後でした気配に桓魋は足を止める。太く澄んだ、凛とした声がした。
「見慣れぬ顔だな…。装いからして、異国の者か」
 桓魋は声に押されるまま振り返る。そこには柱に凭れて興味深そうに桓魋を見つめる、漆黒の髪をうなじでくくった一人の偉丈夫がいた。庇(ひさし)が男の顔に薄く影を落とす。男は力強く整った顔立ちに、興味の色を浮かせて桓魋を観察しているようだった。うっすらと顔に落ちた影すらも、男の黒眸が弾く光を際立たせている。
他の者とは何かが違う、不思議な畏怖の念を彼はその時感じた。桓魋は首をかしげながら、男を見る。
「あぁそうだ」
男は不敵な笑みを口元にはいた。嫌味なくらいにその笑みが似合っていて、桓魋は思わず男に見入る。
「お前のような立ち姿の者はこの辺りでは中々見かけん。…武人か。国は?」
桓魋は短く、慶のものだ、と答えた。ほう、と男の瞳が光る。
「面白いな…。何故、雁に?お前たちの国は女以外は今は手が離せる状況下では無いと聞いていたが…。俺の聞き間違いか?」
「…さあな?」
問いに、問いで返す桓魋。にひるな笑みを浮かべていたが、瞳には鋭い光が浮いているのを偉丈夫は見逃さなかった。
偉丈夫は、目を瞬き、そして笑みを深くした。
「…踏み込みすぎたようだな」
非礼を詫びよう、と言った男に、桓魋は踵を返そうとする。今まで見えたことのない、不思議な男だった。立ち去ろうとした桓魋。だが、男のほうが一瞬速く動き、肩に腕を回して足を止めさせた。その速さに、自分の動きを止められたことに、桓魋は瞠目する。
(…?!)
信じられないように桓魋は男を見る。男は何事も無かったかのように悠々としたおおらかな笑みを湛えていた。
目を見開いて男を見つめる桓魋の唇が意図せず動く。手練の武人でも苦戦する力を持つ桓魋が、一庶民に動きを止められるなどまず有り得ない。微かに固く強ばった声が…滑り落ちた。

「…何者だ?」

ん?と男はゆったりとした口調で力強い眉を跳ね上げた。顎をさすりながら彼は唸る。
「そうだな…。俺のことをどう呼ぶかはお前の自由だ。だが、大抵の奴は俺のことを…」

「風漢、とそう呼んでくれるな」

男の口元の弧の長さが増す。言葉尻を拭うように、強い一風が駆け抜ける。男の括っただけの髪が嬲られ、波打った。

その瞳には今まで以上に不敵な光が滲んでいた。

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「どこも人手は足りている…か」
ポツリ、と唇から声が落ちる。陽子は深緑の瞳に睫毛を被せ、深くため息をつく。これで外店を何件回っただろうか。困ったように顔の部位を中心に寄せる陽子は辺りを見回した。背後で走った不思議な気配に、陽子は目を瞬く。
潮臭さを孕んだ風が、鼻先を掠めた。
(海の…匂い…?)
睫毛を震わせ足を止めた陽子。その耳に、その時、明るく乾いた少年の声が響いた。
「よぉ、おっちゃん!今日の饅頭の売れ行きはどうだ?」
それは陽子にとって…信じられない出来事だった。その言葉を聞いた瞬間――陽子の瞳がこれ以上ない程開け放たれる。

だってそれは、陽子が長らく耳にしなくなって久しい…彼女の故国の言葉だったから。

(嘘…)
日本語…と陽子は唇だけで呟く。絶句する少女の耳に、主人が少年に言葉を返すのが聞こえる。主人の口から紡がれる言葉は、この世界で使われる言語だった。
「おぉ!六太じゃねぇか!お前今日も来たのか?」
振り向けば、先ほど通り過ぎた一件の露店の前に、年の頃十三程の少年が、片足重心で後ろ手に手を組んで、主人と親しげに話していた。日本語が通じるはずのないこの世界で、あちらとこちらの言葉で苦もなく二人は話している。
一見ちぐはぐな光景だったが、その中で、陽子は少年が仙籍にあればこの会話は可能だ、ということに気がつく。陽子は食い入るように少年に見入った。

髪をすっぽりと布を巻きつけた少年だった。その肌のなめらかさが白日の下で光を吸う。だが少年の喋り好きそうな大きな口と、健康的な声色が際立つ中で、何より陽子が目を奪われたのは、彼の双眸だった。

あまりにも純度が高い、深く濃い紫が、薄く光で縁どられているように見えた。

透き通るその眼差しに、陽子は思わず見惚れる。話し方は砕けてはいるが、何処浮世離れした高貴な雰囲気を、陽子は少年から感じた。
代金を支払った少年は、笑顔で主人から饅頭の入った袋を受け取る。
その時、一際強い風が吹いて、少年が財布の中に落とそうとしていた紙幣が指から絡め取られた。風に揉まれて、一枚の紙幣は陽子の元へ飛ばされる。
気がついたら陽子は、腕を伸ばして上空を通り過ぎようとしていたそれを掴んでいた。
「おぉ!ナイスキャッチ!」
少年は嬉しそうに、陽子に向かって駆け寄ってくる。
「ありがとうな!」
陽子はドクドクと心臓が脈打つ中、紙幣を笑顔の少年に渡しながら震える声を出した。彼女が口に出さなくなって久しい――日本語、で。
「なぁ…貴方は、ひょっとして…海客?」
きょとん、と少年は目を丸くする。パチパチと目を瞬いた後、少し気まずそうな顔で、少年は斜め上を見た。
「俺か?うーん、確かに生まれは蓬莱だが…。でも元々はこっち側に卵果として実ったから、俺は胎果だっていった方が良いかな?」
「そう…か‥」
少年はからりとした笑みを浮かべた。
「何だよ!いきなりそんなこと聞かれてびっくりしたぜ。何で俺が海客だと思ったんだ?」
じっと少年を見つめていた陽子は視線を落とした。
「日本語で、話していたから‥。私も、胎果で、海客なんだ」
 今度は少年の方が驚いた顔をした。へえぇ!と少年は感嘆の声を漏らす。陽子は微笑んだ。
「私は、名を中嶋陽子、というんだ。八つの時こちらに来て、こちらの言葉を覚えた」
そっか、と少年は笑う。陽子は差し出された手を取り、二人は握手を交わした。
「確かにその名は蓬莱の名だな。俺は六太っていう。俺の言葉は翻訳されちまうから、ここの奴らには違いは見えねぇんだよ。‥そっか!陽子はどっちの言葉も話せるから、翻訳される必要がなくて、俺が日本語で話してるってのが分かったんだな」
 そうかそうかと一人頷く明るい少年に、貴方は仙なの?と陽子は問いを投げる。少年は鼻の下を指で擦った。
「ま!そんなところかな?」
「そう‥。私も親しい人に仙がいるんだ」
 ともに歩きながら、二人はその後も会話を続ける。話の途中で、六太は、ほいと饅頭を一つ袋から取り出し陽子に渡す。礼を言って受け取った陽子はまだ温かいそれをかじった。
 陽子はあまり口数は多い方では無いので、必然的に六太の方が口を動かす割合が多かったが、六太は陽子から投げ返される短い応えを気に入ったようだった。なぁなぁと六太は人懐こく陽子に話しかけ続けた。悪気無い笑みで、少年は言う。
「お前、無口で無愛想で真面目なんだな!」
 陽子はその言葉に思わずつんのめる。貰った饅頭を吹き出しそうになりながら、陽子は咳き込んだ。眉根を寄せ、顔を顰める。
「‥褒めてるのか?それは‥?」
「超褒めてるぞ。俺お前みたいな奴好きだ!無口で優しい奴。俺の周りはちゃらんぽらんかおっかねぇ奴ばっかだからなぁ」
少年はふざけたように笑っていたが、陽子はちゃらんぽらんと一蹴されている人々は彼からとても愛されていることを感じた。少年の声からその部分に情愛が滲んでいるのを、彼は気づいていないだろう。
 陽子の口元が綻ぶ。
「‥そうか」
「ん?な、何だよ、そのちょっと含んだような言い方?」
「そんなことないない」
「笑ってるじゃねぇか!何だよ~!」
笑う二人。ふとその時、陽子の目に朱旌の一団が、遠く広途を歩んでくるのが見えた。目を細めた陽子に、お、と隣で六太が声を上げる。陽子は思わず声を漏らした。
「いいな‥朱旌か‥」
「陽子も、小説や講史を聞いたことがあるのか?」
あぁ、とほんのりと笑みを口元にはいて陽子は頷く。
(朱旌‥か)
旅をするのなら、あんな風に自由に。誰に縛られることもなく、国々を巡り人々の勇姿を語り歩いて、そうしてその中でまた人を知る。そんな人生も――悪くない。
昔、慶にも朱旌が来た時に桓魋と何度か見に行ったことがあった。本当に言葉を覚えたか覚えていないかの幼い陽子は桓魋に肩車してもらった肩の上、そのきらびやかな舞台に目を奪われていた。話している内容はほとんどさっぱりだったが、華やかな衣装を纏い舞う女達、厳かな出で立ちの息をのむ演出、その全てにポカンと口を開けていたら桓魋に笑われたのを覚えている。
あの頃はよく桓魋に抱っこをねだっていた気がする。手を大きく伸ばして、爪先立ちで飛べば、彼は笑って軽々と自分を抱き上げた。視野が一気に広がる高揚感もあったのだが、それ以上に桓魋のぬくもりと、いつもよりずっと近くなった彼の笑顔が陽子はたまらなく好きだったのだ。
距離は近くても、あの頃のぬくもりは既に‥遠い。
いつからだろうか。関係は変わらなくても、少しずつ桓魋の方からそんなスキンシップは遠慮がちになって、知らず知らずのうちに手を繋ぐこともなくなっていたことに、その時陽子は気がついた。そして同時に、彼と出会ってから、それ程時が流れていたことにも気がついた。
一瞬どことも知れぬ遠方に焦点を合わせた陽子に、六太は首を傾げる。
「どうした?なんか朱旌に思い入れでもあったか?」
はっとした陽子は驚いて六太の方を見る。きょとんとする少年を見た途端、世界の音が一気に戻ってきた。
「いや‥ちょっとね‥。あの人たちと旅が出来たら、きっと楽しいだろうなって思ったんだ」
彼らと旅することが出来たら、きっとそれは実りあるものになるだろう。有り得ないことに、自分の言った言葉に陽子は苦く笑った。
そうか、と微笑む六太。だがその時、びくりと少年の足が止まった。身を竦ませたようなその仕草に、陽子は不思議そうに振り返る。
「?どうし‥」
 言いかけたその瞬間、目の前の朱旌の一団の方角から、豪音が響き渡る。
驚いて見れば、割れた硝子片と共に、何人かが広途に向かって放り出された。目を見開いた時、先程まで目の前を歩んできていた朱旌が散り散りになって逃げまどっているのが見えた。

――襲われている。

縄を打たれていた賊が、兵を振りほどき、苦し紛れにたまたま通りかかった朱旌の一団に刃を振るっていた。悲鳴と微かに飛ぶ血の珠に、少年の足が目に見える程竦むのが見て取れた。
 足元で何かが蠢く気配がしたが、陽子は咄嗟に少年を背に庇う。
腰の鞘から剣身を抜き放ち、陽子は体勢を低くして朱旌の一団の方向へ駆け抜ける。後ろから、六太の悲鳴じみた声がした。
「陽子!」
「そこにいろ!」
朱旌が野党に襲われたか。短く叫んだ陽子は視線を鋭くしたまま襲われている彼らを睨む。
背後で、少年が足元に向かって早口に何かを囁いたことは、陽子はその時気がつかなかった。風を引き連れ陽子は走る。

めまぐるしく動く、陽子の落とす影が――その時不自然に揺らめいた。


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