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  ゆらりと、桓魋の少譚に向けられる殺気が色濃く尖る。
桓魋の瞳の奥の炎の温度が増し、その揺らぎに背筋が凍る。
次の瞬間、少譚は激しい衝撃が頬を打つのを感じた。殴られた、と理解する前に、陽子の上に馬乗りになっていた体が一瞬で吹き飛ばされ、壁を突き破り、茂みに突っ込む。
視界から一瞬何もかもが消し飛ぶ。それくらい容赦ない一撃だった。
未だかつて受けたことのない重い衝撃に、咳や呻き声すら零すことが叶わず、少譚は真っ白な視界をただ見つめる。
(‥!!)
激しい目眩とともに、痛みが凄まじい速度で彼を襲う。茂みに身体を埋めたまま、なんとか首だけ擡げたら、そこには殺気を纏った将軍が目の前にいた。
見れば陽子は既に腕の戒めを解かれていて、男たちは全員地面に転がっていた。
腕に残った縄の跡をさすりながら、陽子が立ち上がる。駆け寄ろうとした少女に、桓魋は振り返って叫んだ。
「来るな!!陽子!!」
 少女の足が止まる。翡翠の瞳が揺れ、少女は唇を噛んで短く頷いた。たったそれだけで、この二人の間に深く根付く信頼関係が見て取れた。
遠くから、風の駆ける音がする。視界の端で止まった少女の紅の髪が緩やかに巻き上がる。だが…少譚の目が吸い寄せられたのは陽子ではなく――桓魋の方だった。

 美しく翻る紅と、それを無意識に目で追う男の双眸。

少女を見つめる精悍な横顔を見た少譚は、思わず言葉を失くし‥そうして深く笑んだ。襟を掴まれ、軽々と引き上げられた少譚は何が可笑しいのかくつくつと笑い声を漏らす。
次の瞬間、小譚は滅茶苦茶に、狂ったように笑い出した。桓魋は僅かも表情を動かしはしない。目に掌を当てた小譚は、片方の口端だけを不自然な程、急傾斜に釣り上げる。
「何だよ‥。やっぱりそうか‥!将軍、あんたもやっぱり女を取られんのは我慢ならねぇんだな‥!!」
 折角あんたとの接触を避けてきたのに、と呟く少譚の襟を締め上げる桓魋。沸点を超えた激しく静かな怒りが彼を焼く。唸り声が地を這った。
「あんな子どもに手を出して、何のつもりだ‥!あの子に手を出したら、命は無いと思え‥!!」
 少譚は瞠目する。その顔に桓魋の怪力に押しつぶされそうになりながらも、あからさまな嘲笑が浮いた。
「子どもだって‥?あんた本気でそんなこと言ってんのか‥?」
 一瞬の間が浮いた。小譚は濁った双眸をぎらつかせ、瞠目したままだ。少譚の瞳に映るかすかに輪郭が溶けた桓魋が、じっと彼自身を見つめていた。少譚は鼻で嗤う。
「あいつが…子どもという分類に入ると思うのか?」
物言わぬ桓魋に相反するように、小譚はつらつらと言葉を綴る。
「有り得ないな!そんなことを思っているのはこの中では将軍、あんただけだよ。問えば皆、否を答える。当たり前だろう?州を、ひいては国を守るために鎧を纏い、剣を腰にはいた時点でそいつは〝子供(ガキ)〟じゃない。んなことあんたが一番分かってるはずだ。中陽子が子供だって…?はっ‥!」
それはな…と言葉が揺らめく。

「あんたがそう思いたいだけだよ!!!」

 桓魋の瞳が愕然と見開いた。
 少譚は更に引きつった笑みを深くする。微動だにしない桓魋の耳元に口を寄せ、少譚は薄く囁く。
「あいつはな…もう立派な娘…〝女〟だよ。何であんたがそこまでしてあいつを子どもという分類にぶち込みたいのか、俺には全くの理解不能だよ。左将軍」
 ゆらりと小譚は嗤う。黄土色の目を糸のように細め、先ほどよりももっと甘やかに、なぶるような声音で男は左将軍に囁く。

「何をそんなに足掻いている?何をそんなに躊躇っている?州師史上最強の将軍ともあろう男が、一体何に――戸惑っている?」

なぁ。答えろよ。

 声だけが、桓魋の脳内に落ちる。自分のことも分かっていない奴には、人様の保護者ヅラする資格は無いぜ、と少譚は鼻を鳴らす。その眸の奥深く、狂気が再燃する。
(…?!)
一瞬眉根を寄せた桓魋に、小譚が叫ぶ。
「弱点ひけらかして、滑稽にも程があるぜ!!俺がそれを突かないはずが無いだろう?!分はまだ俺の方にあるってことをお前は分かっていないようだな!!」
 そう言った少譚は大きく息を吸い込む。
(まさか…!?)
背筋が粟立つ。
はっと少譚が何をしようとしているのか悟った桓魋が、その口を塞ごうと手を伸ばした――その時だった。

一瞬遅れて決定的に間に合わなかった桓魋の掌の下、少譚は吠えるように、声高く叫んだ。

「女だー!!!女がいるぞ!!!前院だ!!早く捕らえろぉ!!」

声は反響して、大きく残響を残して辺りに響き渡った。桓魋と陽子の全身の毛が総毛立つ。回廊の奥深くから、人の駆けてくる音がした。
「貴様‥!!」
吠えた桓魋は懇親の力を込めて少譚を殴り飛ばす。叩きつけられ、骨が折れる嫌な音がしたが、少譚は地面にくずおれたまま、ケタケタと気味の悪い嗤い声を上げる。揺らぐ瞳が、桓魋を捕らえ、血走る。何かを宿したように双眸を燃やし、男は桓魋に向かって声を張り上げた。
「何も分かってないのはお前の方さ、青辛桓魋ぃい!!人に対して偉そうな口だけ叩いて自分のことは棚上げする偽善者!!お前らなんて国に呑まれて死ねばいい!!!」
 途端、桓魋たちがいる前院が、向かってくる人の気配で溢れた。暴言を吐いた少譚が力尽きたようにその場に突っ伏す。男を睨みつける桓魋の背に、陽子が声を上げる。
「桓魋‥!」
 その時、陽子と桓魋に向かって、耳に馴染んだ声が投げかけられた。
「桓魋!!陽子!!」
振り返れば、手には手綱を持ち、桓魋の騎獣である吉量を連れて駆けてくる青葉が、彼の目に映った。陽子は声を出そうとして、目を丸くした。
「青葉‥!」
「良かった‥!陽子、よく無事で‥!だが安心している暇はねぇ!」
汗を垂らして駆けてきた青葉は、陽子の言葉も待たずに彼女を持ち上げ、吉量の鞍の上に押し上げた。
「うわ‥?!」
陽子の言葉尻が、驚きで跳ね上がる。全速力で駆けてきた青葉は彼の名を呼び、駆け寄ろうとした桓魋に、声を張り上げて叫んだ。
「逃げろ、桓魋!!陽子は乗せたぞ!!今、この麦州師に、女人追放令途中経過の視察を理由に、派遣された五卒の王師の兵達がいる…!そいつらが押し寄せてくるぞ!逃げ道を塞がれる前に、この国を出ろ!!」
騎獣の手綱を手渡され、桓魋はその鞍に飛び乗る。陽子を抱えながら、桓魋は友人を見る。
「青葉‥!」
青葉は少譚や、その他の男たちを縛り上げながら、続けて叫ぶ。
「いいか、何としても逃げ切るんだぞ…!!死んでも捕まるな!!そんで、そんで…!国が落ち着いたら絶対、二人でまた一緒に慶国に戻ってこい!!それまで俺たちは耐えてみせるから!!」
 必死の形相で叫ぶ友人に、桓魋は、喉奥から熱がこみ上げてくるのを感じた。唇を噛みしめ、桓魋は一つだけ、頷いて見せる。
 人が駆けてくる音は、もはや薄い壁一枚を間に挟んだほどの近しさで迫る。陽子を片腕で抱え、そしてもう片腕で、二百斤の重さを誇る長槍を掴む。吉量の腹を蹴り、桓魋たちは恐ろしい速さでその場から駆けだした。
 陽子はしっかりと桓魋に抱えられながら、後ろを振り返る。風に伸ばされた紅が、ばたばたと耳元ではためいた。
 背後から、自分たちが今までいた場所に兵卒が溢れかえる光景が見えた。波のようにうねるその膨大な数に、陽子ははっと目を見張る。
「青葉…!!」

 その時、陽子は思わず絶句して目を見開いた。

青葉の後ろから、何故女を逃がした!という怒号と共に、追いついた王師の兵卒の刃が翻るのが見えたのだ。刃は白銀の光を帯びて、まっすぐに青葉に向かって振り下ろされる。
陽子の瞳にはそれが残酷な程ゆっくりと、克明に映された。
「嘘だ!!やめろぉ!!」
 童顔の青年はにっと口元に弧を描く。ぐっと親指を突き出して、彼は最後に叫んだ。
「絶対逃げきろよ、陽子!!彼女を死んでも守れよ、桓魋!!」
 陽子が何かを叫んだ。
だけどそれでも、それでも桓魋は前だけを見つめ続けた。腕の中で藻掻こうとする陽子の首筋を叩いて意識を落とさせる。がっくりと力の抜けた陽子を片腕で抱き込み、痛いぐらいに唇を噛みしめ、乾ききるほどに目を見開く。
 目の前に、王師の兵卒たちが溢れ出す。
長槍を掴む桓魋の腕に力が籠もる。槍を振りかぶる桓魋の瞳が、鋭く光を帯びた。
「どけええええぇえ!!!」
振り返る訳には‥いかなかった。雪崩のように現れる兵士たちを次から次へと薙ぎ払う。その中には王師の軍に異動となった、かつての桓魋の部下も何人かいたが、彼はその部下たちさえ槍を空中で円を描くように振り回し、吹き飛ばして進む。誰も熊の腕力を持つ州史上最強と言われる将軍に、敵うはずもなかった。騒ぎを聞きつけ、坐候楼の中から麦州師の兵卒たちがわらわらと顔を出す。左軍配属の桓魋の現部下が、驚きの声を上げた。
「左将軍?!!」
「桓魋様!!」
怒涛の勢いで邁進(まいしん)する桓魋の前に、騒ぎを聞き駆けつけた中将軍が姿を現す。
「おい‥!どうした?!」
瞬間。返り血を浴び、鬼のような形相の桓魋と、彼の腕の中でぐったりとする褐色の見慣れた顔に、中将軍は目を見張る。
「桓魋‥!陽子(ようし)‥?!」
桓魋の腕から零れ落ちる陽子の赤い波が揺られて鞭打つ。王師の軍の一部から声が上がった。
「よく来た中将軍!!この反逆者を止めろ!!女を連れている!!」
だがその言葉とは相反して、その時桓魋から向けられた強い視線に、思わず中将軍は動きを止めた。強い無言の要求に鞘から抜きかけた白刃が迷う。
(‥!!)
一瞬の判断で、中将軍は刃を組み交わすことなく、自ら岐路にそれた。砂埃が舞い上がり、視野が濁って疾風が巻き上がる。桓魋からの無言の礼を、その時中将軍は耳に受けた。
 彼が次の瞬間垣間見たのは、紅を抱える同僚の背だった。
怒号が、中将軍の耳朶を打った。
「何故、逃がした!!お前も反逆者と見なすぞ!!」
だが、中将軍は何も応えぬまま桓魋の消えた方に目を奪われていた。舌打ちが響く。桓魋たちの背はますます遠のいていく。
だが、砂埃が空気の下層へ落ちていく中、視線を戻した時、中将軍は驚いて目を見張った。

 視線の先に、血溜りの中で倒れているひとりの青年を彼は見つけたのだ。打ち捨てられたように倒れる青年に、中将軍は血相を変えて駆け寄る。まだ――息をしていた。彼は声の限りに叫ぶ。
「誰か、誰か来てくれ!!怪我人がいる!!」

 怒号と、砂煙が舞い上がる。血だまりの中、童顔の青年の指先だけが微かに動いた。

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「止まれぇ!!左将軍桓魋ぃ!!」
 長槍が唸りを上げて宙を舞う。
二百斤の重さを誇るその威力に、王師の兵卒たちは吹き飛ばされていく。騎獣の腹を締める両の太ももの脚力だけで身体を支え、片腕にぐったりと意識のない少女を、そしてもう片腕には、常人では持ち上げることすら不可能な長槍を牙として振るう。
襲い来る幾人もの兵卒の雪崩、彼におののく者、牙を剥く者、その全てに――桓魋は、吠えた。
 鬼のような形相に、一瞬誰もが動きを止める。
長槍の先端が鋭く煌き、空を裂く凄まじい音が鼓膜を打つ。五十人を一度に吹き飛ばした男は、瞬間目の前に現れる、門闕までまっすぐに伸びた細い途を猛進する。
 途を塞ごうとする兵達が泡(あぶく)のように溢れ出すのに、桓魋はぎりりと唇を噛んだ。だが、その兵卒たちを、抑える人影が、瞬間幾つも現れた。
(‥?!)
見ればそれは桓魋の部下たちで、必死に彼らは桓魋に向かって何かを叫んでいた。
「何が何だか分からないけど‥左将軍、逃げてください!!」
「早く‥!!」
 見慣れた顔、顔、顔が叫ぶ。桓魋が叱った顔、稽古した顔、それらは全てそれまで桓魋が育てた顔だった。部下たちの言葉は怒号にかき消されていく。
 ありがとうという言葉さえ、いう暇が無かった。彼らが作ってくれた途を、陽子を抱えて振り返らずに、ただひたすらに前だけを見て駆け抜ける桓魋。すべての光景が線となって、より合わさって恐ろしい速度で消えていく。
長年世話になった懐かしい場所に戻る日はあるのだろうか。景色は遠くちぎれていく。彼らは溢れる兵たちの手を潜り、閉ざされそうになっていた門闕を突き破り、怒号や叫び声を背に彼は州城から飛び出した。吉量は空高く舞い上がる。
桓魋は強く唇を噛む。
倒れた友人の状況も分からないまま、ただ彼が命を取り留めていることを願って桓魋は麦州を飛び出す。

腕の中にある、ただ一つの存在だけが‥切ないくらいに温かかった。

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 その後、追っ手の手が回る前に、陽子と二人で暮らしていた家から最小限の荷を持った桓魋は、陽子を連れて慶国を飛び出した。
 ただ我武者羅に、慶国民である証の旌券だけはしっかりと懐に入れて故国を離れた。
 遠く、遠く逃げ、そうして慶を出て雁国上空に差し掛かった時、彼らは逃げる足を緩めた。もうその頃には日も暮れ獣の煌く金の眸だけが暗闇の中で光を纏う。
その時になって、桓魋はようやく空の温度を感じることが出来た。ゆっくりと桓魋は今の状況を呑み込む。
(逃げきれた‥)
ゆうらりと薄闇が上空から溶けるように振り落ちる。故郷の空を遠く離れ、一頭の吉量は緩やかに幽暗を駆ける。じわじわとせり上がるその感覚に、彼は口から細く吐息を零す。ふと眼下に視線を落とした時、桓魋は思わず言葉を失った。

足下には、目も眩まんばかりの星々がぶちまけられていた。

荒廃し、やせ細った慶(こ)東国(きょう)とあまりに違う、五百年の栄華を誇る雁州国の町並みの美しさに、陽子を抱えた彼はただ呆然と見入るしかなかった。

――これが、五百年間、ひとりの名君に治められた国‥。

故国との天と地ほどの差に、桓魋は目眩が襲ってくるのを感じた。小さな光の粒が、寄り添い、離れ、時折楽しげに動いている。灯りを手に持った人々が街を歩いているのかもしれない、とぼんやりと思う。
稽古帰りに陽子と食事を食べに行ったり、買い物に付き合わされたりしていた、自分たちにもあったそんな当たり前の日々のことが、急に遠く思われた。その時――小さな声が、桓魋の前から零れる。
「なんて‥綺麗なんだろう…。こんな光景…蓬莱で見て以来、私は見たことがなかった…」
驚いて目線を腕の中に落とせば、桓魋の胸に背を預けていた陽子の目が、薄く開いていた。顔を上げ、少女は寄りかかっていた彼の体から少しだけ自身の体を離し、俯く。
「ごめんね…。貴方に迷惑をかけた。色んな人に…私は迷惑をかけた」
「お前のせいじゃない」
連れ出してくれて、ありがとう と少女は心からの礼を述べた。振り向いて向けられる、その真摯な眼差しに、桓魋は穏やかに微笑んで見せた。少女の肩に、彼は手を置く。陽子はそのままとんと言葉をなくして黙りこくってしまったが、少女が何を思っているのか、それは聞かなくてもよいことのように思われた。
 夜風が冷たく、緩やかに吹き上がる。筆の穂先のように頭を連ねる木々が生い茂る山に、桓魋は静かに舞い降りた。ぽつんと森の中、打ち捨てられたように放置されていた茅(あば)軒(らや)の前に吉量を繋ぐ。
 自分の足で吉量から下りた陽子は、森の中からでも微かに見える街明かりの粒に目を細めていた。
 誰もいない茅軒に足を踏み入れた二人は中で火を焚く。そのまま言葉を交わすこともなく、二人は爆ぜて軽やかな音を響かせる黄金の炎をただ見つめていた。ゆらゆらと揺らめく暖かさが冷えた手足を包む。様々なことが起こった一日を、日常が覆された一日を乗り越えた時間。沈黙の中、最初に言葉を発したのは…桓魋、だった。
「浩瀚様から…暇を頂いた」
その言葉に、陽子が弾かれたように顔を上げる。陽子が見つめる桓魋の、伏し目がちな目に映り輝く炎が、柔らかくうねった。陽子の声が掠れる。
「そんな…桓魋…」
呆然とした彼女の表情に、桓魋は笑う。
「…心配するな。そうは言ったとしても…期間限定だ。国が落ち着いたら、戻ってこい、と。お前と二人でまた帰ってこい、と浩瀚様は言ってくださった」
 陽子は微かに寄せていた眉根を解いたが、その顔にはまだ曇が残っていた。少女が俯き、紅の髪が炎で濡れたように輝く。
「でも…私が女じゃなかったら…私が関係していなかったら…そもそも桓魋には国を出る理由なんて――無かったじゃないか」
 桓魋は、何も言わなかった。炎の温かな光が彼の表情を撫で、そうして彼は瞼を落とす。綴られたのはあまりに静かな言葉だった。
「お前が女だと悪いのか?男だと偉いのか?――違うだろう。お前は何も悪くなんかない。歪んでいるのは…今の慶国だ」
 麒麟に恋着した愚かな王。国は歪み人は消えゆく。
仄かに彼は――微笑む。
「少し、休もう。俺たち二人で…旅をしよう。色んな国を見よう。他の国の良い所たくさん見て。それで国が落ち着いたら、慶に帰ろう」
陽子は折りたたんだ膝に顔を埋める。
「どう…旅するんだ。旅費なんてそもそも無いだろう…?腕を鈍らせる訳にもいかないし…」
 桓魋は一瞬目を丸くし…そして大きく声を上げて笑った。炎が柔らかく爆ぜた。
「そうだな…!だが、陽子。お前は俺達は幸い二人共腕が立つってことを忘れてるぞ」
「?ま、まあそうだけど…」
「最近の話を聞いたか?慶でも大野盗団があんまりにも悪さをするんでついに征州師が将軍直々に討伐に当たったらしいが、両陣営一歩も譲らず北部一帯を壊滅させるに至ったそうだ。どこの時代にも匪賊はいるってことだ」
そこでだ、と桓魋は言葉を落とす。
「用心棒でもしながら、国々を巡るっていうのはどうだ?」
楽しそうに、桓魋は笑みを零し、首を傾ける。陽子に挑むように、からかうように訊いてくる時に現れる彼のこの癖が、陽子は好きだった。視線を落とした指先を、彼は空中で合わせた。
「ただし、あまりにも危険な護衛はやらない。慶の征州師で暴れたその大野盗団の頭首、名前は龍熄だったかな、そんなような奴とは張り合うつもりはない。もしお前に何か危害が加わるようなら、俺だけがやってもいい。どうする、陽子?やめておくか?」
嫌なら、どこかの国に腰を下ろして職についてもいいぞ、と桓魋は笑む。
 ぱっと陽子は膝の間に埋めていた顔を上げる。唇が微かに震えた。
「!‥私もやる…!」
 桓魋だけにそんなことをやらせるつもりは毛頭無かった。まっすぐに自分の瞳と重なる翡翠の眸に桓魋は穏やかに微笑んだ。
「‥分かった。だが、いくら値が良かろうと、危険なものはやらないってことは覚えとけよ。貧乏な旅になっても怒るなよ。お前も怒ると手がつけられないからな」
陽子が怒った時を思い浮かべたのか、おどけたように桓魋は大げさに、怖がる仕草を見せた。
「そんな…怒るわけないじゃないか」
その仕草に陽子は思わず吹き出した。桓魋も釣られて笑う。

それは、今日一日の中で、陽子が初めて見せた――笑顔だった。

 その後、ぽつりぽつりと今後どうするかという話をしていたら、気がついた時には外景に、うっすらと仄明かりが差し込み始めていた。
 微かに熱を発して燻っていた火種に灰をかけ、二人は日が昇るまでの短い時間、浅い眠りに落ちた。二人の間に、言葉は無かった。
 先ほど一度だけ笑んだ陽子の顔は、眠りにつく直前には薄く翳っていた。だがそのことには敢えて桓魋は何も言の葉を口に出すことはしなかった。
 女であるというだけで国から追われた彼女の表情が翳るのは無理もないことだったし、そしてその胸間を少女は自分自身が楽になりたいがために、桓魋に吐き出すつもりなんて無いことは明白だったからだ。

だから彼は、何も言わない。

不条理に呑まれてしまった少女の背を、ただ見つめる。自分自身に目を向けない少女の傷を彼が代わりに見つめる。恐らく少女は――自分の表情が翳っていることにさえ気がついていない。

落ちた浅き夢はすぐに覚める。

 二人がまだ眠る、光が存在を主張し始めたその時間帯、故国から舞い降りた一羽の青鳥が朝を告げるように、茅軒の窓際を嘴で叩いた。 


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