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 空は仄かに霞み、淡く視界を彩る。移り変わった季節の中、冬枯れた景色が肌寒い。

州師州城の演習場。

 稽古の後の据えた汗の匂いが木枯らしに吹かれて薄れていく。そんな雄臭い演習場だが、今はきゃあきゃあと可愛らしい女性たちの声が重なって、色を出していた。
「ねぇ!中さん!今日私たちと夕餉を一緒にどお?」
「ずるいわ!私たちが先に声をかけたのよ?勿論行くんだったら私たちとよね、陽子(ようし)?」
昼下がりの稽古の時間、女性たちに囲まれた陽子は困ったような顔で、歯切れ悪く受け流す。陽子は口数は多い方ではなかったが、そこがまた女性の心を擽るらしく、彼女の優しさを見抜いている女は始終言い寄ってくる。
まだ若くとも、彼女は十分大人びて見える。
一度夜這いまがいのことまでされて、心底仰天したこともあった。真摯な交際の申し込みも一度や二度ではない。
「すまない。私は治水の件で駆り出されるから今から抜けるんだ。それに今夜半も稽古をするつもりだから、お誘いには乗れない」
唇を尖らせて口々に慨嘆の意を唱える女たちに、陽子は申し訳ない、と謝った。

彼女が女であることは一部の者以外、今はまだ誰にも知られてはいない。

彼女たちの気持ちを考慮すれば酷く申し訳ないことをしているように思えたが、男として戦線に立つことは元々陽子が望んだことだ。その強さと、守られる甘えに傾倒しない志を彼女は求めた。そして何よりも、陽子は戦場に駆り出された時、桓魋の傍にいたかったのだ。足でまといにならない強さを身につけて。この国の中では今、忍び寄るように、微かな狂乱の臭いがしていた。何が起こるか、それさえも分からず。
そして何よりそんな風にこの国の未来を予測できない実情が――恐怖を煽る。
いつ何が起こるか分からない。いつ、どちらか片方がいなくなるかもしれない。喩え世界が混沌に陥ったとしても、それでも桓魋に自分より先に死んで欲しくないと思ってしまうのは、それは陽子のエゴなのだろうか。

陽子は女性たちに別れの挨拶をし、踵を返してその場を後にする。しばらく歩いて、周場の回廊に差し掛かったその時、彼女の背後から声が投げかけられた。

「よぉ、中陽子。元気だったか?」

振り向けば、ここ二、三ヶ月間、暇さえあれば陽子にちょっかいをかけに来る男、少譚がいた。
少譚は後ろ手に両手を組み、黄土色の目に興味だけをちらつかせて、じっと陽子を見る。陽子は息を吐いて、足を止めたことを少し後悔した。眉間の間に指を滑らせ、彼女は眉根を寄せて瞑目する。
「一体私に何の用があるんですか…」
「ん?用なんかないぜ。ただお前を見かけたから来ただけだ」
片眉を跳ね上げた少譚に、陽子は肩を落とす。この男は桓魋といる時にはとんとやってこなくなるくせに、陽子が一人になった途端見張っていたかのようにするりと姿を現す。
 少譚は口元を割いてみせた。
「元気ないじゃん?何か大事な物でも失くした?」
 陽子の顔が跳ね上がり、そして怪訝そうな表情をした。どうやら陽子はずっとあの簪を探し続けているようだと見取った少譚は、内心で卑屈な笑みを浮かべる。
「なぁ、お前って左将軍とどういう関係なんだ?兄妹か?」
「違います」
 陽子の横顔は固い。声音も同じように固く、最初からその質疑を刎ねていた。確かに陽子にとって、彼は兄も同然の存在であるが、そんなことをこの男に言う気はさらさら無かった。少譚の笑んでいた顔が剥がれ、ちらりと面白くなさそうな表情を見せた。だが彼は気にせず言葉を重ねる。
「じゃあどういう関係なわけ?一緒に住んでるって聞いたぜ?身内でもないのに、何で同居してんだよ?それって相当将軍と親密ってことだよな?いつから将軍と住んでんだ?答えろよ」
 音もなく陽子の足が止まる。酷く無遠慮に、土足で人の敷居を跨いでこようとする男に冷然とした視線を彼女は向ける。
「どうして私にその質問に答える義理があるんですか。急いでいるので、これで失礼します」
 小さな舌打ちが、陽子の耳朶を打った。陽子は表情を崩さぬまま、そのまま歩み去ろうとした。
――だが。
 少譚の薄い口端が、釣り上がる。なぁ、という少し間の抜けた声が、陽子の耳を触った。
「これ、なーんだ?」
 男の手のひらの中で、金色の煌きが日光を弾く。少し古びてはいるが、繊細で秀美な簪が、陽子の翡翠の瞳に描かれた。陽子の瞳が見開く。少譚は目元を鋭くし、陽子をいたぶるように彼女の目の前でそれをくるくると翻して見せる。探してたんじゃないの?という言葉が陽子の耳を打つ。
「お前のドジで落としたのを拾ってやったんだぜ?何か礼を貰わないとな」
「‥礼、だと?」
冷ややかな空気がその場を満たす。その場の雰囲気に似合わない、柔らかな風が吹き抜ける中、少譚の眉が勿体ぶったように持ち上がる。唇が薄くめくれた。
「そうだな…」

 お前たちの関係を教えてくれよ、と少譚は囁く。

本当は掠め取った物を、陽子が落とした物を拾ったという男に、陽子の視線は鋭いまま。少譚は金色の光を零す簪を持つ指に、少しだけ力を込めてみせる。
その瞬間、陽子を纏う空気が、変わる。
「拾ってくれたことは礼を言う。ありがとう。だが…もしそれをだしに私を揺すろうというのなら…私は貴方に対して容赦しない」
陽子は低音を震わせて言葉を綴る。
 微かに簪が軋んだ瞬間、陽子の瞳に炎のような怒気が走った。喉を熱が焼く。少女の瞳に巣食う怒りに、少譚は思わず動きを止める。
 ここでここまで怒らせるのは想定外だった。簪をたてに揺すりを強行し、それで薄汚れた興味本位を満たしても、この場合その代償に被る不利益の方が大きいだろう。
少譚は小さく舌をならすと、忌々しげに簪を陽子に投げた。両手で空中で受け取った陽子は、その時になって初めて表情を緩める。簪を大切そうに指でくるんだ陽子は、そっとそれを懐にしまった。
陽子は顔を上げ、最後に一言、言葉を発する。
「大事な物なんだ。…拾ってくれて、ありがとう」
 踵を返してその場を後にする陽子の背を、少譚は苦虫を噛み潰したような顔で見送る。
(くそ…泣き寝入りはしねぇか…。言いなりにさせんのは難しいな。こうなったら…)
その瞳に、歪んだ何かが浮かび、少譚は胸間で呟いた。

(力づくで…従わせてやる)
 
いつ、あいつらに声をかけようと少譚は胸間で呟く。少譚が、何を考えているのか…その真意は誰にも分からない。ただその目は陽子だけを映し、淀んだ炎を湛えていた。陽子はそんなことは露も知らず、颯爽と歩き去る。

木枯らしが薄くその場を拭っていく。
その場の風景から、ひとりの少女は小さく溶けて、消えていく。だが、このあとこの国に起こることを、陽子はその時はまだ知らなかった。自身にも決して無関係でないその影はひたひたと忍び寄る。

彼女が女であることは一部の者以外、今は誰にも知られていない。

そしてそのことが…少女をある時まで守り通し、そうしてある時を堺に、彼女に向かって牙を剥くこととなる。

 浩瀚さえも予測ができなかった、慶国全土を驚愕させるあるまじき勅令が発布されるのは、その――数日後のことだった。

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 陽子の身に〝それ〟が起こったのは偶然だったのだろうか。

 予青五年十二月。景王舒覚により慶国の女の国外追放令が発布された。自身の麒麟に恋着した王の愚かな法令に、だが誰ひとりとして逆らうことも出来ず、人々はなすすべなく故郷を追われる。

慶国から、急速に女が消えていく。
そして特に麦州は治水の件の奏上により、明るみに出た穎脱した州侯の存在に、冢宰が目をつけていた。最後まで麦州の女たちを守ろうとした州侯の働きも、靖共が差し向けた王師により打ち砕かれ、女は見つかれば捕らえられ、運が良くて永久国外追放、そして運が悪ければ処刑をも余儀なくされた。
 桓魋の見る限り、日に日に女の姿は消えゆき、そしてついにはただ一人の存在を除いて、女の姿はどこにも見えなくなった。国のあちこちで身を潜めていた女が引きずり出され、官府に突き出されていく。麦州師からはもはや女官も女武官も消えた。女たちはどこに消えたのかも、いつ戻ってくるのかも分からない。
だが彼が一番心配している少女は、桓魋の言葉に、ただ大丈夫だと笑っただけだった。

私は大丈夫。誰も、私のことを女だと気がついていない。だからどうか、心配しないで。

馬鹿なこと言うな。心配しないはずが無いだろう。そう何度も説得しようとしたが、少女の太陽のような微笑みを見るだけで、彼は口が辛くなる。
 静かに時が流れて、明日がどうなるのかも分からない。
彼女が何故そうまでしてここに残るのか。その真意は見えない。
だが、彼も彼なりに、あることを固く決意していた。それはいくら陽子が言っても変えることの出来ない、彼なりのけじめとでも言うのか。

そしてそんな時、彼は唐突に――浩瀚の元に、訪れた。

一つの決意を胸に、州師将軍は目の前の扉を叩く。入れ、その慣れ親しんだ涼やかな声が流れるまでの一瞬が、彼には永遠に感じられた。

「失礼します」

扉が押し開けられて、細い光の筋が地面と自身の身体に伸びる。州侯執務室の中に入った将校に、中で筆を走らせていた州侯はゆるりと顔を上げる。桓魋の表情から何かを察した浩瀚は、静かに白い唇を開いた。
「…何だ」
州侯浩瀚は、桓魋が何を告げに来たのか知っているくせに、彼に問う。まるで形式的に問うような形だった。緩やかな日差しが室内を駆ける。
大切なお話があります、と彼――桓魋は言う。桓魋は美しい拱手を一つして、前置きもなしに言葉を綴った。
「お暇を頂きたく、参上しました」
 彼の顔に落ちる日差しが、陰とともにその決意を浮かび上がらせている。部下の顔立ちに克明に刻まれる何かに驚いた様子も、その申し出に怒りを覚えた様子も見せず…聡い麦州侯はまるでこの時が来るのを予期していたかのような、そんな表情を湛えていた。浩瀚はただゆったりと瞬いた。
 白いかちりとした顎に指を這わせ、浩瀚は目を閉じる。
「…いつ来るか、と待ってはいたが…。こう見る限り、お前の決意は変わらぬようだな」
 桓魋は何も応えず、そして礼も崩さずただそこに佇む。その眸の奥に溜まる揺らぎもしない何かは表面に静謐な光を浮かせる。伏し目がちだった浩瀚は固く結んでいた唇を解いた。静かに彼は切れ長の瞳を開く。
 その眸は、桓魋と同じ何かを湛えていた。
「…それで良い。行け。あの子を連れて、この国を出ろ」
 深く頭を下げた桓魋は、踵を返し上官に背を向ける。部屋に垂れた光が彼を捕まえ損なって、桓魋は影の溜まる扉の方へと足を進める。その背に、桓魋、と静かな声が投げかけられる。
「だが…暇を与えるといっても、期間限定だ…」
影を顔に落としたまま、驚いたように振り向く桓魋に、浩瀚は見慣れた不敵な笑みを顔に描いてみせる。
「辞職など私は許さんからな。この国に必要な人材を、私はみすみす手放さぬ。お前も…陽子も。いつか二人で必ず――戻れ」
 その言葉に目を見開く桓魋。
躊躇いなく、彼は膝を地面に着いた。深く深く許しを請うように、彼は額づいた。
擦り切れるような、声がした。
「浩瀚様も――どうかご無事で…!」
 その時、浩瀚がどんな表情をしたのか…地面と額を合わせていた桓魋は見ることは無かった。微かに微睡んでいた空気が揺れ、桓魋は勢いよく扉を開けて出て行く。桓魋は舞い上がる土埃に、目を細めた。大股で、彼は歩んでいく。

 陽子は知らないが、稽古に出ている時、二人で住んでいた明郭の街のあの家に首都州師から派遣された一伍の衛兵達がやってきた。
 要件はただ一つ。戸籍から洗い出されたことにより明るみに出た陽子の存在を、彼らは確かめに来たのだ。女の存在が無いか確認し、家の中までくまなく穿鑿された。
幸い陽子は女らしい物を桓魋から昔に貰った簪以外、何一つとして持っていなかったので、彼らは桓魋の言葉を呑んで女の臭いは無しと踏んだようだった。
だが――それが、桓魋にとってはある決意を固めさせる決定打となった。

故郷であるこの国を出る。もう時間が無いことは、わかっている。いつか手が回る。

 自身の名を呼ぶ声が、遠くからする。なんだ、と歩む桓魋が振り向いた時、血相を変えた青葉が鬼のような速さで駆けてくるのが見えた。微かに眉根を寄せた桓魋に、青葉が彼に向かって叫ぶ。
「桓魋!!」
「おいおい‥!どうしたって言うんだ」
彼の丸みを帯びた童顔を汗が滑る。息を切らした青葉は桓魋に向かってまくし立てた。
「少譚が‥!!あいつのこと、お前知ってるか?!あいつが‥!!陽子が‥!!」
支離滅裂になりかけているその語群の中で、一つだけ紛れる聞きなれた名に、桓魋は目を見張る。青葉は桓魋の襟元を掴んで更に叫ぶ。
「とにかく大変なんだ!急がないと手遅れになる!!あいつ陽子のことを‥!!とにかく急げ、桓魋!!早くこの国を出ろ!!」
「!どういうことだ‥?!」
血相を変えた桓魋に、青葉は頭を振って懸命に自分が見たものを説明する。吐かれる激しく荒い言葉と相反して、その顔は蒼白だった。
「あいつ陽子が女だってこと知ってたんだよ!!他にも男を連れて、さっき陽子の後をつけてたんだ!すまない、前院の外廊で見失っちまって止められなかった!あぁ、陽子!」
 青葉が言葉を紡ぎ終える前に、桓魋は既に恐ろしい速度でその場から走り去っていた。桓魋!という声すらもう当の本人には届いてはいない。
(陽子‥!!)
光が翳る中、朔風が吹き荒れる。外気だけが、ただひたすらに冷たかった。

:::::


 こつ、こつと足音が木霊し、なめらかな石肌に吸われていく。歩く州城の内部は閑散とし風声だけがやけに耳に残った。女の消えた麦州師州城で、陽子は一人外廊に長い影を落としていた。光が翳るその時間帯、深く影を落とす彼女の横顔の輪郭を、残照が零す光の線がなぞる。背後から走った気配に、陽子は静かに振り向いた。
「‥また貴方か」
 深く微睡む翳に向かって陽子は眉をひそめる。ゆらりとした闇が疼き、そこから分裂するようにひとりの男が姿を現した。
「‥用なんてないんでしょう。どうして貴方は私の元に来る。一体何がしたいんだ」
 淡々と紡がれる響く言の葉に、男――少譚の顔が歪む。
陽子に向けられる口元の傾斜が、鋭くなった。黄土色の瞳に映る陽子の姿は濁っている。ゾッとするような声を、男は出した。
「今日は用があって来たんだ」
 ますます眉を中央に寄せる陽子に、少譚の口元の歪みは大きくなる。

その表情に翳るのは―――狂気か。

「‥?!」
ゆらゆらと近づいてくる男に悪寒を覚え、陽子は思わず息を呑んで後ずさった。足裏が、石畳の表面を滑る。少譚の背後の闇の中、息を潜めて蠢く人影に、陽子はその時気がついた。日が濃く陰り始める中、陽子の足が宙を泳ぐ。狂気が揺らぎ、悪寒が這う。黄土色の目に歪んで映る自分の姿が、唐突に膨れ上がった、その時だった。
「な‥?!」
 少譚が、一気に陽子との距離を縮めてきたことを気がついた時には、既に目の前には黄土色の瞳があった。瞬きする間もなく、陽子は悲鳴を上げて身を捻るが、腕を汗ばんだ掌で掴まれる。背後の闇から待っていたとばかりに男たちが飛び出して、陽子の身体を羽交い絞めにした。
「‥っ!!」
陽子がどれほど武芸に優れていても――力では叶わなかった。腕を掴まれ、動きが遅れた陽子は大人数で押さえ込まれ、口を塞がれ、すぐ傍の茂みに引きずり込まれる。
固い地面の感触が背を打ち、衝撃で陽子は脳髄が痺れる。くらりとふらつく視界に、少譚の影が降り落ちた。
知ってんだよ、といやらしく歪んだ声が沸く。
淀んだ熱を湛えた音に体中の毛がけばだつ。その後少譚から飛び出た言葉を口を塞がれた陽子は呆然と聞く。
「あれだけ女に騒がれておきながら、誰も抱かないなんて一番最初は可笑しな話だと思ってたんだ。俺ならそんなの考えられねぇ。だが‥確かにそうだ。今思えばお前が抱くなんてことはありえねぇ」
その瞳に、勝ち誇ったような、獣じみた欲望が――煮立つ。
「だって、お前は抱く側じゃなくて抱かれる側だもんなぁ‥!」
 その言葉に、陽子の瞳が見開いた。少譚は陽子に馬乗りになったまま、その両手を地面に押さえ縫い付ける。熱を帯びた荒い息で、待ちきれないとばかりに少譚は自身の唇に舌を這わせる。湧き上がる情欲とは裏腹に、声は冷たく、嬲るような色を纏っていた。
「女なんだろう‥?お前。他の奴らは気がつかなかったみたいだが、俺はお前の姿を初めて見た時、すぐに気がついたよ‥。お前が女じゃ、女色でもない限り、女は対象外だろうな‥。毎日毎日どれだけ耐えていたか‥!!女に飢えた他の奴らに声かけりゃあ準備は万端だ」
すぐそばの低い潅木の枝に、必死に暴れる陽子の手首を合わせて縛り上げる。木肌と擦れ、縄が食い込む痛みに、陽子はくぐもった息を漏らした。
両手が自由になった少譚は、じっとりと堪能するように、陽子の頬のなめらかな輪郭に指を滑らせる。だが襟に手をかけ着物をはごうとしたその時、視線を落とした時かち合った陽子の瞳に、少譚は思わず動きを止める。

澄んだ美しい翡翠の双眸。
その眸は――強い光を湛えて、少譚を見据えていた。

ただならぬ覇気を纏う双眸に、少譚は動きを止めさせられた。それは自分が手を出してはいけない人物に手を出しているかのような不思議な畏怖だった。はっとそのことに気がついた少譚は自身に苛立ったように首を振り、再び陽子の衣を剥ごうと指を伸ばす。
やられる‥!と陽子の目の前が白く焼かれる。
だが――
「‥?!!」
 襟に手をかけたその時、刺し貫くような鋭い悪寒が、小譚の背を駆け抜けた。瞬間、陽子を抑えていた男たちが一気に吹き飛ぶ。驚いた小譚が振り向いた時、彼の顔から血の気が落ちた。陽子は閉じていた目を押し開く。突風が吹き荒れ、日の光が溢れ、そこにいた人影に、陽子は声を漏らした。

 そこに佇むのは、長槍を手に持つひとりの男だった。

影を落とす彼の眸に宿る激しい煮えたぎるような怒りに、男たちは青ざめて後ずさる。
(桓魋‥!!)
今にも爆ぜるような恐ろしい形相をした桓魋の、彼の持つ長槍の先端が鈍く夕日を弾く。その迫力に陽子も思わず口を噤んだ。いつものふざけて飄々としている男はそこにはいない。少譚は呆然と上官を見上げる。
体から、怒気が揺らめいている。眸は冷たく燃え上がり、容赦なく目の前の男を刺し貫く。



 これほど怒りを湛えた桓魋を、それまで見たことがなかった。



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