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 風が――踊る。
 真夏の日光を浴び、緩やかな熱気を吐くアスファルトの表面は乾いて濃い影を帯びていた。傾き始めた昼の太陽は空からさんさんと世界を()く。
 そんな昼下がりに進んで出歩くものは少ないだろう。道行く人は(まば)らだ。
幼い少女陽子も、酷暑(こくしょ)を遮る室内で、布団の上で微睡んでいた。
 陽子は寝返りをうつ。まだ柔らかく丸みを帯びた頬に、汗で湿った髪が張り付いていた。
 寝苦しい。
 扇風機が部屋の空気を掻き回す中、陽子は瞼を開けた。
「‥ぅん…?」
 まだ眠い目を擦りながら、陽子は布団から体を起こす。無人の部屋の隅の暗がりでは、くたびれた扇風機が首を振っているだけだ。陽子は目を瞬いて周囲を見渡す。この年頃の子どもが探すのは一人しかいない。
「…?おかあさん…?」
 昼寝をするまでは、母はキッチンで洗い物をしていたはずだ。食器が水で濯がれる音を聞きながら陽子は眠っていたのだから。陽子は立ち上がり、とことこと母を探して歩いた。
「おかあさん、どこかな…?」
 フローリングの廊下を裸足で歩きながら、陽子は玄関に向かう。実は母は陽子が昼寝をしている間に近所に回覧板を届けに行ったのだが、陽子の背丈では、靴箱の上に置かれていた回覧板が消えているのは見えていなかった。
(おかあさん、おそとにいるのかなぁ?)
 お気に入りのサンダルに足をつっかけ、陽子はドアノブに腕を伸ばす。踵を浮かせてやっと指先が届いたノブが、ガチャリと重い音を立てた。外へ足を踏み出したとたん、乾いて熱を帯びた空気が陽子を包み込んだ。
「うわっ」
 地面が吐き出す熱にくらくらと目眩を感じながら目を凝らす。だが、見えるのは夏の日差しの鋭さだけで、景色は一向に変わらない。
(いないなぁ…)
 やはり、どこか遠くに出かけてしまったのかと、陽子は頬を膨らませる。じりじりと空から照りつける日差しは容赦なく少女を灼いていた。白く淡い肌がほんのりと熱で上気していく。額に張り付いた赤みがかった髪を陽子は指でかき分ける。
 だが、いないか、と俯いた陽子がもう戻ろうと思いかけたその時だった。
 陽子は視野の片隅に揺らぐ人影のようなものを見た。
「…おかあさん?」
 輪郭も(おぼろ)げで、頼りなく消えてしまいそうなそれを、陽子は母だとその時思った。陽子は顔を輝かせて暑さも忘れて陽炎に向かって走った。遠くで揺らぐ不思議な陽炎は日差しに燻ゆり、陽子から逃げるように空気に溶けていこうとする。陽子は走りながら声をあげた。
「おかあさーんっ!」
 陽炎は身を捩るようにして逃げていく。全速力で走っているのに、少しも陽炎に近づいている気配はなかった。
「はぁっ…はあっ」
 激しく走っている陽子の肩からワンピースの肩紐がずり落ちる。走っても一向に追いつく気配のない、それどころかどんどん遠のいて消えていくその姿を見た陽子は悲しげな声をあげた。
「どうして行っちゃうの?おかあさん!」
 その時、溶けていこうとしていた陽炎が、声に縛られたように動きを止めた。だが次の瞬間、悲鳴をあげるように一層激しく揺らめいて、息を弾ませる陽子はその陽炎の更に奥深くに何か揺らめくものを見た。金の光が翻る。まるで誰かの背中のようだった。
「おかあさん!まって!」
 陽炎の奥深くへと歩んで消えていこうとしているのを見たとたん、母を追う陽子は待ち受ける陽炎に飛び込む。

 だがその時―――

(え…?!)

 ゆらりと世界が歪んだ感触を陽子は視野から、肌を取り巻く空気の感触から――感じた。だけどそれは一瞬のことで。声をあげる間もなく、目を瞬く間もなく。

 その瞬間、世界の全てが目の前で輪郭を崩していった。

::::: 


 ふわりと体の芯が軽くなった気がした。怖くて思わず強く目をつむった瞬間、柔らかい風が頬を掠め、陽子は息を止めた。

 五感で感じられるものが、全て遠のく。空虚な浮遊感が陽子を包み込んだ。

 だがそれも一瞬で、消えた匂いが、音が、感触が、一瞬の間の後に陽子の元に押し寄せてくる。
 何もかもが、唐突だった。
「…?」
 人の行き交う音、空気が揺れる音、風の匂い、地面の感触を次の瞬間陽子は感じる。起こった出来事に訳が分からないまま、陽子は瞑目していた。
(…??)

 何が起こったのだろう、と陽子は目をきつくつむったままそっと気配だけで様子を伺う。いつの間にか強く握りこんでいた手のひらは汗ばんでいて、陽子は強ばった指を開いた。熱が急速に手のひらから逃げてゆく。
 ひんやりとした空気を吸い込んで、陽子は恐る恐る目を開ける。だが――。 次の瞬間、目の前の光景に幼い少女は目を見開いた。

「え…?」

 目を開いたそこに広がるのは、砂舞い、夏の日差しが降り注ぐ古い町並みだった。
 陽子が見慣れたアスファルトに覆われた地面ではなく、むき出しのはだけた地肌が彼女の目の前で横たわりどこまでも広がる。

 人は行き交っていた。

 だがその人々は――中には陽子がよく見る普通の人もいるが――藍色や緑など陽子がいた場所では見ることのない髪の色、瞳の色を持った人々だった。時折、二本足で立つ獣がその光景に混ざりしゃがみこんだ陽子はぽかんと言葉を失う。上空で風を切る音がして振り仰げば、そこには今まで見たことのない姿の獣が、空を掴んで駆けていった。

「え…?え…??」

 混乱してせわしなく瞬きをする陽子。だがその時、異変が起こったのは周囲だけでは無かった。ぽかんと驚きながらも陽子は、ふと視界に映った自分の髪が変わっていることに気がついた。指でつまんだ鮮やかな真紅に目を見開いて陽子の動きが止まる。ゆっくりと足元に溜まる水たまりの水面に視線が落ちて陽子の小さな唇から声にならない音が漏れた。姿を弾く薄い水面が、煌く。


 そこに映っていたのは――今まで自分が見たこともない真紅の髪に新緑の瞳、濃い褐色の肌の…女の子だった。


 呼吸を忘れたまま目を見開いたまま、陽子はゆるりと視線を持ち上げる。
ざわめいていた音が静かに、陽子の耳から乾いて消えていく。幼い陽子が現状を把握しているはずがなかった。一瞬前までは家の布団で眠っていた陽子。だけど―もう。


 母はいない。自分の知っている自分もいない。
 陽炎を追いかけたそこに広がるのは見たこともない―――異世界、だった。

:::::


 上空からは強い日差しが降り注ぎ道行く人々を焦がしてゆく。うだるような酷暑の中で、吹き抜けるぬるい風は気休めにもならずに過ぎ去っていくだけだ。

 慶国、麦州。

 東の果ての国、慶東国の余州の一つであるこの麦州は、慶国の西部に位置し、青海に面している。
 その麦州の中でも県の一つである産県はかつては支錦と呼ばれ、松塾という義塾があったことは慶の民では知らない者はいないだろう。慶国の名君達王の出自の地としても著名な地である。現在では松塾の理念を継ぐ人望を集める州侯がこの州を取り仕切っている。
 だがどれだけ道徳の教えに長けた州でも、差別や妬み嫉みなどの人間の薄暗い感情は消えることはない。不透明に淀んだ感情は足元でゆるりと渦巻き、時に人の足を掬って底なしの闇に引きずり込む。

 そして今もまた麦州州師の演習場では、その吹き出した薄暗い感情が風に乗ってただ静かに流れていた。

「なあ、どう思う?今回麦州侯は半獣を一人、州師として採用した。俺は不快でならねえよ」

 声を潜めた嘲笑が、その場に静かに響く。顔を合わせる州師の兵士たちは眉を寄せて口を割った一人を見やる。数人のうちの一人が不愉快そうに顔を歪めた。
「本当に…。浩瀚様も何を考えていらっしゃるのだか…」
「知るもんか。半獣なんて…。ここの州侯様もよほど酔狂なことを為さるもんだ」
「まったくだ。だが、まあそう長くは保つまいよ。半獣に守られるなんてことを快く思う輩はおらんだろうしな」
「違いない‥」
 顔を見合わせながら、兵卒たちはしのび笑う。演習場を横切る他の兵士たちもいるが、彼らの言葉には聞こえぬふりでその場から足早に去っていく。顔を合わせていた兵士たちの一人がふと顔を上げ、意味ありげな含んだ笑いを零した。肘でつつかれ、釣られて彼の視線を追った他の兵士たちも嘲笑を顔に浮かせる。

 顔を上げた彼らの視界には、ひとりの人物が演習場に向かって歩んでくる光景があった。

 しのび笑いをしながら、顔を合わせていた兵卒の一人が青年に向かって声を上げた。
「よぉ、桓魋!もう夏だが、毛の生え変わりに苦労はしてないか?」
 周囲がどっと吹き出した。
 演習場に足を踏み入れた青年が緩やかに止まる。すっと青年は視線を兵卒に向けた。降りかかる強い日差しが熱を帯びて――青年を照らし出す。

 若い。年はまだ二十にもなっていないだろう。痩せてはいるが、たくましく引き締まった筋肉質な肉体を持っていた。どこにそんな力があるのか、その身体にそぐわない巨大な長槍を悠々と片腕で担ぎ上げている。

 青年を無遠慮な視線で舐めまわす兵卒たちからは、本人を目の前にしても忍び笑いは消えない。嘲笑を浮かせながら、青年がどう次の一手を打ってくるか眺めている。
 だが予想を覆し、立ち止まっていた青年はからりとした笑みを口元に浮かべた。少し鋭さを帯びた顔立ちは破顔すると人懐こさを出し、笑みがよく()える。その表情に思わず年重の兵卒たちは毒気を抜かれる。青年は肩を竦めて飄々と答えた。
「いやぁ~苦労していますよ。毛は抜けませんが、夏は暑くてね。獣の姿でいたらバテちまうのが難点で」
 おどけて答える青年は長槍を担ぎ直す。乾いた夏の日差しの下、顔に零れた髪が僅かに揺れた。思いもしない返しに、意表を突かれた兵卒たちの一人が、心なしか悔しそうに桓魋を睨めつける。だが一瞬後、彼は悪意の含まれた歪みを口元に描く。
「‥そうか。この演習場に熊なんて現れられたら俺たちも迷惑だしな。獣臭くてかなわん。その方が随分とありがたいな」
 青年の表情は変わらない。ひょいと肩を竦めて、彼は笑う。
「俺はどちらの姿も気に入っていますが、獣の姿の方が戦闘力が上がるのは確かなんですよ。だけどやっぱり熊の姿じゃ女性にはもてなくてね、みんな話す前に逃げちまうんで困ったもんです」
 飄々と応える青年を、兵卒たちはますます面白くなさそうに顔を歪めて見つめる。青年は笑みを浮かべ、誰かが鼻を鳴らす音だけがその場に響いた。
 青年はそれには気がつかない振りをして では鍛錬を積みたいのでこれにて失礼します とだけ言葉を残して踵を返した。大股で歩き始めたその後ろ姿を兵卒たちはポカンと言葉なく見送ることしか出来なかった。
 若者の後ろ姿を見送る兵卒たちは彼のその時の表情を見ることは叶わない。青年の後ろ姿は演習場の奥深くへと溶けて消えていく。背を向けた瞬間、青年の顔からは笑みが静かに引いていった。
 顔立ちに勝り、その表情の奥には何か人を惹きつけるものがある。風貌の中でも特に見入るのは彼の双眸だろう。
 
 柔らかな光を湛えるその眸の奥には――誰にも屈しない強さと優しさが見え隠れしている。

 まだ二十にもならないその若者、彼の名は――

 青辛 桓魋

 熊の半獣であり、そして慶国の商家、富豪青家の子息である彼は人とは違う。
 その時、桓魋とすれ違った州師の一人が彼の表情を見て思わず足を止めるが、桓魋はそのまま歩みを止めることはなかった。兵卒たちから距離を離していくその表情にはもはや先程までの笑みはない。少しだけ俯くその顔は何かに耐えているようにも見えた。
 唇を引き結び、ひたと視線を鋭くし、青年はただただ自身の歩く先だけを――見つめる。

 背筋を伸ばして歩く(さま)は凛としている。


 演習場奥に消えていくその後ろ姿は、思わず見惚れるものだった。




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