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剣の打ち合う高い金属音と、飛び散る火花が舞っては溶ける。
 州師演習場、剣稽古をする陽子は、空中を滑る白銀を伏せかわし、体を捻る。豊かな紅の髪が風に揉まれ、翻って、筆の穂先のように空中を撫でた。その動きの無駄のなさ、美しさに、周囲を歩く兵卒達は思わず歩みを止めて舞いに見入った。
「ぐ…!」
「…」
 体勢を低くして間合いに入り込んだ陽子は手首を捻り、相手方の剣を弾き飛ばす。あ、と声を上げる間もなく、相手の兵卒の手のひらから白銀の筋がもぎ取られて空を舞った。キンッという澄んだ音を響かせて、陽子は刃と鞘を噛み合わせる。同時に遠くで、弾かれた剣が地面に突き刺さる音がした。
 観戦していた女性官吏達や、武官達が黄色い声を上げた。
「キャー!!なんて素敵なの!!」
「やっぱ男はこれくらい強くなきゃ!!」
 陽子は困惑したように背を向ける。肩を竦めた陽子は足早にその場から歩き去った。その姿に黄色い歓声は更に煽られる。
「良いわねぇ‥。今年入ったあの子‥。男たちの中でも一人だけ際だってるわ…」
はふん…と熱っぽい吐息を漏らした女官に、その友人が身を乗り出して熱弁する。
「ね、言ったでしょう!他の芋とは違うって!」
 ずけずけと歯にものをきせぬ物言いの女性達に、男性陣――様々な種類の芋たちはふてくされる。が、実力の差は歴然としている故に、文句のつけどころなどどこにも無かった。
 
陽子が州師に入隊してから、もうそろそろ半月が経とうとしていた。

 筆記も武芸も秀でた彼女は、女であることも、海客であることも隠したまま――少年兵としてこの州師に馴染んでいた。
周囲は彼女を誉めたが、陽子は苦い顔をしてひらりとその言葉を受け流していた。幼い頃から長期にわたって学の師として最高峰とも言える遠甫に教えを受け、そして同じように武の師として、州師史上最強と言われる桓魋から武芸を叩き込まれて育ったた陽子と彼らとの力に開きがあるのは、ある意味自然なことだ。
当初から飛びぬけた力を持っていた陽子は、屈強な州師の戦士たちに混ざっても、早々に頭角を表して、頂点に躍り出た。その強さは、同期では誰も敵う筈もなく、年を重ねた手練の兵卒でも苦戦を強いられていた。
だがそんな環境の中でも、陽子は一生懸命、少しでも桓魋に追いつこうと、人よりも更に稽古を積んでいる。そしてその光景はただ堪らなく――眩しい。

陽子は女性達の色目を避け、軽やかな足取りで駆けていく。
今日は大事な約束があった。
待ち合わせの場所まではもうすぐで、自分が今駆けていく人を思い浮かべるうち、自然と陽子の口元が綻んでいく。この時ばかりは、陽子は少年兵ではなく、ひとりの少女の表情を見せる。

 今日は稽古が終わったら、久しぶりに桓魋と、昼食を一緒にとろうと約束していたのだ。

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 薄青が満たす空に、染みのように黒い一点が浮かぶ。じっと目を凝らすうち、点は一つではなく多数に滲んで広がっていく。綻びのように視界に増えていくその点は、やがて騎獣に乗る無数の人影の輪郭を型どっていった。
昼の時刻に差し掛かる前、日がまだ顔を傾けている時間帯だった。
路門に出た桓魋は、多数の部下たちと共に、こちらに振り降りてくる影に丁寧な礼をとった。逆光で黒ずんでいたその顔に光がさし、金波宮から戻った怜悧な州侯を桓魋は片膝をつき、頭を垂れて出迎える。
颯爽と地面に降り立った浩瀚は、衣を翻し騎獣から降りる。慌てて下官たちが浩瀚へ手を貸そうとするが、良い、と彼は笑む。礼をとる桓魋に、浩瀚は歩み寄った。
「出迎えご苦労。丁度良かった。すぐにでもお前を呼ぼうと思っていたところだ」
は、と桓魋は顔を上げる。付いて来い、と浩瀚は足早に美しい動作で進んでいく。桓魋もその背を追う。
浩瀚は人払いをしながら自室の扉を開け放ち、中に足を踏み入れた。桓魋もそれに続き、扉がゆっくりと音を立てて閉じていく。いつもの自分の席に腰を下ろし、肩に手を当てた浩瀚は凝ったように腕を回した。
「治水の助成金についての件はこちら側がもぎ取った。主上からの了承も頂くことが出来たよ」
 桓魋の表情が日の光がさすように輝く。
「…!やった…!さすがは浩瀚様!一体、どうやって…?」
「…本当に知りたいのか…?」
ふっと含んだ笑みが浩瀚の口元に描かれる。一瞬寒気がして、いえ、やはり結構ですと桓魋は呟いた。浩瀚はつまらなそうに息を吐く。
「まぁ、そうは言っても相手の論の矛盾点を徹底的に追及し、最後は正論でねじ伏せただけだがな。大したことはない連中だ。私腹を肥やした醜い家畜どもだったよ。特に冢宰靖共。あの腹黒さは吐き気がするな。もしあ奴の腸(はらわた)を絞れたのならば、この地一帯が黒く染まるのではないか?」
「こ、浩瀚様…」
 高級官に、その言い草…と浩瀚に桓魋はもはや乾いた笑いを零すことしかできない。本当にこの人が仁道を身につけていなかったら末恐ろしいことになっていた、と桓魋は背筋を寒気が這うのを感じながら時折思う。味方にいればこれほど頼れる男はいないが、敵に回すとこれほど恐ろしい男もまたいないだろう。彼が国の官吏たちから――特に、靖共一派から目を付けられないか、桓魋は心配だった。
「浩瀚様…お気をつけください。お願いします」
 浩瀚は眉を跳ね上げ桓魋に視線を投げる。真摯な桓魋の表情に、浩瀚は思いがけず面食らったように少し俯き――そうして何も応えなかった。ぱっと気を逸らすように顔を上げ、わざと抑揚のついた声を浩瀚は上げる。
彼にしては珍しいことだった。
「まぁ、この件や、私のことについては他に大したことはない」
それに…と浩瀚は口を噤んだ。彼は視線を落とし、指を組む。
「今回その件よりも私は気になることがあるのだ」
「気になること、ですって?」
あぁ、と浩瀚は頷く。頷いたその表情に、鋭さが混ざる。
「きっとこれはお前が聞けば驚くだろうが…」
彼は苦々しく息を吐いた。息を潜めて言葉を待つ桓魋を前に、少しの間の後、彼は睫毛を伏せる。

「要件は押し通したが、私は今回主上との謁見が…叶ってはいないのだ」
 
桓魋は瞠目する。信じられないという風に彼は浩瀚に詰め寄った。
「…?!そんな、莫迦な!上奏を願う州侯が王との謁見が叶わぬなど前代未聞です!出向いていった州侯に対し会いもしないなんて…!!政上で重要な要となる州侯との対立を王はお望みなのでしょうか?堯天の件と言い、主上はどのような方針で施政をなさっておられるんだ!」
いくらなんでも有り得ない、そんな風に桓魋は拳を握る。
それを見た浩瀚は穏やかに首を傾げる。緩やかに、彼は目を瞬いた。光が――翳る。
彼の言葉がその場に浮いた。

「施政は…なさっておられぬ」

「…は?」
一瞬何を言われたのか分からず、桓魋は目を瞬く。
困惑気味に眉根を寄せた桓魋に、浩瀚はそれ以上は何も応えなかった。じっと書卓に肘をついた腕に顔を乗せ、遠くを睨むように口端を歪める。浩瀚は、果たして何を瞳に映しているのだろうか。
「これだけはお前に伝えおかねばならない。そなたにはもう少し気を引き締めてもらわねば。左将軍」
すっとその眼差しが鋭い光輝を帯びる。静かに日の光が房間の中に流れ込む。
通常の視力では捉えられない程細かい埃が、光の帯に照らされ、そこだけ狂ったように舞っている光景が浮かび上がる。伏し目がちな浩瀚の睫も同じように照らされ、それはけぶって光を弾いているように見えた。だが、と彼は顔を上げる。逸らされた視線が、事の重大さを端的に表していた。その場に流れていた風が、途絶えた。

「私の見立てでは、現王君は…もってあと二年だ」

 しんと外の空気に合わない静けさが、その場に落ちる。
桓魋は表情に波風を立てないよう、浩瀚の表情を見る。彼もまた、何も顔に出さぬまま、ただ淡々と悲嘆にくれることもなく言葉を続けた。
「この国に王が立たれてそろそろ五年が立つ。妖魔も天災も鎮静し、そして何より長らく不在だった玉座が埋まったことにより、民は今安堵している…。だが、その玉座に王が在る(・・・・・・・)状況がいつまで続くのかさえ――分からぬ」
二人の影だけが、低くその場に伸びる。浩瀚の淡白な声以外に、音は――なかった。
「今言ったように、現王は現在政をなさっておらぬ。当初から政を疎まれ、宮中奥深くに閉じこもられているそうだ。それも今回分かったこと…。外出しても時折献上された箱庭に出られる程度…。そして何より…」
 浩瀚はそこで一端口を噤む。じっと自分の組まれた指に視線を落とした彼は、大きく一息ついた。
「主上は――台輔に恋着なさっておられるそうだ…」
 桓魋の目が見開く。
「堯天から女官が追放されたと、お前は知っているな?」
 すべてが、つながる。理解をしたからこそ一瞬の思考が停止して、口を封じるより先に思わず言葉が走っていた。
「そんな…!そんな…!!」

 莫迦なことで?

 飛び出しかけた言葉を憤りで押さえ込む。それは、苦しむ慶の民の声を代弁しているようだった。
 浩瀚は何も言わなかった。彼は書卓に視線を落としたまま、言葉を続けた。
「私は今回の件について奏上する際、変わりに一つ呑んで欲しいことがある、と主上に人づてに伝えられたことがある」
 浩瀚は心底その真意が汲み取れないという顔で言葉を続けた。その時私は…
「麦州の女人の戸籍を、全て洗い出して地官府まで献上するようにと命じられたのだ」
その意味不明な命令は、今まで聞いてきたどんな王の言葉よりも、ざわりと桓魋の背を粟立たせた。

現女王の政は、当初から思わしくないとは噂では聞いていた。そしてつい最近、王の勅命により宮中から女官――女がすべて追放されたのも、桓魋は耳に入れていた。だが、それが麒麟に恋着していたから、などというのは初耳だ。彼は目の前が暗くなるのを感じた。麒麟に執着するあまり、王は景麒に女が付かぬよう、そんな自分勝手な私情で女官を追放したのだ。彼女の目に映るのは麒麟だけ。何故、麦州の「女」だけの情報を王に献上しなければならないのか。その真意は、何なんだろう。王が狂いこれから何が起こるのかも分からない。

確かにこれでは、これから先この国は――もたない。

 王が立てば、国も立つものでは、ないのか。 
浩瀚は厳しい表情で桓魋を見据えたまま言葉を続ける。
「だから…気を引き締めろ、と私は言ったのだ。桓魋。お諌めしようにももう臣下の言葉すら受け付けぬそうだ。王が崩御されたら、もう後は早い…。何もかもが瓦解し、恐らく直下的にこの国は混沌に陥る。その時は何が起こるか、それは私にも分からん。そうなった時、何かが起こった時、国が頼れぬその自体に、この州の民が頼れるのは麦州師しかおらんだろう。そして…州師の者たちが頼るのは、私や、そして軍の最高指導者であるお前たち将軍だ。それをしっかり肝に銘じておけ」
 桓魋は引き締まった表情で、是の意を示した供手を浩瀚にしてみせる。部下の揺るぎない、無駄のなく美しい供手を見た彼は、口元を軽く緩めた。
「期待しているぞ。桓魋」

 礼をとる部下に、上官は先程よりずっと穏やかな表情で――頷いた。

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 風が、駆ける。
ほつれた髪を撫で付けて結わえ直した陽子は、待ち人が来るのを門闕の前で今か今かと待っている。そんな彼女の背に、上空から淡い影が振り落ちた。陽子はぱっと振り向く。
「!桓…」
だが…振り返って、陽子は目を瞬く。

そこにいたのは、桓魋ではなかった。

見たこともない一人の兵卒の男が、じっと石壁の上から陽子のことを見下ろしている。陽子は眉根を寄せて、微かに熱を帯びる日差しの中、翡翠の瞳を糸のように細めた。男はひょいと肩を竦めて見せる。
「よう。はじめまして、期待の新星、中陽子君」
「…?貴方は…」
若草色の髪に、黄土色の目を持った男だった。男は身を屈め、目線の位置を陽子と合わせた。僅かにたじろぐ陽子に、男は一見読み取れない僅かな歪みを持った笑みを浮かべた。
「俺?俺の名は少譚。人気の坊主(・・)がこんなところでひとりでいたんじゃあ、女たちが放っておかないぜ。俺が良い穴場を教えてやろうか?」
 陽子は少し身を引いて、手を振った。
「いや、いいよ。ありがとう。今、人と待ち合わせをしているところなんだ」
へぇ、と少譚は片眉を跳ねる。ふと陽子の襟の合わせ目に目をやり、見えているものに彼は口端を歪める。何かを確信したような笑み、だった。
彼の無遠慮な視線に、陽子は居心地の悪さが這い上がってくるのを感じた。甲冑の線に守られている体の曲線を、舐めるような、なぞってなぶるような、そんな粘着質な視線が身体に注がれて、良い気分などするわけがないだろう。
陽子は無理やり気分を切り替えて、空を見上げる。
「もうすぐ連れが来る筈なんだ。久しぶりだから、少し早く来すぎてしまったんだ」
 早く、来て と陽子は空気に霞む景色の融解点を見つめる。その時、溶けて霞む風景に現れた一点に、陽子の顔が輝く。甲冑を纏った一人の男が、こちらに向かって駆けてきた。その男の風貌に、少譚は思わず目を見張る。マジかよ、と彼は胸間で呟いた。
(相手は将軍かよ…)
 駆けてくる桓魋は、陽子を見て一瞬表情を緩めたが、次の瞬間隣にいる少譚を見、表情に曇がさす。ちらりと陽子に一瞥を投げた少譚は彼女に向かって手を振った。
鉢合わせたら分が悪いのは目に見えていた。
「じゃあな。また会おうぜ」
陽子が声をあげる間もなく、少譚は石壁から滑り降りその場から消えた。そして甲冑の擦れる音が近くで聞こえ、振り向けばそこには代わって桓魋がいた。陽子は声をあげる。
「桓魋!」
 息を切らして駆けてきた桓魋は、鋭い視線で、少譚の消えた方角を見つめていた。
「…今の奴は誰だ」
 陽子は眉を寄せて首を傾げる。
「少譚、っていうんだって。私も今さっき初めて会ったところだから、よく分からないんだ」
 そうか、と囁く桓魋は、もう相手の姿はどこにも見えなかったが、それでも視線をゆるめようとはしなかった。
(あいつ…)
彼の直感が、あの男は他の兵卒と違う、ということを告げていた。
それは何故か。
陽子を見る目が他の者と――違った。陽子に向けられている尊敬の眼差し、妬み、思慕、無関心、そのどれとも違うのだ。上手くは言えない。でも、ある種のいやらしさ、品の無さが、彼からは感じられたのだ。
(要注意だな…)
ぬるい風が吹き抜け、空気を洗っていく中、桓魋はようやく視線を外す。だが、そんな桓魋の袍を引く当の陽子の方はもう既に明るい笑みを浮かべていた。
「なぁ、今日はどこに行く?早く行こう!」
空腹そうな陽子の様子に、桓魋は苦笑した。
「…お前って奴は本当に…」
少譚のことはひとまず頭から振り払い、陽子に押されるまま、桓魋は足を踏み出した。ああだこうだと言いながら、二人並んで歩き出したその足元から、長さの違う影が伸びる。
だが、その時彼らは自分たちに今だに視線が注がれていることに気がついてはいない。木陰に身を隠すように、陽子たちを見つめる男は薄く嗤う。男は少女の懐から掠め取った物を手のひらの中で翻す。華やかさの中に上品さを含ませた簪が男の手の中で輝く。角度を変えれば、はめ込まれた金を帯びた紅真珠が光沢を帯びる。少女は日頃から大切に持ち歩いている、かつて桓魋が贈ってくれた宝物が盗られたことに、今はまだ気がついていない。

大きさの違う二つの背を見つめる人影――少譚は何かを視線に含ませて、目を細めた。

初秋の風がから巻いて景色を吹き流れる。つかず離れずの距離で、小さく溶けて消えていく二人の影。

その姿を目に映す、男の瞳の奥深くが…揺らめいた。


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