空はただひたすらに視界を青に染める。うっすらと吹き流れる雲は、緩やかに溶けて形を変えていく。穏やかに降り注ぐ春の陽気が眩しい、そんな日だった。 日差しに白く染まる回廊を、桓魋は背筋を伸ばして歩いていた。あの頃から更に年を重ね、武人であることが一目で分かるその後ろ姿は、彼が何か背負うものがあるからなのか。 その背は凛と――美しかった。 桓魋は零れる光を振り仰ぐ。それでも彼の顔はあの頃と変わらず、鋭さを持ちながらも優しい表情を湛えていた。その背に声が投げかけられる。背後から響く軽やかな足音に、桓魋は振り向いた。 「桓魋―――!!」 満面の笑みで駆けてくる男が、大きく手を振っている。もう立派な成人男性なのに、丸みを帯びた童顔なため、どこか人の良さそうな間の抜けた垢抜けなさがある兵士だ。その彼に、桓魋は破顔した。 「よぉ、青葉…!」 「どこ行くんだよ?左将軍!お前がいなきゃ入卒式は始まんねぇぞ?三将軍のうち一人でも欠けた入卒式なんて俺は聞いたことねぇぞ」 「バーカ。俺以上に欠けちゃならん御方がいるだろう」 目を丸くする青葉に、桓魋はにっとからかうような笑みを浮かべる。 「州侯のおられない入卒式など、俺は聞いたことない」 青葉はぱちぱちと軽く目を瞬く。そして、これは失礼と笑った。 「…そうだな。浩瀚様がおられないのに式は始められんな!」 今から浩瀚様をお迎えに行くんだ、と桓魋は青葉に言った。 桓魋は今年で二十五になり、その年と同時に仙籍に入った。陽子もあれから成長した。あの花魁の言葉が、今でも時折胸を過ぎる。だがその言葉は外れたのか、陽子は見た目こそは麗しい美少年に育ったが、女らしさどころかますます稽古に励み、野を駆け回っているという現状だ。 実力で昇進を重ねた彼は、同時に州候である浩瀚との交流する機会も増えていった。時折陽子も連れてくれば、その時には彼らはとても楽しそうに親しげに会話をしていた。そして同時に桓魋に関しても、浩瀚は用がなくてもやたら彼を呼びつけるようになった。うっかり機嫌を損ねてしまうことは一度や二度ではなかったが、それでも彼は桓魋のことが気に入っているようだった。 そして、そんな浩瀚の桓魋の呼び方が、「青辛」から「桓魋」に変わる頃、彼は州師将軍への昇進が言い渡されたのだった。両親や友人たちからも祝いの言葉を贈られ、そして桓魋の昇進を何よりも喜んだのは、青葉と――陽子だった。 青葉も青葉で昇進し、今彼は旅帥の位に就いている。桓魋にはそれが――嬉しかった。 桓魋は体を翻し、後ろ手に青葉に手を振る。 「じゃあ、俺はそろそろ行くぞ。また後でな」 「おう!…あ!」 手を振ろうとしていた青葉は、はたと動きを止める。口元に手を当てた彼はムッフッフと堪えきれない笑いを抑えながら、桓魋を見た。何だ、気持ち悪いなと一蹴しても、青葉は気にせず、ニヤニヤ笑いを剥がそうとしなかった。 「なぁなぁ!お前まだ知らないよな?」 「?何をだ?」 「へっへっへ。そうかそうか。まだ知らないんだな!知らないんなら、内緒だ!!」 顔を顰めた桓魋に、青葉は楽しそうにじゃあな―!と手を振って駆けていった。 残された桓魋は、訳がわからないままぽつんとその場に佇む。 「?…何なんだ」 首をひねりながらも、桓魋は浩瀚を呼びに、薄暗さを漂わせる奥の回廊に足を踏み出した。 ::::: トントンと軽く桓魋は扉を叩く。入れ、という声が聞こえてきたので、彼は中に足を踏み入れた。 「失礼します」 書面に視線を落としていた浩瀚は渋い表情で顔を上げる。あ、これは機嫌の悪い時の顔だと長年の教訓から桓魋が身を引いたら、浩瀚は盛大に息を吐いてみせた。できればこの状態の浩瀚にはあまり話しかけたくはないが、桓魋は気まずそうに口を開く。ここで声を上げない方が更に状況が悪化するというのも、長年の経験により学習済みだ。 「どうなさいました。浩瀚様」 気だるげに書状の山を卓上に放った浩瀚は、どうもこうもない、と呟いた。その高い鼻筋に皺が寄る。 「上の無能さに嫌気がさしているだけだ。自らの私腹を肥やすことしか、奴らは能が無いのか?」 「こ、浩瀚様…」 浩瀚は背凭れに身体を預ける。書状の紙面に連ねられた文字に、軽い鷲鼻に畳まれる皺の数が増える。恐ろしい形相をなさるな、とはとても言えぬ風情だった。 「…確約されていた、治水の件案のための国からの助成金が撥ねられた。国庫の無駄を削るため、だと。今にも崩壊しそうな止水壁の修繕が、無駄、の部類に分類されるそうだ。それなのに、民のために裂く金は無くても、このご丁寧な打ち止め案には高級紙を使用しておられる有様だ。もはや理解不能だな」 にっこりと浩瀚は笑みを貼り付け、手元の書状をぺらりと翻して見せた。最高級紙にふんだんに織り込まれた金の繊維の光が、細かく踊り、とろりとした墨で書き連ねられた文字が光に透ける。どちらもとても事務事項に使われるような代物では無かった。このような書状を送っておきながら、その同じ紙面で民に使う金はない、と言っているのだ。 桓魋は言葉を失い眉根を寄せる。 「腐った官吏どもの近辺を飾り立てることしか、税の行き場が無いようだな。直に雨季が到来するのに、水害でどれだけの規模の死者が出るか…奴らにとってはこの国の民も家畜同然らしい」 その笑みの奥に揺らめくのは激しい怒気だった。桓魋は眉を寄せたまま尋ねる。 「ですが…治水の整備しなければこの州は今度の雨季を乗り切れないでしょう。どうなさいますか。国が動かないのならば、一時的にでも増税をせねば立ち回らないのでは」 増税?と浩瀚は心底訳がわからないというように首を傾げる。 「何故、奴らのために、私の州民たちの首を絞めなければならぬのだ?」 「ですが…!浩瀚様…!このままでは民の命が…」 浩瀚の顔に冷たい笑みが浮く。彼はゆったりと目を閉じ指を組んだ。 「誰がこのままにすると言った?州民にはこれ以上負担をかけさせたりはせぬ。そして奴らの肥えに肥えた腹から脂肪を拭い取る」 一瞬言葉を失った桓魋に、浩瀚は口を開いた。 「…私が直接話をつけに行こう」 「…!では、俺も…」 ならぬ と浩瀚は鋭い眼差しを桓魋に向ける。 「お前までもがここを開けたら、誰がこの州を守るのだ?自らの職務を全うせよ。青将軍。これは命令だ」 言葉に詰まる桓魋は、激しく迷っているようだったが、やがて静かに拱手した。上官が彼を見てどこか頼もしいような、穏やかな顔つきになったのを彼は知らない。浩瀚は呟く。 「期待しているぞ。桓魋」 その時、外の人の声を聞いた彼は、口を開く。 「…今日は入卒式だったな。新米兵卒達はもう揃っているのか?」 「はい。皆整列して、浩瀚様が出てこられるのを待っている筈です。俺はここに浩瀚様をお迎えに上がったんですから」 そうか、と浩瀚は呟くと、無造作に書類を隅にまとめ立ち上がる。いくつかなだれて絨毯に白い山を作ったが、彼はそれを気にもとめていないようだった。彼が足を踏み出せば、ふわりと紙が翻って舞う。その時、浩瀚はふと桓魋を振り返った。 「ところで、桓魋。お前、まさかとは思うが、何も存じておらぬな?」 その目にはいつも浩瀚が彼をからかう時に浮かべる、含んだような色を帯びている。 桓魋は問われたことの意味が分からず、ただ目を瞬いた。 「…?何のことでしょうか」 浩瀚は面白そうな色を顔に浮かべたまま、知らぬのなら良い、とひらりと手を振った。 釈然としないが、桓魋ははぁと眉を寄せるしかない。先ほどの青葉といい、彼らは一体何を言いたいのだろう。浩瀚は美しい身のこなしで悠々と扉から出て行く。首をかしげながら、桓魋もその後を追う。 桓魋と浩瀚が外に出て姿を現した瞬間、州師演習場、緊張でガチゴチに固まった新米兵卒たちは、一糸乱れぬ動作で一斉に礼を取った。足元から一気に砂埃が巻き上がり、揃えられた男たちの太い声が短くその場に響き渡った。重い甲冑を纏っているとは思えないほど軽やかに、桓魋は彼らの合間を縫って歩く。全体が整列しているのを目視した桓魋は、前に歩み出て他の将軍の横に並ぶ。桓魋から目で知らされた浩瀚は、軽やかな衣擦れの音を響かせて仮設設置された壇上に上がり、涼やかな声がその場に響き渡った。 「諸君、州師への採用おめでとう。これから民を守る軍師の一員だと誇りを持ってもらいたい」 浩瀚の声を聞きながら、桓魋はじっと黒い山になっている甲を被った兵士たちを見つめる。その時その顔の羅列の中にふと見知った顔がある気がして桓魋ははたと動きを止める。 ――おい、嘘だろう。何でお前がここに。 すうぅっと静かに背筋が冷えていく中、上空から振り落ちる浩瀚の声だけが桓魋を見て面白そうな色を湛えた。 「尚、今回は女人の数が例年より少ない。今ここにいる彼女らは選抜を勝ち抜いた優秀な戦士だ。お前たちには期待している。馬鹿な男達には任せきれないこの州師を頼んだぞ」 揃った音を立てて進み出た女人の新人兵卒たちが浩瀚に向かって一斉に礼を取る。だが桓魋が固まって見続けている、 桓魋の様子に浩瀚が笑いを抑えきれないような声で必死に激励の言葉を述べる。 「男衆も女人に負けぬよう精進すること。恋愛は自由だが、恋にうつつを抜かして本分を全うできぬことは無いよう。いくら今年は良い女が多くても、だ」 どっと周囲から笑いが起こった。今度は男衆が前に進み出て一斉に礼を取る。浩瀚にこんな冗談が言えるスキルがあったとかそんなことを考える暇もなく、桓魋は隣の中将軍に引きつった顔で小声を漏らす。 「なぁ…あそこにいるあいつは…」 ぴくりと片眉を跳ね上げた中将軍は桓魋の刺される指先を目で追った後、小声で返す。 「!何だ。お前も知ってるのか、あいつ。この州師では最年少だが、選抜試験で実技、筆記ともに一番の成績の奴だ」 あいつなら当たり前だと心の中で突っ込んだ桓魋の心情も知らず、にっと中将軍は口元に弧を描く。まだ青坊主のくせに女がもう騒いで騒いで…と彼は不敵に笑った。 「女からみたらもう現段階で捕まえときたい優良物件だな、あいつは。それにしても…お前に目をかけられるとは相当だな。これからあの坊主がどうなるか俺は楽しみだ」 ふっと笑みを零し、中将軍は視線を戻す。桓魋は目眩が抑えきれないまま、思わずふらりと足が傾ぎ額に手を当てた。嘘だろう。そもそも試験を受けたことさえ聞いていない。 桓魋は初めて殺意を含んだ鬼のような形相を上官に向ける。当の浩瀚は桓魋とするりと視線を合わさぬまま涼しい顔で笑いに耐えていた。側方で並ぶ青葉を見れば、奴は表情を静めたまま息だけで静かに大爆笑している有様で、堪えきれずに時折痙攣する頬に、桓魋は殺意を覚える。 ――こいつら! 「…それでは、お前たち。これから精力尽くし、この州を守ってもらいたい。宜しく、頼んだぞ」 今度は、男女両者ともに一糸乱れぬ礼を取る。めまいが消えない。今目の前に広がる光景が信じられない。その人物を凝視しながら、心の中で、彼は叫んだ。 (なんでお前が州師にいるんだ…!!) 陽子!!と叫ぶ声が届いたのか。 男衆の整列の中に埋もれる彼を見返す翡翠の瞳が細まり、陽子は桓魋にだけ見えるよう親指を立てた。 ::::: 「おい、どういうことだ陽子!俺は聞いてないぞ?!」 「だって言ってないからな。絶対桓魋が反対するのは目に見えてたから、青葉を通して、浩瀚様に話をつけたんだ。どっちもかなり乗り気だったけどな」 かつかつと足早に外廊を歩む二人の人影。陽子に詰め寄る桓魋はがっくりと肩を落とした。 「お前って奴は…。それ以上に…」 そこから先を続けようとした途端、脱力感が彼を襲う。 「何故お前は男兵として採用されているんだ…」 陽子はえへん、といくら男女平等とはいえ慶では女よりも男の方が活躍できる場が多いのが現状だ、男として採用された方が、力のある者と戦えると胸を張った。桓魋はもう言葉もなくますます呆れ果てた表情で少女を見る。 「まぁこれも色気なく育った故の産物か…」 膝裏に鋭い蹴りが入り、桓魋は無言で悶絶する。抗議する目を向けても、陽子はつんとそっぽを向いた。これは確かに桓魋が悪いだろう。 ため息をつく桓魋に、陽子はポツリと口を開く。 「大丈夫だよ。桓魋が心配してくれているのも、それに私はまだまだだってちゃんと分かっているから」 無言でならば、なぜと問う桓魋に陽子は先ほどとは打って変わった穏やかな表情をする。最近見せ始めたこの表情は昔見せていたものとは違って、彼女を大人びてみせた。 そのことが彼を落ち着かせなくさせ、彼に甘えていた純真なころ、素直になれなくてぶっきらぼうな、彼の背を目で追う一生懸命な表情を見せていた時、そのすべてを超えてきた彼女の軌跡に見えて、眩しくて少し――しょっぱい。 手を伸ばしても、もうあの頃の陽子はいない。でも、目の前には今までのすべての――陽子がいる。 「いつまでも、甘えて寄りかかっていたくないんだ。自分の足で、私は立ちたい。養ってもらうんじゃなくて、自分で立って私の意思で…桓魋と一緒にいたいんだ」 陽子ははにかむ。少し照れたような表情で彼女は頭を掻いた。 「まぁ…でも生意気なこと言って私は本当にいたらないんだけどね。だから、まだまだこれからも、たくさん桓魋に頼ると思うんだ」 私は…と陽子は言葉を零す。幼き日に言えなかったことが、今なら言えた。 「これでも桓魋を一番…頼りにしているんだ。もし、迷惑かけたら、その時は…ごめん」 でも言ったあともやっぱり少し照れた。恥ずかしさにぱっと陽子は軽やかに身を翻し、その場から駆けていく。その言葉に驚いたように動きを止め立ち尽くす桓魋は、ただただ駆けていく陽子の後ろ姿を、風に揺らぐ紅を見送る。 その時かけ去る陽子は残された桓魋がどんな表情をしているのか、見ることはなかった。 自分でも訳が分からず、焦ったように顔を赤らめる桓魋の表情を。 ::::: 陽子は州城の外郎をひた駆ける。自分で言ったくせに、自分の言葉に恥ずかしさを覚え、桓魋に呆れられたかもしれないと心が疼く。きゅっと唇を噛み締め、陽子は駆ける足に力を込めた。その紅色は視界に、華やかな彩りを添える。 そんな一点の美しい赤を目で追うひとりの男がいた。 足を止めた男は、傍から見たら少年にしか見えない陽子に目を細める。彼も兵士のようで、陽子と同じ型の甲冑を身に纏っていた。男は自分の隣を歩いていた知人に声をかける。 「なぁ、あいつって…」 指を指すのは駆けていく陽子だ。足を止めた知人の男も、動いていく赤の一点に目を細める。あぁ、と彼は声を漏らした。 「今期に入った新人だよ。何でも筆記、技能ともに一番だそうだ。やるよな、あの坊主。もう既に知る者ぞ知る期待の新星だな」 男はその言葉に坊主?と眉を寄せる。 「男なのか、あいつは…」 「は?どう見たってあれは男だろう。顔立ちが良くて文武両道、なんていったらもう女が放っておかねぇよな―。しかも最難関の空師に受かってるんだぜ?天は不平等だよなー良いよな恵まれている奴は。確か名は中陽子」 そうかと男は口だけ動かし、消えていく小さな紅の一点を見つめる。 「男、ねぇ…」 その目がうっすらと細まる。口に出しているだけで、その声は上辺だけの納得した者の声だということに、その時は誰も気がつかない。 ふぅんと意味深に呟いた男に、知人の男は声を上げる。 「何だよ?あいつとなんかあったのか、少譚(しょうたん)?」 「いや…別に…?ちょっと気になっただけだよ」 中陽子、と口の中で呟いた男――少譚は、すっと顎を引き、紅が風景に呑まれた方角を見る。 その目に一瞬何かが揺らぎ…彼は口元を微かに歪めた。 様々なものが、変わりゆこうとしている。 その年に自分たちに何が降りかかるのか、そして桓魋との間で何かが変わることも、そうしてこれから先自分が何者になるのかも、少女陽子はまだ知らない。 慶国史上最悪の王という汚名を着せられてしまう女王の圧政は、今はまだ始まりもせずにゆるゆると迫りつつあった。 |